☆やえニュース☆

 与党民主党誕生選挙の結果の自民党当サイトの広報麻生メルマガレビュー ファイナルネットの影響力というモノを考えるネットの影響力というモノを考える (中)鳩山内閣は韓国式にならないようにネットの影響力というモノを考える 3ネットの影響力というモノを考える 4夫婦別姓は共同体破壊の第一歩選挙とはいったい何なのかを考え直すべき

平成21年9月1日

 与党民主党誕生

 というワケで、皆さんご存じの通り、ついに民主党が衆議院においても第一党となり、次の臨時国会において政権与党になるコトが事実上決定しました。
 しかも、小泉自民党ですら届かなかった、単純に選挙だけで300議席を越えるという快挙を成し遂げての、歴史的な選挙でした。
 投票率も前回を上回ったようで、しかし正直やえには小泉旋風よりも強い盛り上がりがあったように思えないのですけど、まぁもちろん選挙は結果が全てですから、今回の選挙についてはいろいろと言いたいコトは多いですが、まずはこれから民主党が日本政府をどう運営していくのか、そこを国民は高い関心を持って見守っていく必要があると言えるでしょう。
 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 その上で、まずやえは言っておこうと思います。
 民主党はこれから政権を運用していく上で、必ず守らなければならないコトがあります。
 それは、いままで自分たちが言ってきたコト、主張してきたコトを、しっかりと守っていくというコトです。
 これだけ聞くと当たり前のように聞こえますし、もちろん当たり前のコトではあるんですが、やえの言いたいコトは、マニフェストや公約や政策のコトを言っているのではありません。
 もちろんその辺もキチンと実行していくコトが与党としては当然の責務ではありますが、やえ的には、それと同時に、民主党が野党の時に自民党に批判した言葉を自分たちは守れるのか、そこを注視したいところだと思っています。
 
 例えば、民主党はずっとこんなセリフで自民党を批判していました。
 
 「選挙の洗礼を受けていない総理は認められない」
 
 安倍・福田・麻生と、この3人の総理は選挙の洗礼を受けていないから、今すぐ解散して民意に従えと、民主党はずっと言っていましたね。
 民主党はずっとこう言って自民党を批判していたのですから、民主党としては絶対に“鳩山総理”しか民主党や元野党からは総理大臣を選んではならないハズだと言えるでしょう。
 つまりもし仮になんらかの事情で鳩山総理が退陣した際には、民主党は速やかに衆議院を解散して、選挙を行わなければならないというコトです。
 鳩山総理の次に、岡田総理とか、前岡総理とか、そういうのは絶対に民主党の主張からは認められないと、そう言わなければ今まで言動はウソだったというコトになるワケです。
 
 これだけでなく、民主党は自民党の政権運用に対して、多くの批判や、ある意味難癖をたくさんつけてきました。
 国会運営にしても、野党の審議拒否は「与党の強行採決だ」と言って正当化していましたし、自ら出した法案にすら審議拒否をし反対したという前代未聞の暴挙も知らん顔をしています。
 政治資金についても、民主党は単純に、金の汚い自民党・クリーンな民主党という、全く根拠のないイメージ作戦で自民党を批判し、民主党を押し上げたワケです。
 また、参議院選挙の結果を受けて「直前の選挙の結果に従うべきだから衆議院は解散しろ」と言っていたワケですから、もし次の参議院選挙の結果次第では衆議院を解散するのが当然の責務だとも言えるでしょう。
 これらは民主党が全て自ら言ってきたコトなのですから、自らの言葉には自ら従うのが、言うまでもなく当然の話です。
 
 民主党という政党は、こういう自民党批判によって与党になった政党なのですから、まずここをシッカリと実践ていき、国民としてはそれを監視していかなければなりません。
 やえは、実際に政治を動かすというコトは、キレイゴトだけで出来るコトではないと思っています。
 現実というモノはそんなモノです。
 でも民主党は、その現実を無視して、キレイゴトを並び立てるコトで政権を取ったのですから、ここにきて現実路線に転換するというのは卑怯としか言いようがありません。
 もし現実の前に屈するというのであれば、まず国民と、そして自民党に謝罪して、潔く野に下るというのが正しい人としての在り方でしょう。
 
 やえはここを注視して、民主党政権を見ていきたいと思います。
 

平成21年9月7日

 選挙の結果の自民党

 やえは前にも言いましたように、小選挙区制における重複立候補による比例制、いわゆる「比例復活」の制度そのものは悪くない制度だと思っています。
 これにより、国民から負託されたある程度の票は生きるワケですし、むしろ、どうせ議員になるなら、政党名だけの誰でも議員になれてしまうような単純比例よりも、選挙区で一定数以上の国民の付託を得ている人物が議員になる方が、国政の場では有益だろうと思うからです。
 選挙区制の下では1票差であろうとも制度上は負けは負けですが、しかし1票少ない方も当選者とほぼ同じぐらい国民から見れば議員として相応しいと考えられていると言っても、差し支えはないでしょう。
 ですから、比例復活の議員さんも、全く価値がないとは言いません。
 
 しかし、それにしても、選挙直後ぐらいはおとなしくできないモノなのでしょうか。
 今回自民党が大敗したワケですが、思ったより大物と呼ばれる議員さんが比例復活しています。
 名前を挙げるなら、町村さん、武部さん、中川秀直さん、伊吹さん、また有名どころでも、小池百合子さんや野田聖子さんも、小選挙区では落ちましたが、比例で復活してきました。
 それはそれでいいんですが、しかし正直、この人達は比例で助けられたのですから、終わった後に自民党や麻生さんの悪口を言いまくるという行為はどうなのかと思わざるを得ません。
 次の衆議院での首班指名も、麻生という文字を書きたくないとかなんとか言っている人いるようですが、確かに選挙に自民党が大敗した責任は、トップとしての麻生さんに無いとは言いませんが、それでも比例で復活出来たのは、その麻生さんがトップにいる自民党の力のおかげなのですから、比例の人が党の文句を言うというのは、やえにはちょっと理解しづらい行為としか言いようがありません。
 端的に言えばみっともない、さらに言ってしまえば負け犬の遠吠えでしかないのではないかと言わざるを得ません。
 
 小選挙区で勝った人は、まだいいです。
 党の力が無かったとは言えませんが、それでも個人の資質を国民に評価されての国会議員当選なのですから、多少何を言っても許されるでしょう。
 しかし比例復活の人は、一度は国民にNOと言われ、その後党の力でなんとか国政の場に戻って来れたという人なのですから、まず一番いまやらなればならないコトは、それを反省し、今度はキチンと国民の負託が得られるよう自省するコトなのではないでしょうか。
 いくら厳しい選挙戦を戦ってきたと言っても、比例で救われたのですから、党や麻生さんの文句ばかり言うというのは、ちょっと理解できません。
 
 麻生さんにはじめから不満があった人もいるでしょう。
 例えば武部さんとか中川秀直さんとかです。
 しかしであるならば、その主張が国民に受け入れられていたら、小選挙区でも国民の理解が得られ、負けるコトはなかったと言えるのではないでしょうか。
 もし小選挙区で勝っていれば、そういう国民の声もあるんだと代弁するコトもできるのでしょうけど、武部さんも中川さんも、また小池さんなども、小選挙区で負けたのですから、その主張すらも国民には認められなかったというコトでしかないハズです。
 そこのところを勘違いしてはいけないでしょう。
 
 やえは、自らの思想からして、革新政党である民主党には何の期待も持っていません。
 これが保守系政党であればまだしも、労組や日教組に支えられているという左翼政党である事実がある限り、政策によっては部分的に応援する場合もあるかもしれませんけど、総論としての民主党という政党を応援するコトは今のところありません。
 せっかくここ数年でやっと日本は保守系の方に傾きつつあったのに、この一気の逆流は残念でなりませんし、自民党が保守政党である以上は、やはりどちらかと言えばやえは自民党を応援します。
 だからこそ自民党はここでひとつまた立ち直ってもらわなければなりません。
 日本のコトを思えば、革新政党が政権の座にいるコトは望ましいコトではないと思っています。
 それだけに、いまは自民党の議員さん達には、足を引っ張るのではなく、キチンと前を向いての議論をしてもらいたいと思いますし、比例復活の方々は、もうちょっと自分の立場というモノを分かってから発言してもらいたいと思います。
 

平成21年9月9日

 当サイトの広報

 鳩山内閣がどのような施策を講じるのか、民主党のマニフェストやその他様々な媒体で関係者が色々言っているワケですが、とりあえず今は、それをどう実行するのかをやえは待ちたいと思っています。
 いつも言ってますが、政治は結果責任。
 言葉だけで済む評論家と違い、結果を出すのが政治家の仕事なのですから、逆を言えば理屈が間違っていても結果が正しければ政治家はそれでいいワケです。
 ですから、まだ総理にすらなっていない段階で鳩山内閣をどうこう言っても仕方ないと思いますので、批評やツッコミはともかく、評価についてはまだどうこう言おうとは思いません。
 しばらく様子見というところです。
 
 というワケで、今日は政治ネタを離れて当サイトとしてはめずらしく、当サイトネタのお話でもしようかと思います。
 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 というのも、web拍手のコメントで、「このサイトの宣伝環境ってどんな感じなの?」というモノを頂きましたので、その辺のコトを語ってみたいと思います。
 
 ぶっちゃけると、当サイトは宣伝活動は全然してません。
 昔流行った相互リンクというモノも今は受け付けていませんし、ランキング系もweb拍手のモノを除いて全く入っていませんし、最近は他サイトさんとのからみもほとんどなくなってしまいました。
 昔VNIが流行っていた頃は、いやがおうにも付き合いが出来ていましたし、また、くだらないゴタゴタに巻き込まれないよう防御の意味も込めて別で強いつながりを敢えて作ったコトもありましたが、今は昔、もうVNI自体がほとんど生き残っていないのが現状ですから、そちらのつながりというのも、サイト上で言えばほぼなくなりました。
 いまかろうじてたまーに本文でリンク張るぐらいのお付き合いと言えば、宗匠さんのところか、玄倉川さんのところぐらいです。
 人権擁護法とか国籍法とかで一時的に注目されるコトはあっても、普段はこの程度であって、宣伝活動という意味で言えばほぼ当サイトは皆無なのです。
 
 ちなみにこれもたまに聞かれますのでこの機会に言っておきますが、2ちゃんねるにやえやあおまちさんが書き込んだコトは今までも一切ありません。
 というか、2ちゃんねるに関しては、継続してまともに読んでもいません。
 たまにニュースを探す時に流し読みしたり、調べ物をしている時にたどり着いたりするコトはありますが、どこどこの板のどこどこのスレを定期的に書いたり読んだりというコトは全くありません。
 敢えて言うなら、まとめブログさんなら、ちょくちょくよく読んでいる程度でしょうか。
 まとめブログを除けば、やえは2ちゃんねるとはほぼ付き合いのない関係です。
 「2ちゃんに転載ぐらいはしていいの?」っていうコメントもいただいたのですが、まぁ、常識的また法令的に認められている「引用」であれば、こちらが拒否できるモノではないと考えていますので、そのようにしていただいて結構です。
 
 やえもそれなりに当サイトをたくさんの人に読んでもらいたいと思っていますので、アクセス数を増やしたいとは思っています。
 しかし、そのために必要以上の労力を割くというのはどうも性に合わない、その時間があれば更新文章の完成度を高めたいとやえは思ってしまうのです。
 そもそも今でも誤字脱字が多いですしね(笑)
 さらに言えば、宣伝活動と言っても具体的になにをどうするのかよく分からないですし。
 結局ネット上でサイト同士の横のつながりで意見交換とかするのが一番よい方法なんだろうとは思っているんですが、しかしどうしても、やっぱりこう、サイトの運営に対する考え方とか、思想の中身とかで、当サイトと合う合わない等を考えてしまって、他サイトやブログさんとのつながりがほとんどないような状態になってしまっているんですよね。
 
 他のサイトさんやブログさんでも、決して考え方が全く同じ人が付き合いやすいという意味ではありません。
 例えば宗匠さんや玄倉川さんは、おそらく突き詰めたらやえよりもリベラルな考え方をされているとやえは感じています。
 特に玄倉川さんに関しては、エントリーによっては全く真逆の意見の時もあります。
 それでも真ん中に芯を持っている思想と、言論に対する真摯な態度は、信頼に値する人物だと、実際はサイト・ブログ上の僅かなやりとりしか存じ上げないのですけど、やえは勝手に思っています。
 こういう方でしたら、やえはどんどん交流していきたいなとは思っています。
 しかし、やえ自身があまり他のサイトやブログを読まないというコトも相まって、なかなかこういう交流が生まれないんですよね。
 
 というワケで、結局いままで、特に大きな交流もなく、たまにある特殊なイベント、人権擁護法や国籍法などで一時的に多くの方に注目されるぐらいで、普通の時は淡々と更新するという細々とした活動しかしていないというのが現実です。
 やえも自分の文章にはもちろん自信を持って公の場に公開しているワケですから、出来ればたくさんの人に見てもらいたいと思っていますが、その理想と現実がおいついていない状態と言えば良いでしょうか。
 まぁ一本の更新を完成させるための時間がけっこうかかるというのも大きい要因で、それで掲示板の方にもレスが出来なかったりする要因ではあるのですが、こういう事情がありますので、もしシッカリと芯の通ったサイトさんブログさんがあったら紹介してください。
 他人の違った意見を読んで、時には議論するというのは、自分を成長させる一番の方法だと思いますし、これからもやえも頑張っていきたいですから、出来るならどんどん交流はしていきたいと思っています。
 
 他にも、こんなコトをした方がいいよ、あんな方法があるよという御意見がありましたら、遠慮無く書き込んでください。
 よろしくお願いします。
 

平成21年9月11日

 麻生メルマガレビュー ファイナル

 だいぶん前に発行されていましたんですが、このまま流してしまうのもさみしいと思いまして、当サイトとしても小泉さんの時代からずっとレビューしていた総理大臣のメールマガジンのおそらく最終回になるであろう、麻生メールマガジン44号をレビューしたいと思います。
 どうもいまのままの雰囲気でしたら、鳩山次期総理はメルマガをしなさそうな感じです。
 やえは民主党政権になってもメルマガレビューは続けようと思っていたのですけど、まったくもってけしからんコトです。
 せっかく木曜だけはネタに困らなかったのに、もし本当にメルマガをやめちゃったら、それだけでやえの中では鳩山政権マイナス1ポイントです。
 ぷんぷん。
 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 ━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─
  ■○■○■   麻生内閣メールマガジン第44号    ■○■○■ 
  □●□●□             2009/09/03    □●□●□ 
 ━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─
 
 ▲△麻生内閣メールマガジンのご愛読ありがとうございました。▽▼
 
 ━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─
 ●麻生太郎の「強く明るく」
 ━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─
 [政治は続く]
 今般の衆議院議員総選挙では、皆さんの期待に応えられず、申し訳ない結果となりました。
 政府与党への、ご不満、ご批判を真摯に受けとめています。
 社会の閉塞感、格差の問題など、皆さんが感じておられる、さまざまな社会問題への不満に効果的に対応できていなかったのではないか、きちんと政策について、メッセージを出し切ってきたかなど、真剣に反省せねばならないと考えています。
 
 こんにちは麻生さん。
 いろいろとお疲れ様でした。
 政治は結果責任ですからなんとも言えませんが、ただひとつやえが思うのは、景気対策などの麻生さんの対策は、その効果が出るまでにはまだもうちょっと時間がかかるのではないかというコトです。
 現にいま景気が徐々に回復しつつあるというのは誰もが認めるところであり、さらなる補正予算の執行を続けるコトによって、ますます日本経済の復興が見えてくるところだったのではないかと思います。
 政治を評価するというコトは、現実的になにがどう起こっているのか、その結果を評価するコトに他ならないワケで、今の段階で麻生内閣を本当に評価できるのかどうか、やえには疑問でしかなりません。
 
 私は、景気対策を最優先に、果敢に政策を進めてきました。
 昨年9月24日に総理に就任した際、歴史的な世界同時不況、経済の悪化に直面しました。このとき、私は、国民の暮らしを守るために、解散総選挙といった「政局」よりも、景気対策・雇用対策という「政策」を優先いたしました。
 異常な状況には、異例の対応が必要です。このため、半年で4回の予算編成を行いました。役人主導では、決してできません。その結果、今年4−6月期の実質経済成長率は、年率で3.7%。先進国では一番高い成長を実現しました。経済対策の成果が出始めた、と思います。
 しかし、いまだ道半ばです。政局よりも政策を優先した判断は、国民生活のことを考えれば、決して間違ってはいなかった、と考えています。
 
 選挙のコトだけを考えれば、確かに就任直後に解散した方がよかったでしょう。
 それで自民党が勝っていたか負けていたかは分かりませんが、どちらにしても与野党ギリギリのラインの勝敗ラインだったのではないでしょうか。
 ですから、政局だけ、自民党だけのコトを考えれば、あの時に解散していた方が絶対に良かったとは言えます。
 ただその場合、果たして今の日本の状況は、比較できるモノではありませんが、去年の9月に選挙していた場合と、今年の8月の選挙した場合とでは、どちらがまともな経済状況だと言えるでしょうか。
 おそらくやえは、今まで先送り先送りしていたのでは、今のような経済状況には達していなかったと思います。
 ですから、政治家麻生太郎としては、ご自身もおっしゃっているように、その判断は間違っていなかったと言えるかもしれません。
 ここがとても政治家の判断としては難しいところです。
 国民は結果論で言えば、経済対策よりも、政局である選挙を判断したというコトですが、しかしその場だけの雰囲気や気分を無視して、中長期的な国民の生活を考えれば今の方が良かったと言えるでしょう。
 国民の選択と、国民の政治に対する評価と、政治家の判断は、いつもいつも正しい結果になるとは残念ながら言えないワケです。
 民主主義の最も危険な面であるポピュリズムは常に問題として念頭に置いておかなければなりませんが、その上でも日本国民はこういう選択を自らしたというコトは忘れてはならないでしょう。
 
 北朝鮮問題への対応や、テロとの闘い、そして海賊対策についても、国家と国民を守るため、正しい政策を進めてきたと自負しています。
 
 これも、多くの国民が、「自分のコト」として考えられなかった結果だと言えるでしょう。
 いくら海賊対策をしても、国民が「自分のため」に政府が動いていると、ほとんどの人が実感しなかったワケです。
 そして民主党はそこを突いたと言えるでしょう。
 定額給付金をバラマキだと批判しておきながら、子供手当てという名前だけ変えた超バラマキが、結局は国民に支持されたワケです。
 いまの日本国民は「自分の懐具合だけが一番大切」な思考回路になってしまっていると言えるでしょう。
 
 しかし、私の力不足から、今回の結果となりました。率直にお詫びするとともに、皆様方の声を真摯に受けとめ、今後の再出発を期したい、と思います。守るべきものは守る、そして守るべきもののために改革し、改めるべきものは改めるのが、保守政治の本質です。
 
 まぁ選挙は選挙として民主主義の根幹ですから、そこでNOと言われた以上は、それに従うのが民主主義の議員の責務でしょう。
 国民の意思を尊重するのか、それとも時には国民の意思を無視してでも政治を前に動かすのか、これは政治家の最大の悩みではありますが、本当に難しい課題です。
 
 メルマガ読者の皆さんには、これまでのご愛読に感謝申し上げます。皆さんからいただいた多数のご意見に、叱咤激励され、政策を前に進める勇気をいただきました。本当にありがとうございました。
 今後、さらなる精進を続け、皆さんのご期待にお応えできる政治を実現することをお誓い申し上げます。
 
 麻生さんが政治家としてこれからどのような道を歩まれるのか分かりませんが、やえ個人としては、麻生さんは日本にとって必要な政治家のひとりだと思っています。
 これからいろいろと大変なコトも多いかと思いますが、どうぞこれからもお体に気をつけて、頑張ってください。
 本当にありがとうございました。
 また会える日を楽しみにしています。
 
 
 ━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─
 ●編集長のひとこと
 ━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─
 衆議院議員総選挙が行われ、我々にとって、非常に厳しい結果となりました。内閣発足以来、経済の危機、安全保障の危機、国民の健康・生命を脅かす危機などあらゆる危機管理に遭遇し、一つ一つに全力を尽くしてきました。中でも「政局より政策」、景気対策最優先で取り組んでまいりました。
 現在でも、新型インフルエンザの感染拡大や厳しい雇用情勢など、国民生活に直結する課題があります。景気回復への足どりも道半ばです。政府として、新内閣に引き継ぐまでの間、国民生活に遺漏なきよう、責任を果たしてまいります。
 
 こんにちは松純先生。
 正直政府に入っていた方達は、どうしてここまで成果をあげていたのに評価されなかったのかと悔しくお思いでしょうけど、これも民主主義政治のひとつだとあきらめるしかありません。
 残り少ない日数ですが、どうぞそれまでは全力を尽くしていただきたいと思います。
 
 麻生内閣メールマガジンでは、政策や総理の人となりをできるだけ身近に感じていただけるよう努力してきました。ご意見とご愛読に心から御礼を申し上げます。ありがとうございました。(松純)
 
 本当にいままでありがとうございました。
 松純先生もこれからどのような政治活動を行われるのか、そろそろ麻生マニアからも足を洗って、気持ち新たに天下国家のためにその身を尽くしていただきたいと思います。
 今日で麻生メルマガが終わるのは本当に残念ですが、どうぞこれからも頑張ってください。
 
 
 バーチャルネット思想アイドルやえ十四歳は、日本のために働いていただいている政治家さんを応援しています。
 

平成21年9月14日

 ネットの影響力というモノを考える

 ごめんなさい。
 最近ちょっとだけ忙しくて時間がとれなくて、今日もあまり長くない文章なのに前後半に分けさせてもらっています。
 まぁ当サイトも、最近政治ネタというか、永田町ネタばかりになってしまっているなぁと自分でも思っているところですので、ちょっと気分を変えてというか、サイト的にも変わっていかなければと思っていますので、10周年も迎えましたしね、いろいろと試行錯誤しながらやっていこうと思います。
 どうぞこれからも末永いお付き合いをよろしくお願いします。
 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 これは時々よくやえは言っているのですが、やえはデモが嫌いです。
 なぜ嫌いなのかと言いますと、所詮デモは、その数がいくら多くても、結局それは「その場の見た目だけの数」でしかないからです。
 例えばデモで1万人集まったとしましょう。
 おそらく、主催発表ではなく本当にそれだけの人間が集まったのであれば、それはかなり大規模な集会・デモだと言えるでしょう。
 テレビや新聞などのマスコミが報道するレベルの、大規模なデモだと思います。
 
 しかしですね、それでもやっぱり1万人って、日本全国民からみたらとても少ない数でしかないと言えるのです。
 例えば衆議院の小選挙区で当選するには、最低8万票ぐらい集めなければ勝てません。
 1万では泡沫候補と言われても仕方ないレベルです。
 しかも仮に8万人集めたデモが行われたとしても、それは全国から集められた人数ですから、それではやっぱり、小選挙区の中という限られた有権者の中から選ばれる衆議院議員を当選させる力にはなりません。
 まして仮にその人間達だけで国会議員を一人当選させたとしても、こういう言い方はなんですが、国会議員一人だけで果たして国政にどれだけ影響を与えられるのかというのは、大変に疑問なところと言わざるを得ないでしょう。
 無所属議員ひとりでは、出来るコトはかなり限られていますから。
 
 このように、結局数というのは、ある意味ハッキリ見える分だけ、冷静に考えればとても冷酷なモノでもあります。
 また同時に、逆に人の冷静な判断を狂わすモノでもあります。
 
 デモで1万人は、確かにデモとしては多いです。
 しかし国政を動かすレベルでは、全く少ない数でしかありません。
 数というモノはよく大小で語られますが、しかし時にその数の比較対象が語られないまま、多い少ないを判断されるコトが少なくありません。
 すなわち、本来国政に影響を与えるほどの内容を孕んだデモであれば、数の比較対象はそれなりのモノで比較しなければならないハズなのですが、しかし実際その多くは、「デモ」という括りでしか多い少ないを比較しておらず、果たしてその数が本当に多い数なのか少ない数なのか冷静には分析できていないのが現状でしかないと言えるワケなのです。
 
 だからやえはデモが嫌いなのです。
 結局デモというモノは、その場限りの数の多さに目を奪われ、もっと言うと、その場だけの数の暴力で、示威行為でもって、強引に政治を転換させる方法ですから、いくら「平和的な手法」と言っても、為政者を脅しているコトには変わりありませんので、民主的とは言い難いとしか言えないのです。
 その数が民主主義の根幹である選挙に準拠した数であればまだしも、それにはほど遠い、でも目の前で見れば恐怖を感じるほどの数を集めて政治を動かすという手法であるので、やえはデモが嫌いなのです。
 
 では、そこからネットの影響力というモノを考えます。
 
 
 (つづく)
 

平成21年9月15日

 ネットの影響力というモノを考える (中)

 では、そこからネットの影響力というモノを考えます。
 
 ひとつの例として、人権擁護法案の時の騒動が分かりやすい例かもしれません。
 人権擁護法案は、ネットから始まった、ほぼネットだけが原動力となって政治を動かした、数少ない事件です。
 あの時、本当に多くの人が人権擁護法案に対して様々な意見を持ち、ネット上では、それが良いコトかどうかはともかく、全く政治に関係ない場所にまで意見が書かれ大騒ぎになって、そして政治の場にもその意見が多く持ち込まれました。
 具体的には、自民党の議員さんに、メールやFAXや電話などを通じて、多くの人が意見を送ったワケです。
 そしてその結果どうなったかと言えば、結局人権擁護法案は今に至るまで法律としては成立していません。
 人権擁護法案がこれからどうなるかは分かりませんが、少なくとも今までの数年間で見れば、完全にネットの動きが政治に確実に影響を与え、結果を出したと言えるでしょう。
 
 しかしこの事例をもって、果たしてネットは「すでに世論全体に大きな影響を与えるメディアになった」と言えるでしょうか。
 
 衆議院選挙の結果を見れば、ネット上だけの世論と、全体の世論とでは、大きく差があったというのが実際のところでしょう。
 もしネット世論が大きな力を持ち得ていたら、自民党が勝っていたかどうかはともかく、ここまで民主党に大差を付けられるコトは無かったと思います。
 つまり、ネット世論と一般世論は、必ずしも一致しない、ネット世論はまだまだ偏りがあると言えるというコトです。
 
 では人権擁護法案の時の騒動はなんだったのでしょうか。
 それは結局、デモ的な効果が働いたというコトでしょう。
 実際全国民的な世論で考えるとどうかは分からないけど、その場だけの見た目の数の多さに目を奪われて、為政者がある種の恐怖を感じて、国政に影響を与えたと。
 これは完全にデモと構図が同じです。
 デモも人権擁護法案の時も、確かに時に国政を動かす力になるコトはありますが、しかしそれが、恒久的に国政に力を与えるぐらい影響力があるモノであるかというのは、別問題というか、むしろそんなモノは無いと言った方が適切だろうと思います。
 
 そしてデモもネットの騒動も、これがずっと日常的に続いてしまえば、その力は徐々になくなっていくコトでしょう。
 デモは「いつもと違う」からこそ、力になり得るワケです。
 いつもと違う異常な出来事だからこそ、それが日常に身を置く為政者にとって恐怖となって、政治を変える力となるのです。
 ここからも逆説的に、デモやネットの今の騒動は恒久的には全く影響力を与えられない存在でしかないと言えるワケなのです。
 
 では果たして「ネットの影響力」というモノは、冷静に考えてどのぐらい力があると言えるのでしょうか。
 
 
 (つづく)
 

平成21年9月17日

 鳩山内閣は韓国式にならないように

 お話の途中ですが、皆さんご存じのように鳩山内閣が昨日発足しましたので、それについて一言コメントしておこうと思います。
 
 昨日鳩山内閣が発足し深夜に各大臣が記者会見をしまして、今後の、というか、当面の課題を各大臣が述べていました。
 その辺は今日の新聞で大きく取り上げられているところですが、例えば藤井財務大臣は暫定税率を廃止するですとか、前岡国土交通大臣は八ツ場ダム工事を中止するですとか、長妻厚生労働大臣など既に実行されている後期高齢者医療制度を廃止すると息巻いています。
 やはり民主党としては、今までの政治とは違うというところをアピールしたい、変わったというところを国民に見せたいという姿勢の表れなのでしょう。
 
 しかしやえは気になるコトがあります。
 
 民主党と鳩山内閣の皆さんは、変える変えると言ってその案件についても具体的に例を挙げていますが、だけど果たして「なぜ変えるのか」「どうして変えたいのか」という部分が全く見えてきません。
 例えば後期高齢者医療制度ですが、これについては過去やえは、この制度の本質的な部分を解説したコトがあります
 簡単に言えば、高齢者の方というのは、年齢的な問題で医療費が高く付き、また同じ理由でほぼ全ての人が社会保険ではなく国民保険加入者ですから、お金がかかる上にお金が足りなくなってしまっていているワケで、それを改善するためにその年代だけを別制度に組み替えて、そこだけに集中的に税金を投入して安定した制度にしようというのが、後期高齢者医療制度の主旨です。
 詳しくはこちらでもご覧になっていただければと思いますが、当然の話ですけど、このようにこの制度にもどんな制度にも、キチンと理由があって新設され運営されているワケです。
 後期高齢者医療制度については確かに批判も多かったです。
 国民の中にも、未だに最悪最低の制度だと信じ切っている人が少なくありませんが、ではどうでしょうか、なぜこの制度がダメなのか、そもそもこの制度がどういう主旨のどういう制度なのかというコトを正しく把握し理解している人がどれだけいるのかというのは、とても疑問が残るところだと思います。
 そして民主党はそこをキチンと説明していません。
 
 後期高齢者医療制度や他の様々な制度を変えると言うのはいいのですが、ではなぜ変えるのか、どうしてその制度がダメなのか、そして変えた後にそれをどのように改善し、さらに良い制度を作るのか、ここをまず説明しなければならないハズです。
 一番大切なのは、「なぜ変えるのか」という部分です。
 政治において「変える」というコトは、これは過程であって目的・目標ではありません。
 変えた先にある到達点を目指すために、その道程の一つにある関所でしかないハズです。
 でも今の民主党、そして鳩山内閣は、変えるコトが目的になってしまっているような気がしてなりません。
 
 さらに言えば、やえには、民主党と鳩山内閣は見せしめをしているようにも映ってしまいます。
 つまり、自民党体制という「古い体制」を壊すコトによって、その華やかさだけを国民に見せつけるコトによって、自分たちの支持に変えようとしているのではないでしょうか。
 前時代を全て否定するコトによって、今の自分たちの正当性を訴えているワケです。
 確かに今の民主党は、自民党が作ってきた古い体制をことごとく否定し、変えていくコトに心血を注いで、そしてその結果として今回の選挙の大勝につながったワケですが、しかしそれは、古代シナ大陸で栄えた国々や、韓国のやり方でしかありません。
 シナ大陸に過去数々できあがった帝国というのは、前の王朝をことごとく否定し、歴史書さえも改ざんして、なぜ革命が必要なのか、どうして新しい行程が必要なのかを説いて、自分たちの正当性を訴えました。
 韓国もついこの前まで、新しい大統領が誕生するたびに以前の大統領を表も裏も使い分けて様々な方法で闇に葬り、ほら間違っていただろうと比較するコトによって、自分たちの正当性を訴えてきました。
 シナ大陸の国々も韓国も、そうやって負の連鎖がずーっと続いてきた国です。
 民主党には民主党のやり方があって、政策があって、哲学があるのだろうとは思うのですが、それでもさすがに、シナ的な韓国的なやり方をマネするコトだけはやめてほしいと思います。
 日本という国は連続性のある、それこそ世界一永く続いている国家です。
 歴史とは、否定するモノではなく、守りながら振り返って参考にしていくモノです。
 民主党と鳩山内閣は、古い体制を壊すコトばかりに執着するのではなく、自分たちが何をしたいのか、自分たちはどのような日本にしたいのか、まずはそこを早く語ってもらいたいと思います。
 
 過去を壊すコトは、それは攻めなのではなく、ただ単に過去に囚われているだけです。
 シナや韓国の手法をマネしても、日本はいっこうに良くならないでしょう。
 新しい政権を実現するなら、はやく過去から脱却してほしいと、そうやえは願います。
 

平成21年9月24日

 ネットの影響力というモノを考える 3

 では果たして「ネットの影響力」というモノは、冷静に考えてどのぐらい力があると言えるのでしょうか。
 
 やえはやっぱりネットで活動している以上、その可能性というモノは信じたいと思っています。
 ネットの良いところは、だれでも手軽に自分の意見を表明できるところです。
 時にそれがデメリットになる時もありますが、ひとりひとりがハッキリと明確に責任を持って意見表明すれば、真の意味での民主主義を達成するコトが出来るでしょう。
 少なくとも、数えられるぐらいしか存在しないマスコミ数社の意見だけが世の中の意見かのような今の状態よりは、多くの人が意見を言える状態の方がはるかにマシとは言えるのではないでしょうか。
 ネットの世論だけで全てが決まってしまう状態というのはちょっと気持ち悪いですが、ネットにある無数の意見も、他のメディアと同じぐらい尊重されるべき意見であると認識される、それはつまりネットの活動にもある程度責任を負わなければならないと思われるぐらいになるのが、やえはネットというモノの適切な在り方なのではないかと思っています。
 
 その上で、ネットで活動する我々はどういう意識で普段活動すべきなのでしょうか。
 
 例えばやえの十年間の活動は、全く意味のない、無駄なコトだと言えるでしょうか。
 もちろん人の評価は人それぞれですので、全く意味のないコトだと思われる方もいるでしょう。
 しかしやえ自身はそうは思いません。
 確かに当サイトは、目に見える形で政治的や社会的に何かを達成したり、何かを残したりはしていません。
 やえが主張したコトが、やえだけの力によって法律が出来たり変わったりしたコトはありません。
 そういう意味では、やえの力はまだまだ微力です。
 でも、果たして思想文章を書くというコトの意味が、ただ単にそれだけでしか価値を見いだせないモノだと言えるのでしょうか。
 
 やえは最近よく思うのですが、どうも最近、即物的な考え方をもってしまっている人が多い気がしてなりません。
 形の見えるような成果を、今すぐに出さなければ、それは全て無意味だと、そう考えてしまっている人が、最近とても増えていませんでしょうか。
 やえは正直この考え方は、あまりよくない考え方だと思っています。
 
 政治を語る、思想を語るという場合、その本質は「人の考え方をどうするのか」というところにあるんだと、やえは思っています。
 結果は文字通り結果でしかなく、人はそこに至るまでに様々な考えを巡らし、考え、努力するワケで、思想とはもしろ結果よりも過程こそをどう考えるべきかというところが本質ではないでしょうか。
 
 やえがサイトで語るコトによって、それをそれなりの多くの方が読んでいただくコトによって、それが即法律ができたり、憲法改正になったり、選挙の結果が変わったりと、そんなコトができるとは思っていません。
 というか、こんなのは誰にだって出来るコトではないでしょう。
 政治家なら法律を変える、また大臣クラスになれば政策を実行するコトも可能でしょう。
 しかし、それはあくまで公的な権力を合法的に保有しているからこそであって、それはけっして一人の力だけではなく、また同時それは、一個人の文章や考え方だけではどうやっても即物的な結果がすぐに得られるようなコトは不可能であるというコトでもあります。
 ここまで複雑に進化した人間社会において、たったひとりだけの力で世の中を変えられるのは、もはや不可能でしょう。
 
 ひとりの人間だけで結果を出すのは難しくても、大きな影響力を持ち得る可能性はあります。
 しかし、ひとりの人間がそれなりの力や影響力を持つためには、それなりの責任が伴うのは当然の話だというコトを忘れてしまっている人が多い気もします。
 つまり、自分は一切リスクをとらず、匿名の安全な場から口だけ出して責任から逃れて、しかし影響力だけは持ちたい、力だけは持ちたい、自分の意見が通るべきだと考えるのは、それはあまりにもムシの良すぎる話ではないのかというコトです。
 政治家は、選挙というとてつもなく大変な儀式を経て、また名前も顔もさらして、いつどんなときでも多くの人から批判にさらされますし、最悪言論で命をねらわれる可能性も少なくないという立場です。
 世間にそれなりに影響力を持っている著名人も、やはり誰からでも批判される立場ですし、また政治家もそうですが、人気がなくなれば収入がなくなって生活できなくなるというリスクも負っています。
 やはり人間というモノは大なり小なりリターンを得るためには、自分の生活や命や精神力を削るリスクを負う必要があると言えるでしょう。
 そんな中で、仕事にも全く影響せず、匿名で批判もさらされず、ましてハンドルさえ変えれば過去の発言はなかったコトにすら出来るような無責任な立場の人間が、しかし形に表れるぐらいの即物的な影響力を持ちたいと言ってしまうのは、あまりにもムシが良すぎる、勝手すぎる言い分なのではないかと思わざるを得ません。
 
 
 (つづく)
 

平成21年9月25日

 ネットの影響力というモノを考える 4

 大きな影響力を持ちたい、法律を直接変えられるぐらいの立場になりたいと思うのであれば、それなりのリスクを負う、責任を負う覚悟を持たなければなりません。
 そういう意味では、正直やえの立場というのも、政治家さん達と比べれば、追っているリスクはものすごく小さいモノだと言えるでしょう。
 当サイトは、キチンと体裁を整えているサイトを作っていますので、比較的逃げにくい形であるとは言えるでしょう。
 そういう意味で文章のある程度の責任を負っていると思っていますし、また当サイトは10年も続いていますから、それだけでもなかなか簡単にこれを捨てるというのは勇気のいる話ではあります。
 少なくとも、匿名掲示板で、自作自演ができるような場所で、無責任に書き殴るよりは、やえは責任を感じてやっているつもりです。
 もちろん生活がかかっているとかではないですから、サイトを捨てようと思えば捨てられるワケで、その意味ではやはり政治家さんやプロの文筆家に比べればリスクは小さいと言えるでしょう。
 ですから、当サイト的には、それぐらいのリスクと責任を負って、文章を載せています。
 当然それは、そのぐらいの影響力であるのが当然と言えるでしょう、「やえの言っているコトは正しいから無条件で国会議員にさせろ」なんてコトは口が裂けても言える立場ではありません。
 
 こういう様々な意味の「責任」というモノを考えながら、思想活動、そしてネットでの活動というモノを考えなければなりません。
 
 「サイトやって自民党を応援していたけど選挙に負けた。だからサイトなんて無意味なんだ」と切り捨ててしまうのは、果たして適切な考え方でしょうか。
 また例えば、民主党政権になってから外国人参政権付与法案がどうなるか分かりませんが、もしこれが成立してしまったら、当サイトのやっていたコトは完全に無意味だったと言えるのでしょうか。
 やえはそうは思いません。
 確かに結果だけ見れば何も成し遂げられなかったと言えるかもしれませんが、しかしだからと言って何もしなかったとしたら、ここまで多くの人が危機感を持たなかったかもしれません。
 どれぐらいの人が当サイトを読んで危機感を持っていただいたかは分かりませんが、それでも0ではないハズです。
 当サイトの存在によってこういう問題があるんだと理解していただければ、それは成立した後でもまだ改正できる可能性は残るワケですし、そもそもこの問題だけでなく、他にも様々な問題に対してどこがどう問題で、こういうコトはどのように考えるのかという部分が生き続けていくコトでしょう。
 当サイトの文章を読んで、それで何かを感じてくれれば、それはとても意味のあるコトなのではないでしょうか。
 
 これはよく言っているコトですが、思想や政治においては、結果よりも過程の方が大切な場合が多くあります。
 例えば政治課題一つ達成するにしても、全員一致の結論で達成した課題と、流血の末の革命的手段で達成した課題とでは、全くそのゴールが一緒だとしても、やはり前者の方が素晴らしい政治だったと言えるでしょう。
 むしろ結果がどんなに素晴らしかろうと、流血の末の革命的手段でそれが達成されたのであれば、やえは全力でそれを否定します。
 これは今までいろいろなところで言ってきた通りです。
 やえは、その過程の部分においてどう考えるべきかという一例を示すコトが、本当の思想の役割なのではないかと思っています。
 やえは、結果の達成のための手段だけを羅列したような設計図を書くつもりはありません。
 そんなのは運動家とか、それこそ政治家の役割だと思いますし、しかしそこに思想のないただの設計屋になってしまうのはとても危険だと思います。
 思想無き運動家のなれの果ては革命家です。
 
 仮に結果が得られなくても、それでも当サイトを読んで下さった方が、「なるほどこれはこう考えるのか」とか「そういう考え方もあるのか」とか、そして「それは違うんじゃないか」「こう考えるべきだろ」と、こういう感想を持って頂ければ、やえはそれで十分だと思っています。
 だって、もし当サイトを読んでいなければその方にはそのような考え方が生まれなかったワケで、そう考えれば、当サイトがあったかなかっただけで、有と無という比べられない差が生まれていると言えるでしょう。
 そこには「全くの無駄だった」とは言えない、確かに存在する何かがあると思います。
 確かに現実の政治を動かすためにはやえの力はまだまだ不足です。
 いえ、もしかしたら今の立場なら、さっき言ったように不可能かもしれません。
 しかしやえは、それを0の無駄だったとは思いません。
 それが1か2か、もしかした0.1だけかもしれませんが、それでも何かが存在しているコトは確かであり、0でなければそれは価値のあるコトだとやえは信じています。
 そしてその積み重ねこそが、思想と政治においてもっとも大切なモノだと思っています。
 
 もし当サイトに設計屋の役割を期待しているのでしたら、それはごめんなさい、ご遠慮頂いて結構です。
 また、読むべき価値のないサイトだと感じましたら、それはそれで残念なコトですが、無理して読んでいただかなくて結構です。
 公の場に載せる文章ですから当然多くの人に読んでもらえる文章であり続ける必要はありますが、しかし当サイトの根本的な価値は、やえやあまおちさんの考え方です。
 やえの考えと違うモノを無理して載せるのは、そもそも当サイトの価値を貶めるモノでしかなく、当サイトには必要ないモノです。
 それが当サイトのアクセスをあげるものであったとしてもです。
 やえは無理して万人に受ける文章を書こうとは思いませんし、運動家や革命家に転向する気もまったくありません。
 自分ではない誰かに、今までとは違う考えを持ってもらうキッカケになるような文章をこれからも書いていくつもりです。
 
 突き詰めれば政治も選挙も、ひとりひとりの考え方の集合体です。
 特に民主主義政治であればなおさらです。
 その中で、ちょっとでも自分だけではない誰かに影響を与えられるという行為は、とてもとても価値のあるコトだとやえは強く信じています。
 だからこそ当サイトは、やえやあまおちさんが考えているコトを、特に既存マスコミや他のサイト・ブログさんがあまり言わないようなコトを敢えて多く取り上げているのです。
 当サイトだからこその意見を、考え方を、思想を、書くのです。
 それを偶然でも必然でも読んで頂き、なにかを感じて頂ければ、それは絶対に0ではない価値があるコトでしょう。
 
 これからも、誰かに何らかの影響を与えられるサイトであるべく、努力し続けていきたいと思っています。
 

平成21年9月28日

 夫婦別姓は共同体破壊の第一歩

 今日はこちらのニュースです。

 夫婦別姓導入へ…政府、来年にも民法改正案
 
 政府は、夫婦が別々の姓を名乗ることを認める選択的夫婦別姓を導入する方針を固めた。
 早ければ来年の通常国会に、夫婦同姓を定めている民法の改正案を提出する方向で調整を進める。現行の夫婦同姓は1947年に民法に明記され、約60年ぶりの大幅改正となる。
 夫婦別姓の導入は、政権交代により、衆院選の政策集に「選択的夫婦別姓の早期実現」を明記した民主党を中心とした政権が誕生したことによるものだ。民主党は、1998年に民法改正案を共産、社民両党などと共同で国会に提出したが、自民党が「家族の一体感を損ない、家族崩壊につながる恐れがある」などと強く反対して廃案となった。その後も、毎年のように共同提出してきたが廃案となってきた。
 民主党などの民法改正案は、〈1〉結婚時に夫婦が同姓か別姓かを選択できる〈2〉結婚できる年齢を男女とも18歳にそろえる――ことが柱で、おおむね法制審答申に沿った内容だ。
 しかし、別姓を選んだ夫婦の子の姓に関しては、法務省案が「複数の子の姓は統一する」としているのに対し、民主党などの案は子の出生ごとに決めるとしており、今後調整する。千葉法相は17日の就任会見で、夫婦別姓導入に前向きな考えを示した。

 いわゆる「夫婦別姓」についてのお話ですが、夫婦別姓とはその名の通り、夫婦で別の姓を名乗れるようになる制度のコトです。
 例えば佐藤太郎さんと鈴木花子さんが結婚した場合、今の制度だと夫婦ふたりとも佐藤さんか鈴木さんかのどちらかの姓になるコトになり、佐藤姓に決めたときは、佐藤太郎・佐藤花子夫妻と呼ばれるようになります。
 しかしこれが別姓制度になると、結婚したとしても今まで通り佐藤太郎・鈴木花子夫妻と、別姓のまま公式的にも呼ばれるようになるという感じです。
 今回民主党が用意している制度は選択制のようですから、同姓にしてもいいし、別姓にしてもいいという、つまり今まで通り姓を合わせるのも良し、どうしても同姓はイヤだというなら夫婦で別々の佐藤さん鈴木さんと呼ばれるようになるのも可能だと、そういうコトになるんだろうと思われます。
 
 夫婦別姓にする場合のメリットは、女性が働いている場合などに名前が変わると取引先の人が混乱するとか、めんどくさいとか、まぁそんな風に言われているところですが、しかしやえは夫婦別姓制度には反対です。
 なぜ反対かと言いますと、それは「夫婦別姓は、共同体を破壊する第一歩でしかない」からです。
 
 共同体とは具体的にどのようなモノを指し示すのでしょうか。
 その一つが地方であったり郷土・故郷であったり、また国だと言う人もいるでしょう。
 共同体と言っても、漠然としたモノしか出ないでしょうけど、そもそも共同体は漠然としたモノであり、形に示されるモノではありません。
 でも漠然であったとしても、人はそれに何か特別な感情を持ちますし、確かに影響を人に与えるモノです。
 例えば日本人が外国に移り住めば「やっぱり日本はいいなぁ」と思いますし、別の県に移り住めばなぜか郷土愛がわき起こりますし、自立して親元を離れれば「やっぱり家族っていいなぁ」と思うモノです。
 もちろんそう思わない人もいますが、それでもやっぱりどこか、自分の「足下」と言いましょうか、自分を作り上げてくれた基本となる下地というモノを、共同体に無意識にでも求めていると人は言えるのではないでしょうか。
 
 では、共同体を守るというコトは、いったいどういうコトなのでしょうか。
 それは、歴史を紡ぐというコトです。
 先人がさらに前から受け継いだもの、そして新しく築きあげたものを受け継ぎ、そしてそれを次の世代に受け渡す、その繰り返しが歴史を作る、歴史を紡ぐコトです。
 歴史は大切です。
 歴史があるこそ人はふと過去を思い返し、その失敗から教訓を得て、正しい道を模索できます。
 また同時に、歴史を紡ごうとするからこそ、まだ見ぬ次の世代のコトを考えた道を造っていこうと思えるワケです。
 
 いまの日本人は、歴史がふつうに当たり前にあるので、その大切さに気づいていない人が多いのではないでしょうか。
 しかし世界の国々を見渡すと、実は歴史がしっかりと存在している国というのは、珍しいとまでは言いませんが、当たり前にあるとまでは言えない場合の方が多いと言えるでしょう。
 例えばイスラムの国々やアフリカの国々です。
 正直言いましてあの辺の国々はキチンとした歴史というモノが存在しません。
 その結果どうでしょうか。
 人々は、受け継ぐモノもないし、それを受け渡そうという意識も起きないため、まず自分のコト、まず目先のコトだけを追い求めてしまいます。
 だから結局あの辺の国々は、テロルと内乱を繰り返し、先の見えない自分のためだけの戦いに明け暮れてしまっているのです。
 
 日本ほど歴史を紡ぐコトに長けている国はありません。
 結局日本は国家としては世界最長の歴史を持つ国になっていますし、国家として歴史が長くなくてもその土地に住む人々が共有している歴史がある国や、また土地が変わっても歴史としてつづれる過去がある国というのは、やはり今でも発展している国ばかりです。
 日本以外で具体的にあげれば、ヨーロッパの国々と、その歴史を継承して作られたアメリカ・カナダ、そして中国を中心としていた歴史を持つ国々は、今でも比較的発展している国と言えるでしょう。
 ヨーロッパは戦いと合併と分裂の歴史、東アジアはシナ帝国を中心とした歴史と、その中身は全然違いますが、それでも歴史を持つ、歴史を紡ぎ、それを繋いでいるという意味において、やはり人間が発展していくためには歴史が大切であるというコトが非常によく分かる例だと言えるのではないでしょうか。
 
 しかし忘れてはならないのが、歴史は決して勝手に創られていくモノではなく、人が自らの手で創っていっているモノだというコトです。
 人なき歴史などあり得ません。
 人が汗と涙と、そして時には血を流して、不断の努力のもとに、歴史が今まで紡がれてきたのです。
 
 そう考えたとき、果たして国の歴史とはいったいどうやって創られてきたと言えるのか、考えてもらいたいのです。
 
 人の手はそれほど大きくありません。
 国という単位をひとりの人間だけで語るには、ちょっと大きすぎる単位です。
 ですから人は、自分が生まれた地方の、郷土の、故郷の、ムラの、そして家の歴史を紡ぐのです。
 国の歴史とは、こういう小さな単位の歴史の集合体なのです。
 
 それは日本至上もっとも革命という手段に近づいた、しかし決して革命ではない手段でもって大きな改革をもたらした明治維新を見ればわかりやすいでしょう。
 あのときの開明派も佐幕派も、多くの人は国を憂いて行動したワケですが、しかしその直接の行動原理となったのは、やはり地方や郷土や家の様々な事情や歴史があったからこそでしょう。
 ある人物は、自分の藩のために働きました。
 ある人物は、自分の家のために働きました。
 ある人物は、自分の友のために、自分の愛する人のために、時代に命を賭けたのです。
 目指すべき目標は「国を変える」というとてつもなく大きな目標ですが、そのために何を為すべきか、どう考え、どう生きるかというコトは、やはり自分に近い共同体から生まれたモノが原点として誰しもにあったと言えるでしょう。
 そしてそんな人間達が集まり、汗と涙と血を流した結果、国を変えるという大きな潮流となったのです。
 
 歴史を紡ぐという行為の、もっとも最小の単位こそが「家」なのです。
 人には歴史がありません。
 もちろん生きている間の80年ぐらいの歴史はありますが、しかし人ひとりだけなら、死んでしまえばその歴史は終わりです。
 しかし家には歴史が生まれ、続きます。
 自分が死んでも、子供が親の様々な影響を受け継ぎ、良いところは生かし悪いところは改善して、さらにその次の世代にそれを受け渡していきます。
 先祖を大切にし、そしてなにより、子供や孫、次世代のために、道を創っていこう遺していこうと意識して生きるようになります。
 家があるからこそ、ムラがあるからこそ、郷土・故郷があるからこそ、国があるからこそ、人は歴史を紡ぐコトを意識して生きていけるワケなのです。
 「家」はその歴史の最小単位なのです。
 
 姓とは、その家を家として形作る象徴です。
 同時に、その家を構成する人に共通のシンボルを与え、意識を共有するために存在するのです。
 それは決して横の繋がりだけでは考えられないアイテムです。
 だって本当にその世代だけの家族なら、確かに姓がなくても、同じ家屋に住んでいるという部分で家族を証明できるでしょう。
 しかし縦のつながりならそれが大変に希薄になってしまいます。
 お爺ちゃんが佐藤さんで、お父さんが鈴木さんで、自分が山本さんで、子供が藤原さん。
 世代が近い家族ならまだしも、こんなコトが続けば、いずれ家族の歴史は断裂してしまうのではないかと思うしかありません。
 歴史を紡ぐためには、姓はとても大切な存在なのです。
 
 これは人間だけが出来る行為です。
 動物には親子関係があっても、それ以上の縦のつながりはありません。
 人間だけが歴史を紡ぐコトが出来るのです。
 
 今の日本は、今の日本人だけが創ったモノではありません。
 数千年という悠久の歴史によって、いまの日本はあり続けているのです。
 考え方ひとつとってもそうです。
 例えば国家なんてなくても人間は生きていけるとか、宗教がなくてもいい、むしろない方がいいとか、夫婦別姓、家がなくても生きていけると思えるのは、それはむしろ、日本が悠久の歴史を紡いだ結果であり、日本の歴史と伝統に裏付けられた文化によって生まれている考え方でしかないのです。
 
 共同体は日本の歴史においてなくてはならない存在です。
 共同体なくして今の日本はあり得ないと断言してもかまわないでしょう。
 そして共同体が希薄になってしまったコトで最近の日本の社会はわびしいモノになってきつつあるというのは、多くの人が認めるところだったのではないでしょうか。
 そんな中で、その共同体のもっとも小さな単位であり、もっとも核となる単位である「家」という存在を打ち崩さんとする夫婦別姓制度を、なぜいま導入しなければならないのか、大変に疑問でしかないのです。
 
 夫婦別姓制度に賛成する意見を見ると、どれもこれも、目先だけの、自分だけが都合が良ければいいやという、刹那主義的な考え方ばかりな気がしてなりません。
 最近こういう短絡的な考え方がどんどん増えてきている気がしてならないのですが、それはとても危険な考え方であるというコトに、はやく気づいてほしいです。
 日本の家・姓というモノは、自分だけの都合で存在しているのではなく、自分だけの為のモノでもありません。
 日本が日本人であるために必要なモノであるのです。
 
 家があって、故郷があって、郷土があって、地方があって、そして国がある。
 それが日本のあるべき姿です。
 やえはそんな美しい日本が永遠に続ければいいなと思っています。
 

平成21年9月30日

 選挙とはいったい何なのかを考え直すべき

 衆議院選挙が終わってそろそろ一ヶ月が経とうとしています。
 鳩山内閣はいま外交に明け暮れ、またCO2を25%削減するとか財源問題とか、課題が山積みしています。
 一方自民党は、先日谷垣禎一元財務大臣が新しい総裁となって、自民党の再生に取り組み始めました。
 政権交代がなって、確かに日本の政治の景色は変わったと言えるでしょう。
 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 そんな中で最近はこんな論調が一部でよく聞かれます。
 「もはや自民党は必要ない」
 また自民党の総裁に谷垣さんが選出されたコトに対しても、「目新しさがない」「これでは自民党は変わらない」「政権奪取はもう無理だ」と言う人もいます。
 しかしやえは、こんな論調を聞く度に、過去にも何度も同じような言葉を聞いたと思い返してしまいます。
 
 例えばいまの民主党の党首は鳩山総理ですが、この人が民主党に選出された時の代表選挙で対立候補だったのが、いまの外務大臣の岡田克也さんでした。
 あの時の民主党は、スキャンダルまみれの小沢当時代表が突然の代表投げ出し辞任をやらかして、やっぱり民主党はダメじゃないかと言われていた、かなり民主党としてはピンチの時であり、そんな中での民主党代表選は、もう一度民主党が力を取り戻すためには誰を党首にすべきかというコトが一番の論点だったワケです。
 それなのになぜか結局、選挙の末に代表に就いたのは、あの鳩山さんでした。
 いまの民主党の元となった旧民主党の共同代表であり、現民主党の立ち上げに中心的役割を果たし、また代表の座にも就いたコトのある、一時期菅直人と二枚看板と言われていたあの鳩山さんです。
 そんな全く目新しさなど皆無な鳩山さんでしたから、これに対し多くの人は「これでは民主党は何も変わらない」「また鳩山かよ」「小沢の傀儡代表じゃないか」と言いましたよね。
 正直やえも思いました。
 岡田さんが代表になれば民主党は自民党を倒せる力を得るかもしれないけど、さすがに鳩山さんでは迷走するだけでしょうと、そう思っていました。
 でも結果を見ればどうでしょうか。
 衆議院選挙の結果は、鳩山民主党の大勝だったワケです。
 
 自民党の新総裁が谷垣さんになってどうなるか、それは自民党次第のお話ですから、いまの段階でやえがどうこう言うコトでもありません。
 自民党には再生してもらいたいとは思っていますから、谷垣さんには是非がんばってもらいたいですけど、それはこれからの谷垣さんの手腕次第であり、また自民党所属議員の皆様の努力次第であって、いまの段階ではそれに期待するしか他ありません。
 総選挙が終わってまだ一ヶ月も経っていないのに、与党民主党を倒す具体的方策を聞いても、そんなのは無理な話です。
 むしろそんなコトがこんな短期間で分かれば、自民党は選挙に負けなかったコトでしょう。
 ですから自民党がこれからどうなるかは、これから時間をおいて見ていくべきコトだと思います。
 そもそもまだ国会すら始まってないワケですしね。
 
 ただこんな論調の中でやえがひとつ思うコトは、果たして選挙とは本来こういうモノで良かったのかなぁと、大変に疑問に思うところです。
 
 果たして日本の衆議院議員選挙というのは、党首の顔だけが判断材料なのでしょうか。
 党首が誰で、党首がどういう考え方を持っていて、党首がどう発言したのか、ただそれだけが選挙の投票先の判断材料になりうるのでしょうか。
 また投票先は、ただ政党だけで選ぶべきなのでしょうか。
 
 これでは、選挙というモノは、ただ「風」だけのモノになってしまいます。
 風と言えばまだ聞こえはいいですが、ようは中身を伴わない雰囲気だけでしかありません。
 雰囲気だけの選挙、なんとなく党首がいいから、あっちの政党がダメだから、テレビで言ってるから、と、そんなだけの選挙で本当にいいのでしょうか。
 
 正直やえは、今回の選挙も、郵政選挙も含めて、風頼みの選挙はもう飽き飽きです。
 政党が果たす役割はもちろん小さくありませんし、小選挙区に立候補している人の所属政党も投票行動の動機にもちろんなりうるワケですが、しかし本来選挙とは、決してそれだけではないハズです。
 もし政党だけ、党首だけで選挙の全てを決めるのであれば、選挙制度は比例だけで十分ですし、もっと言えば、議員なんて30人ぐらいいれば十分でしょう。
 むしろその方が意思統一が容易で党の方針をスムーズに実行できるようになるのではないでしょうか。
 
 しかし日本の選挙はそうはなっていません。
 比例は比例としても、やはり選挙は立候補者その人を選ぶモノです。
 人を選ぶというコトはどういうコトか。
 この人は日本の政治を任せられる人かどうか、国民にどのような利益をもたらせてくれるのか、世界の中で日本をどのように舵取りしてくれるのか、その人がすぐにそこまで力を発揮できるワケではありませんが、その人が来たるべき時期にきたときは、郷土の誇りとして一緒に応援しようと思えるような人を選ぶというのが、選挙区での選び方なのではないでしょうか。
 またさらに言うと、なぜ地方ごとに選挙区があるのかも考えるべきです。
 それはやはり、その土地独特の風土、歴史、文化、事情などを含めた、その土地の声を国政に反映させるためなのではないでしょうか。
 そもそも日本という国は、歴史的にも地方色が豊かな文化を持っています。
 だからこそ、それぞれのそんな地方の声を丁寧にすくい上げて、その結果として国政ができあがっていく、それが日本の政治というモノなのではないのでしょうか。
 
 本来の選挙とは、日本の選挙とは、広く国民の声を聞くというコトであり、日本の政治とは、その声を反映させていくというコトではないのかと、やえは思います。
 
 小泉総理の功罪の判断は、まだまだ時が必要だと思っています。
 まだまだ、少なくともあと十数年は経たなければ、正当な評価は出来ないと思っていますが、でもおそらく今回自民党が国民からNOを突きつけられた原因の1つは、小泉さんのその手法にあったかに思います。
 つまり強引な、上からの、構想が先立つトップダウンの手法です。
 その手法に一番敏感だったのが地方であり、しかし自民党という政党はもともと地方組織こそが根幹だったからこそ、今回の選挙のようなガタガタになってしまったというコトが、やはり否定できない敗因の一つだったのではないでしょうか。
 しかし、それにとってかわった民主党の手法は、やっぱり、というよりも、ますますトップダウンの手法です。
 政権を取った時の選挙も、まるで小泉旋風と同じような形でした。
 いま二大政党制と叫ばれ、マスコミも国民も、また議員さん本人達も、次の選挙は「どう風を吹かせるか」という点にばかり目がいっている気がしてならないのですが、やえは本当に日本の政治と選挙はそんな形でいいのかなぁと心底疑問でなりません。
 
 選挙制度の問題も含めてになるんでしょうけど、でもやっぱり選挙において最も大切なのは、当然国民の政治に対する姿勢です。
 国民がどう政治と向き合い、そしてどう政治家に政治を託して、選挙をどう考えるか、そして選ぶかです。
 歴史は人が創るモノです。
 風ではない、雰囲気ではない、人を選ぶ人本位の選挙こそが、本当の民主主義なのではないでしょうか。
 
 バーチャルネット思想アイドルやえ十四歳は、真の意味での国民の手による選挙と政治を応援しています。