平成17年10月19日

 靖国神社参拝

 まぁ一応語っておくか、この問題。いいネタと言えばネタだし。
 
 昨日おとといなんかは右も左もこの話題で持ちきりだったんでしょうね。
 
 どんな議論が交わされているのかは想像できるがな〜
 
 小林よしりん先生の『靖国論』はなかなか好評のようですね。
 
 ああ、最近反アメリカ絶対主義がいきすぎていまいち感が漂っていて、本の売り上げも落ちているとか聞いたんだが、『靖国論』はかなり売れていて評判もいいらしいぞ。オレは結局まだ読んでないんだがな。
 
 今度ちゃんと読まないといけませんね。
 
 うーん、今度買ってみるくわあ。
 
 
 
 とりあえず、小泉さんの靖国参拝について今日は語りましょう。おとといの午前、普通のスーツを着て、ポケットからお賽銭を出して、参内せず参拝して、その後すぐに帰られたそうですが、これをどう考えるべきなのでしょうか。
 
 とりあえずな、総理大臣が靖国神社に参拝するっていう行為はなんら普通の行為であるというのは、まず前提としておいておこう。ただ、そもそも日本人の気質というか文化的背景からして、特定の日に特定の神社に必ず参拝しなければならないとするのは、ちょっと異質かなとは思う。正月に初詣で神社に行く訳だが、特にどの神社と決めている人なんてそうはいないし、神社側もどこに行くのが正式な初詣だなんて決めていないよな。今年は雨降ったから近くの神社でいいやってぐらいに思っている人がほとんどでさ。これが一神教の宗教ならどこに行っても祈る神は一緒だが、しかし日本の神社はそれぞれで祭っている神が違うのに、それでもどこに参拝するかを決めていないっていうのは、やはり日本人のおおらかな気質の表れなのだろうし、そういう宗教観なんだろうよ。そういう意味で、「8月15日東京の靖国神社」と決められているっていうのは、ちょっと異質だと言えるだろう。
 
 おそらく「その日には背景があるのだから」っていう主張なんでしょうけどね。その日は敗戦記念日ですから、日本のために戦った人に感謝を捧げるという意味があるだろうっていう。
 
 だから否定はせんのだがな。ただこの辺が偏っている知識というか、いや、偏っている認識と言った方がいいのかな、靖国とかを絶対化しすぎている表れなんだよ。なにも実在の人物を祭っている神社は靖国だけじゃないんだから、受験で有名な太宰府天満宮の菅原道真とか、日光東照宮の徳川家康とか、幕末の維新思想に多大な影響を与えた国学者の平田篤胤を祭っている彌高神社とか。それなのになぜ靖国だけが特別なんだと。
 
 確かにそうですね。明治以降戦ってこられた方という意味においても、昭和の大軍人乃木希典大将や山本五十六閣下を祀られている神社もありますからね。どうして靖国だけを目くじらたててしまうんでしょうか
 
 神社の中でも最も中心とされる社に伊勢神社と出雲大社があるだろ。それぞれ天照大神と大国主命が祭られている訳だが、確かにこの二柱は実在の人物ではないとされている。しかしオレは、遙か古代の大和朝廷が出来る前の天皇家がまだ豪族に過ぎない時代のさらに前の時代のある偉大な祖先を神格化したしたものなんじゃないかと思っている。天照大神は天皇家の祖神とされているしな。こういう背景を見れば、逆に日本人の感覚からすれば、どこにいても、どの神社に参拝しても、帰する所は日本人の心であり、全ての神様は繋がっていて、天皇家の祖神である天照大神や現世に最も力を奮った天帝菅原道真や日本国史最大の国難大東亜戦争で散っていった246万余柱の英霊などもみな等しく同じ神様な訳なんだよ。神社に行けば会えるのはどこでも同じなのではないだろうかと。日本の悠久の歴史、また神話の世界からすれば、50年100年なんて微々たる時間の差でしかない訳で、それにこだわる方がおかしいだろうとな。
 
 確かに日本神話の神々って、特に主神とかいませんしね。大国主や天照大神が主神っぽくはありますけど、神話を読めば全然そんな感じはないですし、そもそも一番始めに生まれた神様って天之御中主神っていう人なんですけど、でもこの神様、神話の中では特に何も活躍せずにどっかいっちゃいますし。そういう意味では日本らしい神様とは言えるかもしれませんね。で、つまり言えば、ムリに8月15日に靖国神社に行く必要はないってコトなんでしょうか?
 
 まぁ結局は個人の心の問題だから8月15日に靖国に行きたい人は行けばいいんだろう。またいくら神話の世界では50年など微々たる時間だと言っても、しかし人間界からすれば、英霊の直属の家族がご存命な訳だから、やはり特別な想いを抱かれるのは人間として当然だと思う。
 
 ただし、他人に対して「8月15日には絶対に靖国に行かなければならないんだ(゚Д゚)ゴラァ」って言ってしまうのは違うんじゃないんでしょうか、というコトですね。
 
 まぁそうだな。神社や参拝を大切にしましょうという意味ではとてもいい事ではあると思うんだが、その対象が靖国だけであるというのはむしろ不自然なのではないかと。どうせならもっと神社仏閣を大切にしましょうという方向に向かえばいいんだろうなぁとは思う。まずは国民の中でこの辺をよく考えてみてもらいたいものだ。
 
 
 では、小泉さんもムリに参拝する必要もないってコトでしょうか。
 
 小泉さん個人はともかく、総理大臣としてならまたちょっと意味合いが変わってくるのが難しい問題なんだよな。というのも、散華していった246万柱の人たちは国の命令で命を散らした訳だ。となれば国の指導者がその命に対して責任を持ち、国民の代表として国難に殉じた事に対して感謝の意を捧げるというのは、言わば当然の話であると言えるだろう。また8月15日は敗戦記念日であり象徴的な日でもあるからこれにこだわるのも理解できる。
 
 じゃあ、総理大臣として堂々と8月15日に靖国神社に礼服で参内して参拝すべきだったというコトですね。
 
 うむ。建前上はそうだ。毎年毎年総理大臣はそうしてもらいたい。また靖国だけでなくな、正月には伊勢神宮にお参りして、しているのかな、建国記念日には橿原神宮にお参りして、地方に行けばその土地の神社にお参りもしてもらいたい。そもそも今はなにやらよく訳の分からない政教分離とかいう法律があるみたいだが、いったいどこの世界に宗教と政治が別れているなんて考えている人間がいるんだと逆に問いつめたい。日本人だけ変なんだよな。宗教が空気みたいに意識しないものだから逆に作用してしまったのだろう。そもそも欧米で発祥した政教分離は、キリスト教の中の特定の宗派だけを特別扱いしないようにという意味であって、政治から宗教を切り離そうという意味ではねぇんだよ。これ訳したヤツが悪いんじゃないかと思うんだが。だからそもそも宗教と政治は一体のものであって、政(まつりごと)は祭り事なんだよ
 
 小泉さんは総理にご就任の際、靖国神社に毎年8月15日に参拝すると公約にされました。しかし毎年参拝は果たしておられますが、まだ一回も8月15日には参拝されておられません。今年も秋の例祭に合わされたようですが、結局敗戦記念日ではありませんでした。今年はその時期が選挙中であり、もし自民党不利なら小泉総理は15日に参拝するんじゃないかとやえは予想して、実際にそういう話も検討はされたという話があったそうですけど、今年は結果的にはおとといの参拝というコトになりました。ではこれをどう考えるべきでしょうか。
 
 結局、政治家としてまつりごとを司る立場なのだから、まつりごととしての神社参拝は、これは総理大臣という立場からして半ば義務化させた方がよいのだろうと思う。ただし、それは最終的な話であって、やはりこれは今までの背景を考えなければならない。ここ十年近く日本の総理大臣は靖国を参拝できない状況にあった。この見えない壁をぶち破ったのが小泉総理であり、そういう意味では高い評価を与えられるんじゃないかと思う訳だ。
 
 それについては保守系の中でも意見が分かれていますよね。左翼系はもはや反対しか言いませんので無視するにしても、保守系の中では、そのように評価する人がいる一方、中途半端な参拝しか出来ないのだったらそれが前例になってしまうので参拝しない方がよかった、という意見があります。どちらかと言えば後者の方が多勢かもしれません。
 
 こういうのは心の問題であり、また形式も大切なのだから、適当な参拝などむしろ無礼に当たるなんて言うヤツもいるみたいだけど、これは違うだろうな。頭が硬直化してしまっとる。さっきも言ったように、日本神話というか神道はそこまで形式張るような宗教ではない。もし8月15日に礼服を着て参拝しなければならないと言うのであれば、同じように初詣とかにも正装しなければならないと言わなければならないんじゃないのか。なぜ靖国だけ特別視するのか理由がない。ただ、もちろん正装するのは悪くはない。だから日本の総理が国民の代表として英霊に感謝の意を捧げるという儀式を正式にまつりごととして執り行うわけだから、それなりの格好をするというのは意味がある事ではあると言えよう。まぁ微妙な話ではあるが、世の中割り切れる事の方が少ない訳だし、この辺の独特の曖昧さというか融通というか、日本人として余裕が欲しいよな。
 
 その上で、やっぱりちゃんと総理に対しては参拝して欲しいとは思いますよね。
 
 うむ。ただ、やはり今まで十年近く参拝できなかったという事実は大きい訳で、何がそんなに大変かと言えば、なにも前例が大変という訳ではなくてな、むしろここ十数年の世論が問題な訳だ。なぜここ十数年、日本の総理大臣が靖国に参拝できなかったのか言ってみろ。
 
 それはですね、中韓のいちゃもんが大きいように見えるかもしれませんが、直接の原因は、やっぱり世論の中で「行くべきではない」と思っている人が増えてしまったからだと思います。小泉さんだからこそ多少の反発は跳ね返せますが、例えば前総理の森さんなんて、あの人はすごく保守的な人、誤解をおそれず言えば、戦前肯定論を持っているような人ですから、森さん個人としては正式に靖国に参拝したかったと思っていたコトでしょう。しかしそれを世論が許さなかったワケです。ただでさえ当時評判が最悪だった森さんなのですから、これで靖国に参拝しようものならとんでもないコトになっていたでしょう。
 
 そうだ。いま右も左も靖国に対しては小泉総理ばかりを批判しているが、そもそも靖国に参拝できなくしたのは国民自身なんだよ。左翼はともかく、保守の連中がその責任を小泉総理だけに押しつけるというのはどう考えてもおかしい訳で、言ってみれば責任転嫁も甚だしいなんだよな。オメーらの失策を小泉総理だけに押しつけんなよと。もちろんオレにもその責任の一端はある訳だが、だからまずは国民の声を変える努力をしなければならないんじゃないのかって話なんだよな。
 
 こうやって靖国の話をおおっぴらに議論できるようになったのも小泉さんが公約に掲げたからなんですけどね。
 
 そうそう。小泉総理のせいで正式な参拝がますます難しくなってしまったとか言ってるヤツに聞きたいんだが、じゃあ小泉総理が全く靖国の問題に触れず今まで通りスルーしてきたとしたら、今後正式参拝ができる見通しが本当にあったのかと。森総理の時に一回でも靖国神社に参拝すべきだと言ったのかと。神の国発言の時なんて絶好の機会だったじゃないか。
 
 なんだか構図が拉致問題と似てますよね。
 
 全くだよ。もうすっかり世論も保守も忘れているけど、昔北朝鮮の人道支援で米を送るって政府が決めたときも、世論は反対してなかったんだぞ。むしろ反対の声を上げる横田さん夫妻を凄く冷たい目で見ていたくせに、今となっては一部の人間が神に祭り上げているんだもんなぁ。勝手なもんだよ。
 
 当サイトは昔から拉致問題を取り上げていましたけど、今の状況は、なんだかこそばゆいというか、呆れちゃいますよね。
 
 今でこそ北朝鮮を堂々と批判できるようになっているが、小泉訪朝がなければ未だにどうなっていたか分からんぞ。韓国なんて日本の何十倍何百倍の拉致被害者がいると言われているのに韓国世論は冷め切ってしまっている。それを奇異の目で見ている日本人もいるが、しかしつい数年前までは日本もそうだったんだからな。
 
 話を戻しますが、そもそも小泉さんだって靖国に参拝する意味ぐらい分かっていますよね。口では「平和のために」なんて言ってますけど、わざわざ靖国神社に8月15日参拝するのですから、意味が分からずやっているワケがないんです。むしろ小泉さんが参拝なされたのをきっかけに靖国神社の意義をはじめて知ったという人が多いんじゃないでしょうか。やえは思うんですが、その上で8月15日に参拝できないというコトに対して一番気に病んでいるのは小泉さんご自身だと思うんです。十数年前までの総理は半ば惰性で参拝なされていた総理もいらっしゃるでしょう、しかし小泉さんは自らの意思で参拝すると決められた方です。多くの人が小泉さんの表面だけで判断して好き勝手言ってますが、小泉さんは大東亜戦争がどのような戦争だったのか、散華していった若者達がどのような気持ちで散っていったのか、結果いまの日本がどのような形として遺されてきたのか、全て理解していらっしゃるんじゃないでしょうか。しかし国民の代表たる総理大臣としては表面的にはあのぐらいしか言うコトが出来ず、参拝も中途半端に終わってしまっている。これはとても悔しい思いをされているのではないのでしょうか。普通の感覚からすればそう考える方が自然なのではないかと思うんですけどね
 
 最近の日本人は、他人に対しては無思慮で放言するくせに、自分だけは誰よりも理解してほしいなんて我が儘幻想抱いているヤツが多いからな。それはともかく、そもそも他人に批判されたくないのだったらはじめから靖国神社に参拝しなければ済む話だったんだからな。竹下総理から森総理までがやってきたように、無視しとけばなんら問題にならなかった訳だ。事実そうだったんだからな。それでも多くの人から批判される覚悟で敢えて小泉総理は決断したんだから、その心情をもっと知ろうとすべきなんじゃねぇのかって思うんだがなぁ。想像力が働かんのかねぇ。
 
 結局、0か1かのデジタルでしか物事が考えられないんでしょうかね、右も左も。
 
 そうだなぁ。8月15日正装の上での参内参拝か、それとも全く無視するか、0か1かなんだよな。保守の中でも、今のようなら全くしない方がいいなんて言ってるヤツいっぱいいるが、勝手な言い分だよな。小泉総理が行かなかったらそういう主張すら自分が考えられるポジションにいられなかったくせに。50年後もそのまま総理は参拝できないままずーっと過ぎていく方が本当にいいんだろうかね。
 
 小泉総理の次に総理になった人には必ず聞かれると思うんですけどね。「靖国神社に参拝しますか?」って。今までなら話題にすらならなかったから、小泉さんの変人ならまだしも、普通の人なら普通にスルーしますよ。それをここまで総理の課題として職責としてのし上げたんですから、そこを理解しないとダメなんじゃないんでしょうか。0か1かだけじゃなくてですね。
 
 最初にも言ったが、形式にだけこだわるのもバカらしいしな。そういうヤツこそ一神教のキリスト教に洗脳されているんじゃねぇかと言いたいよ。
 
 
 話は戻りますが、もちろん最終的には、日本の総理に恒久的に靖国神社に参拝してもらいたいと思うのですが、これを達成するにはどうしたらいいのでしょうか。
 
 さっきもちらっと言ったがな、なぜ日本の総理が参拝しにくい状況になってしまったかと言えば、それは世論が腐っとるからだ。だから総理が完全に参拝できる状況をつくるためには世論を変えるしかない。だから、総理に参拝してもらいたいと願う者は、総じて世論に対してそれを訴えなければならないはずなのだ。朝日がバカのような主張をしているのは小泉総理のせいか?敵は小泉なのか?よく考えてみろって事だ。
 
 最近の世論調査では、まぁ中韓のバカ騒ぎやマスコミのバカ騒ぎのせいが強いのでしょうけど、参拝反対の方がやや多いという状況なんですよね。その中であえて参拝しているのは、むしろよくやっていると言えるんじゃないでしょうか。
 
 結局小泉批判したいだけなんじゃないのかって。だってよ、郵政の時は散々「独裁者小泉」なんて言ってたのに、同じ口で「世論を無視して靖国に参拝しろ」って言っているんだから、もう支離滅裂とはこのことだよな。
 
 結局、先の大戦を総括する。その意義を考える、理解する。もちろん戦犯とかも整理する。そして宗教を考える、神道とは何かを見つめ直す。こういう作業を国民レベルでやらないとダメなんですよね。国民がそれを分からないままに、“国民の代表たる内閣総理大臣”が国民の代表として、いくら形式張った参拝をしたところで、そんなのは全く無意味ですし、それこそ英霊に失礼なんじゃないのでしょうか。
 
 そういうのを全く理解しないまま、ただ見た目だけに、自分の愛国心を確かめたいがためだけに、形式にこだわっているだけの参拝を小泉総理に押しつけようとしているんだよな。
 
 日本の国民の方から、「今まで当たり前のコトを出来なくさせてしまい、つらい思いをさせてしました。でもこれからは国民こそがバックアップします。今こそ堂々と我々国民の代表者として英霊たちに感謝の意を捧げてください。国民はみなあなた方に感謝していますと伝えてください」ぐらいに言えるような世の中を作ろうと努力しようとは思わないんですかね。こういう努力をせずに小泉批判だけするっていうのは、結局全てを政治家に丸投げしているだけに過ぎないコトになるでしょう。政治は国民が動かすのではなかったのですか?
 
 ま、小泉批判がしたいだけなのか、それとも本当に心から英霊に感謝の意を捧げたいのか、そこをよく考えてみなさいってこったな。
 

平成17年10月21日

 靖国神社は憲法違反か!?(上)

 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 
 さて。
 憲法20条のいわゆる「政教分離」に対して、これを厳密に厳密に解釈すべきであり、文字通り読むのであれば、総理大臣が神社に参拝するのは違憲だ、という考えがあります。
 また、左右問わず、この主張する人は意外と多かったりします。
 政教分離について今までやえは、「元々これはキリスト教において特定の宗派を優遇しないようにしたモノ」であり、「政治と宗教は完全に切り離すコトはできない」というような感じで説明してきました。
 例えばよく引き合いに出される例で言えば、アメリカの大統領の就任儀式のひとつに、キリスト教の聖書の上に手を置いて宣誓をするというモノがありますし、また非常に分かりやすい例として、ドイツでも政教分離原則はあるのですが、この前の選挙で第一党になった政党名は、「キリスト教民主同盟」という、そのまんま100%宗教色のある政党名だったりしています。
 しかし、それらが政教分離原則に違反するなんていう批判は皆無に近いワケで、言わば、政治と宗教を100%切り離せという議論が起きるのは日本と、あとは共産国ぐらいなもんで、共産主義はそもそも宗教を認めていないワケですから、そういう意味で世界の中でも日本だけ妙な議論をしているコトになる、奇妙な国だと言ってきました。
 
 これは前にも言いましたように、日本人が宗教を空気のようにしか認識していないために、宗教が無くても政治をやっていける、人間は生きていけると勘違いしているせいなのでしょう。
 またこれも前にも言いましたように、日本国憲法はアメリカ人が作ったという性質から、翻訳の間違いであるとも言えるのです。
 各国の政教分離原則のもともととなった文章は「separation of church and state」なんだそうですが、「church」は「教会」であり、つまり「国家と教会の分離」と訳すのが正しく、元々はやっぱり特定の宗派だけを優遇するなという意味なのです。
 これからしても、そもそもこの“政教分離原則”は、日本には適していない条文だったと言えるでしょう。
 
 と言っても、どうしても条文にこだわりたい人も中にはいるでしょう。
 「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」とある以上は、文字通り100%遂行しろと思う人もいるかもしれません。
 今日はここをハッキリさせておきたいと思います。
 
 実はこの問題、すでに“法の番人”最高裁判所がこの政教分離の問題について判決を示しています
 これは有名な判決であり、最高裁のサイトにも「違憲の判断をした著名な判決」として尊属殺人判例らと共に挙げられている、重要な憲法判断判決だったりします。
 それが「津地鎮祭訴訟大法廷判決」です。
 
 裁判となった元々の事件を簡単に説明しますと、津市が体育館を造る際に起工式を執り行ったワケなのですが、その起工式は神道の宮司さんを呼んでの式だったために、ある人がこれが政教分離の原則に反すると主張し、裁判を起こしたというモノです。
 多くの人がニュースとか実際に見たコトがあると思うのですが、工事の前とかに神主さんを呼んで、山盛りした土にお酒をかけたり、神主さんに御幣という白いビラビラの棒を振ってもらったりして、工事の安全祈願をしますよね、あれが憲法違反だと主張したのがこの裁判のキッカケなのです。
 
 結果を先に言えば、これは合憲という判決を最高裁は出しました

 主文
 原判決中上告人敗訴部分を破棄する。
 前項の部分につき、被上告人の控訴を棄却する。
 控訴費用及び上告費用は被上告人の負担とする。

 これ高裁の2審までは違憲と判断されていたために「原判決中上告人敗訴部分」と書いてあるのですが、つまり最高裁ではそれを「棄却する」としたという、津市の完全勝訴で幕を引いたのです。
 最高裁のサイトで判決文の全文を出そうと思ったのですが、なんか出てきませんでしたので、ぐぐって出てきたある大学のサイトをご覧下さい
 
 では最高裁は憲法20条とのかねあいをどう判断して、どう政教分離と公共団体の政治への関わりを整理したのでしょうか。
 先ほどの判決文の「二 当裁判所の判断」をご覧下さい。

 憲法は、(中略)「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」(同条3項)とし、更に「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、…………これを支出し、又はその利用に供してはならない。」(89条)として、いわゆる政教分離の原則に基づく諸規定(以下「政教分離規定」という。)を設けている。
 (中略)
 ところが、宗教は、信仰という個人の内心的な事象としての側面を有するにとどまらず、同時に極めて多方面にわたる外部的な社会事象としての側面を伴うのが常であって、この側面においては、教育、福祉、文化、民俗風習など広汎な場面で社会生活と接触することになり、そのことからくる当然の帰結として、国家が、社会生活に規制を加え、あるいは教育、福祉、文化などに関する助成、援助等の諸施策を実施するにあたって、宗教とのかかわり合いを生ずることを免れえないこととなる。したがって、現実の国家制度として、国家と宗教との完全な分離を実現することは、実際上不可能に近いものといわなければならない。更にまた、政教分離原則を完全に貫こうとすれば、かえって社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを免れないのであって、例えば、特定宗教と関係のある私立学校に対し一般の私立学校と同様な助成をしたり、文化財である神社、寺院の建築物や仏像等の維持保存のため国が宗教団体に補助金を支出したりすることも疑問とされるに至り、それが許されないということになれば、そこには、宗教との関係があることによる不利益な取扱い、すなわち宗教による差別が生ずることになりかねず、また例えば、刑務所等における教誨活動も、それがなんらかの宗教的色彩を帯びる限り一切許されないということになれば、かえって受刑者の信教の自由は著しく制約される結果を招くことにもなりかねないのである。これらの点にかんがみると、政教分離規定の保障の対象となる国家と宗教との分離にもおのずから一定の限界があることを免れず、政教分離原則が現実の国家制度として具現される場合には、それぞれの国の社会的・文化的諸条件に照らし、国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いをもたざるをえないことを前提としたうえで、そのかかわり合いが、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で、いかなる場合にいかなる限度で許されないこととなるかが、問題とならざるをえないのである。
 右のような見地から考えると、わが憲法の前記政教分離規定の基礎となり、その解釈の指導原理となる政教分離原則は、国家が宗教的に中立であることを要求するものではあるが、国家が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが右の諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものであると解すべきである。

 ごめんなさい、すごく長い引用になってしまいましたが、ここは重要なので是非読んでください。
 つまり箇条書きでまとめますと
 
 ・宗教は、教育、福祉、文化、民俗風習など広汎な場面で社会生活と接触する、社会事象としての側面がある
 ・教育、福祉、文化などに関する助成、援助等の諸施策において、宗教との関わり合いから逃れられるコトはできない
 ・もし政教分離原則を完全に貫こうとすれば、宗教関係の学校や、仏像などの宗教系の文化財の保護などに対して国が補助金を出すのも違憲となってしまい、社会生活の各方面に不合理な事態を生じてしまう
 ・また刑務所内においても宗教的な救いの場を設けるコトも不可能となり、それは受刑者の信教の自由は著しく制約されるとなり、すなわち宗教による差別が生ずることになる
 ・よって、政教分離規定の保障の対象となる国家と宗教との分離にもおのずから一定の限界があると言える
 ・国家と宗教との完全な分離を実現することは、実際上不可能に近い
 ・現実的には、国家が宗教との関わりをある程度持つことを認め、また国家が政治的中立を守りつつ、信教の自由も認めつつ、実質的にはどの程度の限度で国と宗教の関わりあいが許されるかを問題にするしかないのである
 
 というコトです。
 さらに簡単に言いますと、「宗教は文化や風俗に密接に関わっているものだから、文化や風土を基に成り立っている国家としては宗教との関わり合いを全否定するコトなど出来ませんよ。現実論を言えば、どの程度の関わり合いまでを許すかを議論をするのが妥当でしょう」と言っているワケです。
 また、「完全的な政教分離を行おうとするなら、今でも宗教系の学校に補助金や、宗教文化財への補助金も違憲になっちゃうよ」とも言っているのです。
 そして主文にありますように、「公共団体が神主さんを呼んで安全祈願の儀式をして、またその費用を公費から出しても全然問題ありませんよ」と結論づけているワケです。
 
 法の番人であり、終審として違憲審査権を有する最高裁判所の判決です
 法律に等しい効力をこの判決は有します。
 最近地方裁や高裁で傍論と称した裁判官の独り言の中に、総理の参拝行為が違憲であるとしている妙なモノがあるとか話題になっていますが、しかしそれは、下級裁で憲法判断しつつも上訴できない判決を出したという意味において、最高裁の終審としての憲法審査権を奪うという重大な憲法違反であるとも言えるのです。
 その意味も併せて、地方最高裁の傍論などこの最高裁“判決”の前には、なんら効力のない無意味なモノでしかないのです。
 
 以上のコトにより、憲法20条の、いわゆる「政教分離原則」とは、完全に国家と宗教を切り離す規定では無いというコトが、違憲審査権のある最高裁によって認められているのです。
 この裁判で取り扱われた起工式について最高裁は、「本件起工式は、宗教とかかわり合いをもつものであることを否定しえないが」と、宗教儀式と認めつつも、しかしそれは政教分離原則違反ではないと明確に判決を出したのです。
 ですから、「条文に書いてあるから参拝はダメ」というだけの理屈では、全く通らないと言えるワケなんですね。
 
 では、逆にこの津地鎮祭訴訟廷判決では、どのような行為が憲法20条行為に違反すると定めているのか見てみましょう。
 
 
 *一部やえの事実誤認がありましたので修正させていただきました(22日11時50分)
 
 (つづく)
  

平成17年10月22日

 靖国神社は憲法違反か!?(下)

 では、逆にこの津地鎮祭訴訟廷判決では、どのような行為が憲法20条行為に違反すると定めているのか見てみましょう。

 (二) 憲法20条3項により禁止される宗教的活動
 憲法20条3項は、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」と規定するが、ここにいう宗教的活動とは、前述の政教分離原則の意義に照らしてこれをみれば、およそ国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いをもつすべての行為を指すものではなく、そのかかわり合いが右にいう相当とされる限度を超えるものに限られるというべきであって、当該行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきである。その典型的なものは、同項に例示される宗教教育のような宗教の布教、教化、宣伝等の活動であるが、そのほか宗教上の祝典、儀式、行事等であっても、その目的、効果が前記のようなものである限り、当然、これに含まれる。そして、この点から、ある行為が右にいう宗教的活動に該当するかどうかを検討するにあたっては、当該行為の主宰者が宗教家であるかどうか、その順序作法(式次第)が宗教の定める方式に則ったものであるかどうかなど、当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならない

 またまた長い引用になってしまったので、箇条書きでまとめてみましょう。
 
 ・政教分離原則とは、決して国などが宗教との関わり合いを持つコト全てを否定するものではない
 ・何が禁止されているのかと言えば「援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為」である
 ・その典型的な例を言えば「宗教の布教、教化、宣伝等の活動」であり、祭典などでもこれに該当すると見なされれば政教分離原則違反と言える
 ・そしてそれらは、ただ外形的側面だけを見て決めるのではなく、様々な観点から総合的に社会通念に従って客観的に判断しなければならない
 
 つまりは、社会通念に従ってその式典などが「宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為」に当たるかどうかで政教分離原則に違反するかどうかを判断する、というコトになります。
 
 
 ここで、総理大臣が靖国神社に参拝するコトが違憲であるかどうかを判断する前に、ちょっと話がズレるのですけど、次の判決文に興味深いコトが書かれていますので、それを紹介しておきます。

 なお、憲法20条2項の規定と同条3項の規定との関係を考えるのに、両者はともに広義の信教の自由に関する規定ではあるが、2項の規定は、何人も参加することを欲しない宗教上の行為等に参加を強制されることはないという、多数者によっても奪うことのできない狭義の信教の自由を直接保障する規定であるのに対し、3項の規定は、直接には、国及びその機関が行うことのできない行為の範囲を定めて国家と宗教との分離を制度として保障し、もつて間接的に信教の自由を保障しようとする規定であって、前述のように、後者の保障にはおのずから限界があり、そして、その限界は、社会生活上における国家と宗教とのかかわり合いの問題である以上、それを考えるうえでは、当然に一般人の見解を考慮に入れなければならないものである。右のように、両者の規定は、それぞれ目的、趣旨、保障の対象、範囲を異にするものであるから、2項の宗教上の行為等と3項の宗教的活動とのとらえ方は、その視点を異にするものというべきであり、2項の宗教上の行為等は、必ずしもすべて3項の宗教的活動に含まれるという関係にあるものではなく、たとえ3項の宗教的活動に含まれないとされる宗教上の祝典、儀式、行事等であっても、宗教的信条に反するとしてこれに参加を拒否する者に対し国家が参加を強制すれば、右の者の信教の自由を侵害し、2項に違反することとなるのはいうまでもない。それ故、憲法20条3項により禁止される宗教的活動について前記のように解したからといって、直ちに、宗教的少数者の信教の自由を侵害するおそれが生ずることにはならないのである。

 この部分は、憲法20条の2項と3項の関わりについて書かれています。
 2項とは「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」であり、3項は「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」です。
 ご覧のように、かなり難解な文章になっていますので、かみ砕いて書いてみるコトにしましょう。
 
 2項の部分は全ての宗教上の行為を強制されないという意味に対し、3項の部分は先ほどまで述べてきた通り国と宗教とを完全に切り離すコトは出来ないと考えるべきであるので、そうなれば2項と3項では「信教の自由」の定義に大きな開きが出てくる
 よってこれらは個別に考えるべき問題であって、すなわち2項で「全ての宗教について強制禁止」としているからと言って、3項にまで「全ての宗教」を当てはめるべきではない。
 同じように3項では「国と宗教を完全に切り離すコトが出来ない」としているからといって、それを2項に当てはめて強制させるようなコトもしてはならない。
 つまり、「個人の信教の自由」とは、国が宗教と関わり合いをある程度持つというコトを認めた上での、それを強制されないという形によって保証されているモノであり、国が宗教と関わり合いを持つという事実だけによって「宗教的少数者の信教の自由」が侵害されたとは解釈できないのである。
 
 こういうコトになります。
 最近左巻きな人や左巻きな宗教関係者が、地方各地でゲリラ的に総理の靖国参拝に対して訴訟を起こしていて、その訴えの理由の中に「総理大臣が特定の宗教施設に参拝するコトで、他の宗教を信じる「宗教的少数者の信教の自由」が侵害された」というモノがありますが、しかしこれはすでに最高裁判例で、「信教の自由」とは強制されない自由であると、完全に否定されているんですね。
 当然大阪高裁の主文においてもゲリラ訴訟団の訴えは完全に棄却されているワケであり、実際その判決文には「原告らに対し、靖国神社への信仰を奨励したり、靖国神社の祭祀に賛同するよう求めたりするなどの働きかけをしたものと認めることはできない」と書いてあります(『週刊新潮』10月13日号)ので、よって「総理が参拝するのは信教の自由を侵している。精神的苦痛を受けている」という主張はなんら根拠のない、ただの被害妄想でしかないコトになるのです。
 
 
 話を戻しましょう。
 では、総理大臣の靖国神社参拝が政教分離原則に反するかどうかというコトを考えてみるコトにします。
 これまで述べてきましたように、政教分離原則とは決して国と宗教とを完全に切り離すモノではありません
 ではどうすれば政教分離原則において違憲となるかですが、結局は個別に議論してみなければ分からない、という判決になっています。
 まぁそれはそうでしょうね。
 ただしその中でも一定の指針は出されていて、「宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうもの。その典型的なものは、同項に例示される宗教教育のような宗教の布教、教化、宣伝等の活動である」と最高裁判例では出ています。
 
 ひとつひとつ当てはめてみましょう。
 まず「宗教教育のような宗教の布教」ですが、総理大臣が靖国神社に参拝するコトはとてもじゃないですけど「布教」にはなりませんね。
 これが、「総理が参拝しているのですからみなさんも参拝しましょうね」と学校で教えたのならば大問題でしょうが、決してそうではないので当てはまりません。
 
 次に「教化」ですが、これも考えるまでもなく当てはまりませんね。
 例の大阪高裁ですら「靖国神社の祭祀に賛同するよう求めたりするなどの働きかけをしたものと認めることはできない」としているのですから、もはや考えるまでもありません。
 
 では「宣伝」ですが、これはどう考えるべきなのでしょうか。
 もし総理大臣がメルマガとかで「みなさんも靖国神社に参拝しましょうね」と言ったのならば宣伝に当たるでしょう。
 しかしそうでは全くありません。
 見方によれば、確かに総理が靖国に参拝したコトでマスコミがさんざん取り上げ、結果的に知名度は上がったという言い方もできるかもしれませんが、しかし主体的に総理が宣伝したワケではないのですから、そこまで拡大解釈をするのはいかがなものかと思います。
 それならば大臣でない国会議員が参拝してもやっぱり宣伝になりますし、そもそもこの津市の件だってかなり大きく取り扱われたのですから宣伝になってしまいます
 これでは、公的機関でありもっとも中立でなければならない裁判所が宗教の宣伝をしたと言わざるを得なくなっちゃいますよね。
 それはいくらなんでもめちゃくちゃというモノです。
 普通、日本語的というか常識的に考えれば、この宣伝を主体的に行ったのはマスコミ自身です。
 むしろそうしなければ、マスコミのやりたい放題になってしまうでしょう。
 よって宣伝もあてはまらないと考えます。
 
 それから「援助、助長、促進」はひとつにまとめますが、これらも違いますね。
 ポケットから出した小銭程度では、いくらなんでもそれを援助や助長や促進と呼ぶのは無理がありすぎます。
 そもそもそれはお賽銭であり、参拝する行為に欠かせない日常的なモノですから、これらも全く当てはまりません。
 
 最後に「圧迫、干渉」ですが、これも考えるまでもないですね。
 圧迫になりようがありません。
 
 というワケで、総理の靖国参拝についてはまだ最高裁での判決が無いので断定的なコトは残念ながら言えないのですが、普通に法律(最高裁判例を含む)を読むならば、総理の靖国参拝が違憲であるとは言えないと考えられるでしょう。
 
 ただ、ひとつだけ注意すべき点があります。
 さっきの判決文を載せているページの一番下に「「愛媛玉ぐし料訴訟」大法廷判決(97年4月2日)」というリンクがあるのですが、この裁判によって、いわゆる「玉串料」を公費で出すコトは違憲とされてしまっているのです。
 訴訟の名前からして想像が出来ると思いますが、この裁判は、愛媛県が地元の護国神社や靖国神社に例大祭やみたま祭りの際に公費で玉串料を出したという事実に対し、それは違憲なのではないかと争われた裁判です。
 そして、判決は違法であるとされました。

 2 本件支出の違法性
 (前略)
 一般に、神社自体がその境内において挙行する恒例の重要な祭祀に際して右のような玉串料等を奉納することは、建築主が主催して建築現場において土地の平安堅固、工事の無事安全等を祈願するために行う儀式である起工式の場合とは異なり、時代の推移によって既にその宗教的意義が希薄化し、慣習化した社会的儀礼にすぎないものになっているとまでは到底いうことができず、一般人が本件の玉串料等の奉納を社会的儀礼の一つにすぎないと評価しているとは考え難いところである。そうであれば、玉串料等の奉納者においても、それが宗教的意義を有するものであるという意識を大なり小なり持たざる得ないのであり、このことは、本件においても同様というべきである。
 (中略)
 被上告人らは、玉串料等の奉納は、神社仏閣を訪れた際にさい銭を投ずることと同様のものであるとも主張するが、地方公共団体の名を示して行う玉串料等の奉納と一般にはその名を表示せずに行うさい銭の奉納とでは、その社会的意味を同一に論じられないことは、おのずから明らかである。そうであれば、本件玉串料等の奉納は、たとえそれが戦没者の慰霊及びその遺族の慰謝を直接の目的としてなされたものであったとしても、世俗的目的で行われた社会的儀礼にすぎないものとして憲法に違反しないということはできない。
 以上の事情を総合的に考慮して判断すれば、県が本件玉串料等靖國神社又は護國神社に前記のとおり奉納したことは、その目的が宗教的意義を持つことを免れず、その効果が特定の宗教に対する援助、助長、促進になると認めるべきであり、これによってもたらされる県と靖國神社等とのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものであって、憲法20条3項の禁止する宗教的活動に当たると解するのが相当である。

 やっぱり判決文ですから、やたら小難しくて長ったらしいのですが、これは箇条書きにする必要はありません。
 これだけの分量を要していますが、言っているコトは「玉串料は一般人にとって日常的な行為とは言えず、それを公費で出すコトは靖国神社や護国神社を特別扱いしている」と言っているだけです。
 この裁判は先ほどの津市の裁判の後に行われたモノであり、引用文の前の「二 本件支出の違法性に関する当裁判所の判断」では津市判例をほとんどそのままの同じ文章を載せていることからも、当然津市判例を踏襲したモノであると言えます。
 そしてその上で、玉串料は「援助、助長、促進」であると最高裁が判断したのですから、これは憲法違反だと言わざるを得ないというワケです。
 
 ちなみに、広島県呉市にある亀山神社のサイトには

 玉串料とは、神職の労働(変な言い方ですが)に対する報酬ではなく、祈願者の願いを神様にお聞きいただくための神様への御供えです。

 と書かれていますので、玉串奉納は参拝という儀式のひとつだと言えると思いますから、よって憲法89条違反にはあてはまらないんじゃないかとやえは思うのですが、しかしよくよくその判決文を読めば、玉串奉納は一般人が日常的に行う行為であるかどうかという点において「援助、助長、促進」とするかどうかという議論になっており、その結果「日常行為ではない」とされたのですから、まぁこの判決も仕方ないかもしれません。
 確かに、お賽銭でしたら参拝の際にしない人というのはまずいませんが、玉串奉納は一部の人しかしないというイメージもありますから、こういう判決に至ったのでしょう。
 
 このように、いくら異論があろうとも、最高裁判決は最高裁判決です。
 思想的にはいくらでも議論していい問題だとは思いますが、政治的現実的にはこれに従わざるを得ませんので、総理の参拝の際も玉串料は公費で出してはいけないコトになっていると言えます。
 もちろん私費で出す場合にはなんら問題ないワケですし、お賽銭もこの判例からして問題ないと解釈出来るでしょうけどね。
 
 
 長くなりました。
 今回は2つの最高裁判例を見ながら、総理大臣の靖国神社参拝について考えてみました。
 最後にそれを箇条書きでまとめましょう。
 
 ・政教分離原則とは、決して国家と宗教を完全に切り離すモノではない。
 ・しかし国や公共団体が一宗教に肩入れしすぎるのも適切ではないため、どの程度の関わり合いまでを許すかは、一般的常識から個別に判断する必要がある。
 ・そのひとつの指針として、その宗教に対する「援助、助長、促進又は圧迫、干渉等」にあたるかどうかを判断する必要がある。
 ・個別例として、地方公共団体が公共施設の起工式を神式において開催し、またその費用を公費で負担するコトは合憲。
 ・個別例として、地方公共団体が靖国神社および護国神社の例大祭やみたま祭りの際に公費で玉串料を出すコトは違憲。
 
 そして今回の更新の主題ではありませんが
 
 ・「宗教的少数者の信教の自由」は、国家によって儀式に強制されないという意味において保証されているのであって、国家が宗教と関わり合いを持つという事柄だけでそれが侵害されたとは言えない。
 
 という事実も確定しています。
 
 津市判例の方で、この問題は個別に考えるべきであるとされていますので、総理大臣の靖国参拝行為そのものがどうなのかは今のところ断定するようなコトは言えませんが、これらふたつの判例を鑑みれば、玉串料を公費で出さない限りは違憲であるとは言えないのではないかとやえは思っています。
 そして今回のそもそもの主題は、「憲法に「いかなる宗教的活動もしてはならない」と書いてあるから、全ての宗教に国家や公務員が関わる行為は違憲だ」という意見に対してどうなのかというコトですから、これは明確に「違います」という結論になるワケです。
 やはり、政治と宗教は共に「まつりごと」であり、これらは切り離せるモノではない、むしろ宗教や文化や伝統や政治はそれぞれが深く関わり合いながら融合しながら創られていくモノであると言えるのではないかとやえは思っています。
 
 
 バーチャルネット思想アイドルやえ十四歳は、総理大臣の靖国参拝を応援しています。
 

平成18年7月3日

 いわゆるA級戦犯

 ごめんなさい、ちょっと間があいてしまいました。
 うーん、どうも最近好不調の波が激しい気がします。
 なんとかコントロールできるようにならなければなりませんね。
 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 
 小林のよしりん先生が新しく本を出版されました。
 
   

 
 

 最近のよしりん先生は「反アメリカ・反小泉」の妄執に取り憑かれてしまって、どんな現象でも最終的には小泉さんのせい、『SAPIO』で連載中の「新ゴーマニズム宣言」も、小泉さんの似顔絵が載らない回は無いと言えるぐらい、小泉さんに固執していました
 しかしさすがにそれではさすがにマズイと思ったのか、それとも周りの苦言があったのか、はたまた売り上げが落ちてしまったのか、まぁそれは分かりませんが、前々回の『SAPIO』から「ゴーマニズム宣言」の看板を新しくて、「ゴー宣・暫く」というタイトルに直して、仕切り直しをしています。
 最近一般国民にもかなり多くなってしまった反権病ですが、よしりん先生もはやくこのご病気から復帰されるコトを、これを機に祈っています。
 
 で、新しく出された本ですが、この本はかなり素晴らしい内容になっています
 基本的には、思想系ではなく、知識を得るための本になってはいますが、タイトルにありますように、A級戦犯をよく知るためにはとても分かりやすくかつ充実した内容になっています。
 さすがよしりん先生、小泉さんの似顔絵がなければこのように素晴らしい内容にするコトができるんですね
 
 で、A級戦犯については、よしりん先生のこの本を読んでいただければとてもよく分かると思うのですが、ここでやえもひとことA級戦犯について語っておきたいと思います。
 A級戦犯についてはいまだにどういう存在かよく分かっていない人がとても多いような気がします。
 しかし、靖国の問題を語る上でも、戦後を総括する意味でも非常に重要な存在ですから、正しくA級戦犯について知っておく必要があるでしょう。
 
 A級戦犯とは、第二次世界大戦期に日本が戦いそして敗れた大東亜戦争の総括として行われた、勝者が敗者を一方的に、しかも法的根拠もなく裁いた極東軍事裁判、いわゆる東京裁判において名付けられた戦犯の一種です。
 ちょっと難しく言ってみましたが、簡単に言えば、東京裁判の被告とされた人たちですね。
 まぁその東京裁判の評価についてはまた次の機会に譲るとして、いま「戦犯の一種」と言いましたが、つまりこの裁判においてはA級戦犯の他にも戦犯が存在していました。
 B級とC級の戦犯です。
 東京裁判の被告には、大きく分けてA級戦犯、B級戦犯、C級戦犯の3種類の被告が存在したのです。
 では、その3種類は、それぞれのどのように違いがあるのでしょうか。
 
 その前に、一般的にはA級戦犯はどんな風に思われているのかをちょっと考えてみましょう。
 
 例えば、小泉総理が靖国神社に参拝するコトに対して、最もそれに反対しているのが中国と韓国ですが、その反対の主張というのは一体何なのでしょうか。
 そうですね、「A級戦犯が合祀されている施設に総理大臣が参拝するのはけしからん」というモノです。

 商務部長「政治の冷却化は既に経済関係に影響」
 
 薄商務部長が中日関係を重視していることを表明した上で、「ただし、中日の政治関係が冷却している局面は、経済協力の発展にも既に影響している。中日関係は非常に難しい状態だ。責任は中国側にもなく、日本の人々にもない。日本の一部の指導者が、A級戦犯を祭っている靖国神社参拝をやめようとしないことが原因だ」と述べたことを紹介。

 つまり、「先の大戦で中国を苦しみ抜いた極悪人であるA級戦犯が祭っている神社に参拝するコトは、それは日本の総理大臣が、ひいては日本がA級戦犯を認めているというコトになる」という理屈でA級戦犯が合祀されている靖国に参拝するのはけしからんと言っているのでしょう。
 国内でもこれに同調しているような人がけっこう多く、「だからA級戦犯だけ分祀して、A級戦犯のいない靖国にすれば問題は解決するんだ」と主張している人がいるワケです。
 
 では、そもそもA級戦犯とはどういう罪で起訴された人達だったのでしょうか。
 
 多くの人はここを誤解しているのですが、A級戦犯とは「最も罪が重い人たち」という意味では全く無いのです
 A級という言葉に惑わされて、例えば車のライセンスみたいにA級がトップでB級C級と下がっていくようなイメージで東京裁判の戦犯を語っている人が多いんですが、これは全くの誤りなのです。
 A級とB級とC級の違いはなんなのかと言いますと、それは罪状の違いなのです。
 
 A級は、平和に対する罪
 B級は、戦争犯罪
 C級は、人道に対する罪
 
 なのです。
 本来なら、A級戦犯とか言うと紛らわしいので、戦争犯罪類型A項とか言った方が適切なのでしょう。
 日本語で言えば、イ項ロ項ハ項とか、丙型乙型とかというようなもんですね。
 その両者には、本質的には上下の差はないワケです。
 
 実際にそれは判決にも表れています。
 A級戦犯は全員で28人いまして、その中で死刑にされた人は7人いますが、禁固刑で終わった人も2人いらっしゃいます。
 一方B級やC級として裁かれた人の中にも、実は千人近くもの人が死刑にされているんです
 もしA級が最も罪が重くて、C級が軽いというのであれば、この差は生まれませんよね。
 そもそも「平和に対する罪」と「人道に対する罪」、これどちらが重いのかというのは、ちょっと決められないのではないでしょうか。
 いま左巻きの人も多くがA級戦犯許すまじと言っていますが、しかしそんな人たちが大好きな人権というモノに対してC級戦犯は罪を犯して死刑にまでされているワケで、さらにその人達も靖国にも合祀されているのに、しかしなぜそれは問題にしないのか、A級だけを問題にするのか、これは大きな矛盾なワケです。
 
 ですから、この問題においてあり得る立場というのは2つしかありません。
 どのような立場に立とうとも、「戦犯なんて日本国内にはもはや存在しないから問題ない」と主張するか、もしくは「戦犯は全ては悪だからABC級戦犯全て合祀されている限り駄目だ」と主張するかです。
 「A級戦犯がいるから靖国は駄目なんだ」という主張は、かなり歪みまくっている主張でしかないのです。
 
 
 
 (つづく)
 

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平成18年7月8日

 いわゆるA級戦犯(中)

  
 この問題においてあり得る立場というのは2つしかありません。
 どのような立場に立とうとも、「戦犯なんて日本国内にはもはや存在しないから問題ない」と主張するか、もしくは「戦犯は全ては悪だからABC級戦犯全て合祀されている限り駄目だ」と主張するかです。
 「A級戦犯がいるから靖国は駄目なんだ」という主張は、かなり歪みまくっている主張でしかないのです。
 
 論としては「東京裁判で戦犯として裁かれた人間は全て悪であり、靖国神社合祀もけしからん、そんな場所に総理が参拝など以ての外」というモノは筋が通っています。
 A級戦犯と同じように死刑にされた被告が存在する以上BC級の戦犯が罪の軽い者とは決して言えず、むしろこれはAもBもCも同様なのですから、そこに格差を生じさせる考え方は間違っています
 
 「中国が言うからといって分祀などしてはいけない。もしA級戦犯だけ分祀したとしてもどうせ中国はそれから必ずBC戦犯についても反対と言い出すに決まっている」という主張があります。
 これは中国という国の思考回路が、「相手が一歩引けば自分は一歩進む」という譲歩を知らない尊大な態度からの警鐘です。
 やえもそう思います。
 例えば中国との領有権で問題になっている尖閣諸島がありますが、もし仮にこれを日本が譲歩してしまったとしたら、中国はそれだけにあきたらず、沖縄まで領有権を主張し始めるコトでしょう。
 これは多くの日本人にとって現実味のないお話のように聞こえるでしょうけど、しかし実際にもうすでに中国の一部では沖縄の領有権を主張しているような人がいたりしています。
 中国というのは「無茶でも押してしまえ。押すのはタダだ。それで失敗しても損はないし、利益が出たらラッキーだ」ぐらいに思う文化ですから、その主張は際限を知らないんですね
 だからいくら日本がA級戦犯だけ譲歩したところで、その後中国はBC戦犯についても文句を言ってくるでしょうし、それでさらに譲歩すれば最終的には靖国神社の存在そのものについてケチをつけてくるコトでしょう。
 
 これは中国の基本的思考回路の上での問題ですが、しかしコトこの靖国の問題に関しては、いくら中国が無茶だと思っているケチだとしても、実は理屈も通ってしまっているコトになってしまうんです
 もうお分かりですよね。
 なぜならA級もBC級も、本来の東京裁判ではその罪とされたモノは同等とされていたからです。
 だから中国がちょっと理論武装をして、「そもそも東京裁判ではA級とBC級との間には罪の重さの差は無かった。よってA級を分祀したのであればBC級も分祀しなければ筋が通らない」と言ってきたら、今度は日本の方がぐぅの音も出なくなってしまうのです
 この主張に関してだけは中国の言い分はもっともだからです。
 しかも筋論ですから、外圧すらなりません。
 こういう意味からも、A級とBC級を分けて考えるような主張は完全に間違っていますし、A級戦犯だけを分祀するなんて方法は絶対に取ってはならないのです。
 やるとしたら、「全ての戦犯は国内においては罪にはならない」と言うのか、それとも「ABC一括して罪人と見なす」かのふたつだけなのです。
 
 「ABC戦犯は許されない論」と、「戦犯なんて日本国内にはもはや存在しないから問題ない」のふたつしかこの問題には主張が存在しない以上、では両者はどこが違うのかと言えば、それは「東京裁判での戦犯」の考え方でしょう。
 つまり本当に東京裁判での戦犯は、少なくとも日本国内において「その罪を問えるのかどうか」という点によって、その扱いが変わってくるコトになります。
 
 よしりん先生も『いわゆるA級戦犯』で紹介していらっしゃいましたが、あるA級戦犯で実刑を受けた方がいます。
 重光 葵(しげみつ まもる)
 戦前においては、東條英機内閣・小磯国昭内閣で外務大臣を務め、敗戦時には日本全権大使として降伏文書の署名をし、戦後においては自民党の前身の日本民主党の副総裁を務め、鳩山一郎内閣で外務大臣を務めた政治家です。
 東京裁判ではA級戦犯として禁固7年の判決を受けて服役しました。
 繰り返しになりますが、重光さんはA級戦犯として実刑を受けながら、戦後は公党の副総裁を務め、外務大臣まで務めています。
 さらに言うならば、重光さんは、日本が国際連合に加入するときに、日本の代表として国連総会にてスピーチをしたという人物です。
 そしてそのような功績が認められ、重光さんが亡くなった際には勲一等旭日桐花大綬章が贈られています。
 
 こういう人がA級戦犯と呼ばれている人の中にはいるワケです。
 もし「(ABC級)戦犯は後世においても許される存在ではない」と言うのであれば、日本国内では重光さんが国会議員や外務大臣になるコトに反対しなければならなかった(選挙で落選させなければならなかった)でしょう
 しかし実際に重光さんは実際に外務大臣までをも務めていらっしゃいます。
 さらに言うなら、いま中国はA級戦犯を絶対に許さないと言っているワケですが、それなら当時、拒否権を持っている中国が「戦犯が国連の場でスピーチするのはけしからん」と言わなければならなかったハズなのではないでしょうか。
 しかしこちらもそういうコトはありませんでした。
 国内に関しても中国に関しても、いま言っているような「(A級)戦犯が祭られている施設に首相が参拝するのはけしからん」と言うのであれば、同じように「戦犯が外務大臣という公職に就くのはけしからん」と言うべきだったでしょう。
 そして「戦犯を靖国から追い出せ」と言うのであれば、同じように「過去の外務大臣名簿から重光を削除しろ」と主張しなければ筋が通りません
 いまの戦犯に対する批判というモノは、このように明らかに矛盾しているのです。
 
 このように、実際のところは「国内においてはもはや戦犯は存在しない」と言った方が実は適切なのです。
 これは考え方だけの問題ではなく、公的にもそうなっています。
 それは、「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」という国会決議があって、そのタイトルにありますように、戦犯の赦免(罪や過失を許すこと)を決議したモノです。
 これは1953年に衆議院にて決議されました。
 この前にもいくつか同様な決議、例えば1952年の「戦犯在所者の釈放等に関する決議」など、戦犯とされた人たちの名誉を回復するための決議がいくつか国会においてなされています
 国会の決議ですから、その重さは法律に匹敵します。
 よって、もはやこれだけで「国内においてはもはや戦犯は存在しない」と断言できるワケです。
 
 もちろん政府においても、この国会における決議を遵守しています。
 去年、今の民主党の野田毅さんが政府に対して戦犯に関する主意書を出されたのですが、その主意書と政府の答弁書は次のようなモノでした。

 主意書
 これら解釈の変更(昭和27年の戦犯拘禁中の死者はすべて「公務死」とするという変更)ならびに法律改正(「戦傷病者戦没者遺族等援護法」等)は、国内法上は「戦犯」は存在しないと政府も国会も認識したからであると解釈できるが、現在の政府の見解はどうか。
 
 政府答弁書
 当該刑を科せられた者に対する赦免、刑の軽減及び仮出所が行われていた事実はあるが、その刑は、我が国の国内法に基づいて言い渡された刑ではない。

 赦免はしたけどその元となった刑は日本の法ではないという、よくよく考えたら変な日本語ではありますが、つまりこれは日本国内においては戦犯という人たちは存在しないと言っているワケですね。
 このように、ある時期から今も昔も、公的には日本国内には戦犯は存在しないとハッキリしているのです
 
 
 
 (つづく)
 

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平成18年7月31日

 いわゆるA級戦犯(下)

  
 最近このような主張に対して、サンフランシスコ条約を持ち出して、「条約に日本は今でも合意しているんだから、いまさら東京裁判に対して異を唱えるのはおかしいんじゃないのか」と主張する人が出てきています。
 しかしこれは3つの点において的はずれな主張だとやえは思います。
 
 1つは、これはあくまで思想的なお話であるというコトです。
 というのも、当サイトとか主に保守系の人たちが東京裁判に対して「あれはおかしいんじゃないのか」と言っている主張というのは、政治的に言っているワケではありません。
 もちろん人によるのでしょうけど、少なくとも当サイトにおいては「日本政府は東京裁判に関して即刻関係各国に抗議をし、裁判のやり直しを求めろ。撤回を求めろ」と言っているワケではないというコトです。
 そこまで主張すれば政治のお話ですが、やえはそこまでを求めようとは思いません。
 少なくともあの東京裁判というモノ性格を冷静に考えた場合、政治的に考えれば、あれほどの大戦争だったワケですからどこか落としどころを作る必要があったワケで、そういう意味では、内容はともかく、形の上だけでもそういうモノが必要だったとは思うからです。
 第一次世界大戦終結時においては、連合国側はドイツに対して多大な賠償金を課しましたが、しかしこの大きすぎる賠償金が結果的にナチスを生み第二次世界大戦を生んだコトを考えれば、そうでない落としどころが必ず必要だったと言わざるを得ません。
 そして、東京裁判とサンフランシスコ条約は、中身はどうあれ、とりあえず何かを裁いて刑を下したという結果、政治的な結論を形上だけは残しておいたワケで、そこは今さら蒸し返しても仕方ない話だと思います。
 残念ながら「勝てば官軍」という理屈は、今でも通用する理屈だと言えるワケですしね。
 
 ただし、そんな政治的な話と、思想的な話は別問題です。
 思想において、この「東京裁判史観」を乗り越えようというのが当サイトの主張なワケであって、形の上ではああいう刑がそれは歴史の上で存在していたというコトを認識しつつ、しかしそれは“後世の世の人間としての評価では”間違っていたんだと再認識して主張するべきだと、やえはそう思っています。
 政治は現実論であり、決して思想は政治の目線でいる必要はありませんので、こういう問題こそ思想がその正しい考え方というモノを表しておく必要があるのではないかと思います。
 また、詳しくは後述しますが、これは政治的にもこの問題はある一定程度は決着がついている問題でもありますので、それ以上問題をこじらせるのもどうかと思うのです。
 
 
 2つ目は、この東京裁判とサンフランシスコ条約は、あくまで「形の上での結論だけしか縛っていない」というコトです
 サンフランシスコ条約の東京裁判に関係する条項は第11条ですが、引用しますと

 第十一条 日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。

 となっています。
 問題なのが「戦争犯罪法廷の裁判を受諾し」という部分です。
 東京裁判史観肯定論者はこの部分をもって「東京裁判の全てに対して受諾し異を唱えることはいかがなものか」という主張がなされるワケですが、しかしですね、実はこの文章、翻訳が間違っているという面があるのです。
 
 というのもこのサンフランシスコ条約というモノの正式な文章は、実は英語・フランス語・スペイン語のみしか存在していません。
 日本語で書かれたモノはないんですね。
 よって、いくら日本政府が公式的に認めた日本語の文書であったとしても、それは条約的には正式な正文ではありません。
 で、さらにその上で問題なのが、先ほどの部分の「裁判」という単語なのです。
 この辺よしりん先生の『いわゆるA級戦犯』に詳しく載っていますが、例えば英語のこの部分は「judgment」と書かれているんですが、これ国際的一般的には「判決」と訳すのが多いんだそうです。
 つまりですね、もし「裁判を受諾し」であれば、その内容についても受諾したと読めるようになるワケですが、これが「判決を受諾し」であるなら、ほぼ刑の執行の部分のみを受諾したと読むコトになるワケです。
 さらに言えば、この条約の正文であるフランス語での文章では、ここを「accepte les jugements prononcés」と書いてありまして、「prononcés」とは「言い渡された」という意味であり、裁判は行うもので言い渡されるモノではなく、つまり言い渡されるモノは判決であるワケで、フランス語から見てもやはり「言い渡された判決」と読むのが打倒であると言えるのです
 さらにスペイン語など、英語の「judgments」の部分は「sentencias」であり、これは明確に「判決、または宣告された刑」という意味であり、「裁判」という意味ではありません
 ですから、英語についてはまだ曖昧な部分があるのは確かですが、この条約では英語だけが正文ではなくフランス語・スペイン語も正文であるのですから、それらの言葉で書かれた正文ではほぼ完全に「判決」である以上は、英語についても「判決」と解するのが当然であり、日本国内においてもそう理解する必要があるコトになるのです。
 つまり、正式な条約的にもこの裁判に対して日本は「判決」という結論だけについては認めているが、裁判それ自体に対しては受託していない、すなわちどう解釈しようが勝手であり自由であると言っても過言ではないのです。
 
 判決は今でも日本は受諾しているワケであり、そして次に述べる、正式な手段をもってそれらの判決についての部分はキッチリと後始末が出来ていますから、この点においても「サンフランシスコ条約を承認しているのだから東京裁判に異を唱えるのはおかしい」という主張は的はずれなのです。
 
 
 3つ目は、さきほど言いましたように、この点に関してはすでに正式な手続きを踏んだ上で、戦犯は戦犯で無くなっているという点です。
 2つ目の点は最近保守な方々からよく聞かれるようになってきた主張ですが、やえはむしろこっちの点こそを主張してもらいたいと思っています。
 なぜなら、こっちの方が分かりやすいからです。
 先ほどのサンフランシスコ条約の11条を読んでください。
 こう書いてあります。

 これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。

 つまり、東京裁判で刑が宣告執行された人を赦免する場合は、裁いた国の過半数程度の国の決定が必要だと定めているワケです。
 そして日本はキチンとこれらの手続きを踏んでいるんですね
 これは、先ほど紹介しました民主党の野田毅さんが政府に出された趣意書の中にも「サンフランシスコ講和条約第十一条の手続きに基づき、関係十一カ国の同意のもと、「A級戦犯」は昭和三十一年に、「BC級戦犯」は昭和三十三年までに赦免され釈放された。」とハッキリと認めているところでして、ですから、条約上の手続きをちゃんと踏んでいる以上、国際的にも戦犯とされた人は赦免されているワケで、もしくは既に刑が執行されているのですから、やはり戦犯は公的には現在存在していないのです
 
 この点からも、東京裁判史観肯定論者の戦犯云々の話は的はずれだと言えます。
 むしろサンフランシスコ条約を論拠とするならば、その条約を厳密に当てはめて赦免などの手続きをすでに取っているのですから、戦犯は既にいないと言わなければ矛盾してしまうんですね。
 まぁ正確に言うならば、「サンフランシスコ条約の判決は確かに受諾しましたが、その後サンフランシスコ条約に基づいて戦犯は赦免され釈放されているのであり、戦犯はすでに存在しなくなった」と言うのが正しいでしょう。
 この件に関しては、日本は正式にサンフランシスコ条約の規定に則って手続きをしている(刑の執行を含めて)のですから、国内的にはもちろん、国際的にもABC級全ての戦犯はすでに赦免されていると言わなければならないのです。
 
 
 以上の3点から、サンフランシスコ条約に基づいて考えてみても、やはり公的には日本には戦犯は既に存在しないとしか言いようがないワケなのです。
 靖国の問題については本来は2つの主張しかあり得ないと言いました。
 「戦犯なんて日本国内にはもはや存在しないから問題ない」か、「戦犯は全ては悪だからABC級戦犯全て合祀されている限り駄目だ」です。
 そして、この問題に正面から向き合って正しく解釈していけば、「戦犯は全ては悪だからABC級戦犯全て合祀されている限り駄目だ」という主張も間違っているコトがハッキリしてくるでしょう。
 国内でも国際的にもどこにも存在しない戦犯という概念を勝手に当てはめて、それを理由に靖国に参拝してはならないとか、靖国から出て行けとか、そんな主張はあまりにも身勝手過ぎるのではないでしょうか。
 
 
 考え方は言うまでもなく人それぞれです。
 ですから、ABC級戦犯とされた人たちに対して、「そうであったとしても、戦争を引き起こした罪は消えない」と言うのであれば、それはもう勝手です。
 その人の中で永遠に罪人であるのは、誰にも止められないでしょう。
 自分の愛しい人を殺された遺族というのは、いくら殺人犯が刑を終えたとしても遺族の中では永遠に罪人であるというのは、人間にとってある意味普通の感情だとも言えます。
 ですから、個人個人において戦犯とされた人をどう評価するかというのは、文字通り人それぞれです。
 戦犯とされた人は今では赦免されていますが、ある意味それは過去においては罪人であったという意味を持つワケですから、やえは思想的において東京裁判は出鱈目だったと言っているのでそうは思わないのですが、ある人にとっては今でもA級戦犯は犯罪者だと思っている人もいるでしょう。
 それは人それぞれです。
 
 しかし、今騒がれているような靖国の問題等というのは、これはそういうレベルの話ではありません。
 今騒がれている問題というのは、そのほとんどが「公的な立場」においての批判です。
 例えば総理の参拝問題というのは、内閣総理大臣という公的な立場にいる人に対して、公的な意味において批判をしている人はしているワケですね。
 これが、公職を持たない日本太郎という人が参拝したところで、全然問題にはならないワケです。
 というか、今でも靖国神社には多くの人が参拝していますしね。
 しかしこれが問題になるのは、それは小泉さんが内閣総理大臣だからです。
 だからこそ、この問題は公的な立場においての問題だと考える必要があります。
 
 そしてその場合、それは各戦犯に対する個人的な思いというモノは、全く意味を成さないワケなのです。
 つまり、公的な立場での問題なのですから、戦犯に対する考え方も、これは全て公的な意味での考え方に立脚しなければならないのです。
 例えば、ある裁判官が「この事件は自分の娘に対して行った残虐非道な事件であり、私も娘を持つ親として許し難い大犯罪である。だから法には無期刑が最高刑だが、この事件は死刑とする」なんて言ったら大問題ですよね。
 このように、公的な立場での問題に対しては、その問題に対してのその人の個人的な思いは全く関係は無く、個人の思いだけで法や公解釈などを勝手に歪めてはならないのです
 場合によっては、個人的な思いとは正反対の立場を取らなければならない時もあるでしょうけど、しかしそれは公的な立場に立っている以上は公的な立場を優先させなければならないのです。
 となれば、公的な立場だからこそ問題にされている小泉総理大臣の靖国神社参拝に関しても、それがいわゆる戦犯が理由で批判するのであれば、やはり戦犯とされる人たちも“公的な立場での評価”の上で話をしなければならないのです。
 各個人が勝手に思い描いている「A級戦犯像」というモノは、この問題に関しては全く関係の無い話にしかならないワケです。
 そして、公的な立場での各戦犯とされている人たちというのは、先ほど散々述べましたように、もはや戦犯ではありませんね。
 サンフランシスコ条約に基づいて赦免された、もしくはすでに刑が執行されたという点において、個人的な感情はともかく、公的な意味においては既に国内的にも国際的にもABC関わらず戦犯という人たちは存在しないのです。
 
 
 以上の様々な点から、いわゆるA級戦犯と呼ばれる人たち、そしてBC戦犯と呼ばれている人たちについて述べてきました。
 いまの国内世論で起きている「A級戦犯議論」というのはかなり的はずれなモノが多いか、これでハッキリさせられるのではないでしょうか。
 どんな問題でも議論をする場合には正しい客観的な事実・データがあってこそ成り立つモノですが、しかし残念ながらA級戦犯に対する議論は、その前提である正しい事実がキチンと認識されていません。
 東京裁判という存在を思想的にどう解釈し評価し直すかという問題については確かに人それぞれ意見があるとは思いますが、しかし一方、公的な問題に対しては公的な評価というモノがすでに確立しているという事実をしっかりと正しく認識しておかなければならないでしょう
 
 「あいつは悪人だ」と、本当に心の中だけで勝手に思うのは、それはもはや勝手な話でしかありません。
 しかし、それを他人に言ったりサイトに文章として載せたり公の場で発言をするのであれば、少なくともそれなりの理由を示さなければなりません。
 理由も無しに他人を悪人呼ばわりするのは、それはただの言いがかりであり、名誉毀損以外なにものでもありませんよね。
 ですから「A級戦犯」と呼ぶのであれば、それはそれなりの理由がなければならないワケです。
 しかし、「東条英機は戦争責任がある」と言うだけならまだしも、A級戦犯をA級戦犯だけでひっくるめて悪人課のように扱うというのは、これは全く筋が通りません。
 そもそもA級戦犯という存在自体が、ありもしない概念による呼称ですしね。
 大東亜戦争というモノを総括し、戦後の価値観を再考する上で、おそらく避けて通れない問題が東京裁判であり、各種戦犯の問題になってくるでしょうが、しかしだからこそ、このようなしっかりとした事実を、どんな立場の考えに立っていたとしても正面から見つめなければならないでしょう。
 
 いわゆるA級戦犯と呼ばれている人たちというのは、こういう人たちなのです。
 

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