☆やえニュース☆

  一部の人間の罪を全体に着せるのはやめろよ小泉メルマガレビュー靖国神社を国立に内閣総理大臣靖国神社参拝

平成18年8月2日

 一部の人間の罪を全体に着せるのはやめろよ

 だから、こういう手法はやめろと言ってるだろと。
 結局この問題だけでない様々な場面においてもこのような手法が普通に許されてしまっているから、こんなことになってしまうのだ。
 自分には関係ない、むしろメリットになるからといってこのような手法を許していると、いつか同じ手法で自分に跳ね返ってくるんだよ。
 

 デジタル放送コピー制限緩和を…現技術では無制限に
 
 総務省の情報通信審議会は1日、DVDなどへのコピー回数が1回に限定されているデジタル放送の録画回数の制限を緩和するべきだ、とした答申を竹中平蔵総務相に提出した。現在の技術では、2回以上のコピー回数を何回と決めることはできず、無制限となる。同省は消費者団体やレコーダーのメーカーなど関係者と実施時期や具体策などを年内までに詰める。
 ただ、著作権や著作隣接権を持つ放送局や作詞家、作曲家、俳優らは「録画制限の緩和は、健全なコンテンツ(情報の内容)産業の発展を阻害する」と反発、著作権者らとの調整は難航が予想される。
 デジタル放送はコピーを繰り返しても映像などは鮮明のまま。現行では、デジタル放送の電波に特殊な信号をかけることで、DVDレコーダーのハードディスクに録画した番組をDVDには1回しかコピーできない上、レコーダー内の情報も消滅する。また、DVDから他のDVDへの複製も不可能となっている。
 このため、レコーダーからDVDへのコピーに失敗すると2度と再生ができなくなるなど、利便性が悪く、視聴者から苦情が出ていた。

 結局この「放送番組の録画を一回に限る方式」いわゆるコピーアットワンスをなぜ導入したのかと言えば、著作権保護、もっと言えばネットなどに録画したものをばらまいてしまう阿呆がいるからという理由があるわけだ。
 そもそもテレビ番組の録画自体は著作権には違反しない。
 録画したものを個人の範囲内で利用するのも問題ではない。
 問題なのは、それを個人の範囲を超えて使用する行為、録画したものを売買したりネットに流したり有料で上映会をするなど、それが違法行為なのである。
 
 つまり、ここが一番大切なのだが、この問題で諸悪なのはそのような違法行為をする人物そいつだけだということだ。
 間違えてはいけないのが、取り締まるべきはその犯罪者だけなのであり、コピーをする行為やその機器、個人使用に限って利用している人には、全く責任は無い。
 この大原則は忘れてはならない。
 
 しかしこのコピーアットワンスという規制方法は、一部の犯罪者の罪を、テレビ視聴者全体の責任に拡大して、その利用を制限しようという精神の元に行われているのである。
 別に2回以上コピーすることは著作権違反でもなんでもなく、そもそもデジタルデータを保存する場合には、ハードディスクにせよCDにせよDVDにせよ、データが消えてしまう危険性というのは低くないというのはちょっとパソコンをかじれば常識的な話であるのだから、一回しかコピーできない、しかもハードからDVDにコピーした場合ハードのデータは消されてしまうという独善的なシステムをとるコピーアットワンスという技術は、それだけでも利用者のいままでの行動を大きく制限する大いに問題があるシステムだと言わざるを得ないだろう。
 また、記事にもあるように、コピーに失敗しても二度とコピーが出来なくなる仕様のようで、やはり利用者のことを考えていない、作り手本位でしかないシステムだと言わざるを得ない。
 どうしてある一部の自分とは全く関係ない犯罪者のせいで、善良なる大部分の利用者がここまで不便を押しつけられなければならないのだろうか
 
 だが残念なことにこのような「一部の犯罪者の罪を全体に押しつける」という手法は、最近いろいろなところで見られるようになってしまっている。
 女性専用車両などがその最たる例であろう。
 極一部の痴漢という犯罪者のために、大部分の善良なる利用者が不便を押しつけられるシステムが女性専用車両である。
 しかも公共交通機関での話だ。
 他にも、フィギュア萌え族だとかゲーム脳だとか、特にセンセーショナルな犯罪が起きたときに、すぐに安易なカテゴリーを突くってそれを叩けば済むと思っている風潮が最近あまりにも多すぎる
 このような風潮を許していると、いまは自分には関係ないと思っていても、いつか自分も「犯罪者の同類」にされてしまうことだろう。
 
 犯罪を犯したヤツが悪い。
 最も単純な大原則を理解できない人間が増えてしまっているのだろうか。
 もしかしたらコピー程度でと思う人もいるかもしれないが、それが例え自分にとって小さな出来事であったとしても、しかし実は罪無き人々を無意識のうちにでも差別していることに他ならない行為なのである。
 そしてそれはいつか自分に跳ね返ってくる。
 事の大小ではなく、こういう構図は実はとても恐ろしい行為であるということに早く日本人は気付かなければならないだろう。
 

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平成18年8月3日

 小泉メルマガレビュー

 小泉内閣メールマガジン 第245号 ========================== 2006/08/03
 
 [らいおんはーと 〜 小泉総理のメッセージ]
 ● 戦没者の慰霊
 小泉純一郎です。
 長かった梅雨もようやく明けて、真夏の青空がひろがる季節になりました。
 私は、今年も、8月6日に広島の原爆死没者慰霊式・平和祈念式に、8月9日には長崎の原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に参列します。
 私は、総理大臣に就任以来、毎年必ず、広島と長崎の式典に参列して、原爆の悲劇を二度と繰り返してはならないという思いで、原爆の犠牲となった方々に哀悼の意を表明してまいりました。
 
 暑い夏がまたやってきました。
 総理におかれましては、毎年欠かさず参列していただいていることに感謝申し上げます。
 ただ、原爆に対するやえの思いはもうこれまで何度も言ってますので繰り返しませんが、せめて「原爆の悲劇」は引き起こした主語は誰なのかというコトぐらいはハッキリと言えるようにしたいものですね。
 
 そして、毎年6月23日には、衆議院予算委員会に出席のため行けなかった平成15年を除いて沖縄を訪れ、沖縄全戦没者追悼式に参列してまいりました。
 戦後60年にあたる平成17年6月には、第二次世界大戦末期、日本側約2万2000人、アメリカ側約6800人が戦死した硫黄島を訪れ、硫黄島戦没者追悼式に出席し、あわせてアメリカ側戦死者のための「将兵の碑」に献花し、激しい戦闘で亡くなった日本とアメリカの兵士たちを追悼しました。
 私は、平成13年の4月、総理大臣に就任したときの記者会見で、「戦後日本が平和で発展していくために、一番大事なことは、あの第二次世界大戦の反省をすることだと、その上に立ってこれからの日本が二度と戦争をしてはいけない、平和のうちにいかに国民の努力によって立派な国づくりに励むことができるか、このことはこれからの日本の方針としても、極めて重要であると思っています。」と述べました。
 
 また近いうちに書こうと思っていますが、この小泉さんがおっしゃっている「反省」とか、他にも「責任」とかいう言葉が必ずこの戦争についての総括として出てきますけど、ただ「反省」とか「責任」と言っても、何に対しての反省なのか、どのような結果に対する責任なのかという部分において、実は多くの日本人はほとんど考えていないところがあります。
 むしろ「反省」とか「責任」とか言っておけば済むと思ってしまっている人がとても多いのではないでしょうか。
 反省・・・戦争を起こしたコトそれ自体を反省しなければならないのか、ではあの時代の欧米列強はほぼ100%戦争をしていましたが、それは反省する必要はないのか。
 責任・・・当時の欧米列強連合国様に刃向かったという罪に対する責任というコトなのだろうか。当時の世界は植民地支配は合法でしたが、日本だけがその責任を負わなければならないのだろうか。
 ただただ反省とか責任とかいう単語を持ち出し、反省したフリをしているだけでは、それは何の解決にもならないでしょう。
 
 日本は、戦後一度も戦争に参加せず、また巻き込まれることもなく、平和を維持してきました。日本の今日の平和と繁栄は、戦争で命を落とした方々の尊い犠牲の上に築かれています。私は、戦没者の方々に対して、敬意と感謝の思いを込めて、哀悼の誠を捧げております。
 
 先の大戦を戦った方々は、平和のために戦いました。
 日本が日本であるために戦い、後世の日本人が平和に暮らしていけるよう、当時の先人達は命をかけて戦ってくださったのです。
 もしあの時日本が戦わなかったらどうなっていたのか、当時の欧米列強に植民地化されていた東南アジアなどの国々がどのような苦労をしてきたのか、それらの歴史的な事実をまず考える必要があるでしょう。
 未だに「軍部暴走」とか「一部の人間だけが望んで戦争を起こした」とか思っている人が多いようですが、まず間違えてはいけないのが、戦争は手段であって目的ではないというコトです。
 何かの目的を達成するために戦争を起こすワケであって、当然日本も目的があって大東亜戦争を起こしたのです。
 その目的とは何かと言えば、ひとつは欧米列強の植民地にならないためであり、もうひとつは自国経済のための植民地経営をすることです。
 理想的なスローガンとしては八紘一宇とかありましたが、理想だけで戦争を起こすほど当時の日本は余裕はなかったワケで、実際には危機的な状況を脱するため、国難から脱するための手段として戦争という方法が用いられたのです。
 戦争は手段でありその結果得るべきである目的があるという視点がすっぽり抜け落ちてしまっている日本人がいまかなり多いワケですが、「目的がある」という点をちゃんと考えれば、その国難は一部の当時の日本人だけにかかる問題だったのではなく、日本と日本人全てに関わる問題だったというコトが分かるでしょう。
 戦争で命を落とした兵士は完全に被害者なんだ、靖国に祀るな、勝手なコトを言うな、とか言っている人がいますけど、しかしあの当時のあの戦争は国民全ての問題であって、もちろん戦場に行くのが嫌だった人はいるでしょうけど、個人が浮き出した例えば「巻き込まれた」とかいう表現で表されるような100%被害者でしかない国民なんて存在しないのです。
 今の北のミサイル問題にしても、この問題で関係のない日本人なんて存在しませんよね。
 あの戦争は目的があって、国難であったという歴史的事実を鑑みれば、個人レベルでは私レベルでは戦場を嫌った人も多くいるとは思いますが、それとはまた別で、その命が今の日本の礎となったというコトも事実なのです。
 そして靖国とは、そのような色々な思いをもっているけど今の日本のために散華された方達を顕彰し追悼するための施設であるワケです。
 
 戦争で亡くなった方々を追悼するというのは、どこの国でも誰であっても、自然なことだと思います。
 
 自然なコトも出来なくなってしまっている人が日本に存在するというのはさみしい話ですね。
 
 日本国憲法第19条では、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」としています。戦争で亡くなった方々に対して、どのようなかたちで哀悼の誠を捧げるのか、これは、個人の自由だと思います。
 私は、総理大臣就任以来、心ならずも戦争で命を落とさざるを得なかった方々へ哀悼の誠を捧げるために、毎年一度靖国神社に参拝しています。
 これは、私の思いに基づくもので、私は、靖国神社の参拝を誰にも強制していません。また強制されて参拝しているものでもありません。
 
 小泉さんのこのロジックはいまの段階ではなかなか巧い微妙な言い回しだと思っているのですが、それはともかく、多くの人が勘違いしているようですが、小泉さんは自民党総裁選挙に立候補したとき確かに靖国参拝を公約しましたけど、しかしその時は対してそれが大きな影響を与えてはいませんでした。
 反小泉に凝り固まっている人は、遺族会や保守達の支持を集めるためにこんなコトを言い出したんだそして当選したんだという言い方をしますが、しかし当時は今のようなプチ保守まで現れるような異様な保守ブームは全然ありませんでしたし、まだ左翼的な空気が日本を覆っていましたし、だからやえがこの演説を聴いたときには「そんなコト言って大丈夫なのかな」と思ったぐらいで、しかも世間的にはこの話自体は大して反響も呼びませんでした。
 選挙戦が始まって話題になったのは、小泉−田中真紀子ラインの派手なパフォーマンスがほとんどでしたしね。
 靖国がここまで大きな話題になったのは、小泉さんが総理になって本当に靖国に参拝した時からです。
 ですからそういう意味で、確かに小泉さんの「靖国神社の参拝を誰にも強制していません。また強制されて参拝しているものでもありません」とセリフは間違っていないでしょう。
 
 マスコミや有識者といわれる人々の中に、私の靖国参拝を批判している人がいることは知っております。また、一部の国が私の靖国参拝を批判していることも知っています。
 私を批判するマスコミや識者の人々の意見を突き詰めていくと、中国が反対しているから靖国参拝はやめた方がいい、中国の嫌がることはしない方がいいということになるように思えてなりません。
 そういうマスコミや識者の方々は、思想及び良心の自由をどう捉えているのでしょうか。戦没者に対して、敬意と感謝の気持ちを表わすことはよいことなのでしょうか、悪いことなのでしょうか。
 
 靖国神社の他に、全国には戦没者等を祀っている護国神社が各地にありますけど、「中国が言うからという理由で反対しているのではない」とか言っている人は、これらの神社の存在をどう考えているのでしょうかね。
 やはり、戦争に参加した全ての人間は、生きている間も死んだ後も、永遠と鞭を打ち唾を吐きかけ続けなければならないとでも思っているのでしょうか。
 外圧の話ではないと言うのであれば、せめてA級とBC級の戦犯はなにがとのように違うのかという基本的なコトから勉強し直して欲しいモノです。
 
 私は、日中友好論者です。平成14年4月、中国のボアオで開かれた国際会議でも、「中国の経済発展を『脅威』と見る向きがありますが、私はそうは考えません。私は、むしろ、中国のダイナミックな経済発展が日本にとっても『挑戦』、『好機』であると考えています。中国の経済成長に伴う市場の拡大は、競争を刺激し、世界に大きな経済機会を与えることでしょう。」と述べて、日本と中国の友好関係の一層の発展と、両国が交流によって繁栄していくことを望んでいることを明らかにしました。
 現に、私が総理大臣に就任した平成13年以来、日本と中国の貿易額は、2倍以上に増加し、いまや中国は、アメリカを抜いて、日本にとって最大の貿易相手国になりました。日本と中国の間の人の行き来も、約1.5倍に増えています。
 
 この考え方は小泉さんらしいですね。
 どんなときも、どんな場合でも、それをチャンスと捉えるという前向きな考え方です。
 そもそも確かやえの記憶が正しければ、小泉さんが総理に就任した直後、中国に訪問して当時の国家主席であった江沢民と会談しているんですね。
 そしてそこで日中友好を確認しているワケです。
 
 私は、いつでも中国の首脳と会う用意があります。ところが、中国は、平成17年4月にインドネシアで胡錦濤主席と会談したのを最後に、私が靖国神社に参拝するなら日中首脳会談を行わないと言っています。
 私は、こういう考え方は理解できません。もし、私が、ある国と私の考えが違う、あるいは日本の考えと違うからといって首脳会談を行わないと言ったら、相手を批判しますか、それとも私を批判しますか。おそらく多くの国民は私を批判するでしょう。
 
 小泉さんへの批判や議論の中でも、この中国首脳と会談できないのは小泉のせいだというモノはダントツにメチャクチャな批判と言えるでしょう。
 だって、会わないと言っているのは中国側だけなのですから。
 そもそも、「問題があるから話し合いがしない」という態度は、ではその話し合いとは一体何を話し合いするのかという意味において、会談の存在自体が矛盾するコトになるのではないでしょうか。
 話し合いとは一緒にお茶でも飲んでアフタヌーンティーパーティーでも開いて談笑するためだけとでも思っている人がいるとは思いたくありませんが、もちろんそういう場合もあるコトはあるかもしれませんけど、しかし本来国と国とのトップがわざわざ会って話し合いをするのですから、それは両国の間に横たわっている様々な諸問題を解決するためが一番の目的であるというコトは言うまでもないコトです。
 靖国の問題も、日本と中国とでは残念ながら主張が違っていますが、だからこそ話し合うべき事柄のハズです。
 それなのに、その問題をもって話し合いをしないと言ってしまうのは、これを逆に解釈すれば、自分の主張を100%認めろという主張に他ならないワケで、あまりにもわがままな態度でしかないでしょう。
 例えば先日輸入解禁された米国産牛肉の問題ですが、アメリカが「輸入再開させなければ一切の会談を拒む」と言って日本は納得するでしょうか。
 例えば竹島の問題にしても、韓国が「竹島の領有権を認めなければ全ての交渉はしない」と言って日本は納得するでしょうか。
 例えば北のミサイル問題にしても、日本が「北がミサイルと核を全て放棄しなければ六カ国協議に出席しない」と言ってしまったとしたら、それで日本国民を含めた世界が納得するでしょうか。
 それぞれの国によって立場によって主張が変わってくるというのは仕方のないコトです。
 それは個人レベルにおいても同様でしょう。
 しかしだからこそ話し合いによってその溝を埋める努力を人間はするワケです。
 自分の主張を認めなければ話し合いすらしないという態度は、自分の主張だけを全面的に認めろと強弁する独善的な態度であり、お菓子を買ってもらえないからと言ってその場に座り込んで泣き出すわがままなだだっ子と全く精神構造は同じなのです。
 小泉総理の態度というモノは首尾一貫しています。
 様々な問題はあるけど、だからこそ話し合って解決するべきであり、それなくして一方的な主張だけでこちらの考え方を変えるコトはない、という態度です。
 だからこそ小泉さんはちゃんと中国に行ってまで首脳と会談していたワケですし、今でも小泉さんはその門戸は閉じていないのです。
 そして話し合いがなされない以上は、小泉さんの主張は変わらないワケですね。
 
 二度と悲惨な戦争を起こしてはならない、そして、今日の日本の平和と繁栄は、戦没者の方々の尊い犠牲の上に築かれている、この思いは、私の政治家としての原点でもあります。私は、この思いを抱きつつ、今年も広島と長崎の式典に参列し、そして8月15日の全国戦没者追悼式に参列します。
 
 日本を一刻も早く普通の国にしなければならないですね。
 小泉さんには様々な批判がされていますが、少なくも大局的に見れば、今までの歴代総理の中では桁違いに大きく日本が普通の国に向かっていく推進力になっていると言えるでしょう。
 
 
 
 いよいよ夏休み、昨日全国的に梅雨明け、これから家族や友だちと海や山などにでかける方も多いと思います。小さなお子さんなどが水の事故に遭わないよう十分気をつけて下さい。各地で花火大会や住民納涼祭、盆踊りなどが行われていることでしょう。このような地域の伝統的な行事を通じて家族、地域の絆が深められることはすばらしいことです。全国的に有名な東北三大祭、阿波踊りなど夏祭りの季節です。私の地元、富山でもおわら風の盆などがあります。楽しい夏をお過し下さい。(じんえん)
 
 またまた地元をCMするじんえん先生(笑)
 今年は国会もありませんから、比較的ゆっくりとしたお盆となるでしょう。
 お盆が終われば総裁選突入でしょうから、ここで英気を養ってください。
 
 というワケで、いつになく熱いメルマガでした。
 
 
 バーチャルネット思想アイドルやえ十四歳は、らいおんはーとを応援しています。
 

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平成18年8月7日

 靖国神社を国立に

 終戦記念日がある8月だからというワケでもないのですが、ここで一度やえの考える靖国神社の今後の在り方というモノをまとめてみたいと思います。
 現在国内外で行われている靖国に関する議論というモノは、結局は中国韓国の目をどうするか、分祀をして相手の言い分を飲むのか、それとも外圧には最後まで抵抗するんだと言うのか、だいたいこのどちらかでしかなく、しかしそれは結局議論の軸は中国韓国でしかないワケなんですね。
 そうではなくて、本来のというか、これからの日本にとって日本人にとって最も良い靖国の在り方は果たしてどのような形なのかという点において、やえの考えを述べていきたいと思っています。
 長くなるとは思いますが、何回かに分けて、じっくりとやっていきたいと思います。
 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 
 ■なぜ靖国を国立化するのか
 
 
 やえは、靖国神社は国立化すべきだと思っています。
 
 これは簡単なお話なんですが、国のため、国家のために命を捧げ、散華していった人たちを、どうして国の代表たる政府がお奉りをしないのか、していない方がむしろおかしいと言えるのではないでしょうか。
 もしかしたら個人の身の回りだけに生き、その中で幸せに生活していけたかもしれないのに、そこを敢えて国という大きな枠組みの中に身を投じていったのですから、その志に対して国家が奉るというのは当たり前の話のハズなのです。
 国家のために死んだ人達のために国家が顕彰し鎮魂する。
 まずはこの姿こそが正常な形であり、全ての出発点であると、この問題を語るのであれば忘れてはならない点だとやえは思っています。
 
 国立化と言うと福田康夫先生などが提唱されておられるような無償教施設を思い浮かべる人が多いかと思いますが、もちろんそれは一つの手段として考慮すべきモノだとは思いますけど、やえはそのような施設は適切ではないと思います。
 もちろん、いま憲法には政教分離規定がありますから、宗教法人格のまま国立化させるコトは不可能ですので、その辺の折り合いをつけなければならないのは確かですが、しかしだからと言って完全に「無宗教化」というのもどうかと思うのです。
 そもそも一体「無宗教」とはどんな存在なのかという点においてちょっと疑問があります。
 
 その上で、では靖国はどのような形が望ましいかを考える必要があるでしょう。
 そもそも本来あるべき姿の靖国とはどういう形なのでしょうか。
 
 靖国は何を祭っているのかと言えば、それは日本のために命を捧げられた人たちです。
 靖国は日本のために存在しているワケで、日本という国が現在未来においても日本として存在させるために戦った人たちの証として靖国はあるのです。
 つまり靖国とは日本の象徴、日本の歴史を背負い、日本そのものとしての存在であるとも言えるのではないかとやえは思っています。
 少なくとも、2000年以上続いてきた日本という尊い国家を守ってきた人たちをお奉りしているのが靖国なワケなのです。
 
 
 
 ■神道と日本の文化伝統歴史
 
 
 となれば、靖国も日本の歴史と文化に根ざした存在でなければならないハズでしょう。
 例えば、いくら英霊をお奉りするからといってキリスト教にのっとった形でお奉りするというのは、これは「日本の国家を守ってきた人たちをお奉りする施設」としては適切ではありません。
 日本の長い歴史の中においてキリスト教が日本の歴史の大部分において影響を与えてきたとは言えませんからね。
 また「無宗教」というよく分からない存在も、やはり「日本の文化伝統歴史」という面において適切ではないと言えるワケです。
 そう言う意味から、やはり日本にとっての神道、もしくは仏教というモノは、やはり他の宗教とは比べられない存在であると言えるのです。
 
 よく「神道だけを特別扱いするな」というコトを言う人がいますが、これは日本の歴史という観点から適切ではありません。
 どの国でもだいたいそうですが、その国の基礎を作っているのは宗教です。
 もちろん宗教だけが基礎というワケではなく、むしろ国の出発点となった地形的地理的な背景や、国家としてまとまっていった事情などを出発点として、徐々に作られていく歴史や文化などが相互に影響し合って宗教も形作られ、そしてその宗教がさらに国家に影響を与えるという循環を、どの国も経験して今に至ってきているワケです。
 本来国家と宗教とはこのように切っても切れない存在なのです。
 日本のような自然崇拝の宗教を背景として持つ国家はそれが特に分かりやすいのですが、狩りや漁などを通じて食物を得ていた時期、そして農耕を始めた時期において、自然が神であって人間はそれを崇めそして宗教となり、同時にその自然から生まれた宗教とその理(ことわり)が逆に人間を縛り国家の規範となっていき、さらに宗教が形作られていくワケです。
 
 これは一神教の宗教でも似たようなコトが言えます。
 ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、自然状況や民族の乱立など様々な要因から、人間を強力に縛る戒律が必要となったからこそ、このような宗教が生まれてきたのでしょう。
 特に歴史が深い国家こそ宗教との関わりも深いと言えると思います。
 どの国だって自然が宗教となり、同時に人間を縛り、そしてそのルールがさらに宗教を発展させていくのです
 
 ですから、歴史的に正しい視点で物事を見るのであれば、むしろ日本にとって神道、もしくは仏教を“特別視”するのはむしろ普通であり当然であるワケなのです。
 この二つの宗教を特別視するなと言うのは、むしろ「日本の文化伝統歴史を無視しろ」と言っているに等しいのです。
 よって、靖国を考える上で、まずはこの日本の歴史的事実をしっかりと認識してから考えるべきだと、日本が日本として成長してきたその歴史には宗教が存在していて、その精神は今も日本の文化伝統歴史に根付いているという事実をしっかりと認識していく必要があるとやえは思うのです。
 
 
 では具体的に靖国はどういう形態を取るのが日本の歴史を背負う施設としてふさわしいと言えるのでしょうか。
 
 
 (つづく)
 

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平成18年8月15日

 内閣総理大臣靖国神社参拝

 今日は8月15日、いわゆる終戦記念日です。
 大東亜戦争やそれまでの戦争を日本のために戦い、そして命を落とされた方々に対して、その魂の安らぎをお祈りし、今の日本が平和に存続しているコトに対して感謝を申し上げます。
 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 
 内閣総理大臣小泉純一郎さんが本日8月15日に靖国神社に御参拝なされました。
 8月15日という日はやはり節目の日であり、その日に靖国神社に日本国民の代表たる内閣総理大臣が参拝したというこの意義は、大変に大きいモノがあると言えます。
 ご存じの通り、国内外を問わず様々なところから靖国神社参拝に対して批判が出ているところですが、それに屈するコトなく参拝を成し遂げた小泉さんは、やっぱり素晴らしい政治家でですね。
 
 内閣総理大臣が、近代日本の国難に際しての戦争で命をかけた戦った人たちをお参りするというのは当然の話です
 むしろ、現在の国家の代表者であるにもかかわらず、過去の日本を救ってくださった人たちに感謝の念を抱かないというのは、指導者として失格だと言えるでしょう。
 靖国神社は現在は一宗教法人ですが、その過去の歴史から、日本国内においては最も大きな「戦争という国難に殉じた公人を祀っている施設」なのですから、そこに公人のトップである総理大臣が参拝するというのは半ば義務であるワケなのです。
 今の日本が、「過去から受け継がれている伝統と歴史ある日本」のままに現在も続いているのは、過去の戦争で戦ってくださった方々のおかげなのですから、その今の日本の代表者たる総理大臣が参拝するのは当然です。
 もしこれに反対するというのであれば、過去から受け継がれている日本というモノを否定したアメリカやロシアなどの欧米列強に植民地化されたような、アフリカ各国や南米各国のような現地の文化を破壊され言葉も変えさせられ宗教すらキリスト教に改宗させられた、それまでの2000年近く続いてきた文化や歴史や伝統が一切合切破壊された“大和の国、和の国、日本”では無い国になっていた方がいいという主張をしなければなりません。
 しかしやえはそんな日本は日本とは思えませんし、だからこそ我々は戦争という国難に殉じた方々に感謝し、魂の安らぎを願わなければならないのです。
 
 前から当サイトでは言ってますように、参拝自体は8月15日という日にこだわる必要はないとは思っています。
 確かに区切りの日ですので「より好ましい」という表現はできると思いますが、この日でなければならないとは言えないと思っています。
 先人達に感謝するのはいつでも感謝しなければならないコトであるのですから、各人なりの区切りの日に参拝したり、参拝できなくても心の中で感謝するのもいいでしょう、たまたま近くを通りかかったから参拝していこうというのもそれでいいと思います。
 そのようなスタイルというのは、なにも総理大臣だけに限った話でなく、日本人ひとりひとりの心の在り方として、神様に常日頃から身近に接している文化を持つ日本人としては、それこそが自然な姿だと言えるのではないでしょうか。
 総理大臣としても8月15日という区切りの日は「より好ましい」でしょうけど、例えば靖国神社には春と秋に神社としての正式な行事である例大祭があるワケですからその日こそお参りするべきという考え方もあるかと思いますし、またみたままつりという地元の人たちが主体となって発足したおもちりもありますのでその日にお参りするというのも好ましいと言えるのかもしれません。
 
 出来るならば、日本国民の代表者たる内閣総理大臣には、8月15日と例大祭には正式に参拝してほしいとは思いますし、だからこそ今回の小泉さんの参拝には素直に ミミ彡  ゚̄ ̄'〈 ゚̄ ̄ .|ミミ彡 感動したっ と言えると思います。
 
 
 靖国の問題としてよく取り上げられるコトとして、政教分離の問題とA級戦犯の問題がよく取り上げられます。
 とりあえず政教分離の問題はここで詳しく取り上げていますのでお読みになって下さい
 現在の形であっても内閣総理大臣が靖国神社をはじめ様々な神社や宗教施設にお参りするというのは、政教分離の観点からも全く問題ありません。
 
 もうひとつの問題としてA級戦犯の問題がありますが、この問題が話題にされるたびにやえは情けない話だなぁといつも思います。
 というのも、このA級戦犯だけを問題視するという姿勢は、つまりはA級戦犯だけに罪を負わせて後はみんな被害者なんだと責任逃れをする態度に他ならないからです
 そういう一部の人だけに責任を押しつけているような人たちというのは、自分だけが善人面をしたいのかと、やえはとても情けなく思うのです。
 
 あの戦争がどういう戦争だったのか、悪として断罪すべきなのかどうかという議論もあるワケですが、しかしその評価をおいておくにしても、A級戦犯という限られた人たちだけに責任というモノを押しつけるという態度は、あまりにも無責任な態度です。
 大東亜戦争だけでなく、日清・日ロ・日中戦争は、これは国民の全てが関わって国民の全てで開戦を決めた戦争です
 決して一部だけの人間が独善的に決定したモノではありません。
 あの満州事変でさえ、関東軍の暴発で始まったとよく言われるところですが、確かに政府の命令無しに始めたという意味においては暴発と言えるかもしれませんけど、しかしその一方国民は開戦を望んでいました。
 詳しい話はここではしませんが、いろいろな事情があって開戦すべきという世論が当時はたまりにたまっていて、しかし政府はそれに踏み切ろうとしないという、今でもよく見られるような構図があったワケで、関東軍はそんな雰囲気の中で「暴発」したのです。
 政府の命令無しに行動した関東軍の行動は褒められたモノではないと思いますが、しかし当時の世論はこの関東軍のこの行動を拍手喝采でもって受け入れたのです。
 他にも、日比谷焼き討ち事件なども分かりやすい似ている構図と言えるかもしれません。
 一番戦争を止めようとしたのは政府だったワケなんですね。
 また戦前も当然選挙が行われていたワケで、その結果としての内閣もあったワケで、軍部はどんどんそこから離れていってしまったワケですが、こういう観点から見ても国民の声を全く無視した政策など当時の日本でもとるコトは不可能だったのです。
 それなのに政府高官の一部だけに責任の全てを帰させるような言動というのはあまりにも無責任だと言えるでしょう。
 
 独裁者と言えばヒトラーと言えるほど定着していますが、やえからすれば、それを悪用してドイツなんかは先の大戦の責任をヒトラーとナチスに全部を帰して精算しようとしているのではないかと思うのです。
 もちろんドイツの全てが「ヒトラーが悪いのであって我々は悪くない」と言っているワケではないのはその通りですが、しかしドイツの反省の仕方というのが、ヒトラーとナチスを叩くことによってそれを贖罪にしているように見えるのです。
 しかし制度的にはドイツはナチスの独裁にこそなりましたが、だからといって国民の全てが戦争に反対していたというワケではないでしょう。
 むしろヒトラーでないと当時のドイツの窮状を救えないと、戦争しかないと、そう望んでいたからこそドイツはあのような道を歩んでいったハズです。
 当時のドイツと日本とは国の形は全く別でしたから日本とは全く比べられませんが、もしドイツ国民があの戦争を悪だと、完全にドイツだけのせいでドイツがヨーロッパに対する全ての責任を負わなければならないと思うのであれば、ヒトラーのようにはならないという贖罪の仕方をするのではなく、ドイツ国民ひとりひとりが罪の意識を背負った上で反省をすべきなのではないかと思います
 
 そして日本も、ただA級戦犯だけに責任を帰させるような話にするのではなく、もし大東亜戦争を完全否定し、全ては日本が悪だったとどんな批判でも捏造っぽい批判でも受けなければならないと主張するのであれば、むしろA級戦犯云々ではなく、一兵卒一市民まで当時の日本人全ての人を批判するぐらいの覚悟を持って、少なくとも靖国の存在を否定して、贖罪とするべきでしょう。
 やえはそうは思いませんが、しかしA級がいるからこそ駄目だと言うのは、それは全く筋が通らない、矛盾だらけの主張でしかありません
 そしてそれは、分かりやすい悪玉の偶像を作り上げそれを批判するコトで、自分だけは善なる存在だとその位置にいたいが為だけの自己満足な行為でしかないでしょう。
 A級戦犯だけにこだわる人というのは、そのような情けない人間にすぎないのです。
 
 A級とかB級とかC級とかではなく、当時の全ての日本国民があの時代を必死に生き、そして戦争に負けはしましたが不断の努力があって、2600年も続く悠久の歴史を持つ日本という国を存続してきたのです。
 その中でも戦場に行き、また戦争を指揮し、また世界と交渉をした公人の方々には、一般の人とはまた違う顕彰と鎮魂の仕方があるハズです。
 今を生きる日本人ひとりひとりが、靖国を通して英霊の思いに応えるべきなのではないでしょうか。
 
 
 バーチャルネット思想アイドルやえ十四歳は、過去と現在と未来の日本を応援しています。
 

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