☆派遣村問題☆

平成21年1月6日

 派遣村のお話

 去年の暮れから派遣や雇用の問題を取り上げようと思っていたのですが、年末は昨日の更新の通りいつの間にか終了のお知らせが届いていて、まともに更新できませんでした。
 ごめんなさい(笑)
 で、いきなり年頭から派遣の問題というのもどうかなと思い、じゃあその前に一言言いたいコトがあったので年頭更新の一発目はそれで行こうと思っていたのですが、派遣の問題でとってもタイムリーなニュースが入ってきたので、今日は乗り遅れないようにこっちから行きます。
 やえの中では年始めから行ったり来たりです。
 
 右左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 まずはニュース記事をご覧下さい。
 

 派遣村「まじめな人たちか」 総務政務官
 
 坂本哲志総務政務官は5日の総務省の仕事始めで、仕事や住まいを失った人々を支援した東京・日比谷公園の「年越し派遣村」について「本当にまじめに働こうとしている人たちが公園に集まっているのか」と指摘。「『講堂を開けろ。人が出てこい』と学生紛争の時の戦略が垣間見える」とも述べ、政治的な色彩が濃いとの認識を示した。

 派遣村とは、今まで派遣社員だったけど年末に解雇されて、仕事も住むところも無くなったと言っている人たちが支援を受けようと集まったという建前の集団です。
 もちろんこの人達は収入がないですから、おそらく貯蓄もないのでしょう、よって食事や毛布などは国や東京都などが無償で出していたようです。
 まぁいろんなところで色々な情報が出ているので、興味のある方は調べていただければと思いますが、この派遣村に対して、総務省の政務官さんが上のようにコメントしました。
 正直言いまして、完全な的外れではないのでしょう。
 少なからずこの動きに対しては、職業運動家・プロ市民が紛れ込んでいる、もしくは運動を主導しているモノと思われます。
 この村に参加している人の中には、はじめは運動は関係なく本当に藁をも掴む思いでやってきた人もいるのでしょうけど、それだけでない人もいるというのも雰囲気を見れば分かるというモノです。
 プロとして運動をしているけど市民に紛れ込んで、弱者という盾を振りかざして自分達への批判を一切許さないという、卑怯な戦法であり存在がプロ市民です。
 結果的に、その「自分達の一切の批判を許さない」という盾によって、政務官さんは発言を撤回させられるコトになってしまいました。
 

 坂本総務政務官が“派遣村発言”を撤回・謝罪
 
 坂本哲志総務政務官(自民、衆院当選2回)は6日午前、総務省で記者会見し、東京・日比谷公園に開設された「年越し派遣村」を巡り、「本当にまじめに働こうとしている人たちが集まっているのか」などとした5日の発言を撤回し、謝罪した。

 なんでもそうですが、一緒くたにしてごちゃ混ぜのままに全体を語ってしまうと、そうでない人から反発が出てきて、問題がさらに混沌としてしまいます。
 政務官さんの発言は、ある部分においては正しい見方と言えるのでしょうけど、ある部分においては正しくない見方だったというところです。
 時に全体で語るコトも必要ですが、言い方の問題が大切という場合もあるでしょう。
 
 この派遣村の問題は、結局言い方の問題というところが大きいんだと思います。
 
 国家や政府という存在は、国民の生活を守るという目的もありますから、生活に苦しむ人がいるならば、国が手助けをするというのは、ごくごく当たり前の行為です。
 ですから、食もない住むところもないという人がいるなら、国が手を差し伸べるコトは良いコトだと思います。
 もちろん程度の問題がありますから、一生涯働かなくても悠々自適に暮らしていけるぐらい保障するというのはおかしな話になってしまいますし、公という存在は公平であるべきですから、派遣村の人たちだけでなく、他に困っている人がいるなら同じように手を差し伸べなければなりません。
 もっと困っている人がいるなら、まずそちらに目を向けなければならないという現実問題もあるでしょう。
 これらの現実的事情を鑑みた上で、それでも必要であると判断できるのであれば、政府は必要な支援をすべきだと思います。
 
 ただし、基本的には政府のやるコトというのは支援でしかないという原則を忘れてはいけません。
 日本は民主主義の国であり、自由主義経済の国ですから、国民はすべて自立しなければなりません。
 働く場所を作るのも、それを提供するのも、そして労働するコトも、全て国民一人一人が自分で責任を持って自立して能動的に行うのが原則です。
 これが社会主義国ならまた別ですが、日本は社会主義国でありません。
 基本的には自立するのが日本という国の国民の正しいあり方です。
 
 ですから、職がないという状態は、大なり小なりどうしても自己責任という部分が存在するというのは否めない事実です。
 なんでもかんでも自己責任という言葉だけで押さえつけるつもりは全くありませんが、自己責任が全く無いというコトも決してあり得ない話です。
 よって、その上で政府に職を求めるというのであれば、やはりお願いするというのが人としての筋というモノなのではないでしょうか。
 政府というのは公の存在であり、突き詰めれば日本国民全員の総意である存在です。
 その中には、キチッと自分の力だけで職を持っている人の方が多いのですから、その中において自分達だけに特別に力を貸して欲しいと願うという行為は、やはりそこは、お願いするという態度を取るというのが人としてのあり方なのではないでしょうか。
 もちろん必要以上にへりくだる必要はありません。
 乞食のように哀れみを請わなければならないとまでは言いません。
 しかし少なくとも、高圧的になるというのはおかしい話だと思います。
 今回の派遣村の問題は結局はここにあるんじゃないでしょうか。
 
 どうも派遣村から発せられる言動を見てみると、自分達がこのような現状に追い込まれているのは全て国が悪くて、自分達がこれから生きていくためのお金とか食料とか物資とか全て国が出して当然、それが義務であって、自分達が言うコトは即座に全て用意しなければならない、それができない国は悪だ、と言わんばかりの言い方ばかりが目に付いてしまいます。
 これでは外からの印象は良くありませんし、何か筋違いに思ってしまうのも当然です。
 また、求める方も、どうしても人間ですからこういう態度で要求が通ってしまうと図に乗ってしまい、どんどんエスカレートしてしまい、国がすべき妥当な部分を越えるところまで要求が行ってしまいかねません。
 まして今回の雇用の問題は、アメリカ発の金融危機が発端であり、日本政府には直接の責任ありません。
 日本政府の失策によって株価が下がったりしたというのであればまだしも、そうでないのに、自分達の職が失われた原因を「政府のせいだ」とか「麻生のせいだ」とか「政治が悪いんだ」とか言っても、それはただの八つ当たりとしか言いようがありません。
 これらの多くが、結局政府批判政治批判になってしまっている、他人のせいにしてしまっているのは、うんざりするしかありません。
 さらにそれすら批判できない体質を作りだしてしまった派遣村は、本来の、国が手助けして適切に職を斡旋するという行為から遠ざかり、いつの間にか政治運動とかに変わってしまうおそれを多分に孕んでいるワケです。
 実際、この派遣村を材料に政府批判が横行していますし、なぜかあの悪名高き九条の会も入り込んでいるようですしね。
 
 これらは今後じっくりと扱っていこうと思いますが、さっきも言いましたように政府とは国民全体の存在であるのですから、正しい状況判断は絶対に必要です。
 ですから、本当に理不尽に職を追われた人がいれば、その救済に動くというのは自然なコトです。
 しかし派遣村を見ると、政務官さんの言葉ではないですが、実際そんなに困ってない人や、本当に自分が悪くてクビを切られた人、さらには運動のために潜り込んでいるプロ運動家・プロ市民も数として入っている可能性があります。
 これでは正しい現状判断が出来ない状態になってしまっています。
 冷静に失業率などの数字を見たりして、現状をまず正しく判断してから、適切に問題に当たるというのが政府の仕事であって、感情に身を任せたままワッとやるのは甚だしく不適切な行為です。
 「政府のせいだ麻生のせいだ」と言うだけは楽ですが、本来は、キチッと自分のコトとして問題を捉え、今自分が何をするコトが自分のためになるのかを真摯に考えるコトこそが、自立した責任ある国民の姿なのではないでしょうか。
 
 そして、そういう国民が作る政治こそ、正しい政治のあり方だとやえは思います。
 なんでもかんでも「麻生のせい」と言っているようでは、なんの問題も解決しませんし、職を見つけるコトだって出来はしないでしょう。
 

平成21年1月13日

 労働者問題を考える上での前提

 これから何度か労働問題や派遣問題を扱うコトになると思うのですが、これからの更新では、その日の更新の内容に関わらず、今日載せる3項目については前提条件として優先されるコトとします。
 例えば、「派遣は身分がそもそも身分が軽くて自分が望んだんだろう」という主張をやえがしたとして、その反論として「しかし実体は正社員と変わらない」というモノがあったとします。
 その場合、今日の更新で「実体として正社員と変わらない仕事をさせられていたというのは問題であるので改めるべきだ」というコトを言っていますので、やえの意見としては、それはすでに踏まえた上での意見であるというコトになります。
 つまり、やえが言いたいのは、正社員と派遣の仕事の内容をキッチリ分けた上で、派遣という雇用体系は会社の都合であっさり切られても仕方ない、と言いたいというコトになります。
 この問題、全部を全部一回の更新に詰め込むコトなど不可能ですから、とりあえずまず基本的なところだけを今日書き出しておきたいと思います。
 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 では今日の本文です。
 
 
1.正社員と同じ労働をさせ、残業等も強制され自由もない上に保障もない。これは改善すべき。
2.無理してでも労働者を雇えと要求する → 企業業績が悪化 → 倒産 → 失業者が最初より増える。
3.派遣業法改正は間違っていた → 改正しなければ今派遣の人は無職のままだったかもしれない。
 
 
1.正社員と同じ労働をさせ、残業等も強制され自由もない上に保障もない。これは改善すべき。
 
 まず派遣問題で一番の問題はここでしょう。
 派遣というモノはあくまで雇用体系のひとつであって、企業においてあまり責任を負わない身軽な雇用体系です。
 例えば、残業は無しですとか、休日出勤を拒否できるとか、自分がその会社を辞めるときも気兼ねなく辞められる、これが正社員ですと時期の問題とか今やってる仕事の問題とか色々考えなければならないですからね、でも派遣はこの辺を深く考えずに辞めたり出来るというのが、派遣の雇用体系です。
 そしてそのかわり、身分保障も軽いワケですね。
 しかし今の派遣のあり方というのは、仕事が正社員並みなのに身分保障も軽くて縛りもキツイ、というのが現状のようです。
 これはいけません。
 正社員並みの仕事をさせ、正社員並みの縛りをかけておいて、切る時はあっさり切るというのでは、あまりにも理不尽というのが当然でしょうし、そもそもこんなコトがまかり通っていては、では正社員とはなんなのかという根本的な問題にもぶち当たってしまい、下手すると日本の雇用体系が根本から崩れてしまいかねません。
 まずここは、法令を改正するなり、行政がもっと厳しく監視する・指導するなり、また社会労務士にもっと頑張ってもらうなりして、徹底させるコトが必要だと思います。
 ここの段階は、この雇用の問題・派遣の問題の最も基本的な問題だと考えています。
 
 
2.無理してでも労働者を雇えと要求する → 企業業績が悪化 → 倒産 → 失業者が最初より増える。
 
 この流れはどうやっても無視してはなりません。
 最近の雇用の問題は、よく企業や政府が努力して雇用を増やせと言われているところですが、しかし例えば法律で「資本金1000万円以上の企業は必ず社員を50人以上正社員として雇用しなければならない」と決めたとしても、これでは絶対に解決なんてしません。
 なぜなら、こんな法律が出来たら倒産する企業が目白押しになってしまうからです。
 そして企業が倒産すればどうなるか、言うまでもありません、失業者がもっと増えるだけですね。
 雇用の問題は、決して人を雇う・失業者を救う、という「点」だけで見ても解決しない問題です。
 どの「点」を見ても、結局は全て「線」や「面」で繋がっています。
 雇用の問題を語る際には、その一点だけで考えずに、他の問題に影響が無いかどうか、他の問題によってはむしろ問題を悪化させないのか、こういうコトを線や面で考えるコトが必要です。
 
 
3.派遣業法改正は間違っていた → 改正しなければ今派遣の人は無職のままだったかもしれない。
 
 これも2と同じようなコトではあります。
 派遣業法の改正だけを批判しても無意味です。
 なぜなら、あの時派遣業法を改正しなかったらおそらく失業者は減らなかったでしょうし、それはつまり、確かに今クビを切られてしまったとしてもあの時の改正がなければ今まで職すら就けなかった可能性を否定できないというコトでもあるからです。
 極論ではありますが、数年前からずっと無職と、数年の間はそれなりに仕事をするコトが出来たというのはどっちの方がよかったのかという問題です。
 また、当時の国民もけっこう派遣という雇用体系を歓迎していた風潮もあったのですから、今になってから「あの法改正は間違いだった」というのは、ちょっと違うのではないでしょうか。
 1で言いましたように、運用の仕方はもっとシッカリとやらなければならないと思いますが、窓口の段階で派遣というモノがあるというのは、一概に全部悪だったとは言えないでしょう。
 安易に「改正はダメだった」と言うのではなく、その主張の結果としてはどうなってしまうのか、こういうところまで考えて主張しなければならないと思います。
 

平成21年1月17日

 自己責任と結果責任

 自己責任とは具体的にどういう意味なのでしょうか。
 これは人によって色々意見が分かれそうな問題でありますが、やえは、他者に責任を押しつけるばかりで自省できない人に対して「自己責任の結果だ」と投げかけられる言葉だと思っています。
 自省とは、自らを省みて、自分にも悪かった点がなかっただろうか、改善すべき点はなかっただろうか、努力不足の点がなかっただろうか、そういう自分で自分の反省をして、それを次に活かそうとする姿勢のコトです。
 そして自己責任とは、そういう自省の姿のコトを指し示し、それが足りないような人間に対しては「自己責任だから仕方ない」と言われるという構図である、とやえは考えています。
 派遣村の派遣問題でもその他の問題でもそうなのですが、「それは自己責任だろ」という意見が出ると、強い拒否反応を示す人がいます。
 というか、自己責任という言葉そのものに拒否反応を持っていると言った方がいいのかもしれません。
 自己責任というと、他者に対しての寛容性が皆無で突き放しすぎて排他的なので日本人気質に合わないのではないか、あまりにも冷たすぎる態度じゃないかというのがその理由のようです。
 しかしそれはちょっと違うんじゃないかな、とやえは思います。
 
 例えば派遣の問題に対して、派遣村の人たちを「自己責任だろ」と批難する主張というのは、これは
 「派遣という雇用体系を自分から選んだ」→「だから仕方ない」→「だから政府は支援する必要ない」
 という流れだと思われがちですが、しかし実際のところの批判に至る過程を見れば、決してこのような流れが批判に至る理由ではないと考えられます。
 
 これはどっちかと言うと、結果責任です。
 結果責任は、派遣という職を選んだという結果があったからこそ無職の状態になってしまったのだから仕方ないという意味になるのでしょうけど、もしそうであるなら、そもそもニートの存在そのものや、ホームレスという存在そのものに対しても、もっと早くから自己責任だろという批判が浴びせられていたコトでしょう。
 国の生活保護という制度にも、制度の存在からして認めないという主張がもっとあってしかるべきハズです。
 今でもその手の批判が無いとは言いませんが、しかしその規模は全然違うワケで、ではなぜ自己責任論が社会問題になるまで大きくなるのかと言えば、この派遣村の問題に関わらず自己責任論が爆発する時というのは、必ず批判される方からアクションがあって、批判というのはむしろこの披批判者のアクションに対して起こるモノであり、つまり披批判者のアクションがあるかどうかがポイントであるからです。
 つまり、そのアクションに対して、「自己責任だろ」と批判が湧き出ると言えるワケなのです。
 
 では、なにが批判されたのか、どういうアクションに対して自己責任論が出てきたのかと言うと、それは、派遣村に集っている人たちの姿勢の問題と言えます。
 それが全てとは言いませんし、ある特定の勢力が入り込んでしまったがために、いつの間にか政治運動化してしまって主張が先鋭化してしまっているという事情もあるのでしょうけど、それにしても結局、派遣村の主張があまりにもワガママ身勝手すぎるという部分が反発されているというのが現状です。
 前にも言いましたように、特に今回の不況は日本政府のせいでは全くないという事情も鑑みて、まともに働いている人の方が日本の中には多いのですから、その中で自分達だけ特別に税金で助けてくれと派遣村は言うのですから、日本人感覚からしたら下手に出るのが常識的、少なくとも高圧的に「政府の義務なんだから当然やれよ」と上から目線で言うというのは、やっぱりちょっとおかしいと言わざるを得ないでしょう。
 派遣村ではありませんが、どこかの市で臨時宿泊施設がいっぱいであぶれてしまった人たちが市役所に押しかけて職員に怒鳴り散らしていた光景をテレビで見たという人も少なくないでしょう。
 その上、食事も寝床も移動費まで税金から出されて当然だという態度をとるモノですから、さすがにこれには反発されてしまうワケです。
 
 そしてその反発として
 
 「上から目線で言う前に、自分が今までちゃんと努力してきたのか、自分が甘えたから今のような結果を招いたのではないか、その辺はキチンと反省して自省しているのか」
 
 という感情が一般国民からわき起こり、それが一言で言い表されて「自己責任じゃないのか」という言葉になるワケです。
 
 よく思い出してみてください。
 「自己責任」という言葉が広く認知されるようになった最初の事件は、あのイラクの日本人人質事件ですが、あの時も多くの国民は何に対して反発したのかと言うと、自分(の親族)の行動を棚に上げて身勝手な主張ばかりする人質の家族達のその姿勢にこそ反発したのです。
 やえはよーく覚えているのですが、あの時のイラクというのは、自衛隊を派兵するかどうかというコトもあわせて、イラクはとんでもなく危険なところだと、自衛隊が行くコトすら危ない危ないとマスコミが必要以上とも思えるほど喧伝されていましたから、そこに一般人がひょこひょこイラクに渡るコト自体が不思議としかいいようのない雰囲気でした。
 それなのに、人質達の家族は、そんな自分の行為など棚に上げて、とりあえず人質解放が第一で、日本政府は何が何でも命を助けるコトだけに専念して、それが義務なのだから我々の言うとおりにやれ、という態度バリバリでした。
 おまけに当然な顔をして「即時自衛隊の徹底」までを要求する始末。
 こういう家族の態度から、「自分の非はないのか、反省してないのか、他人にばかり責任を押しつけて、その態度は何だ」という世論の感情が爆発して自己責任論が巻き起こったのです。
 もしこれが、家族が涙を流しながら自分の家族が起こした不始末を詫び、日本政府やその関係者にかけた迷惑をあやまって頭を下げていたのであれば、自己責任論はわき起こらなかったでしょう。
 でも実際は、そもそも国民には「なんであれだけ危ないと言われていたイラクに行ったんだろう」という疑問符が付いている中で、さらに逆なでするような家族達の態度があったので、大バッシングになってしまったのです。
 
 決して世論は、結果に対して怒っていたのでは無いのです。
 人質にされたコト自体に対してへの批難というのは、もちろん多少の「なにやっているんだ」という感情はありましたし、それはそれである程度責められるコトだとは思いますが、それは自己責任論ではなく結果責任論と表現すべき責任論です。
 ですから、これがもし人質にならずに、仮に世紀の大スクープ写真や資料を手に入れていたのであれば、おそらく日本では英雄扱いされていたのでしょう、やっぱりそれは結果だけで評価が変わるという結果責任なのです。
 しかしそれと、自らの行動を振り返らず自省しない態度に対して反省を促す自己責任という概念は、似ている部分も多いですが、基本的には違う概念なのです。
 
 もちろん、どっちにしても日本政府は日本人の危機に対してそれなりの対応をするのが当然で、もちろんイラクの時も派遣の問題でも対応しなければならないと思いますし、実際しているところであり、自己責任論とは決して「対応しなくてもいい」と言っているワケではないコトは誤解してはなりません。
 実際イラクの時も派遣村の時も、政府は出来るだけの対応はしています。
 自己責任論が巻き起こる場合というのは、どちらかと言えば政府などに対して対応をするなとかそういうコトを言っているのではなく、求めている方に「その態度はおかしいだろ」と言っているワケであって、その延長として「そんな態度なら支援する必要ないだろ」という一つの制裁的な選択肢が出てくるだけであって、やっぱり自己責任論の主論は「自省しろ」というコトなのです。
 
 派遣村へのバッシングもよくよく考えてみてください。
 派遣村を救おうとする心は素晴らしいコトだと思いますし、国民のための政府であるのですからある程度の対応はして当然ですが、しかし政府も人間であるワケですし、それなら派遣村の方も人間らしい日本人らしい態度を取るというのが当然なのではないでしょうか。
 人は、「可哀想な人たちはどんな主張をしてもどんな態度をとっても許すべきだ」という考え方を許容するほどおおらかではありません。
 特に日本人は自らを律するコトが美徳とする文化と歴史を持っている民族です。
 結果として残念なコトになってしまった人に対して哀れみを持つコトも日本人としての美徳ですが、可哀想な境遇になったとしても自らを律してこそ次に繋がるというモノでしょう。
 それが日本人の優しさであり厳しさなのです。
 支援されるのが当然で自分達は何を主張しても許される存在だと言わんばかりの態度では、反発するなという方が難しいでしょう。
 派遣村の人たちは、もちろん全員とは言いませんが、自省が足りないとやえは感じています。
 
 自己責任論に拒否反応を示している人というのは、それは実は自己責任ではなく結果責任を求めるというコトに拒否反応を示しているのではないでしょうか。
 

平成21年1月25日

 大規模だから注目されるだけ

 派遣切りの問題では、どうしても企業が悪いんだという論調が強くなりがちですが、ひとつ冷静に考えなければならないコトがあると思います。
 それは、「派遣という業種に就いている限りは、いつかは解雇されるコトになるのはほぼ明白で、もしかしたら突然解雇される可能性も否定できないというコトは派遣の人本人も理解していた」というコトです。
 なにやら一部では、企業が違法的にクビを切っているんだ、ぐらい言っている人もいますが、これは間違いです。
 最初から最後まで、法的なルールを企業が破って強引に解雇したのではありません。
 それは契約時に派遣の人の方も分かっていたコトで、もしそれを知らなかったと言うなら、それこそ社会人としては責められてしかるべき態度と言わざるを得ないでしょう。
 そもそも「派遣」という言葉は、「会社に束縛されない自由な存在=いつ解雇されるか分からない不安定な立場」という意味を内在していると、マスコミがかなり大々的に扱ったせいもあって派遣法が改正された当時からかなり社会的に認知されていたと思いますので、正社員と対比されていたりもしましたし、解雇される将来を予想していなかった人というのはほとんどいない、いてもそれは社会人として見通しが甘すぎたと言っても差し支えないでしょう。
 
 まずここで派遣という雇用形態を能動的に選択したという事実があります。
 厳しいコトを言うようですが、どうしても正社員じゃないとイヤだと言うのでしたら、安易に派遣を選ぶのではなく、頑張って正社員への道を模索すべきだったでしょう。
 もし派遣が正社員並みに一生涯を保障するモノだと思っていたら、それこそ見通しが甘すぎたとしか言いようがありません。
 そもそも今の時代、正社員でも一生涯の保障なんて言えませんし。
 つまり、派遣という道を選んだ人がいつか仕事が無くなるというのは、社会全体で見ても本人から見ても、簡単に予想できたコトです。
 ある意味既定事実と言ってもいいでしょう。
 それを前提に法律があって、企業は考えていて、被雇用者も受け入れたと言えるのですから。
 
 その上で考えるならば、国がその対策をするのは当然です。
 というか派遣である無しに関わらず、失業した人に手を差し伸べ、次の仕事の斡旋をし、もし衣食住すら困窮しているのであればそれなりの対応をするのも、国の責務の一つでしょう。
 これらは通常業務です。
 もしこれらすら出来ていないなら非難されてしかるべきですが、これ以上を求めるのも行きすぎと言わざるを得ません。
 
 本来この問題はこれだけの話のハズなのです。
 正社員だったとしても、派遣社員だったとしても、フリーターだったとしても、ネットカフェ難民だったとしても、ホームレスだったとしても、職を希望するならハローワークなどを通じて国は支援しています。
 そして最悪どうにもならなかったら、生活保護という制度で、最低限度の生活を国が保障しています。
 何か今回の派遣切りの問題で国の制度が悪いとか、公務員の対応が悪いとかいう話やら印象が出てきてしまっていますが、しかし国の対応にことさらなにかまずいようなコトがあったのか、不備があったのか、やえにはちょっとそこまでは思えません。
 
 今回のアメリカ金融危機に端を発した世界恐慌の煽りを受けて失業した人が、「今回の問題は天災のようなモノだから、天災のように対応してくれ」と言ってたのを聞いたコトありますが、この主張は無茶です。
 派遣ははじめから突然解雇されてしまう可能性を常に内在しているからです。
 その解雇が、会社の都合なのか、それとも本人の資質によるモノなのかは、ケースバイケースなのでなんとも言えませんが、どちらにしても派遣である以上は突然解雇されても、契約上は仕方ないコトです。 
 そしてそれは、派遣本人も分かっていたハズです。
 ぜんぜんこれは天災ではありません。
 
 派遣村とか年末とかいう事情のおかげで多くの人の目にとまり、多少の無茶も行政に聞き入れられましたが、それは結局たまたま数が多かっただけに過ぎないとしか言えないでしょう。
 派遣に限らず会社の事情で解雇になっている人はずっと前から今現在進行形で必ず何人かはいるワケで、そういう人たちも含めて政府というモノは公平に対処しなければならないのです。
 国は目立った人だけを救うモノではありません。
 もし失業した人が日本にたったひとりだったとしても、政府はその人を支援する義務があります。
 ただそれだけの話なのです。
 

平成21年1月26日

 相互努力

 やえは、失業した人はすべからく本人の責任だから、政府も誰も手を差し伸べる必要はない、助ける必要なんて全くない、なんて言ってませんよ。
 
 まず先に、議論板で頂いたご意見のいくつかにお答えしておこうと思います。
 法的にどうこうという問題ですが、これはもう前提条件として言うまでもなく、コンプライアンスは当然です。
 法的に問題があると判断し、その上で裁判をするコトは、全ての国民に許された権利ですから、それ自体を批判するコトは誰にも出来ないでしょう。
 またその結果、解雇が不当であると裁判所が判断すれば、当然企業は是正するべきです。
 ただ、こんなのは言うまでもないコトです。
 この前雇用問題に関する前提条件としていくつか書き出しましたが、コンプライアンスなんてわざわざ書く必要もないぐらい当たり前のコトだと思うのですが。
 それから、契約というのは人それぞれケースバイケースですから、全体的な話の中では当てはまらない場合というのはどうしても出てくるとは思います。
 その中で、法の問題は法の問題です。
 法の問題の上で疑うべき問題があるのでしたら、最終的には裁判所で争う必要を視野に入れて主張するのは当然の権利だと思います。
 しかし法に則って行った行為であるモノは、それは粛々と従う必要が、法治国家の国民としてはあるのではないでしょうか。
 少なくとも、法に問題がないのに企業が法を犯しているんだと言わんばかりの主張というのは、責任転嫁を越えて、言いがかりと言われても仕方ないと思います。
 法の問題と倫理の問題をごっちゃにしてはいけません。
 
 もうひとつ。
 労働基準法の適切な運用はされているのか、正社員と派遣社員の格差は社会的に妥当なのかどうか、というお話しですが、これは前提条件としてすでに語ってます
 雇用の問題は色々な面があると思うので、そして一回の更新でそれを全て書き出していてはキリがないので、一回の更新ではどうしてもある面をピックアップしなければまとめきれません。
 しかしその場面しか語っていなくても、こういう問題は常に考えおかなければならないというのは当然の話でして、今回はそれを敢えて前提条件として一回の更新にまとめておきました。
 まずそれをお読みになって下さい。
 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 さて、話を戻しまして。
 やえは自己責任をことさらに大げさに語って、個人個人の結果責任だけに全ての責任を押しつけるような、そしてだから誰も助ける必要なんて無いと言った覚えは全くありません。
 例えば昨日の更新にしてみても、政府が職を失ってしまった人に対しては、キチンとフォローはすべきだと思っていますし、実際それは行われているし、もしそれが適切に行われていなければすぐさま是正すべきだと書いてあるハズです。
 結果が伴わなかったのは全て個人の責任で、それはもう仕方ないから切り捨てるしかないなんて言ってませんし、そう取られるのは心外すぎて、よく読んでくださいとしか言いようがありません。
 
 そして、その上でよく考えてもらいたいのは、「目立ったモノ勝ち」という風潮は間違っている、むしろそれは国民自身の首を絞めるコトになりかねないコトですよ、と言いたいのです。
 
 派遣村は、ある意味において、その存在は成功したと言えるでしょう。
 国や地方公共団体やNPOや政治団体などから通常以上の支援を得られましたし、企業も直接担当者を派遣村に人を出して雇用の募集をしたという話もあったようです。
 これは、人がたくさん集まって、またマスコミが取り上げて、たくさんの人に注目された成果といえるでしょう。
 派遣村の人はこれでよかった、と言えば語弊がありますが、村と呼べるぐらいの人数が集まったコトは良かったと言えるでしょう。
 しかし、忘れてはいけないのが、派遣村に集まった人だけが日本に存在する失業者ではない、というコトです。
 派遣村の人はそれなりの待遇を勝ち得ましたが、日本にはここまで支援されている失業者ばかりではない現実があるハズなのです。
 これを忘れてると、つまりは同じ失業者の中でも格差が存在しているコト、それを黙認してしまっているコトに他ならないのではないでしょうか。
 派遣村の人達は可哀想だ可哀想だと言うだけでは、実はその行為は他の失業者を見捨ててしまっているコトになってしまっているのではないかと思うのです。
 
 派遣村に集まった人だけを救えば、日本に存在する雇用の問題が全て解決するワケでは全くありません。
 それを考えれば、やえは派遣村だけを特別視するような論調やマスコミの報道の仕方は納得できないのです。
 これは雇用の問題だけでなく様々な問題でも言えるコトで、やえも過去に同じような構図の問題に言及してすが、マスコミに取り上げられて目立てば優遇されるという風潮というのは、これはむしろ平等から遠ざかる、格差を生む構図なのではないかと思います。
 目立たない人、目立つことすらできないような、もっと手を差し伸べなければならない人が、目立つ人の存在によって、ますます支援の手から遠ざかってしまう可能性があります。
 派遣村の人だけでない失業者の人のコトを思えばこそ、政府という公平な存在は目立つところばかりに目を向けるのではなく、全ての国民に公平に支援をしなければならないと、そうやえは思うのです。
 そう書きました。
 派遣村を絶対視するような報道や視点というのは、もっと支援しなければならない人がいるのではないかという視点を失わせ、むしろさらなる格差を生み出している元凶にすらなってしまっているのではないでしょうか。
 
 やえはいつも言っています。
 政府の対策、もしくは役人の対応が悪ければ、それは非難されてしかるべきです。
 だからこそ政府の対策は、しっかりと中身を見て、それについて議論をしなければなりません。
 だからやえは、自民党の政策ビラ(注PDFファイル)を紹介したり、麻生さんのメルマガでいろいろと経済政策を紹介したりしています
 そして、もしこれらが足りないというのであれば、それを正面から議論すべきだと、常日頃言い続けています。
 
 でも多くの国民がしているコトはなんでしょうか。
 経済政策への議論ではなく、麻生さん個人が給付金を受け取るかどうかのコトが、一番大きな関心になってしまっていました。
 
 
 (つづく)
 

平成21年1月27日

 相互努力 (下)

 でも多くの国民がしているコトはなんでしょうか。
 経済政策への議論ではなく、麻生さん個人が給付金を受け取るかどうかのコトが、一番大きな関心になってしまっていました。
 また国会では、その話を仕掛けたのが民主党は、他にも漢字読み取りクイズなんてやって喜んでいる始末
 まぁこんなコトが国民の支持を得られているとはちょっと思えませんけど、しかし次の選挙の結果がどうなるか……ともかく、多くの人は「派遣の人をなんとかしろなんとかしろ」と言いつつも、そのための具体的な政策にはほとんど関心がないというのが現実のところと言わざるを得ないでしょう。
 なんとかしろと言うだけでは問題は解決しません。
 まして総理が給付金を受け取る受け取らないなんて些末な問題が明らかになったとしたとしても、一切雇用問題には影響は出ないでしょう。
 注目すべきは、派遣村とか総理の受け取るかどうかとかいうような、中身の無い、興味本位で注目しているだけではないかと言わざるを得ないような部分ではないと、やえは思います。
 
 政府が努力しなければならない、それは当然です。
 現場においてはハローワークなどを通じて、ひとりひとりの雇用の斡旋等フォローしなければなりませんし、大局においては、個人の力では到底及ばない景気問題などについて対策を打っていかなければなりません。
 政府は努力すべきです。
 
 そして、それと同じように、個人も努力をしなければなりません。
 
 派遣を一方的に解除され失業者になってしまった人は可哀想な人なんだから、黙って待ってればお上が職を自動的に与えてくれる。
 こんな態度は、やえはとてもじゃないですけど許容できません。
 就職氷河期等いろいろと不運な出来事があった人もあるでしょうけど、だからといって他人の力の上にあぐらをかいていいとはならないハズです。
 高度経済成長期やバブル期は確かに就職は今より遙かに楽だったでしょう。
 しかしだからといって、そんな時期と比べて、それと同程度の努力でなんとかなるようにしろ、と言ってしまうのは無茶にも程があります。
 人間の人生においては、どうしても運というモノは存在してしまい、それは残念ながら人によって差が出てきてしまうモノで、結局ある種これも才能と言える部分に含まれてしまうワケですから、運がいい悪いを他人と比べて悪いから埋め合わせしろと言っても、そんなの詮無いとしか言いようがありません。
 運が悪い人もいて、それは時期によってもある、これは事実ですから、就職氷河期とか運悪く当たってしまった人は考慮してほしいというのは分かります。
 分かりますが、しかしそれは努力しなくていいという免罪符では決してありません。
 
 企業に倫理を求めるのは、それは間違ったコトではありません。
 特に日本の風土に合った企業の倫理は、日本が日本としてこれからもあり続けるために必要でしょう。
 しかしこれは、企業だけに求められるモノではないと思います。
 企業に倫理が求められるのと同じぐらい、労働者にも倫理は求められるべきなのではないでしょうか。
 
 雇用の問題は個人ひとり一人の問題ですから、全ての場合のおいてケースバイケースであり、例外というモノはいっぱいあります。
 ただ、その中において、本当に努力をしているのか、他人のせいにしてしまっているのではないか、政治運動が主になってしまっているのではないか、そう言わざるを得ないような人もいるというのは事実だと思います。
 それはそれで指摘する必要があると、やえは思っています。
 特にこういうのはテレビや新聞などの大メディアはほとんど扱いませんしね。
 そしてなにより、もしこういう労働者の倫理が抜け落ちている人が目立ってしまって、結果的にそういう人たちばかりが優遇されるような事態になってしまうと、それは本当に困っている人が困ったまま救われない状態になってしまうコトを許してしまうコトになりかねません。
 目立っている人だけが困っているのではない、という事実から目をそらしてはなりません。
 例えば、派遣村にいた人の中には、元派遣ではなくはじめからあまり働く気のないホームレスがたくさんまぎれていて、ただの食料目当てだったという話がちらほら聞かれますように、これがもし本当であれば、一番損をするのは派遣村にすら行けないメディアにも取り上げられない先日急に解雇されてしまった失業者のハズです。
 「目立った者勝ち」というのは、最も良くない不平等の形だとやえは思っています。
 
 政府も努力する。
 企業も努力する。
 そして個人も努力する。
 本来社会とはこういう相互努力によって成り立っているモノです。
 政府だけが努力すればいい、企業がもっと頑張れば良くなる、これだけでは片手落ちです。
 この大不況の前において、政府が努力するのも当然ですし、企業にはもっと頑張ってもらわなければなりませんが、個人も今まで以上に努力をしなければならないのではないでしょうか。
 そうしてこそ、日本はこれからも力強く前進していけるんだと思います。
 そして、もし政府にしても企業にしても個人にしても、そういう努力が足りないのであれば、どんな立場であっても非難されてしかるべきです。
 でなければ、声が大きい人だけが(時に不当に)得をして、本当に困っている人が困ったままになってしまうのではないでしょうか。
 

平成21年10月26日

 貧困についてもう一度

 改めて貧困について考えてみます。
 
 まず金曜載せました文章ですが、これ基本的な部分で資料の読み違いをしていました。
 端的に言いますと、貧困としているラインの年収の額が、ウィキペディアや一部報道では224万円となっているのですが、これ実は全然違っているようなのです。
 実際のラインは、こちらに厚生労働省が資料を出してしますのでご覧いただければと思いますが、金曜の文章は、大部分がこの間違った認識を元にして、この人は貧困者なのかというコトを書いてしまいましたモノで、特に前半はまるで意味をなさない文章になってしまいました。
 ご迷惑をおかけしまして申し訳ありません。
 とりあえず貧困と分類される人の手取りは224万円よりもっと低いラインにあるというところを理解していただければ、それで結構かと思います。
 ちなみに、相対的貧困率で定義する貧困のラインは

 世帯の可処分所得(≒手取り)を世帯人員の平方根で割って調整した所得の中央値の半分に満たない世帯員の割合

 だそうです。
 
 で今日は、その上で、金曜の更新の後半部分の、「ではこの現実を前にした時どう考えるべきか」という部分を、事実誤認を訂正して、もう一度載せておきたいと思います。
 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 やえは別に社会弱者救済政策をするなと言っているワケではありません。
 それは政府の大切な仕事であり、積極的に行っていく必要があると思っています。
 しかし行うなら、キチンとその人達に恩恵が受けられるような制度にしなければなりませんし、同時にそうでない人たちにまで恩恵を与えてしまうようなムダを作ってはならないハズです。
 
 例えば日本の制度の中には「生活保護」という制度があります。
 これは、本来何らかの事情で働けない人たちに対し、最低限度の生活を国家が保障するためにある制度です。
 この制度なかなか複雑なので一概には言えないのですが、例えばウィキペディアにあります例には

 単身世帯 31歳
 第1類 40,270円(20-40歳)
 第2類 43,430円(単身世帯)
 住宅扶助 (最大)53,700円
 合計 137,400円(月額)

 とありますように、おそらく現実問題、働かないという条件で考えた上でこれで生活していけるかどうかを考えれば、十分に生活はしていける支給を得られる制度になっていると言えるでしょう。
 もちろん子どもがいる場合などはもっと給付額が増える仕組みになっています。
 そして本来的な意味で言えば、この支給を元にして生活基盤を作り、その上で仕事を見つけて普通の生活を送って下さいと言うべきところです。
 生活保護だけで暮らしていくというのは、本来的な意味からは外れていると言えるハズですからね。
 ですから、役所の窓口でこの制度を受けるためのハードルが高いというのも、ある意味当たり前の話であり、もし働きたくないからという理由だけで生活保護を受けるというのは、それはただの甘えでしかないでしょう。
 そういう人には給付しないよう気をつけ、そして必要な人にはシッカリと給付をして、次のステップに行ってもらうというのが、生活保護の本来の姿です。
 このように、現実の運営に問題が全くないとは言いませんが、その人が望めば、制度的には「貧困」と呼べる生活を強いられるコトは日本ではないと言えるのです。
 
 これはけっこう前にも言いましたが、この問題はある意味イメージの問題とも言えます。
 というのも、日本語で表現するところの「貧困」という言葉は、かなり強烈な印象が残る言葉です。
 明日にもお米一粒もなくなるような、もうガリガリで生きているのに何の楽しみもひとつもなくて、生きる希望すらなくなってしまうかのような、それほど強いインパクトのある言葉です。 
 辞書を引いてもですね

 ひんこん 0 【貧困】(名・形動)[文]ナリ
 (1)まずしくて生活に困っている・こと(さま)。

 とあり、さらにウィキペディアです

 貧困(ひんこん)は、主に経済的な理由によって生活が苦しくなり、必要最低限の暮らしもおぼつかない様子をいう。

 と、かなりしんどい状態の様に表現しています。
 しかし、日本国憲法で定めるところの「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」に則って制度が作られている生活保護を受ければ、その額を見てもそれなりの生活ができそうだと言うのが妥当であり、それを本当にギリギリの「最低限度」と表現できるのか、まして「貧困」と呼べるのかは、かなり疑問が残るところでしょう。
 果たしていま本当に貧困している日本人というのはどういう人なのでしょうか。
 少なくとも生活保護を受ければ、まともな生活を送れば、貧困とは呼べる状態にはならないと思います。
 
 もちろん人それぞれ事情があるでしょう。
 例えば病気をしているとかです。
 そういう人たちに無理に働け、働かない方が悪いんだと言うのは無茶な話ですが、ですからその場合は、その場合でキチンと別の形で国が手助けをすればいいのです。
 やえはそれまでを否定するつもりはありません。
 そしてそれが足りなければ、法律を作るなりして整備していかなければならないコトでしょう。
 大切なのはここです。
 もし病気とか様々な特殊な事情で生活保護だけでは生きていけないような人がいるなら、それを手当てする制度を作らなければなりませんし、そのためにこそ、こういう人たちがどれだけ存在しているのかを統計としてとらなければならないハズです。
 またこういう人に対しても窓口のハードルが高いのであれば、それは改めなければなりません。
 大切なのはそういう「現状に即した統計」です。
 政治を動かすのであれば、どれだけ現状を正しく把握しているのかが大切なのです。
 
 そして、冷静な状況判断も、主権者たる国民は求められるのではないでしょうか。
 このような記事もあります。

 「受ける側に何が必要かを考えてほしい」
 
 「とにかくうれしいです」。金沢市の佐藤洋子さん(45)=仮名=は、年内の母子加算復活が決まり、安心した表情を見せた。
 毎月、生活保護費など約二十四万円で暮らす。育ち盛りの小中学生の娘三人との四人家族で、五万円弱の食費は増える一方だ。支給日前の夕食は、具がモヤシだけのお好み焼きやふりかけご飯でしのぐこともある。「ごめん、もうお金ないから」「いいよ」。素直に納得してくれる娘たちには感謝している。

 金沢市にお住まいのこの方ですが、四人家族で生活保護費などを合わせて月24万円で生活しており、また生活保護を受けると国民保険や医療費なども免除になりますから、総額で言えば普通の人に比べてもっと多い計算になるのでしょう。
 こちらにこの家族の項目別の生活費が載ってますが、果たしてこういう人を「貧困」と呼べるでしょうか。
 生活が楽かどうかは別にしても、インパクトの強い「貧困」という文字で表現するほどの生活ではないと、やえは思います。
 
 そして、生活保護を受ければ、ここまでの生活はできるワケです。
 
 果たして、「貧困」と本当に呼べる人がどれだけいるのか、そしてもし本当に生活保護以下の生活を強いられている人がいるなら、なぜその人達はそういう生活をせざるを得なくなっているのか、ここを考えなければなりません。
 他にも日本には生活保護意外にも様々な制度が用意されています。
 現場の運用も合わせて、その制度を必要としている人がどれぐらいいるのか、活用している人がどれだけいて、現状で足りている人はどれぐらいいて、足りていない人はどれだけいるのか、そしてその足りていないと感じる要因は何で、どれぐらい足りない人が各段階において何人いるのか、政治を行うにあたってはこういう数字を本来は出すべきでしょう。
 単にイメージが先行する、大雑把すぎる貧困なんて言葉を持ち出しても、実際の政治にはなんの意味もなしません。
 
 貧困と一言で済ませてしまうと、そこで原因の追及がストップしてしまいがちになります。
 中身をすっ飛ばして、ただ単に「かわいそうな人がいっぱいいる」だけしか見えてきません。
 しかしそんな大雑把な感想だけで政治を動かすコトは出来ないハズです。
 ただ単にインパクトのある「貧困」というモノを表すのではなく、もっと事細かに、なぜ生活が苦しい状況に追いやられているのか、その原因は自分にあるのか別の要因なのか何なのか、もし自分の力だけではどうしようも無いのであればどれだけ公的な支援が必要なのか、そこをキチッとケースごとに考えなければいけないでしょう。
 ざっくばらんに貧困の数を出して、ここにお金をこれだけ出せばいいなんてバラマキする、なんというのは本来の政治ではありません。
 最初にも言いましたように、弱者救済政策というのは国家にとってもっとも大切な仕事の1つですから、そこを実際に機能する形として制度設計するためにも、現実に即したデータ元にし、そしてそれを冷静に分析し考えていかなければならないハズなのです。
 
 繰り返しますが、やえは弱者救済政策をするなと言っているワケではありません。
 本当に必要であれば、多額の税金を投入するのも致し方ありません。
 しかしシッカリと考えなければならないコトは、本当に必要な人だけに必要な額だけを支給するようになっているのかどうかです。
 イメージだけが先行してしまうコトによって、本来なら必要のない人にまで支援をしてしまうというのはムダとしか呼びようがありませんし、さらにそれは、真面目にこつこつと生活している人に対して不平等を生み出しているコトになります。
 国家が自らの手で不平等を生み出すコトは、あってはならないコトです。
 そしてさらに、こうしたイメージ先行の“水増しされた”データを、政争の具にしてしまうのは、あまりにも政治をゆがめる結果にしかなりません。
 可哀想とか感情で政治をするのではなく、イメージだけに囚われるコトもなく、キチンと現実を見た正しい政治が行われるよう、国民も冷静に政治もデータも見ていかなければならないでしょう。
 

平成21年10月28日

 「一見弱者」を排除してこそ真の弱者救済が成り得る

 御意見板での書き込みですが、誤解されたままではアレですので、レスいたします。
 まずは引用です。

自分が指摘するのも何なのだが
 
http://www.dpj.or.jp/policy/manifesto/seisaku2009/18.html
に書いてあるように読めますがね。
 
治水政策の転換(みどりのダム構想)
ダムは、河川の流れを寸断して自然生態系に大きな悪影響をもたらすとともに、
堆砂(砂が溜まること)により数十年間から百年間で利用不可能になります。環境負荷の大きいダム建設を続けることは将来に大きな禍根を残すものです。
自然の防災力を活かした流域治水・流域管理の考え方に基づき、森林の再生、自然護岸の整備を通じ、森林の持つ保水機能や土砂流出防止機能を高める「みどりのダム構想」を推進します。
なお、現在計画中または建設中のダムについては、これをいったんすべて凍結し、一定期間を設けて、地域自治体住民とともにその必要性を再検討するなど、治水政策の転換を図ります。
 
ダム計画見直しはこれに基づいたものでしょう。
大義名分は民主党にもある(これが正しいかどうかはまた議論が必要でしょうが)

 さて。
 八ッ場ダムに関しては、民主党は名指しでマニフェストにこのように書いています

 川辺川ダム、八ッ場ダム建設を中止し、生活再建を支援します。

 八ッ場ダムと川辺川ダムは、「建設凍結」ではなく「中止」と、ハッキリと明記しています。
 つまりこの2つのダムについては、検討する段階をすでに終えて(いるハズ)中止すると決定しているんだと民主党は言っているワケです。
 また前原大臣も同様に、「マニフェストに掲げた八ツ場ダム中止の方針は堅持する」とおっしゃっています
 民主党マニフェストには911さんがご指摘の部分もありますが、しかし八ッ場・川辺川ダムの方が項目が上であり、こちらの方が優先されると読むのが自然でしょう。
 それは前原大臣の発言からも証明されると言っていいと思います。
 
 八ッ場ダムと川辺川ダムは、もはや「中止」であり、これは民主党の中では決定なのです。
 
 よって、八ッ場ダムと川辺川ダムには、ご指摘の民主党マニフェストにある「これをいったんすべて凍結し、一定期間を設けて、地域自治体住民とともにその必要性を再検討」という部分は掛からないコトになり、すなわちご批判の「ダム計画見直しはこれに基づいたものでしょう」は当てはまらないものと解釈すべきと考えます。
 
 以上、少なくとも、八ッ場ダムと川辺川ダムについて、なぜ中止するのかその理由が分かりません。
 もしどこかにあればご指摘いただければと思います。
 ありがとうございます。

 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 生活保護の問題や派遣労働者の問題を取り上げると、すぐにムキになる人がいます。
 昨日のやえの更新に対してもそうですし、過去これらの問題を取り上げた時もそうですが、弱者的な人を批判するようなコトを書くと、弱者を叩くなんて何事だ、弱者の本当のつらさを知らないんだ、お前がその身になってみろ、というような言葉を投げかける人がけっこういます。
 あの小林よしりん先生も、どうも自己責任という言葉が嫌いなようで、派遣村バッシングに対しても強い嫌悪感を隠さず批判していたコトもありました。
 
 確かに、ネットの内外を問わず、弱者になったのは自分の責任じゃないか、税金を使って弱者救済の政策なんて一切必要はない、なんていう意見も一部にはあります。
 無いとは言いません。
 しかしやっぱりこれは一部だけのモノだと思いますし、少なくともやえはそんな風には思っていません。
 昨日も繰り返し言いましたように、やえは弱者救済政策は国家の重要な仕事のひとつだと思っていますから、必要な場面には必要なだけ政策を進めなければならないと考えています。
 
 昨日の更新でやえが何を言いたいのか、その主題を、ムキになっている人や弱者批判バッシングする人は、よく読んでよく考えてもらいたいです。
 昨日の更新は、『弱者を救済するためにも、大雑把なイメージだけが先行するようなデータではなく、現状に即したデータをとるべきだ』という主が本題です。
 そしてそれこそが、真に弱者を救済する道だと、やえは思っています。
 
 正しくないデータは、むしろ真の弱者救済の道を閉ざす結果になりかねません。
 派遣村なんかが顕著ですが、実際派遣村に集まった人の中には、元々ホームレスの人とか派遣切りには全く関係ない人とかがけっこう紛れ込んでいたのは、紛れもない事実です。
 弱者批判バッシングの人はこの事実を指摘するだけでもバッシングを始めるワケですが、でも派遣村の趣旨からして名前からしてやはり派遣の仕事をしていないホームレスの人が混じっているというのは、正しいあり方とは全く言えないでしょう。
 しかも、そんな派遣村の趣旨とは全く関係ないホームレスとかの人の存在を黙認した上で、主催者や一部マスコミはデータを発表します。
 「派遣村には○○人集まっています」と。
 これはなぜでしょうか。
 答えは簡単です。
 数が多い方がセンセーショナルであり、世の中から注目を集めやすいからです。
 例えば「派遣村には5人しか集まりませんでした」と言ったらどうでしょうか。
 たぶん注目は集まりません。
 年末のあのときのような大騒ぎには全くならなかったでしょう。
 だから主催者も一部マスコミも、趣旨とは関係ないホームレスが紛れているコトを知っていながら、それを黙認して、しかも“水増し”したデータを発表したワケです。
 
 そしてこのデータは、いつしか事実化してしまいます。
 「こんなに大勢派遣切りにあった人がいて、明日の食事すらままならない人がこんなにして、いったい政府はいままで何をしてきたのか」という論調につながるワケです。
 これは政治の問題であり、「政争」に他なりません。
 事実、厚生労働省が色々と動いたワケですから、これは完全に政治問題です。
 しかしよく考えてもらいたいのは、そもそも最初の政治が動くキッカケとなるデータは、これは捏造された水増しされたウソのデータだというコトです。
 すなわち、政治がウソによって動いたコトになるのです。
 一部マスコミは、政治を批判するためにウソのデータを黙認したのです。
 批判するコトが最初から決定事項としてあり、そのために現状を無視してデータを改竄したのです。
 これはあまりにも歪んだ形だとしか言いようがありません。
 
 派遣村は、実際の支援を求めるコトよりも、注目されるコトの方を優先させているとしか言いようがありませんでした。
 
 念のために言っておきますが、おそらく派遣村に集まった人の中には、本当に派遣切りにあって年を越すのが難しい人もいたんだろうと思います。
 そういう人には行政はしっかりと措置を執らなければならないでしょう。
 しかし派遣村は注目されるコトの方を優先にしたために、そういう本当に救済が必要な人たちに対する、現状に即したきめ細かい措置からは、むしろ遠ざかってしまったのではないでしょうか。
 例えば寝床ひとつとってもそうです。
 確か東京都が施設の開放などを行っていましたが、派遣村の人数が多いと、やはり解放できる施設にも限りがありますから、自ずと限界が来ます。
 また、施設を開けるというコトは、つまり休みのところの公務員を出勤させるコトに他なりませんから、やはり数が多ければ多いほど、税金がそれだけかかってしまうワケです。
 しかし、その派遣村には、多数のホームレスが紛れ込んでいました。
 これにより、もしかしたら本当に支援が必要な人があぶれてしまった可能性も否定できませんし、税金など余分な無駄は確実に多量に発生したとしか言いようがないのです。
 これでは、真の弱者救済など出来はしないでしょう。
 
 正しくない現状を無視したデータは、政争の具に利用され、本当に救済すべき人へのサポートがむしろ遠ざかる結果にしかなりません。
 
 本当に弱者を救済すべきと考えている人は、弱者のフリをしている人(やえはこれを「一見弱者」と呼んでいます)を排除し、データをとるなら現状に即した正しいデータを作るように、むしろ積極的に行動すべきです。
 これをせずして、ただただ救済救済と叫び、さらにやえのような主張にすらバッシングをするというのは、ただ単に自分がいい人と思われたいだけのパフォーマンスでしかないのではないでしょうか。
 「弱者救済」と言えばそれだけで自分は正しい位置にいられると、自分に酔ってしまっているだけなのではないでしょうか。
 現実を見ましょう。
 貧困論もそうです。
 ただただ、ものすごいインパクトのある「貧困」という言葉を世に広めて、それだけで政治を動かすという「政争」をしていては、目立つ人だけが優先となって、アピールすら難しい本当に困っている人がますます埋没する結果になってしまうでしょう。
 そうではなく、本当に真に困っている人を救済するのであれば、そういう人が現状どれぐらいいて、なぜ困っているのか、どのように困っているのか、どうしてほしいのか、そういう「エラーの無いデータ」を作る必要があるでしょう。
 マスコミの考え方は、センセーショナルで目立って注目が集まればいいのでしょう。
 そうすればスポンサーからお金がもらえるのですからね。
 しかし政治はそうではありません。
 普通に生活する人やマスコミにむしろ注目されないようなとてもとても困っている人こそをシッカリとサポートするのが、本来の役割のハズです。
 政治にパフォーマンスは必要ありません。
 もし本当に弱者救済が必要であると考えるのであれば、この構図を正面から見据えなければならないでしょう。
 
 やえは、本当に真に困っている人がいるのであれば、それは政府がサポートすべきだと思っています。
 だからこそ、正しくないデータを自ら改竄し作り上げて政争の具にしようとする人や団体や『一見弱者』を批判するのです。 
 それこそが真に困っている人への救済になる道だからです。
 

平成21年10月30日

 弱者救済のための正しいデータ

 ここは今後の弱者救済論にとっても大切な部分になってきますので、重複する内容が多いとは思いますが、繰り返し取り上げます。
 一行メッセージボードの書き込みです。

 貧困率のデータは正しいんでしょ?

 つまりこれは、やえは先日の更新でいろいろとごちゃごちゃ言ってるけど、厚生労働省の出した貧困率のデータは正しいんでしょ? というコトなんだろうと思います。
 そしてそれは、正しいからこそこのデータを利用して政治が行われるコトに、なんの問題があるの? とつながるのではないかと推察されます。
 
 右も左も逝ってよし!!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 おはろーございます。
 
 まずはですね、「正しい」と一言で言っても、「どのように正しいのか」という問題があるワケです。
 今回厚労省が出した相対的貧困率のデータは、役人などが捏造していなければ、数字としては正しいのでしょう。
 そこを疑うつもりはありません。
 ただし、それを「貧困率」と呼んでいいのかどうか、という部分に疑問があるワケです。
 
 この相対的貧困率はどのように導き出されたかと言いますと、厚労省によれば

 世帯の可処分所得を世帯人員の平方根で割って調整した所得の中央値の半分に満たない世帯員の割合

 となっていますから、「世帯の可処分所得を世帯人員の平方根で割って調整した所得の中央値の半分に満たない世帯員の割合」の結果としては、これは間違いなく正しいと言えます。
 ですから「世帯の可処分所得を世帯人員の平方根で割って調整した所得の中央値の半分に満たない世帯員の割合」が日本では約16%近くいるというのは、紛れもない事実でしょう。
 そこは疑いの余地がありません。
 しかしここで重要なのが、果たしてそれを「貧困率」というたった一言の言葉で表して適切かどうかなのです。
 「世帯の可処分所得を世帯人員の平方根で割って調整した所得の中央値の半分に満たない世帯員の割合」で出した数字がイコールで「貧困率」と呼んで本当に正しい表現と呼べるのかどうか、ここを考えなければならない問題であるワケなのです。
 もっと言うと、外国語では分かりませんが、少なくとも日本語で言う「貧困」とはものすごいインパクトのある言葉であり、そのインパクトに「世帯の可処分所得を世帯人員の平方根で割って調整した所得の中央値の半分に満たない世帯員の割合」が釣り合うかどうか、ここを考えなければならないのです。
 
 確かにこの相対性貧困率というのは、OECD(経済協力開発機構)が世界基準のひとつとして定めている統計ですから、見方によってはひとつの指針ではあろうとは思います。
 しかし、その統計がどれだけその国の実情を正しく反映できるのか、またそれをその国の政治に反映させるに十分価値のあるモノかどうかというのは、また別問題です。
 他の国はよく知りませんが、日本の場合、この統計を元にして「貧困者がこれぐらいいますよ」と言ってしまうと、その割合の人が明日の食事もままならない、昨日の話で言えばホームレスなどを除く本当に明日困っている派遣村住民の人だけの数のように想像してしまいます。
 そして、政治もそれを元に、批判や政策を実行してしまうワケです。
 でもそれだと先日言いましたように、無意味な政争が始まり、結果的に大変な無駄や、真に困っている人への対策がむしろ遠ざかる結果になってしまうのではないかと思うのです。
 いくらOECDの基準とは言え、「世帯の可処分所得を世帯人員の平方根で割って調整した所得の中央値の半分に満たない世帯員の割合」が日本の政治にとって意味のある統計なのか、そしてそれを「貧困率」と表現していいのか、ここはよく考えなければならないでしょう。
 
 数学の問題ではないんです。
 これは国語の問題と言っていいでしょう。
 もしくは心理学の問題であり、イメージやインパクトの問題なのです。
 
 そもそも、なんのためのデータを取るのか統計を取るのかを考えなければなりません。
 なんのためか。
 それは、政治を実際に動かすためであり、もっと言えば、困った人を手助けしサポートをするためです。
 すなわち、統計を取るコトが先なのではなく、統計とは困った人を助けるために政治が実情を知るために行うモノであるのです。
 よって、データを取る際において最も大切なのは、「手助けが必要な困っている人がどれだけ存在するのか」という部分なのです。
 当たり前ですよね。
 弱者救済が政治の使命の一つであるコトはその通りですので、そのためにも、果たして真に手助けな人がどれぐらいいるのか知らなければ、政治はその人たちにどのようなサポートが必要なのかを考えるコトが出来ませんし、そもそも存在を知らなければ手助けを予算と時間を割いて実行しようという動機にすらならないワケです。
 政治にとって大切なデータというのは、『政治のサポートが必要な人がどれだけ存在しているか』です。
 変な話ですが、本当に貧困している人というのが確定できたとしても、それが政治的なサポートを必要しないのであれば、政治の上ではその統計は必要としない統計でしかないと言えてしまうワケです。
 重要なのは「サポートが必要な人」です。
 政治にとっては型通りの統計的な数字がほしいのではありません。
 
 日本語で表現するところの「貧困」と聞いてしまうと、それに該当する全ての人は直ちに速やかに政治の手助けが必要な人であるととらえるのが、おそらく普通の感覚ではないでしょうか。
 しかし、「世帯の可処分所得を世帯人員の平方根で割って調整した所得の中央値の半分に満たない世帯員の割合」であるなら、その全てが本当に政治の手助けが必要な人かどうかは、かなり疑問の残るところでしょう。
 「世帯の可処分所得を世帯人員の平方根で割って調整した所得の中央値の半分に満たない世帯員の割合」の統計の存在自体は否定しませんし、人によってはこの統計が必要な人もいるんでしょう、よく分かりませんが、それは否定しません。
 だけど、これをそのまま政治に反映させるべき統計か、政治に必要なデータかどうかは別問題です。
 これは派遣村の問題と同じ構図といえるでしょう。
 確かに「派遣村に参加した人数」という意味においては主催者発表は正しい数字をおそらく出しているんだろうと思いますが、しかしそれはイコールで「派遣切りにあった本当に政府が手助けしなければならない人数」ではないワケです。
 一言で「貧困」や「派遣村参加者」と言っても、それが必ずしもそれが政治的な現状を正しく反映しているとは限らないコトを知っておかなければなりません。
 
 こういう問題はけっこう多い問題ではないでしょうか。
 例えばよくマスコミを賑わす統計で、国別幸福度とか住みやすさ度とかありますけど、そのタイトルだけ見ればインパクトがあるワケですが、よくよく考えればそのデータにどれだけ意味があるのかは、ちょっとよく分からないというところなのではないでしょうか。
 これで政治が動かなければただのお遊び的なモノで済みますが、政治が動くほどのコトであれば、やはりキチンと検証なり議論なりしなければなりません。
 そうでなければ、この前言いましたとおり、真に政治の手助けが必要な人に、その手が差し伸べられない結果になりかねないのですから。
 

平成21年12月3日

 一所懸命働くというコト

 今日はちょっと時間がありませんので、やえの疑問というか、問題提起をしてみようと思います。
 
 昨日テレビのニュースで、例の外国人死体遺棄容疑で逮捕されている市橋容疑者の様子を伝えている様を見たのですが、そこでふとやえの頭の中にひとつの疑問が浮かびました。
 確か市橋容疑者って、逃亡生活中に建設会社に勤めて100万円ぐらい貯めたって言ってましたよね。
 これですこれ。

 市橋容疑者「貯金して親に恩返し」? 大阪潜伏時はめがねに野球帽
 
 「金が必要だ。助けてほしい」。市橋達也容疑者(30)は昨年8月、大阪府茨木市の建設会社の採用担当者に訴えた。募集会場の大阪市西成区からバスに乗り込み、約3畳半の会社寮で住み込みを始めた。
 仕事ぶりはまじめ。ソーラーパネルの取り付けや土木作業をこなし、作業を覚えるための手書きメモを持ち歩いた。同僚は「パネルの種類が図解で書いてあった。絵がとてもうまかった」。
 周囲には「金をためたい。親を温泉旅行に連れて行って恩返しがしたい」と話し、夜勤の仕事も率先してこなした。飲酒も喫煙もせず、胴巻きに現金を入れて肌身離さず持ち歩いた。

 市橋容疑者が犯したとされる事件が事実だとしたら(まだ判決は出ていないですからね)それは当然罰せられるべきですが、しかし少なくともこの逃亡生活の際には、市橋容疑者は本当に真面目に勤勉に働いていた様子がこの記事からうかがえるます。
 もちろん仕事は大変だったでしょうし、また寮も3畳半と決して一般的とは言えないぐらいの悪条件と言える環境だったと言えるかもしれませんが、それでもキチンと真面目に働いて、そして一年も経たないぐらいで100万円ぐらい貯めたワケです。
 それは素直に頑張ったと言えるでしょう。
 
 そう考えたとき、果たして「仕事がない仕事がない」「それは全部政府が悪いんだ」「政府はなんとかしろ」と言っているような人たちの主張というのは、本当に正しく現状を反映した言葉なのかどうかと、ふと疑問が浮かんだのです。
 
 市橋容疑者の逃亡生活中の境遇というのは、一般の人間に比べれば遥かに厳しい状況だったでしょう。
 逃亡生活中ですので、当然住む場所がなかったでしょうし、それは同時に住民登録している住所が無かったというコトです。
 またそれだけでなく、公的な身分証明書も無ければ、電話もなければ、本名すら明かせない状況だったワケです。
 おそらく派遣村に集まった人のだれよりも、働き始める条件という意味では、一番厳しかったのではないでしょうか。
 
 でもそんな市橋容疑者でも、キチンと働く場を得るコトができ、そしてお金も100万円も貯めるコトができたのです。
 
 さてこの現実をどう考えるべきなのでしょうか。
 別に全ての人が、市橋容疑者よりも働きやすい環境にあると断言するつもりはありません。
 でもそれでも、やっぱりちょっとひっかかる部分というのはやえの中にあります。
 
 今日は問題提起ですから、もしもっと現状は違うんだよ、もっと厳しい人はいっぱいいるんだよというコトをご存じの方がいらっしゃいましたら、どうぞやえに具体的に教えてください。
 どうぞよろしくお願いいたします。
 

平成21年12月7日

 政治問題になってしまっている派遣村問題

 先週、市橋容疑者が数ヶ月で100万円貯めたコトについて、なぜ市橋容疑者は逃亡生活という極めて社会的に不利な条件だったのにも関わらず働く場はあったのに、逃亡生活よりはマシな生活であろう思われる派遣村とかの人たちは全然職がないと騒いでいるのか、という疑問を呈しました。
 つまり、本気で働く気があるなら、今の世の中日本であれば、それなりに働くコトは出来るのではないのかと、そういう意味だと言っても差し支えありません。
 よくホームレスの人なんかは、住所がないから働けないなんて言う人がいますが、住所が無くても働ける場所は、少なくとも日本の中に1つはあったワケで、もちろん探せば一橋容疑者がお世話になった建設会社以外にもあるのではないかと思われるワケですね。
 これをどう考えるべきなのでしょうか。
 
 これらの問題ついて、御意見板で次のように書き込みを頂きました。

 何か仕事がないってのを雇用からあぶれた求職者にとっての問題だけで見てません?
 仕事がないっつーのの根本は
 市場経済のなかで需要と供給のバランスにおいて供給が無駄に多く需要が全然足りないせいで、物を作ったりサービスを供給したりすることでまともな対価が得られないようになっているってことなんですよね。
 そもそも企業にとってのやるべき物造るべき物自体が足りん状態な訳です。
 雇用に影響が出てきているのはその波及効果なわけで、労働市場で明日の行く末を貧乏揺すりしながら案じている労働者に罵声を浴びせたって何の益もないわけですよ。
 だって彼らが需給ギャップ埋めれるワケじゃねーんだもん。
 
 そして貧困率に関する更新でも強く思いましたけど、所得水準が低い層に対する問題意識が、世間がどういう論調か以前に、やえちゃんの頭の中で救済するかしないかの二択になっていませんか?
 酷く気になります。
 貧困率が高いというなら、経済成長とそれに伴う雇用環境の改善に私はまず頭が行きます。
 セーフティーネットによる救済がどうこうと論ずるのは一足飛びに感じるのです。

 御意見ありがとーございまーす。 
 で、確かにおっしゃっているコトはもっともです。
 厳しい雇用の現状を目の当たりにした時、考えるべきコトは経済の問題であり、もっとも効果的な雇用対策はむしろ経済対策であるというのは、その通りでしょう。
 またそれに伴い、雇用環境の改善が必要であるというのも、その通りだと思います。
 
 ただ、それはそれとしてひとつ考えなければならないコトは、しかし残念ながら派遣村の問題とかこの手の問題というのは、すでに政治問題になってしまっているという事実です。
 もしこれが一部の人たちが騒いでいるだけの、ひとつの主張だけというのでしたら、やえはおそらく更新で取り上げない程度の扱いしかしなかったでしょう。
 もしくは取り上げたとしても、ここまで何度も何度も取り上げるコトはしなかったでしょう。
 ひとつの意見に対して、一回程度反論するぐらいな形になっていたと思われます。
 これが「ひとつの意見」であればです。
 しかしもはやこの問題は、「ひとつの意見」という枠を飛び出して、すでに政治問題になっているのです。
 政治問題になっている以上、「労働者に罵声を浴びせた」とかそういうレベルで語る問題ではないのです。
 現実問題として、政治と行政はどうあるべきかという視点で、この問題は見なければなりません。
 
 そうした場合、やはり果たして、少なくともあの派遣村に対して行政としては適切に動いたと言えるのかどうか、ここに大きな疑問を持たざるを得ないワケです。
 
 経済対策の方が必要であり、雇用で困っている人がたくさんいる状況は、それは経済問題だと認識すべきという意見はその通りだと思いますが、しかし実際に行政は経済対策だけでなく、直接的な救済策、すなわち生活対策にも手を出してしまっているのです。
 経済対策と生活対策は基本的に別物です。
 つまり、果たして派遣村に対してそのような行政の生活対策が必要なのかどうか、ここを考えなければなりません。
 その上でやえは、例えば市橋容疑者は、一部の派遣村にいるような人たちよりも社会的身分が厳しい状況だったのにもかかわらず、お金を貯めるコトが出来たというのはどう考えるべきかと問うたワケです。
 行政が動く必要もなく、本人の努力でどうにでも出来た部分がとても大きいのではないかと、そう言いたいのです。
 
 本人が努力すれば解決するような問題に行政が過剰に手を出すのは、それは今流行りの「無駄」な行為です。
 例を挙げるまでもなく昨年の派遣村に対する対策にはそれなりの公金がかかっていますが、それは大きな無駄な部分がとても大きかったのではないかと、こうこの問題は考えるべきなのです。
 もちろんこの意見はイコールで「経済対策をする必要はない」という意見ではありません。
 これは全然次元の違う問題です。
 さっきも言いましたように、経済対策と生活対策は別物ですからね。
 この問題というのは、ここをキチッとわけて考えなければならないのです。
 
 とてもきびしいコトを言うようですが、例えば日本でも一昔前までは、どんな年でも性別でも、歯を食いしばって肉体労働に汗を流してお金を稼いでいた人はいっぱいいました。
 美輪明宏さんの名曲「ヨイトマケの唄」にもありますように、子供を養うために母が女手一つで土方(やえはこの言葉を差別用語とは思いません)に汗を流してえんやこーらと働いたのです。
 そこに年齢も性別も3Kも能力も何もないのです。
 ちょっと前まで日本でもこのような光景はあったワケです。
 
 もちろん時代が違います。
 それは認めます。
 時代が変われば人の考え方は変わるのはそうですが、しかし人間の体が時代の変化に合わせて働けなくなったワケではないでしょう。
 これをただ単に時代が違うからという一言で済ませられるモノなのでしょうか。
 時代が違うからと言って、簡単に政府に頼って、むしろ政府を罵倒して助けろと言っていいモノなのでしょうか。
 
 繰り返しますが、経済対策と生活対策は別物です。
 それと同じように、雇用環境問題も同じように考えられない問題です。
 日本の一昔前の「ヨイトマケの唄」の時代の労働環境のままで今でもいいとは決して言いません。
 また、市橋容疑者が働いていた環境が具体的にどうだったのかはなかなか情報が少なくて断言できるモノではありませんが、一般的に考えればあまりよくない環境だったかもしれません。
 寮なんて3畳半とかいう話ですしね。
 ただ、良い悪いなんていう判断は所詮相対評価でしかなく、真面目に人より勉強して難しい試験に合格した高級官僚の待遇と、住所も電話も本名すら必要なく働ける場の待遇とは、簡単には比べられないでしょう。
 そしてその上で考えなければならないのは、市橋容疑者だけでなく、その建設会社には他にもそれなりの数の方の従業員がいるという事実です。
 市橋容疑者だけでなく、もっと多くの人が同じ環境で働いていたというのが事実としてあるワケです。
 労働環境の問題は考えなければなりません。
 しかしそれはもっと広く高い視点に立って全体を見据えながら考えなければならない問題であって、例えば一部では最低賃金を1000円にしろという無茶なコトを言っている人もいますが、そうではなくてもっと広い視点で考えなければなりません。
 そしてそれとは別の問題として、市橋容疑者が働いていた建設会社の人たちは今でもそのような環境で働いているのです。
 なにが「良い」のか、よくよく考えなければならないでしょう。
 この現実もひとつの現実なのですから。
 
 最期に言っておきますが、やえは「明日の行く末を貧乏揺すりしながら案じている労働者に罵声を浴びせ」てるとは全く思っていません。
 この前何回も更新をして語りましたように、本当に困っている人に政治の目を向けるためにも、必要でない人がかなりの数紛れているという事実をしっかりと見据えなければならないと、そう指摘しているだけです。
 「明日の行く末を貧乏揺すりしながら案じている労働者」のために、やえはそれに紛れて甘い蜜を吸おうとしている輩を批判しているのです。
 ここを間違えてほしくありません。
 
 大声を上げて叫べば政治が動いてなんとかしてくれる、なんて状況を作ってはなりません。
 特に今の民主党鳩山内閣というのは、経済対策よりも生活対策ばかりに目がいっているようにしか思えない政治状況だけに、ますますここはキチンと考えなければならない問題ではないかと思います。
 さらに言えば、ネット上では派遣村に懐疑的な意見もけっこう見受けられますが、これが現実の場合、まだまだ大マスコミはここに手を付ける勇気を持てないでいます。
 となれば、「国民の声」として、経済対策よりも生活対策の方が大切なんだと、下手すれば経済対策がおざなりになるぐらい派遣村の問題を取り上げてしまう可能性は否定できません。
 実際前回の衆議院選挙では、生活対策ばかりをマニフェストに書いている民主党が政権を取ったワケですからね。
 
 これはいつもやえは言っていますが、国家は国民の安楽装置ではなく、むしろ国民が自らの努力の上で運営していくべきモノです。
 本当に無駄削減するのであれば、国民こそが率先して無駄削減に取り組まなければならないでしょう。
 なかなか経済対策などの大きな問題は国民ひとりひとりの力では及ばない場合が多いですが、そのための政府であり、よって国民は政府にその仕事を大いにやってもらうためにも、無駄な生活対策など行わないよう、自ら努力して行動しなければならないのではないでしょうか。
 

平成21年12月8日

 それとこれとは話が別

 これはもう労働問題とかそういうのは関係のないお話になってしまいますが、定期的にこの問題は出てきますので、お話をしておきたいと思います。
 昨日の更新に関して、またまたお返事を頂きました。
 そこではこのように御意見をいただいています。

 実際今回の更新では
 ・雇用を政治問題化し非効率な直接的救済を誘発することで利益を得ようとする集団の存在を憂慮する
 という本論は伝わりました。
 しかし、先日の更新のように市橋容疑者が働けたのであるから、他の失業者もなんとかなるはずだと「だけ」言われれば、木を見て森を見ずの暴論であると、基本的に意を共にする私であっても指摘せざるを得ないのです。
 また、不穏な勢力が派遣村を政治問題化するさい利用した
 こんなに苦しい人間が居る
 と個別事例をクローズアップして大局的に何が必要なのかを見失わせる手法に対して
 こういう人間だって居る
 とまた個別事例を当てて反論しようとも、それはすでに相手の術中に嵌った、的はずれなものにしかなり得ません。
 政治問題化している、というならなおさら、本当に必要な政策は何かという視点から語るべきではないでしょうか?

 なんて言いましょうか、前回も言いましたけど、おっしゃっているコトには特に異論はありません。
 その通りだと思います。
 ただ、やえが今まで言ってきたコトと、このご意見というのは、基本的に視点が違うんですよね。
 経済対策と生活対策は別物と言いましたが、だからこそこれはあまり同時に一緒くたにして語るべき問題ではないのではないと思っています。
 特にやえの文章は、わりと話題があっちにいったりこっちにいったりしがちだと自分でも思っているぐらいですので、わりと気をつけている点でもあります。
 つまり、話題があっちにいったりこっちにいったりすると、結局何を伝えるべきなのか主題が分かりづらくなりますので、文章においては主題がより鮮明になるよう、それを中心に話をします。
 経済対策が大切というご意見はごもっともですが、しかしそれと、この一連のやえの更新の主題は、実は全然別物なのです。
 
 もし日本全体の構造的な問題、もしくは景気などの問題をどうにかするべきだというお話、さらに雇用環境問題もそうでしょう、そういう大きな政治的な問題を主題としているのでしたら、やえは当然そこをお話していたコトでしょう。
 その場合そういう話の中で市橋容疑者の例のようないちいち現場のお話をするのは、むしろ主題から離れるお話ですから、邪魔なだけだと思います。
 しかしやえはこの一連の更新に関して、そこは主題ではありませんでした。
 では何をやえは伝えたかったのか。
 この一連の問題は、経済対策でも雇用問題でもなく、これは日本人が今労働というモノに対してどう考えるべきかという問題なのです。
 どちらかと言えば、これはとても身近な、国民ひとりひとりの心の有り様、考え方の問題なのです。
 
 別の方が、「派遣村を放っておいたら暴動が起きていた、これを防ぐにはマスコミ規制しかない」という主旨のコトを御意見板でおっしゃっていますが、確かにマスコミを規制すればこの問題は起きなかったでしょう。
 しかしやえは、なんでもかんでもマスコミが悪い、マスコミだけをどうにかすればいいなんていう論は、これはちょっと極論というか、現実論ではないと思っています。
 というのも、マスコミはマスコミでやはりある程度の世論というモノには影響を受けるモノであり、やはり一番大切なのは国民の考え方だろうと思うからです。
 民主主義国家ですしね。
 
 その上で考えれば、ではどうすれば派遣村の問題は起きなかったのかと言えば、それは「国民が派遣村を甘やかさなければ良かったのではないか」とやえは考えるワケです。
 前回も言いましたように、ネット上ではともかく、現実世界においては未だに「派遣村の人たちは可哀想な人たちだ」という論調が主です。
 しかし実はそうではない、もっと努力すべき点がある、例えば市橋容疑者のような例もあるし、まだまだ努力すべき余地はたくさんあるんじゃないか、国民はそういう目で派遣村問題を考えるコトも必要ではないのかと、そうやえは言っているのです。
 もし多くの国民が派遣村という集団のニュースを目の当たりにした時、「おいおい、何を甘ったれたコト言っているんだ」「努力すべきところはまだあるんじゃないのか」「こういう例もあるようにもっとやるコトはいっぱいあるんじゃないか」という論調が主であれば、この問題はここまでの大きな問題にならなかったとやえは思います。
 派遣村(とそのバック)は明らかにマスコミの報道と世論の後押しに増長していましたしね。
 これはデモにも全く同じコトが言えますが、結局デモというのは主張の中身や集まった数ではなく、まずはマスコミがどう伝えるか、そして国民がどう捉えるかによって、その「成否」が決まると言っても過言ではないでしょう。
 ですから、マスコミも当然批判されるべき点はたくさんありますが、それと同じようにそれを捉える国民の問題も決して小さくないハズです。
 マスコミ規制だなんて言うのは簡単ですが、しかしやえが考える根本的な問題は、国民の考え方の問題だろうと思っているのです。
 
 市橋容疑者の例や、ヨイトマケの唄の例は、この視点に立ったときとても重要な例示であると考えます。
 一行ボードの方で「3Kだから無理な話だ」というような書き込みがありましたが、そもそもこの発想こそ間違えではないのかと、やえは言いたいです。
 確かに誰しもそういう仕事はしたくないと思うのは分かりますが、しかし皆が皆自分の望む仕事が出来るワケではありません。
 その上でどうしてもお金を稼がなければならない状況に陥った場合には、「やりたくないから」という理由だけでそれを拒否するのはいかがなものなのではないでしょうか。
 しかし今の時代というか世の中の雰囲気では、それを堂々と主張するコトすら少しはばかれるような空気があったりしています。
 おそらく「自分がイヤなコトを他人に言うのはどうなのか」という考え方が根底にあるんだろうと思います。
 でもそれはやっぱり違うんですね。
 残念ながら人間はみな平等でありませんし、様々な環境があって、それらを全て一律に平坦にするコトは出来ません。
 また、労働するだけの年齢になっているのであれば、それは子供の時代の努力の差というモノがありますから、大人に対して、いまの自分の環境と他人の環境を単純に比較するコトはできないでしょう。
 そうした上で、「働きたくないから」という理由で公園を占拠するような人たちに対して、厳しいコトを言うコトも、それは社会としては必要な行為だとやえは思うのです。
 「まだ働ける場所はあるんじゃないのか」「もっと厳しい状況でも働いている人はいるんだよ」と、そう言うコト、そしてなにより他の国民がそういう事例をキチンと把握して、派遣村とかの人たちを必要以上に甘やかさないようにするコトは、社会として必要なコトだと思います。
 誰だって働きたくはないでしょう。
 働かずに自動的にお金が入ってくるなら、こんないいコトはありません。
 しかしそうでないのが現実の社会というモノです。
 これは、やえがいつも言っています、「国家は国民の安楽装置ではない」「国民こそが国家を運営する責任を負っている」という趣旨にそう、もしかしたら一番象徴的な事案なのかも知れません。
 
 「例示の失敗は時に致命的なほど議論の場を荒らします」とおっしゃっていますが、しかし一連のやえが取り上げている問題に関しては、主題的に、むしろ経済対策を語るコトの方が議論の混乱の元です。
 やもすれば、「経済対策しない政府が悪い=居直り派遣村は正しい」とすり替えられる可能性、まさしく議論が混乱してしまう可能性を否定できません。
 何度も言いますが、経済対策と生活対策は別問題です。
 やえは生活対策について、むしろ人の考え方として今の在り方どうなんだと、そう疑問を呈しています。
 また、派遣問題には全く関係の無いホームレスまで派遣村に多数紛れ込んでいた事実も、経済対策とは全く関係ないところでの指摘になります。
 これらの問題に経済対策の議論が入り込む余地はありません。
 経済対策は必要だと思っていますが、それとは全然別次元の問題として、同時に国民としての責任ある言動を指摘するコトも必要でしょう。
 
 もしやえに対して、「経済対策はどう考えているのか? 必要だと思っているのか?」という問いでしたら、主旨から大きく外れないご質問だったかと思います。
 しかし、「書かないから考えていない」と決めつけ、「個人の問題にすり替えている」と言わんばかりのように指摘されるのは、やえとしたら全く理解に苦しむご指摘と言わざるを得ません。
 やえの主論とは関係ない話で主論を批判されても、それは全く的はずれだとしか、申し訳ありませんが、言いようがありません。
 経済対策や雇用問題についての議論と、労働というモノに対する人の意識の問題や、派遣村にホームレスが紛れ込んでいる問題というのは、これはどちらの論もお互いに影響を与えない、どちらかと言えば同時並行的に議論できるモノであって、こっちの意見を言わないからダメだとか良いだとか、そういうレベルで語れる話ではないのです。
 
 これは本当に昔からよく言われるコトですが、書いていないコトが即それを考えてないとか否定するかのように捉えられては、やえは困るとしか言いようがありません。
 1つの文章で伝えられるコトはそんなに多くありませんし、何でもかんでも詰め込むと、むしろ主題が分からなくなるという弊害があります。
 そしてなにより、今回の件で言えば、経済対策と生活対策は別物ですから、もっと言えば経済対策は政治問題であり、しかしやえの主題は「人の考え方に対する問題」ですから、これらの話を一緒くたにするのはまるで混乱の元でしかないのです。
 言うなれば、「経済対策なんて言うまでもない問題」であって、なぜ言わなかったのかと言われても、言うべき場ではなかったとしか言いようがありません。
 また過去にやえは、麻生総理が出していた経済対策には、確かけっこう評価していたハズですし。
 そしてこれも過去何度も取り上げてきましたが、労働環境に関する問題というのは、もっと考えるべき点が多い問題です。
 前回も言いましたように、ヨイトマケの唄の時代のままの労働環境でいいとはやえも言いませんし、しかし良い悪いというのは相対評価でしかないのでどこに落としどころを付けるのか、例えば最低賃金1000円なんていうのはむしろ働く場である企業を圧迫する考え方でしかないなど、様々議論すべき点があると思います。
 こういう問題は、そういった点はそういった点として考えるべきだと思いますし、それはまた別の機会がふさわしいでしょう。
 
 今年の年末はまた去年のような騒ぎがあるのかどうか分かりませんが、国民はひとりひとりが主権者として責任ある言動をして欲しいと、やえは切に願います。
 

平成21年12月10日

 頑張って働いている人がいるというコト

 なんだか政治についてはもはや語るのもバカバカしい状況になってきて、嫌気が差してきそうです。
 だからといって何も言わないのも良くないので、キチンと指摘するところはしていきたいと思っていますが、それにしても脱力するコトばかりです。
 特になんですかこれ。

 鳩山首相「経済対策をもっと早く打てば良かったのに。ここまで深刻になってしまったことは残念」
 
 ――今年度の税収が37兆円を下回り、国債発行額が過去最大の53兆円に達する見通し。来年度の新規国債発行額を44兆円以内に抑える考えに変わりはないか。
 
 「これはあの、リーマンショックからきていますからね。それまで私ども野党時代を通じて、経済対策をもっと早く打てば良かったのにな、という思いがあります。それだけに、ここまで深刻になってしまったことは、残念なことではありますけども、しかし経済をある意味では、しっかりと立て直していかなければならんということで補正を組んだ前政権の考え方も分からんわけではない。
 どこまで有効であるか、ということで我々は事業仕分けのような、凍結のことも行いました。しかし、結果として税収も大きく減ったわけですから、結果として、国債をこうせざるを得なかったということは国民の皆さんも理解をして頂けるのではないかと、そう思います。

 自分がいままで何を言ってきたのか、自民党政権に対して何をやっていたのか、本当にまるっきり忘れたとでも言うのでしょうか。
 ホント、ウソで塗り固められた政権です。
 選挙前に主張していた全てがウソだったと言わざるを得ないこの政権に対して、果たしていま民主党が権力の座に座っているコトに正当性があるのか、ぜひ民主党を支持した投票したという方に聞いてみたいところです。
 
 さて、こんなコトを言っていると腹が立つばかりなので、話題を変えます。
 申し訳ないのですが、労働問題をしつこく続けたいと思います。
 この前この問題で更新した一連の分、まとめておいた方がよさそうですね。
 
 一行ボードの方でこのような書き込みをいただいたのですが

名無しサン<12/09 00:37>読んでる人は一橋と派遣村を結びつけちゃうから、なんかおかしくね?って思ってるんだよ。

 やえからしてみれば、正直、なにがどうおかしいのかよく分かりません。
 出来ればキチッと理屈立てて説明していただければ助かります。
 
 というのも、結局派遣村とかの人たちは、いったいどういう理由で働くコトが出来ないのか、そこの理由があいまいというか、分からなすぎるので、議論もキチンと出来ていないのではないのでしょうか。
 そしてそんなあいまいなまま、ただただマスコミのミスリードによって、「派遣村=可哀想な人たち」という方程式が出来上がってしまっています。
 しかし本当にあの人達は可哀想な人たちなのか、そこはキチンと冷静に議論しなければいけないでしょうし、それは「行政や政治が動くべきコトの問題なのか」という視点で、考えなければならない問題でしょう。
 
 その中で、市橋容疑者の話は、ひとつの考えるきっかけになる例示だとやえは思います。
 もちろん市橋容疑者ひとりだけの問題であるならそれはある意味極論というか、市橋容疑者個人の資質というモノもかかっくる問題ですから局地的な問題にしかならないのかもしれませんが、しかし忘れてはならないのはこの前も言いましたように、あの建設会社に働いている人は決して市橋容疑者ひとりではないというコトです。
 さらに言えば、市橋容疑者が勤めていた会社が、極端に珍しい会社だったとも、やえにはちょっと思えません。
 そう考えたとき、「働く場所がない」と言っている人のその論拠は、本当に正しいのかどうか疑問に思うというのは、むしろ当然のコトなのではないでしょうか。
 
 逆に考えてみましょう。
 市橋容疑者がその建設会社で働くコトが出来たのは、果たして市橋容疑者だからこその特殊なパターンだったのでしょうか。
 別の人だと働くコトのできないような、そんな特殊なケースだったのでしょうか。
 もしそうであるのでしたら、これは例としてはふさわしくないでしょう。
 しかしやえにはあまりそうは思えません。
 逃亡のためにという強い思いがあったからこそ耐えられたという点もひとつあるかもしれませんが、しかしそれも結局は「お金を貯めるため」という理由であって、明日の食事さえままならないとかそういう厳しい事情の人とそう思いの強さは変わらないのではないでしょうか。
 というか、それぐらい強い思いを持っているのではないかと、思っているハズだと、やえは思っています。
 そして繰り返しますが、市橋容疑者以外にも従業員がいたのですから、特別市橋容疑者が優秀もしくはその職業に合っているからという理由も、そこまで考えられないと思います。
 
 やえは逆に聞きたいです。
 なぜ市橋容疑者の例が派遣村との対比の例にならないのか。
 別に市橋容疑者だけと比べているつもりはないのですが、それは市橋容疑者と名指しした方が分かりやすいので名指ししているだけであって、これを「市橋容疑者が勤めていた建設会社の従業員」としても全く意味は同じですから、ではどうしてこういう人たちは一所懸命働いている一方、派遣村の人たちとかは働かずにただただ政府に向かって支援を呼びかけているだけで可哀想と思われてしまっているのか、ここがやえは疑問なのです。
 かたやもしかしたら非常に厳しい条件かもしれませんがそれでも汗を流して働いている人がいるのに、かたや働きもせずに他人の力をアテにしている人がいて、しかしそれなのに後者の方が多くの人に同情され、まして支援を受けるというのは、これは社会的にあまりにも不平等なコトになってしまっているのではないでしょうか。
 やえが問いたいのはここです。
 どんな厳しい環境だったとしても汗水垂らして一所懸命働いている人が確実にいる中で、では派遣村とかの人たちと、汗を流して働いている人たちの間にはいったい何が違うのか、どこが違うのか、ここを是非とも教えてもらいたいのです。
 
 もちろん、これは過去何度も言ってますが、例えば病気ですとか怪我ですとかで、誰が聞いてもやむにやまれない事情があって働けないというのでしたら、それは支援も致し方ないと思います。
 むしろそういう人たちに光を当てて、場合によっては救済するというのは、政府の大切な仕事のひとつでしょう。
 でもそうでない人がけっこう目立つ数ぐらいは派遣村にいたようにやえは感じました。
 また日本経済・景気がとても悪く、雇用情勢もなかなか良くならないですから、その中で必死に職を探している人の苦労を鑑みて、鳩山内閣にはもっと強力な景気対策・雇用対策をしてほしいと、これは当然思っています。
 しかしだからといって、自らの努力を捨ててただただ政府や他人を批判して、それだけで金が落ちてくるような構図を作っては、社会的にも政治的にもとてもまずい状態になってしまうのではないでしょうか。
 なぜわざわざ日比谷公園なんていう公官庁街に集まってシュプレヒコールをあげているのですかと、そんなコトしているヒマがあるなら、市橋容疑者のような例が示すようにやれるコトはいっぱあるのではないですかと言いたい、そしてなにより、そう国民が考えて変に甘やかしてしまうような考え方はやめるべきではないかと言いたいのです。
 これを許しているのは、社会的にも政治的にも、大きな無駄と不平等を生み出しているとしか言いようがないのです。
 
 市橋容疑者の例は、努力する余地がまたまだあるというひとつの例示です。
 やえの主張そのものはべつに市橋容疑者が存在しなくても成立する、というかその前からずっと言っていたコトと同じですから当たり前なのですが、市橋容疑者の例示はそれを補強する材料でしかありません。
 「騒ぐ前に努力べきだし、その余地はある」
 ただこれだけのコトなのですが、ではそれがなぜ当てはまらないのか、ぜひとも教えていただきたいです。
 この問題は「政治の不平等」を産んでいる問題なのですから。