今日も政教分離原則のお話ですが、この政教分離原則って、実は根拠としては憲法20条ぐらい(もうちょっと言えば憲法89条もですが)しか無く、また法律としての政教分離も特に定められていませんので、この原則とはけっこう大まかな規定しか無いというのが現状だったりします。
そのために色々と議論のタネになるといえるのでしょうけど、しかし最高裁判例だったら存在していますし、最高裁判例は法に準拠する効力を持っていますから、これを参考にするコトは十分可能です。
それがこの前紹介しました「津地鎮祭訴訟大法廷判決」です。
法律ではなく判例ですのであまり注目されるコトが無いのですが、しかしさっき言いました事情もありますから、この問題を法的に語る際には避けては通れない判例だと言えるでしょう。
この前の更新でも言いましたように、「条文通りに適用するためにも完全に政教分離を徹底させなければならない」という意見は、この判決では完全に否定されていますし、また後々の裁判にもそう影響を与えていますから、むしろ政教分離の該当法律がない分だけこれは重要な判決だと言えるワケです。
ところで一行にも紹介されていましたが、ちょっとですね、そういう意味からも、これはあまりにもあまりになご意見でしたので、例が極端な分、この問題を端的に表していると思いますので、今回はこちらを参考に、「津地鎮祭訴訟大法廷判決」を広く知ってもらうためにも、語っていきたいと思います。
世に倦む日日さんの24日のエントリーです。
前半で色々と語られていらっしゃいますが、基本的に政教分離原則の法的な部分については以下の部分が該当するかと思われます。
例えばこんな話はどうだ。熱心な信者の国交大臣が大臣室に黒の鶴の仏壇を持ち込んで、毎日昼休みに「お勤め」に励んでいたとする。読経を上げると精神が浄化されて職務がはかどる。「どうだ君らもやらんか」と事務次官レースを争っている四人の部下の局長に昼休みの「お勤め」を薦めたとする。大臣の考課が欲しい局長たちは争って局長室に仏壇を買い込み、昼休みの読経に精出すようになる。局長人事の考課が欲しい部下の課長たちが、局長だけにそれをやらせるのは忍びないと、課長席にミニサイズの仏壇を置いて昼休みの読経にお付き合いするようになる。すると課長人事の考課を争う課長補佐たちが我先にと率先して仏壇を机の上に置いて課長の読経励行に右倣えする。若い主任たちも上に倣う。
かくて国交省の昼休みは轟々たる「南無妙法蓮華経」の大唱和で包まれ、荘厳な宗教的空間の中で国土交通行政が執務遂行される事態となる。さてネット右翼の諸君は、この恐るべき事態に直面したとき、何をもってこれを阻止するのか。どういう法的根拠において国交省の宗教化を制止できるのか。
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あまりにも盲目的な意見としか言いようがないでしょう。
果たして本当に憲法20条すらちゃんと読まれていらっしゃるのか、ただ「政教分離」という言葉しか頭に入ってないんじゃないかと思ってしまうぐらいのご意見です。
まぁそうでないとは思いたいのですが、とりあえず「津地鎮祭訴訟大法廷判決」は知っておいてもらいたいと思いますので、いろいろとツッコんでいきたいと思います。
ではひとつひとつ指摘していきましょうか。
まず
熱心な信者の国交大臣が大臣室に黒の鶴の仏壇を持ち込んで、毎日昼休みに「お勤め」に励んでいたとする。読経を上げると精神が浄化されて職務がはかどる。
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ですが、まず「津地鎮祭訴訟大法廷判決」では
信仰という個人の内心的な事象としての側面を有するにとどまらず、同時に極めて多方面にわたる外部的な社会事象としての側面を伴うのが常であって、この側面においては、教育、福祉、文化、民俗風習など広汎な場面で社会生活と接触することになり、そのことからくる当然の帰結として、国家が、社会生活に規制を加え、あるいは教育、福祉、文化などに関する助成、援助等の諸施策を実施するにあたって、宗教とのかかわり合いを生ずることを免れえないこととなる
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としており、つまりその宗教儀式が「社会通念上」普通の社会的に認められている常識的な行為であるのであれば、国と宗教が関わるコトは政教分離原則に違反しないと判断しているワケです。
ここをまず考えなければならない問題であって、逆に社会通念上普通のコトとは言えない場合の宗教行為は、言うまでもなく全て政教分離原則違反となるワケです。
この判例の他の部分にも
当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならない。
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とも書ありますように、その行為が世間一般の常識から考えて妥当なのかどうかという視点は非常に重要なポイントのひとつなのですが、それに照らし合わせて考えてみた場合、この例示での「仕事がはかどる」という理由で職場に仏壇をおいて毎日お経を上げているという職場なんて話はやえは残念ながら聞いたコトありませんし、ですから断言していいですけど、こんなの社会的コンセンサスが得られるハズはありませんから、もはやこの行為が「社会事象としての側面」を持っている行為とは言えないんですね。
イスラム教国ならまだしも、日本では仕事場でそんなコトをする常識など考えるまでもなくありませんね。
よって、宗教との関わり合いを合理的に認めるコトは出来ないというコトになるのです。
つまり、この時点で、憲法上最高裁判例上違憲であると言えます。
「どうだ君らもやらんか」と事務次官レースを争っている四人の部下の局長に昼休みの「お勤め」を薦めたとする。大臣の考課が欲しい局長たちは争って局長室に仏壇を買い込み、昼休みの読経に精出すようになる。
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憲法をよく読みましょうとしか言いようがありません。
憲法20条において、国家と宗教の関わりを定めている項目は「20条の3」であり、しかしこの例で言っている「どうだ君もやらんか」という言動は半ば強制であり、それは「20条の2」の方で明確に禁止されています。
国家と宗教の関わりと、国家が宗教活動を強制する行為は、概念上全く別の問題です。
もちろん「津地鎮祭訴訟大法廷判決」でも、それは確認されています。
2項の宗教上の行為等は、必ずしもすべて3項の宗教的活動に含まれるという関係にあるものではなく、たとえ3項の宗教的活動に含まれないとされる宗教上の祝典、儀式、行事等であっても、宗教的信条に反するとしてこれに参加を拒否する者に対し国家が参加を強制すれば、右の者の信教の自由を侵害し、2項に違反することとなるのはいうまでもない。
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このように、仮に2項による「国と宗教の関わり合いを全否定出来ない部分における宗教儀式」であったとしても、それを強制されるコトは3項に違反するとさえ書いてあります。
よって、「靖国参拝が合憲なら大臣の仏壇も合憲であり、だからそれを強制されても合憲だろう」、というような意見を言いたかったのかもしれませんが、残念ながらそれですらすでに「津地鎮祭訴訟大法廷判決」では否定されてしまっています。
混同しやすいのは分かりますが、しかしこういう問題は、冷静に考えて違う問題は違う問題として別々に考えなければならないでしょう。
例えば憲法9条の問題がありますが、平和憲法だって、侵略戦争をしないという問題と、武力を持つかどうかという問題は、基本的には別問題です。
左巻きな人は「軍隊を持つと日本は戦前に戻って侵略戦争をはじめる」なんて言いますけど、しかし「軍隊を持つ」と「侵略戦争を始める」という間には、これだけでは何ら因果関係はありませんよね。
軍隊を持っている国はほとんどの国でそうであり、その中で侵略戦争をしている国は、1歩譲ってアメリカがしているとしたとしても、しかし99.9%の国は侵略戦争していないのですから、これを単純に結びつけるコトはまったくもって非合理なワケです。
頭がお花畑な人にはこれが理解できないようなのですが、しかしこれと同じように、「国家と宗教が結びついている」というコトと「国家が宗教を強制させる」というコトは、これは別問題であり、安易に結びつけられる問題では無いのです。
かくて国交省の昼休みは轟々たる「南無妙法蓮華経」の大唱和で包まれ、荘厳な宗教的空間の中で国土交通行政が執務遂行される事態となる。さてネット右翼の諸君は、この恐るべき事態に直面したとき、何をもってこれを阻止するのか。どういう法的根拠において国交省の宗教化を制止できるのか。
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残念ながら、このように普通に出来ます。
例え総理による靖国参拝が合憲だと仮に最高裁で判例が出たとしても、それによって御懸念の例示を防ぐ法的根拠は問題なく矛盾無く存在し得ます。
こういう突拍子のない話を思いつくのもスゴイと思いますが、それよりもまず先によく憲法や法律を読んでもらいたいモノです。
そして市民がこの国交省宗教化に精神的苦痛を受けたと訴え、国を相手に民事訴訟を起こし、裁判官が憲法20条の政教分離の原則をもって国交省の勤行を違憲であると判決したとき、君らネット右翼は、その判決の違憲判断は傍論に書かれたものだから、裁判官の寝言であり、喋りすぎの個人的見解であり、法的拘束力は何もないと主張するのか。
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精神的苦痛による損害賠償請求は、国が宗教に関わったことによって“宗教的少数者の信教の自由”を侵害されたという解釈のもとでは成り立ちません。
これは、前回の更新で「津地鎮祭訴訟大法廷判決」を基に解説しましたね。
つまり、直接強制された人以外には損害賠償権は無いというコトになります。
よって、この例えで言うのであれば、もし傍論でそんなコトを言ったとしても、それは傍論以外何者でもないでしょう。
当事者でないモノがしゃしゃり出て不当な利益を得ようとする行為に日本国内においては正当性を認めてはいません。
そして当然法的拘束力など何もありません。
これを常識的に考えるのであれば、普通は強制された国交省のお役人さんが訴えるでしょうね。
そして、当然損害賠償が認められる「判決」が出る、つまり憲法違反だと「判決」が出るコトでしょう。
この場合には、当然主文からなる「判決」によってそれがなされるワケですから、当然最高裁も例示の国交省の愚行は違憲であると、独り言でない堂々とした主文によって下されるでしょう。
その大阪高裁でさえ、「市民」による精神的苦痛には賠償責任など無いと「判決」を下しているというのに、どうしてこの期に及んで「市民がこの国交省宗教化に精神的苦痛を受けたと訴え」なんていう発想が出来てしまうのでしょうか。
不思議でなりません。
以上により、繰り返しになりますが、この例示ではどの方面から見ても、違憲な行為満載だと言えます。
それが例え総理の靖国参拝が合憲であったとしても、なんら変わるところはありません。
ご心配なさる必要はないかと思います。
というワケで、もう全てが間違っているこの例ですが、このようにちゃんと法や判例を解釈すれば、どこがどのように間違っているのかというコトもキチンと出てきます。
人権法も同じなのですか、こうやって冷静にひとつひとつ丁寧に法文を読んで解釈していくコトが大切なのです。
政教分離原則の法的な面での話は、まだまだ他にも判例があったりしますから、これからも色々とご紹介していきたいと思います。
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