☆やえニュース☆

 相手の身になって考えよう高速道路無料化実施はただのアリバイ作り相撲は文化であり伝統行事であり神事である民主「石川議員辞職勧告、審議には当たらない」事業仕分けとはいったい何だったのか「自民党政治のツケ」とは?言うコト成すコト全てウソマニフェストを信じて投票してはいけません

平成22年2月1

 相手の身になって考えよう

 今日はこちらの記事について取り上げます。

 “ハイチに千羽鶴”を考える
 
 「ハイチ大地震の被災者を元気づけるため千羽鶴を贈ろう」という動きが、コミュニティサイト『mixi』で広がり、全国から折り鶴が続々と集まっているとの報道があった。これに対しネット上では「被災地に迷惑だ」との批判が相次いでいる。
 ブログでも「これこそ、日本人の“平和ボケ”の例」「普通の救援物資ですら空港や港が破壊されて満足に届けることもできない状況で、千羽鶴を送ることがどういうことかは想像が付きそうなもの」などの声が多数見られる。「何かをしてあげたい、喜んで貰いたいと思う気持ちは尊いものです」という『心理カウンセラー日記』のブロガーも、千羽鶴ではなく「清潔な水、清潔な毛布、清潔な食料が必要」「少しでも我々ができることは、義援金を送ること」と主張する。
 しかし、『Scarborough Fair』のブロガーは、「義援金を送るほうが歓迎される」としながら、「現時点でなにもしていない自分には、(発起人の)この子を叩くことはできません」との見解だ。「存在が遠すぎる」ハイチに、支援したいと思わなかった自分より「たとえ偽善だったとしても、“千羽鶴を折る!”という行動をしようとすることができたこの人は素晴らしいと思います」という。

 やえはこういう問題が出てくると、いつも「千人祈」の騒動を思い出します。
 おそらく最近の人はもうほとんど知らないと思いますが、千人祈とは、アメリカのイラク戦争に対してネット上で反戦の言葉をたくさん集めようという運動で、最後にはそれらの言葉をまとめて書籍化したというモノでした。
 公式サイトもまだ残っているようですが、まぁとりあえず、政治信条はそっちのけでネット上で反戦の言葉をつづれば戦争が止められると信じていた人達と、やえは理解しています。
 そしてそんなバカバカしいコトは無益以上に、政治を全く理解しないままくだらない言葉を公的な場所で発するのは、特にネット黎明期だった当時では「所詮ネットか」と思われてしまう害悪にしかならない行為なのでやめるべきだと、やえは何度か主張したコトがありました
 戦争は政治そのものであって、政治論無き戦争論などあり得ないのですから、日本の政治やアメリカの政治、そして世界の政治を全く理解しないままただただ反戦を唱えても、自分の部屋で一人で心の中で祈るならまだしも、いくら祈りというタイトルとつけても公的な場所で表明すればそれは意見以外何者でもなく、政治思想無き政治論など害悪にしかならないのです。
 当時まだネットでは左翼的な空気が色濃く残っていた時代でもあり、当サイトもだいぶいろんなところで大きく取り上げられたモノですが、こうした「とりあえず何かしよう」と焦りみたいなモノに取り付かれて、何も考えないまま行動するという人は、今も昔も少なくないと言えるのかもしれません。
 
 で、本題の今回の件ですが、今回は実際に「物」を送りつける行為というのが千人祈と多少違う部分であり、そうなると1つキチンと考えなければならない問題があります。
 それは、贈られる方、つまりもらう方が、それを貰ってメリットがあるかどうかです。
 
 もちろこの場合のメリットとは、当然食料や毛布、現金なども大きなメリットとして今ハイチには集まっていますが、その他にも精神的なメリット、例えば勇気が出てきたとか感動したとか、そういう面も含めての話です。
 もしそれを贈るコトによって勇気づけられるなら、それはとても素晴らしい贈り物だったと言えるでしょう。
 
 逆に、このようなモノを贈られても困るだけなら、むしろ贈られる方の迷惑にしかならず、害悪にしかならないと言えるでしょう。
 例えば入院した人に花を贈る場合、慣習として切り花を贈るのが良いとされていて、鉢植えの花はNGとされています。
 これは「根が張る」という意味から、鉢植えを贈ると入院の期間が延びてしまうという、いわば言霊的な意味合いからきていまして、やはりそのような慣習がある以上、いくら贈る側が善意で贈ったとしても、貰う側からしたら迷惑でしかないというのは言うまでもないコトです。
 ここに贈る側の善意とか純粋な心とかというのは問題ありません。
 大切なのは、貰う側がどう受け取るかという点なのです。
 それを忘れてしまっては、それはただの自己満足であり、他人に見せるには恥ずかしい、見せてはならないオナニーでしかないでしょう。
 
 その上で今回の問題を考えてみましょう。
 まず、物質的な意味でメリットがあるかどうかですが、まぁこれは無いと言っていいでしょう。
 お金で鶴を折ったりしていない限り、千羽鶴そのものが地震の被災地に物質的に役立ち場面があるとは到底思えません。
 たき火をするにしても、もっと効率的なモノがあるでしょうし。
 
 常識的に考えれば、千羽鶴は精神的なメリットを期待しているモノと思われます。
 つまり千羽鶴を見るコトによって、この難局を乗り切ろうと勇気がわき出るという効果を期待しているワケです。
 入院患者に千羽鶴を贈るというのはよく見られる光景ですが、これはこういう効果を期待して贈りますよね。
 ですから、今回の発案者も、被災者に対して千羽鶴を贈るコトによって勇気づけようと思い、今回の運動に発展したと考えられます。
 
 しかしここで考えなければならないコトが1つあります。
 それは、果たして現地のハイチの人が、「千羽鶴の意味」を知っているかどうか、理解できるかどうかです。
 やえはこの千羽鶴の「相手を勇気づける」という意味が、日本だけでなく、全世界どの国でも共通して理解されている意味なのかどうかというのは、そこまでは知りません。
 しかしもし仮にハイチの人が、千羽鶴に勇気を与えるという意味を知らなかったとしたら、これは大変に迷惑なコトだと言わざるを得ないでしょう。
 例えば病気で入院した時に、アフリカのどこかの日本人的感覚では不気味としか思えないような木彫りの人形を贈られても、それは困惑しか覚えないでしょう。
 それがまだ直接の知り合いからならまだしも、これが全く見ず知らずの縁もゆかりもない外国人から贈られたとしたらどう思うでしょうか。
 まして今ハイチでは、食料が全く足りずに暴動が起き、なんと食糧を配給している係員にまで襲いかかってしまう体たらくですから、もし何の役にも立たず心にも響かないような物を贈られても、むしろ気が立ってしまう要因にしかならないのではないでしょうか。
 
 言うまでもないコトですが、ハイチの人は日本人ではありません。
 そしてこの差はとても大きいです。
 ニュースの映像で目にしたコトがある人も多いと思いますが、ハイチの人たちは自分のコトしか頭になく、少ない食料を暴力によって他人から奪おうと、暴動寸前の状況が続いています。
 しかし日本人は、例えば阪神大震災の時もみんなが支え合って静かにゆっくりと火を囲みながら救援を冷静に待っていました。
 食料が来ても暴動など起きず、綺麗に列を作り、また自主的に手伝う人もいました。
 感性が全然違うのです。
 日本人なら、ワケの分からない物が、食べ物もない飢餓状態の中に贈られてきても、もしかしたらありがたく思う人もいるかもしれませんが、果たしてハイチの人がいまの極限状態でそこまでの余裕が持てるかどうか、やえには疑問しか思えないのです。
 
 結局いまの日本、貧困率が拡大しているんだと言っても、やはり世界的に見ればとても裕福な国だと言えるのでしょう。
 そして、だからこそ本当の貧困というモノが理解できず想像できず、自分が喜ぶモノは世界の誰でもどこでも喜ばれるんだと簡単に思ってしまうのでしょう。
 裕福な自分が、被災地の悲惨な映像を目の当たりにして、どこか後ろめたい気持ちになってしまうのでしょう。
 それから逃れるために「何か」をしたくなるでしょう。
 しかしもし今回のコトで「くだらないモノを贈ってくるな」と逆上され、日本の印象が悪くなったらどうするつもりなのでしょうか。
 アフガン支援の時に「軍隊が行くのはむしろ日本の印象を悪くし国益を損なう」という一部論調がありましたが、これはまさに今回こそ考えなければならない問題ではないかと思います。
 
 やえは正直、「やらない善よりやる偽善」とか「何もしていないよりはマシだ」とか「何もしてない人間が文句だけ言うのか」みたいな言葉は大嫌いです。
 今回のコトや千人祈への批判などというのは、それを行うコトによって害悪が発生する、むしろマイナスにしかならない可能性があるから、そう批判しているだけなのです。
 マイナスを阻止しようと批判するコトは、まったくもって正当性のある行為でしょう。
 そこに「何もしていない」とか「募金してから」とか関係ありません。
 もし自分だけが千羽鶴を折って、自分の部屋の中に飾って、毎日ハイチに向かって手を合わせてお祈りするというのでしたら、まぁ他人がとやかく言うコトではないでしょう。
 しかし、いくら祈ろうが何しようが、物をハイチに贈る以上、相手のあるコト、相手がどう思うかというのが一番重要であるのですから、そこを考えずに行動するというのは浅はかすぎる行為と言われても仕方ありません。
 ましてそれで日本の印象が代わってしまうのであれば、大変に憂慮すべき問題と言うしかないでしょう。
 そこを注意してほしいのです。
 ここに善も偽善も行動した人もしていない人も関係ありません。
 
 今回のこの運動の主催者がそこまで考えているのか、そして千羽鶴の意味がハイチの人が知っているのかどうか、そして知っていたとしても本当にこの行為が勇気づける行為になるのかどうか、そこをキチンと考えてほしいと思います。
 もしそれでプラスに本当になると確証が得られれば実行すればいいでしょう。
 しかしそうでなければ止めた方がいいとしか言いようがありません。
 
 少なくとも、自分だけが満足するような行為は、まるで意味がないだけでなく、むしろ他人に迷惑をかける場合もあるというコトを知っておいた方がいいと思います。
 

平成22年2月3

 高速道路無料化実施はただのアリバイ作り

 今日はこちらのニュースです。

 国交省、無料化実験の高速道37路線を発表
 
 国土交通省は2日、6月から全国の高速道路37路線の50区間、計1626キロで無料化の社会実験を開始すると発表した。
 首都高速と阪神高速を除く全路線の18%に相当する規模で、全車種を対象に、時間帯や曜日に関係なく自由に通行できるようにする。
 無料化されるのは地方の高速道路が中心で、首都高や阪神高速など、3大都市圏内や札幌、仙台、広島、福岡の各都市圏内と、これらを相互に結ぶ路線など、利用者が多い路線は、混雑を招くとして除外された。実験に伴い、2010年度は1000億円の国費が、高速道路会社の収入を穴埋めするために予算措置される。
 一方、昨年3月に始まった地方の高速道路全体を対象とした「上限1000円」の割引制度は廃止する方針だ。新たに乗用車を上限2000円、トラックを同5000円などとする、走行距離に関係ない料金制度を、無料化対象外の路線で実施する方向だが、割引条件などは検討中だ。

 昨日今日と大きく取り扱われていますので多くの人はご存じかと思いますが、昨日国土交通省は今年6月から高速道路の一部を無料化すると発表しました。
 これは民主党が先の衆議院選挙でマニフェストに掲げていた公約であり、民主党としてはもっとも重要な目玉のひとつでしたから、なんとしてでも実現したいと思っていたのでしょう。
 
 しかし、あまりにもこの内容はヒドイとしか言いようがありません。
 
 まずはこちらをご覧下さい。
 
 
 これは今回の発表された6月から無料化される高速道路の路線ですが、もう見るからに、たったこれだけです。
 いったいこんな無料化をして何の意味があるのか、やえにはさっぱり理解できません。
 道路はネットワークです。
 つながってこそ意味があります。
 そんなのよくよく考えれば当たり前の話ですよね。
 自分の家から学校まで、途中までしか道路が造られていなければ、いくら自分の家の前に道路があったとしてもまるで意味を成しません。
 道路はつながってこそ意味があるのです。
 これでは、確かに「無料化しました」と口の上だけでは今回のコトで言えるのかもしれませんが、しかし実際それで国民にメリットがあるのかどうかは、甚だしく疑問だと言わざるを得ません。
 
 本来の高速道路が無料化したり安くなったりするメリットというのは、普段はそんなに遠出しないけど高速道路安くなったしせっかくだからと高速道路を使って車で出かけてる、というところでメリットが生じるワケです。
 自民党政権下で土日祝日一律1000円という政策が実施されましたが、これによって多くの国民が普段行かないようなところに行ったからこそ、様々な経済効果が新たに生まれたのです。
 無料化や1000円そのものに意味があるのではなく、遠出しやすい環境を作り、実際に遠出するコトではじめてその効果が現れるのです。
 例えば当サイトの管理人であるあまおちさんも、この前なぜかふらっと「新潟行ってくる」なんて言ってレンタカーを借りて出発し、翌日なぜか福島の会津藩のお菓子をお土産にくれましたけど、普段旅行をあまりしないあまおちさんが新潟行ったのは、これはもう1000円の効果と言っていいのでしょう。
 お土産もそうですし、一泊したのでしょうから宿ですとか食事ですとか、家でゴロゴロしているよりも遙かに大きな経済効果を、一律1000円がもたらしたのです。
 こう思い立った人というのは少なくないと思いますし、各地観光地ではこのような効果によって賑わったという話をよく聞きますよね。
 これが本来の、無料化/低価格化のメリットなのです。
 
 しかしどうでしょうか。
 例えば東京から新潟に行こうとしても、上の地図を見ていただければ一目瞭然ですが、今回の無料化では全く意味を成さない結果になっています。
 そもそも東京からだと、どこの地方に行こうとしても、どうやっても無料では行けないようです。
 いまの1000円でも、首都高や首都圏ではまた微妙に料金体系が違うので完全に1000円だけでは行けないのですが、しかし今回の発表では『新たに乗用車を上限2000円、トラックを同5000円などとする』なんて言ってますから、実際のところ大きな値上げになると言う方が適切でしょう。
 果たしてこれで、普段遠出しないような人がわざわざ高速道路に乗って遠出しようと思うでしょうか。
 果たしてこの無料化は、遠出に対して魅力的なプランと成り得るでしょうか。
 もしそう思わないのでしたら、この無料化は全く意味を成さない政策としか言えません。
 そして少なくともあまおちさんは、これじゃ新潟行かないだろうなと言ってました。
 
 テレビなんかでは、この無料化される地域の人や、実際にそこを走っている人にインタビューをして、好印象なコメントを流していましたが、そんなのは当たり前ですよね。
 特にいま有料でもその道路を使っている人に「無料になったらどう思いますか?」なんて聞いても、そんなの「いいことだと思います」と言うのは当たり前に決まってますよね。
 有料でも使うんですから、それがタダになればうれしいに決まってます。
 でも実際無料化する路線は全国でもたった18%に過ぎず、しかもこの数字は首都高や阪神高速などを除いた数字なのですから、もっとちゃんと計算するとかなり小さい数になるでしょうし、まして人口比で考えれば10%にもなるのかどうか、そのぐらいの人しか恩恵をあずかれない政策としか言いようがないのです。
 どういう意図でこれらの路線を選んだのか知りませんけどね。
 
 これはそもそも論になりますが、結局高速道路無料化なんていう政策は、言い換えるなら「車を持ってもいない、高速道路なんて使ってコトもない」という人からも強制的にお金の負担をさせて、しかし一部の車を使う人だけを優遇するという政策に他なりません。
 もちろん税金の使い道というのは、出口では全員が一律公平に受益できるモノではありませんから、それだけをもってダメとは言いませんが、しかし高速道路に関しては今までは使う人だけがその分負担するという仕組みが出来ていたのですから、それをわざわざやめてまで不公平な負担となるように採るべき施策とは到底思えません。
 まして、それで経済効果が高ければ考える余地はあるでしょうけど、今回のこれではそれもまず期待できませんから、まるでダメなところしか思いつかない最低な政策と言えてしまうのではないでしょうか。
 
 「高速道路無料化」というのは、むしろ「使わない人からもお金を支払わせる仕組み」と言った方が正確ですし、まして今回のような中途半端この上ない方法では「たった数%の人達だけのための制度」でしかないのです。
 
 今回のコトは、やっぱり民主党が「マニフェストに書いたコトを実行しましたよ」とアリバイを作るために実行しようとしているようにしか思えません。
 少ない予算の中で、もっとも影響が出にくいだろうと思われる路線、言い換えるなら普段からもあまり通行量が多くない路線を選んで、もしくはさらに別の意図があるのかもしれませんが、そんな現実的でないマニフェストでも、なんとか無理矢理実現しようとした結果がこれなのでしょう。
 昨日の記者会見で馬淵国交副大臣が、「予算が削られたのでこうならざるを得なかった」みたいなコトを言ってましたが、何を言っているでしょうか、その予算を作ったのは他でもないあなたたち民主党じゃないですか。
 自分で予算を作っておいて、なにを他人事のように、他人のせいかのように言っているのでしょうか。
 相変わらず民主党は、都合の悪いコトは他人のせいにする体質なんですね。
 いったい何のために、どのようなメリットがあって今回のような政策を打つのか、民主党と前浜国土交通大臣はキチンと説明をしてほしいです。
 
 ウソでとった政権に、いつまで民主党は居座り続けるのでしょうか。
 

平成22年2月4

 相撲は文化であり伝統行事であり神事である

 えーと、今日の更新は、朝青龍が引退を表明する前に書いたモノです。
 なんだかすんごいタイミングになってしまいましたが、しかし本題は朝青龍個人だけの問題ではないので、そのまま載せたいと思います。
 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 今日はお相撲のお話です。
 やえはお相撲がけっこう好きな方で、積極的に見ようとは思いませんが、テレビのチャンネルを回していた時に中継をしていたら見るぐらいは好きです。
 いつか一度生で見てみたいと思っているんですけどね。
 で今日は、そんなお相撲の、朝青龍の問題についてちょっと語ってみたいと思います。
 
 いままで様々な問題を起こし続けてきた朝青龍ですが、ついに一般人を暴行したとかで今廃業の危機に立たされています。
 結局暴行されたと思われる一般人が示談を了承し、なにやら暴行された事実すら無かったとか言っているようで、どうも真相は闇の中に葬られそうな予感でありますが、それでも日本の国技である大相撲の最高位である横綱が、示談をしなければならない問題を起こしたという事実には変わりなく、その影響は極めて大きいと言わざるを得ないでしょう。
 やえはここで刑事事件についてはコメントしようとは思いません。
 それは法に照らして、裁判でも示談でもやっていただければいいでしょう。
 しかしそれはそれとして、今一度大相撲というモノを考え直す機会が来ているのではないかと、やえは思うのです。
 
 この問題でテレビや新聞などのコメントを見ていても、どうしても忘れているんじゃないかと思うコトがあります。
 それは
 
 今までの問題に対する処分等は、今回のような事態を避けるためにやってきたのではないか
 
 というコトです。
 なにやら相撲協会の処分というのは、起こした問題に付随しているオマケみたいに考えているのかもしれませんが、しかしこれは相撲協会の処分だけに限らず、世の中の全ての罰は「二度とこのようなコトを起こさせないため」のモノであって、いわば「未来に対する処置」であるワケで、ここを多くの人が忘れてしまっているようにしか思えません。
 相撲協会としては処分というモノを、朝青龍が問題を起こすたびに適当に下して、それをもって世間を納得させる道具としてしか考えていなかったのではないでしょうか。
 「今回のコトに対してこういう処分をしたから、もう黙っててくれ」と、そういう意味での処分だったのではないかと思わざるを得ません。
 しかしそれは本来の罰の意味から大きく逸脱している考え方であり、そしてだからこそ、結局今回のような最悪の事態にまで発展してしまったと言わざるを得ないのではないでしょうか。

 「アスリートとしては、150%好きだが、横綱としては認めない」

 今年の1月に横綱審議委員を任期満了で退任された内館牧子さんのこの言葉は、やえは深く感銘を受け、全くその通りだと思いました。
 もしお相撲がただのスポーツでしたら、競技者としてものすごい実力を持っている朝青龍は素晴らしい選手と言えるでしょう。
 また「ヒール的存在」もいいでしょう。
 憎まれ役がいるからこそその競技全体が活性化するというのは、やえも大好きなプロレスの例を見るまでもなくその通りですから、間違ってはいないと思います。
 しかしそれはあくまで、ただのスポーツであった場合です。
 
 相撲は文化であり伝統行事であり神事です。
 かの古事記にも出てくる日本という国が形成されたのとほぼ同時に日本の歴史と共に歩んできた伝統の文化です。
 人間の力を発揮し誇示するコトで、神々に敬意と感謝を奉納するのが相撲なのです。
 そしてその頂点に立つのが横綱であり、いわば横綱は「土俵上で最も神に近い存在」であるのです。
 いまの大相撲は、これらの伝統を引き継いで相撲と名乗っているのですから、原点である日本の文化であり伝統行事であり神事であるという歴史を忘れてはならないハズです。
 
 ですから、競技としての相撲が強いだけが本来の横綱や大関、そして関取の資質資格ではないハズです。
 力士は言わば神職であり、神々と対話をして、神と人間の間の綱渡しをする役を負っているワケです。
 例えば、力士に赤ちゃんを抱いて貰うとその子は健康に育つからと抱いて貰う人はいっぱいいますが、これももちろん科学的に言えば全然根拠のないコトですけど、これも日本人にはそういう神事としてのお相撲と力士という意識が根底にあるからこその風俗と言えるでしょう。
 また、相手と戦うという競技だけを考えれば全く無駄としか言いようのない土俵入りも、これは神事としての伝統行事だからこそ今でも続いているワケで、特に最も神に近い存在である横綱の土俵入りは特別なモノですよね、このように相撲とは単にスポーツと言ってはならない日本の大切な文化のひとつなのです。
 
 それを最近は相撲をただのスポーツかのように扱うから、今回のようなコトになってしまうのです。
 ボクシングの亀田三兄弟と比べるコト自体がおかしいのです。
 こう言ってはなんですが、ただの殴り合いから始まりその域を出ないボクシングと、コトの始まりはともかく、とても古い時代にすでに神事として日本の文化に根付いた相撲とを比べる方が間違いです。
 やえはボクシング嫌いではないですし野蛮というつもりはありませんが、しかしボクシングのような競技では、まぁ亀田三兄弟のような下品なキャラもいいでしょう。
 それでボクシングの品格を落とすようなコトもないのでしょうから。
 しかし相撲は神事です。
 勝ち負け以上に、神々との対話、感謝の気持ち、神への捧げ物という性格を帯びた伝統行事なのです。
 そういう意味で、ただ勝てばいいとか、強ければ許されるとか、いまのお相撲に対するこのような風潮には、やえは疑問どころが嫌悪感を感じざるを得ないのです。
 
 今の相撲協会はお金のコトしか考えていないのでしょうか。
 ただ朝青龍を興行の道具としてしか考えていないのか、朝青龍はヒールのままでいい、そうするコトによってお客さんがたくさん集まるから、多少のコトは闇に葬って試合に出て貰おうと、そう思ってるのではないのでしょうか。
 もしそうであれば、もう相撲という名称は使わないでほしいです。
 まわしレスリングとでも名前を変えてもらいたいです。
 
 今回の朝青龍がいったい何をしでかしたのかというコトよりも、むしろ朝青龍は神々への感謝の神事である大相撲の中でも最も神に近い存在である横綱という位に相応しい人物であるのかどうか、神職の最高位として相応しいのかどうか、そこを過去のコトも照らし合わせて今一度考えるべきだと思います。
 

平成22年2月5

 民主「石川議員辞職勧告、審議には当たらない」

 今日はちょっと時間がないので短くいきたいと思うのですが、それにしてもこれひどくないですか?

 民主「石川議員辞職勧告、審議には当たらない」
 
 民主党の山岡賢次国会対策委員長は5日午前、国会内で開いた同党の正副国対委員長会議で、自民、公明、みんなの党の3党が提出した石川知裕民主党衆院議員の議員辞職勧告決議案について、「(石川氏が罪に問われている政治資金規正法違反事件は)秘書の時の問題で、国会議員としての事項ではない。辞職勧告を審議するには当たらない」と述べ、本会議での採決には応じない考えを示した。
 これに対し、自民党の大島幹事長は、党本部で記者団に「民主党の倫理観がまさに表れている。議員の逮捕・起訴自体が国会の品位の観点から大変な問題だ。民主党がこの問題を『何ら問題ない』と意識している証左だ」と語り、民主党の対応を批判した。

 仮に「石川氏が罪に問われている政治資金規正法違反事件は秘書の時の問題で、国会議員としての事項ではない」という言い分が正しいとしましょう。
 やえは、そうであればもう一度この人の新たに判明した過去の経歴をシッカリと有権者が理解した上で投票行動を決めるべきだと思いますので、一回辞職して選挙し直した方がいいと思うのですが、まぁとりあえずは仮にそれが正しい理屈だと仮定しましょう。
 しかし、であるなら、ちゃんと審議した上で民主党として否決すればいいじゃないですか。
 本会議を開いて、堂々と民主党が反対すればいいじゃないですか。
 いま民主党の方が多数を占めているのですから、石川被告をどうしても議員に居座らせ続けたいのであれば、民主党の権力を持ってすれば可能です。
 どうぞ自分たちが正しいと思うなら、堂々と本会議を開いて否決されればよろしいではないですか。
 どうしてそのようにしないのでしょうか。
 
 いったい「与党が審議拒否」なんてどこの世界の話ですか。
 メチャクチャにもほどがあります。
 どうせ民主党は、採決をして反対票を投じたら世間から「かばうのか」と言われてしまうので、いっそのこと審議せずに無視してしまおうと思っているのでしょう。
 昨日今日と朝青龍の話題ばかりで、このニュースが全然出てきていないコトからも、無視すれば注目されないとタカをくくっているのでしょう。
 批判されるのがイヤだから逃げているだけなのです。
 どこまで卑怯で下劣で最低の政党でしょうか、民主党は。
 
 もし、小沢民主党幹事長や鳩山総理のように、起訴されようがなにしようが裁判で結論が得られるまでは推定無罪だと言うのでしたら、それはいいですよ。
 やえもその言葉に反対するつもりはありません。
 今まで民主党は散々自民党に対して道義的責任とか任命責任とかという言葉を振りかざして大臣の首をはねてきたクセに、もし自民党の秘書が3人も逮捕され起訴されていたら民主党もマスコミもこんな程度の批判では絶対に収まらない、議員辞職するまで連日連夜大騒ぎしていたクセに、本当に今の民主党の姿勢はものすごく矛盾していますし、無責任さは呆れるしかありませんし、メチャクチャだと思いますが、まぁ法律の大原則を貫くというのでしたらいいですよ、それで。
 しかしでもそうであれば、堂々と国会の中でそう主張して、議員辞職勧告決議案に反対するべきでしょう。
 「推定無罪なのだから反対する」と堂々と言えばいいじゃないですか。
 どうしてそれができないのでしょうか。
 それが公党の、国会議員のするコトでしょうか。
 
 民主主義とは対話や議論があって初めて成り立ちます。
 暴力ではなく、議論によって政治を動かそうというのが民主主義です。
 しかし民主党は、その政党名に反し、自らの都合の悪いコトは権力を持って封殺し闇に葬ろうとしているのです。
 民主主義とは言えない強権による恐怖政治です。
 いまの日本はこんなおそろしい独裁政治をひく民主党という政党が支配している国なのです。
 「開かれた政治」とか言ってますが、事業仕分けもそもそもごまかしでしかありませんでしたし、民主党はそんなつもりはハナからないのです。
 自分たちの権力の道具になるかどうか、それだけが行動規範なのでしょう。
 

平成22年2月8

 事業仕分けとはいったい何だったのか

 当サイトは昨年の当時から、民主党が客寄せパンダのために仕掛けてきたいわゆる「事業仕分け」について批判してきました。
 そしてそれを受けて今衆議院に提出されている予算案が作られたのでしょうけど、しかし果たして本当にあの事業仕分けとはいったい何だったのか、とても疑問なニュースがいくつが出てきました。
 あの事業仕分けというのは、いま審議されている予算案の言わば叩き台であったハズですが、しかしよくよく見ると、別に事業仕分けがあったとしても無かったとしても全然変わらないんじゃないかと思わずにはいられないワケです。
 こんな記事があります。

 スパコン予算、復活へ 仕分け結果を転換、227億円
 
 鳩山政権は16日、事業仕分けで「凍結」と判定された「次世代スーパーコンピューターの開発」の「復活」を認め、2010年度予算で227億円を計上することを決めた。科学者らの強い反発を踏まえ、初めて仕分け結果を転換した。文部科学省の概算要求(268億円)と比べても41億円の減額(約15%減)にとどまった。
 スパコン予算を巡っては、事業仕分けで「世界一にこだわる必要があるのか」などの批判が相次いだ。「凍結」判定を踏まえ、菅直人副総理兼国家戦略相、藤井裕久財務相、仙谷由人行政刷新相の3閣僚が11日、来年度は「施設費など最低限の経費」として29億円の計上にとどめるよう求めた。
 だが、ノーベル賞受賞者らが仕分け結果に強く反発し、科学技術予算の重要性を強調した。これを受けて3閣僚は川端達夫文科相と16日に協議し、「説明会などで説明責任を果たす」ことを条件に予算の「復活」を受け入れた。大串博志財務政務官は記者会見で「政治の意思で決めた。特例的な結果だ」と説明した。

 なかなか懐かしい出来事に思えますが、そうです、あの民主党の蓮舫参議院議員の問題発言「世界一位じゃないとダメなんですか。二位だとダメなんですか」で注目された、科学技術予算についての記事です。
 まだまだ記憶に新しい人も多いと思いますが、民主党が仕掛けた事業仕分けによって科学技術予算の大部分が削られていたのに、あれあれいつの間にかこの記事が示すように、いつの間にかほとんど予算は復活していて、予算案に組み込まれていたのです。
 しかもその復活額はなんと約200億円。
 最初の要求額268億円から29億円に削ったハズなのに、それが急に227億円に戻っているワケで、もうこれだけで果たして事業仕分けとはいったい何だったのか、まるで意味が分からない状況になっていると言えるでしょう。
 
 そもそもこの事業仕分けとかいうモノの存在自体が、非常にあやふやな分かりにくい存在です。
 いったいどのような根拠でもって作られ、そしてどのような根拠で予算を削るだなんていう権限を持っているのでしょうか。
 そして結局内閣が「復活だ」と一言言えば復活してしまうのですから、それならはじめから内閣が予算を作ればいいだけで、それは昔から自民党政権下でそうなっていたワケで、いちいち復活の余地があるような事業仕分けをやるコトは、それは無駄な存在だと言えるのではないでしょうか。
 まるで事業仕分けの根拠や立ち位置が全然説明されていないからこそ、このような大きな無駄が生まれるのです。
 事業仕分け自体が無駄になってしまっているのです。
 
 システム的に考えても、この事業仕分けは大きな疑問があります。
 例えば今回のこの科学技術予算、事業仕分けで大幅カットされたワケですが、もしこのまま政府予算案が作られていたとしたら、そのカットした理由を果たして誰に聞くべきなのでしょうか。
 予算案を審議する場は衆議院もしくは参議院の予算委員会ですが、しかし蓮舫議員は政府には入っていませんので、参考人招致などをしない限り、カットした張本人にその理由を聞くコトができないのです。
 もちろん予算案を最終決定した内閣にその理由を聞くというのも筋としては通っていると言えますが、しかし蓮舫議員は国会議員として予算に手をつけたワケですから、やはり国会議員の責務として国会の場という日本で最も公的な場でその理由を明らかにするのが半ば義務と言えるのではないでしょうか。
 しかも「世界一にならなくていい」と明言したのですから、その真意を聞き姿勢を正すというのは、絶対に必要な行為だと思います。
 どうせ鳩山総理に理由を聞いても、日本語になっていない言語で意味不明な答弁しかしないでしょうし。
 しかし民主党の事業仕分けは、その存在理由が全く定義されていないので、それすら出来ないのです。
 このように、民主党の事業仕分けは、国家のシステムの問題から見ても破綻しているのです。
 
 復活した予算は科学技術の分野だけではありません。
 さっきの記事には次のように続いています。

 農林水産省予算では、自然災害に備える「農業共済」関連の2事業998億円の要求に対し923億円を認める。仕分けでは「3分の1程度の削減」と判定されていた。赤松広隆農水相が「共済組合の安定的な運営ができない。法改正も必要で、来年度の削減は困難だ」と主張していた。

 科学技術の場合、目立つような人が大反対したから、民主党が世論の反発をおそれて復活させたのでしょうけど、実はそれだけでなく大臣の判断だけで復活させた予算もあるワケです。
 どちらが適切かはともかく、それにしても事業仕分けがいかに杜撰で適当で無駄な行為か分かるというモノでしょう。
 またこのような復活予算もあるようで、

 “仕分け”されても何故か蘇った「鳩山・仙谷」案件
 
 「“仕分け”された『在サハリン韓国人支援共同事業』が、予算案では、何故か蘇ってしまっていた」
 とは、外務省関係者。
 日本領時代、サハリンに渡った韓国人は、戦後、ソ連政府によって、帰還を認められなかった。そうした「サハリン残留韓国人」に対し、一時帰国や永住帰国、または残留を支援する事業が、日韓の赤十字社によって平成元年にスタート。資金は全額、日本政府の拠出金で賄うことになった。
 一見、人道的なこの事業。だが、問題点も山積である。
 「対象者がはっきりしない。認定は韓国側が一手に行っているため、いつまで経っても“我も我も”と湧くように名乗り出てくるのです。『一時帰国』も好い加減。“孫に韓国へ買い物に行きたいとねだられた”と言われてカネを出した例もあったくらいです」(事情通)
 それだから「事業仕分け」でも、28の無駄な「国際機関等への任意拠出金」の一つとして俎上に載せられて、敢え無く「見直し」と判定。
 しかし、先のクリスマスに閣議決定された来年度予算案で、同事業は手付かず。概算要求と同じ、1億8600万円が確保されたのだ。故にこんな指摘も出る始末。
「この事業には、鳩山首相と、仙谷国家戦略・行政刷新担当相が関わっています。仙谷さんは、旗振り役の弁護士と友人で、事業推進議連のメンバーとして国会質問まで行い、拠出金執行に一役買いました。鳩山さんは北海道選出とあって、輪をかけて熱心。訪韓の際、永住帰国者の施設に立ち寄ったりするだけでなく、国会の代表質問で、この件をわざわざ述べたことすらありました。今や2人とも政権の最中枢。幾らなんでも潰せないというのが当局の本音でしょう」(先の関係者)

 鳩山首相や仙谷大臣が個人的に親しい人が関わったからという理由で、あっさりと復活です。
 しかもまぁなんて言いましょうか、その中身を見ても、実に民主党らしい予算の復活と言えるのではないでしょうか。
 
 やえが今回パッと探しただけでも、これだけ事業仕分けで削られたハズなのにいつの間にか復活していたという予算が出てきたのです。
 まだまだこの手の予算が埋もれている可能性はあるでしょう。
 国民の多くはあの事業仕分けを見て「透明性が高まった」と言っていましたが、本当に透明性が高まったと言えるでしょうか。
 ただ単に民主党がサーカスを開いたから見えるような気がしているだけであって、その陰には、このようにむしろ隠されている予算がたくさんある、つまり隠れ蓑を事業仕分けで作っているだけなのではないかと言えるのではないでしょうか。
 国民はよくよく考えて貰いたいです。
 

平成22年2月10

 「自民党政治のツケ」とは?

 よく
 「自民党政権下での失策」とか「自民党政治のツケ」
 という言葉を聞くのだが、これいったい具体的には何を指し示す言葉なのだろうか。
 
 政治をたったこれだけの、しかも抽象的すぎる言葉にまとめて批判にするというのであれば、それはあまりにも政治を舐めきっているとしか言いようがない。
 政治はそんな簡単には語れないし、これだけで終わらせるなら、政治は未来に前進しないだろう。
 
 人間のすることだ、失敗することも当然あろう。
 それを批判するのはいい。
 しかし、重要なのは「なぜ批判するのか」である。
 
 これは政治に限らないが、ではなんのために批判するのかと言えば、それはその批判を顧みて二度と同じ失敗をしないため、そしてその失敗を糧に改善し、よりよいものを作り出すためである。
 「失敗は成功の元」とはよく言ったもので、そもそも歴史とは未来のためにあると言っても過言ではなく、失敗がなければ前進しないのは人間が人間である所以と言ってもいいのかもしれない。
 そして人間だからこそ存在するとも言える政治においては、不毛にならない中身のある批判を互いに応酬するという議論を通じて、より良い道を模索していくのである。
 これは民主制政治だけに限らず、王政の場合においても同様で、他人の意見を耳にしない為政者がのさばると必ずその権力基盤に傷が入るという歴史を顧みればよく分かることだろう。
 
 では「いま政治がだらしないのは自民党政治のツケのせいだ」という批判は、果たして正当な、国家にとって有益な批判たり得るのだろうか。
 残念ながら、これだけでは全く「成功の糧」になる批判にはならないだろう。
 なぜなら全く具体性がないからだ。
 
 もし具体的に「この政策は自民党はこのように説明していたが、実際は違う方向に行ってしまい、形としては当初計画からこれだけ歪んでしまった」と批判するのであれば、大変に有益な批判となるだろう。
 なぜ失敗したのか、どこがおかしかったのか、結果どれだけの差が計画の段階に比べて出てしまったのか、これらが検証できるので、次の将来に生かせることができる。
 これが正しい批判のあり方だ。
 
 だが「いま政治がだらしないのは自民党政治のツケのせいだ」では、何をどう検証するのかまるで中身が見えない。
 検証のしようがない。
 こういうのは批判ではなくただのレッテルである。
 自民党を批判するならするでいいし、失策があればあるで批判すればいい。
 むしろそれは日本のためになるだろうから、どんどんすべきだ。
 しかし抽象的すぎるレッテルにしかならない批判は全く意味を成さず害悪にしかならないことは肝に銘じておくべきだ。
 これは批判というもの全体に言えることだが、もし自民党政権下の失策がありそれを正したいというのであれば、もっと具体的に指摘し批判しなければならないだろう。
 
 具体的に示さずただ相手を貶める言葉を並べるだけの行為は、子供が弱い者虐めをして悦に入っている行為と何ら変わらないとしか言いようがないのである。
 

平成22年2月12

 言うコト成すコト全てウソ

 今日はこちらのニュースです。

 石川議員離党 地元反応 賛否が交錯
 
 民主党の小沢一郎幹事長の資金管理団体をめぐる土地取引事件で、政治資金規正法違反(虚偽記載)の罪で起訴された石川知裕衆院議員=道11区=が11日、離党届を提出した。保釈されて7日目。この判断に対し、地元の有権者の間では賛否が交錯した。
 石川氏は11日夕方、帯広市で記者会見した。国会審議への影響を憂慮し、「党にこれ以上の迷惑をかけてはいけないと考えた」と離党届提出の理由を説明。「議員としては職責を全うしたい」とも述べ、議員辞職せずに無所属で活動する考えを示した。
 昨年の総選挙で石川氏を支持した帯広市の元公務員の男性(62)は「(事件は)秘書時代のことだから、離党や議員辞職は必要ないと思う」と擁護。同市の会社員の男性(62)も「小沢氏の身代わりになったようなもの。離党しても議員活動は続けられるのだから、臆(おく)せずにやればいい」と理解を示した。

 もしこれが自民党政権の時の自民党議員の汚職であれば、もうこんなモンじゃなかったでしょうね。
 それはマスコミの報道の仕方もそうですし、民主党の罵詈雑言も含めた追求もです。
 ここまで言うコトとやるコトが違う政党もすごいですが、それを忘れている国民もどうなんでしょうか。
 
 それにしても石川被告の行動は矛盾だらけです。
 
 そもそもなぜ離党したのでしょうか。
 もし石川被告がいまでも自分は無罪だと主張するのであれば、堂々と民主党国会議員として今まで通り活動されればよいでしょう。
 そして裁判で正面から争えばいいのです。
 検察の陰謀とまで言っていたのですから、裁判でそう争えばいいんです。
 その結果本当に無罪であれば、それでいいのですからね。
 もちろん石川被告本人はそのように言っているのですから、だからこそ今まで通り民主党国会議員として活動するというのが筋というモノでしょう。
 しかし敢えて離党したというのは、もしかしたら石川被告本人に何かやましいコトがあると自ら思っているのではないかと勘ぐらざるを得ません。
 もしかしたら裁判に負ける、つまり意識して罪を犯したんだと思っているからこそ、離党したのではないのでしょうか。
 そうでないなら離党しなければいいんですからね。
 
 そもそも、なぜ離党なのか分かりません。
 まだ裁判は始まっていませんから石川被告がシロかクロかは分かりませんが、仮にクロであった場合でも、小沢民主党幹事長が言うように「秘書時代のコトだから議員活動とは関係ない」という理屈が通ったとしても、過去の活動で犯罪歴があるのは事実であり、本来ならその事実を知った上で有権者が判断するというのが公平な選挙というモノでしょう。
 秘書時代の行為は一切選挙に関係ないと言ってしまえば、全ての議員や立候補者はその前歴などに関係なく有権者に選ばれていると言えてしまうようになるワケですが、しかし現実的にそんなコトはありませんよね。
 例えば学歴詐称をしていた場合、「学歴は議員活動とは関係ない。大学を出ていないけど総理になった人もいる」なんて強弁して果たして通用するでしょうか。
 ですから、もし今回のコトを恥じて自らに処分を科すというのであれば、離党ではなく辞職すべきです。
 その上で選挙に通るのであれば、それはそれでいいでしょう。
 それは1つの国民の判断だと思います。
 しかし離党というのは、そういうのに全く関係が無く、まるで意味のない行動としか言いようがありません。
 
 まだまだ矛盾はあります。
 そもそも離党が「罰」になりうるのかというのも、かなり疑問です。
 石川被告は、つまり「離党したからこれで追求は許してね」と言っているワケですが、どうして離党という行為が罰として機能し、世間から許される材料になるのか大変に疑問です。
 政府の役職を降りるというのでしたらまだ分かります。
 しかし政党というのは公的な機関や役職ではなく、あくまで私的集団でしかないのですから、それを降りたところで公的には全く関係のない話でしかありません。
 また実質論で言っても、石川被告は特に民主党の高レベルな役職についているワケでもなかったようですし、ただの民主党衆議院議員がただの衆議院議員になったところで何が違うのか、全く理解できません。
 どうせ無所属になったところで、周りの人から見れば民主党に所属しているようなモノとして扱われるでしょうし、本人も本会議の採決などでは民主党の言うとおりに行動するでしょうし、これでは何も全く変わりません。
 まったく罰として機能していないのに、どうしてこれで許してほしいと言えるのでしょうか。
 
 石川被告本人は「党にこれ以上の迷惑をかけてはいけない」と言ってるようですが、一番民主党に迷惑をかけているのは小沢一郎幹事長じゃないかと思うんですけどね。
 
 もっとも矛盾しているのはこの発言でしょう。

 昨年の総選挙で石川氏を支持した帯広市の元公務員の男性(62)は「(事件は)秘書時代のことだから、離党や議員辞職は必要ないと思う」と擁護。同市の会社員の男性(62)も「小沢氏の身代わりになったようなもの。離党しても議員活動は続けられるのだから、臆(おく)せずにやればいい」と理解を示した。

 同様のコトを小沢民主党幹事長も言ってましたが、おかしいですね、であるなら、その秘書を雇っていた小沢一郎幹事長こそが罪を背負い罰を受けなければならないのではないのでしょうか。
 普通「身代わり」というのは、本人がその罰などを受けられない状態にあるからその代わりとして理不尽だけど罰を受けるという意味ですが、しかし小沢幹事長本人はどこにも雲隠れしているワケでもなんでもないのですから、罰を受けようと思えば受けれるワケで、本当に「身代わり」だと言うのであれば、小沢幹事長本人に「罪を認めて罰を受けろ」と求めるのがスジでしょう。
 支援者としては石川被告をかばいたい気持ちは分からなくもありませんが、言っているコトがメチャクチャになっちゃってしまっています。
 
 そもそも、こう言ってはなんですが、石川被告は、石川被告個人の力で選挙を勝ち上がってきたとはちょっと言い難いところです。
 なぜこの前の選挙で初めて選挙区で勝てたかと言うと、それはもう個人のブランドよりも、民主党というだけのブランドで勝てたと言うのが正しいところだと思います。
 候補者は誰でもよくて、とりあえず民主党であればいい、もっと言えば自民党でなければいいというぐらいの意識で投票した人が多かったのではないでしょうか。
 まして石川被告は民主党のトップである小沢一郎の元秘書です。
 ここまで分かりやすい「民主党の立候補者」はいないのではないでしょうか。
 それなのに、責任をとって議員を辞職するというならまだしも、政党だけ離籍するというのは、上で言いましたように選挙を勘違いしているだけではなく、「民主党に入れた人」をも裏切る行為としか言いようがありません。
 
 しかもその民主党への期待というのは、ほとんどが自民党に対する批判で成り立っていたワケです。
 自民党はカネに汚いと、時にはイチャモンとしか言いようのない批判でイメージ先行戦略で自民党を批判し、相対的に民主党のイメージを高めたワケです。
 それなのにこれですよ。
 言うコト成すコト全てウソの民主党の、ただの離党ですませようとする態度も含めて、これは言わば象徴的な事件と言えるでしょう。
 

平成22年2月15

 マニフェストを信じて投票してはいけません

 いやー、なんかもうビックリしました。
 この人いったい何を言っちゃっているんでしょうかと、耳を疑ってしまいました。

 消費税:議論「来月から」 菅財務相、大幅前倒し意向
 
 菅直人副総理兼財務相は14日、フジテレビの番組で、消費税率引き上げを含む税制の抜本改正について「所得税、法人税、場合によっては消費税、環境税の本格的な議論を3月には始める」と述べ、10年度予算案の衆院通過後の3月から、政府税制調査会(会長=菅氏)で本格的に議論を始める意向を示した。

 えーと、民主党って確か、選挙前に「消費税増税については議論もするべきではない」とか言ってましたよね。
 自民党の政権公約には消費税増税と明記されていたコトに対して、それの対比で民主党幹部がよく言っていたので記憶している人も多いかと思います。
 それがなんでしょうか。
 政権を取ってたった半年あまりで、ここまで堂々と発言を翻すとは、いつものコトとは言えひどいにもほどがあるのではないでしょうか。
 
 しかもこれを言っているのが、財務大臣だというところが目も当てられないです。
 もし民主党の特に役に就いていない平議員が言うのであれば、まだ理解もできるでしょう。
 そういう議論が必要だと党内から声が上がるのであれば、むしろ健全な民主主義の政党の査証です。
 ただ民主党は、小沢一郎幹事長の恐怖政治に縮こまって、起訴までされた現職国会議員を批判するコトすらできない有様ですから、それを望むというのもムチャな話なのかもしれません。
 まぁそれはともかく、消費税を上げないという公約を掲げて選挙に勝った民主党が、その一番の担当者である財務大臣の口から堂々と公約破りをするというこの事態は、もはやマニフェストなんか選挙の物差しには一切ならないと言わざるを得ない事態に陥ったしまったと言わざるを得ないでしょう。
 
 そもそも民主党は財源について選挙前になんと言っていたでしょうか。
 そうです。
 「無駄を無くせば財源は足りる」と言っていたのです。
 さあ、民主党が政権を取りました、民主党の予算が組まれました。
 その結果どうなったでしょうか。
 その結論は「消費税を上げる」です。
 もはや、何を言っているのか分からねーと思うがオレも何が起きたのか分からねーの世界ですね。
 
 そもそも民主党はもともとこんなコトを言っていました。

 政権交代こそ最大の景気対策 鳩山幹事長が定例会見で
 
 鳩山幹事長は、10日午後の定例記者会見で、「政権交代こそ最大の景気対策」と強調し、改めて解散・総選挙を求めた。
 記者の解散・総選挙を行えば政治空白が生じ、さらに景気が悪化するのではとの質問に、鳩山幹事長は、「政権交代こそ最大の景気対策。明日が見えなくなっている。政治に対する信頼が回復したとき、その政策にも信頼が呼び戻ってくる。官僚の手のひらに乗った政策である限り、国民に支持されない。選挙で政府が空白になるわけではない。政治が機能していない状況こそ政治空白」と答えた。

 もはや政治家の発言とは思えないのですが、これを本気で言っている、そしてそれを支持した国民がたくさんいたというのが、頭が痛い現実です。
 もしかしたら鳩山総理としては、政権交代すれば無条件で景気が回復して、税収がアップして、子ども手当や高速道路無料化や高校の無料化などの財源が確保できるとタカをくくっていたのかもしれません。
 でもそれはとてつもない皮算用としか言いようが無く、そして実際はまるで逆の、政権交代してもたらしたのは鳩山不況であり、その結果大幅な赤字国債発行(これも公約違反ですが)というオチがついたワケです。
 まぁそもそも鳩山内閣が存在しても政治空白になっている気がしないコトもないですが、それにしてもこのノープランさはひどいとしか言いようがありません。
 
 いままで民主党鳩山政権はいくつマニフェストを破ってきたでしょうか。
 そしてなぜかこれについて、局地的な批判は起きても、まだまだ大きな流れにはなっていません。
 少なくとも、漢字クイズやカップラーメン値段当てのような理不尽きわまりない麻生叩きに比べれば、そよ風すら吹いていないぐらい程度です。
 しかしやっているコトは比べものにならないほどひどいワケで、もしこんなのを許していては、日本の選挙というモノが根底から崩れてしまいかねません。
 すなわち、選挙なんて所詮その場限りの甘い言葉をいかに民衆に信じさせるか、ただこれだけになってしまいます。
 そういう状態というのは、民主党がウソを付いたというコトも大変なコトではありますが、それ以上に民主主義の制度そのものの危機とも言える大きな問題ではないでしょうか。
 果たして国民は何を信じて投票をするのか分からなくなり、また、政治はどんどん国民に甘いコトしか言わなくなり目先のコトしか政治が機能しなくなってしまうという、最悪の状態です。
 いつまでこんな状態が続いてしまうのでしょうか。
 
 この状態を脱するためには、やはり国民が賢くなるしかありません。
 選挙前に政治家が言ったコトをキチンと国民が覚えておき、それに反するようならそれを批判する。
 こうしてこそ民主主義としての正しい政治が行われるコトでしょう。
 
 果たして民主党政権で民主政治が正常に機能するのでしょうか。