では、逆にこの津地鎮祭訴訟廷判決では、どのような行為が憲法20条行為に違反すると定めているのか見てみましょう。
(二) 憲法20条3項により禁止される宗教的活動
憲法20条3項は、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」と規定するが、ここにいう宗教的活動とは、前述の政教分離原則の意義に照らしてこれをみれば、およそ国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いをもつすべての行為を指すものではなく、そのかかわり合いが右にいう相当とされる限度を超えるものに限られるというべきであって、当該行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきである。その典型的なものは、同項に例示される宗教教育のような宗教の布教、教化、宣伝等の活動であるが、そのほか宗教上の祝典、儀式、行事等であっても、その目的、効果が前記のようなものである限り、当然、これに含まれる。そして、この点から、ある行為が右にいう宗教的活動に該当するかどうかを検討するにあたっては、当該行為の主宰者が宗教家であるかどうか、その順序作法(式次第)が宗教の定める方式に則ったものであるかどうかなど、当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならない。
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またまた長い引用になってしまったので、箇条書きでまとめてみましょう。
・政教分離原則とは、決して国などが宗教との関わり合いを持つコト全てを否定するものではない
・何が禁止されているのかと言えば「援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為」である
・その典型的な例を言えば「宗教の布教、教化、宣伝等の活動」であり、祭典などでもこれに該当すると見なされれば政教分離原則違反と言える
・そしてそれらは、ただ外形的側面だけを見て決めるのではなく、様々な観点から総合的に社会通念に従って客観的に判断しなければならない
つまりは、社会通念に従ってその式典などが「宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為」に当たるかどうかで政教分離原則に違反するかどうかを判断する、というコトになります。
ここで、総理大臣が靖国神社に参拝するコトが違憲であるかどうかを判断する前に、ちょっと話がズレるのですけど、次の判決文に興味深いコトが書かれていますので、それを紹介しておきます。
なお、憲法20条2項の規定と同条3項の規定との関係を考えるのに、両者はともに広義の信教の自由に関する規定ではあるが、2項の規定は、何人も参加することを欲しない宗教上の行為等に参加を強制されることはないという、多数者によっても奪うことのできない狭義の信教の自由を直接保障する規定であるのに対し、3項の規定は、直接には、国及びその機関が行うことのできない行為の範囲を定めて国家と宗教との分離を制度として保障し、もつて間接的に信教の自由を保障しようとする規定であって、前述のように、後者の保障にはおのずから限界があり、そして、その限界は、社会生活上における国家と宗教とのかかわり合いの問題である以上、それを考えるうえでは、当然に一般人の見解を考慮に入れなければならないものである。右のように、両者の規定は、それぞれ目的、趣旨、保障の対象、範囲を異にするものであるから、2項の宗教上の行為等と3項の宗教的活動とのとらえ方は、その視点を異にするものというべきであり、2項の宗教上の行為等は、必ずしもすべて3項の宗教的活動に含まれるという関係にあるものではなく、たとえ3項の宗教的活動に含まれないとされる宗教上の祝典、儀式、行事等であっても、宗教的信条に反するとしてこれに参加を拒否する者に対し国家が参加を強制すれば、右の者の信教の自由を侵害し、2項に違反することとなるのはいうまでもない。それ故、憲法20条3項により禁止される宗教的活動について前記のように解したからといって、直ちに、宗教的少数者の信教の自由を侵害するおそれが生ずることにはならないのである。
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この部分は、憲法20条の2項と3項の関わりについて書かれています。
2項とは「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」であり、3項は「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」です。
ご覧のように、かなり難解な文章になっていますので、かみ砕いて書いてみるコトにしましょう。
2項の部分は全ての宗教上の行為を強制されないという意味に対し、3項の部分は先ほどまで述べてきた通り国と宗教とを完全に切り離すコトは出来ないと考えるべきであるので、そうなれば2項と3項では「信教の自由」の定義に大きな開きが出てくる。
よってこれらは個別に考えるべき問題であって、すなわち2項で「全ての宗教について強制禁止」としているからと言って、3項にまで「全ての宗教」を当てはめるべきではない。
同じように3項では「国と宗教を完全に切り離すコトが出来ない」としているからといって、それを2項に当てはめて強制させるようなコトもしてはならない。
つまり、「個人の信教の自由」とは、国が宗教と関わり合いをある程度持つというコトを認めた上での、それを強制されないという形によって保証されているモノであり、国が宗教と関わり合いを持つという事実だけによって「宗教的少数者の信教の自由」が侵害されたとは解釈できないのである。
こういうコトになります。
最近左巻きな人や左巻きな宗教関係者が、地方各地でゲリラ的に総理の靖国参拝に対して訴訟を起こしていて、その訴えの理由の中に「総理大臣が特定の宗教施設に参拝するコトで、他の宗教を信じる「宗教的少数者の信教の自由」が侵害された」というモノがありますが、しかしこれはすでに最高裁判例で、「信教の自由」とは強制されない自由であると、完全に否定されているんですね。
当然大阪高裁の主文においてもゲリラ訴訟団の訴えは完全に棄却されているワケであり、実際その判決文には「原告らに対し、靖国神社への信仰を奨励したり、靖国神社の祭祀に賛同するよう求めたりするなどの働きかけをしたものと認めることはできない」と書いてあります(『週刊新潮』10月13日号)ので、よって「総理が参拝するのは信教の自由を侵している。精神的苦痛を受けている」という主張はなんら根拠のない、ただの被害妄想でしかないコトになるのです。
話を戻しましょう。
では、総理大臣の靖国神社参拝が政教分離原則に反するかどうかというコトを考えてみるコトにします。
これまで述べてきましたように、政教分離原則とは決して国と宗教とを完全に切り離すモノではありません。
ではどうすれば政教分離原則において違憲となるかですが、結局は個別に議論してみなければ分からない、という判決になっています。
まぁそれはそうでしょうね。
ただしその中でも一定の指針は出されていて、「宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうもの。その典型的なものは、同項に例示される宗教教育のような宗教の布教、教化、宣伝等の活動である」と最高裁判例では出ています。
ひとつひとつ当てはめてみましょう。
まず「宗教教育のような宗教の布教」ですが、総理大臣が靖国神社に参拝するコトはとてもじゃないですけど「布教」にはなりませんね。
これが、「総理が参拝しているのですからみなさんも参拝しましょうね」と学校で教えたのならば大問題でしょうが、決してそうではないので当てはまりません。
次に「教化」ですが、これも考えるまでもなく当てはまりませんね。
例の大阪高裁ですら「靖国神社の祭祀に賛同するよう求めたりするなどの働きかけをしたものと認めることはできない」としているのですから、もはや考えるまでもありません。
では「宣伝」ですが、これはどう考えるべきなのでしょうか。
もし総理大臣がメルマガとかで「みなさんも靖国神社に参拝しましょうね」と言ったのならば宣伝に当たるでしょう。
しかしそうでは全くありません。
見方によれば、確かに総理が靖国に参拝したコトでマスコミがさんざん取り上げ、結果的に知名度は上がったという言い方もできるかもしれませんが、しかし主体的に総理が宣伝したワケではないのですから、そこまで拡大解釈をするのはいかがなものかと思います。
それならば大臣でない国会議員が参拝してもやっぱり宣伝になりますし、そもそもこの津市の件だってかなり大きく取り扱われたのですから宣伝になってしまいます。
これでは、公的機関でありもっとも中立でなければならない裁判所が宗教の宣伝をしたと言わざるを得なくなっちゃいますよね。
それはいくらなんでもめちゃくちゃというモノです。
普通、日本語的というか常識的に考えれば、この宣伝を主体的に行ったのはマスコミ自身です。
むしろそうしなければ、マスコミのやりたい放題になってしまうでしょう。
よって宣伝もあてはまらないと考えます。
それから「援助、助長、促進」はひとつにまとめますが、これらも違いますね。
ポケットから出した小銭程度では、いくらなんでもそれを援助や助長や促進と呼ぶのは無理がありすぎます。
そもそもそれはお賽銭であり、参拝する行為に欠かせない日常的なモノですから、これらも全く当てはまりません。
最後に「圧迫、干渉」ですが、これも考えるまでもないですね。
圧迫になりようがありません。
というワケで、総理の靖国参拝についてはまだ最高裁での判決が無いので断定的なコトは残念ながら言えないのですが、普通に法律(最高裁判例を含む)を読むならば、総理の靖国参拝が違憲であるとは言えないと考えられるでしょう。
ただ、ひとつだけ注意すべき点があります。
さっきの判決文を載せているページの一番下に「「愛媛玉ぐし料訴訟」大法廷判決(97年4月2日)」というリンクがあるのですが、この裁判によって、いわゆる「玉串料」を公費で出すコトは違憲とされてしまっているのです。
訴訟の名前からして想像が出来ると思いますが、この裁判は、愛媛県が地元の護国神社や靖国神社に例大祭やみたま祭りの際に公費で玉串料を出したという事実に対し、それは違憲なのではないかと争われた裁判です。
そして、判決は違法であるとされました。
2 本件支出の違法性
(前略)
一般に、神社自体がその境内において挙行する恒例の重要な祭祀に際して右のような玉串料等を奉納することは、建築主が主催して建築現場において土地の平安堅固、工事の無事安全等を祈願するために行う儀式である起工式の場合とは異なり、時代の推移によって既にその宗教的意義が希薄化し、慣習化した社会的儀礼にすぎないものになっているとまでは到底いうことができず、一般人が本件の玉串料等の奉納を社会的儀礼の一つにすぎないと評価しているとは考え難いところである。そうであれば、玉串料等の奉納者においても、それが宗教的意義を有するものであるという意識を大なり小なり持たざる得ないのであり、このことは、本件においても同様というべきである。
(中略)
被上告人らは、玉串料等の奉納は、神社仏閣を訪れた際にさい銭を投ずることと同様のものであるとも主張するが、地方公共団体の名を示して行う玉串料等の奉納と一般にはその名を表示せずに行うさい銭の奉納とでは、その社会的意味を同一に論じられないことは、おのずから明らかである。そうであれば、本件玉串料等の奉納は、たとえそれが戦没者の慰霊及びその遺族の慰謝を直接の目的としてなされたものであったとしても、世俗的目的で行われた社会的儀礼にすぎないものとして憲法に違反しないということはできない。
以上の事情を総合的に考慮して判断すれば、県が本件玉串料等靖國神社又は護國神社に前記のとおり奉納したことは、その目的が宗教的意義を持つことを免れず、その効果が特定の宗教に対する援助、助長、促進になると認めるべきであり、これによってもたらされる県と靖國神社等とのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものであって、憲法20条3項の禁止する宗教的活動に当たると解するのが相当である。
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やっぱり判決文ですから、やたら小難しくて長ったらしいのですが、これは箇条書きにする必要はありません。
これだけの分量を要していますが、言っているコトは「玉串料は一般人にとって日常的な行為とは言えず、それを公費で出すコトは靖国神社や護国神社を特別扱いしている」と言っているだけです。
この裁判は先ほどの津市の裁判の後に行われたモノであり、引用文の前の「二 本件支出の違法性に関する当裁判所の判断」では津市判例をほとんどそのままの同じ文章を載せていることからも、当然津市判例を踏襲したモノであると言えます。
そしてその上で、玉串料は「援助、助長、促進」であると最高裁が判断したのですから、これは憲法違反だと言わざるを得ないというワケです。
ちなみに、広島県呉市にある亀山神社のサイトには
玉串料とは、神職の労働(変な言い方ですが)に対する報酬ではなく、祈願者の願いを神様にお聞きいただくための神様への御供えです。
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と書かれていますので、玉串奉納は参拝という儀式のひとつだと言えると思いますから、よって憲法89条違反にはあてはまらないんじゃないかとやえは思うのですが、しかしよくよくその判決文を読めば、玉串奉納は一般人が日常的に行う行為であるかどうかという点において「援助、助長、促進」とするかどうかという議論になっており、その結果「日常行為ではない」とされたのですから、まぁこの判決も仕方ないかもしれません。
確かに、お賽銭でしたら参拝の際にしない人というのはまずいませんが、玉串奉納は一部の人しかしないというイメージもありますから、こういう判決に至ったのでしょう。
このように、いくら異論があろうとも、最高裁判決は最高裁判決です。
思想的にはいくらでも議論していい問題だとは思いますが、政治的現実的にはこれに従わざるを得ませんので、総理の参拝の際も玉串料は公費で出してはいけないコトになっていると言えます。
もちろん私費で出す場合にはなんら問題ないワケですし、お賽銭もこの判例からして問題ないと解釈出来るでしょうけどね。
長くなりました。
今回は2つの最高裁判例を見ながら、総理大臣の靖国神社参拝について考えてみました。
最後にそれを箇条書きでまとめましょう。
・政教分離原則とは、決して国家と宗教を完全に切り離すモノではない。
・しかし国や公共団体が一宗教に肩入れしすぎるのも適切ではないため、どの程度の関わり合いまでを許すかは、一般的常識から個別に判断する必要がある。
・そのひとつの指針として、その宗教に対する「援助、助長、促進又は圧迫、干渉等」にあたるかどうかを判断する必要がある。
・個別例として、地方公共団体が公共施設の起工式を神式において開催し、またその費用を公費で負担するコトは合憲。
・個別例として、地方公共団体が靖国神社および護国神社の例大祭やみたま祭りの際に公費で玉串料を出すコトは違憲。
そして今回の更新の主題ではありませんが
・「宗教的少数者の信教の自由」は、国家によって儀式に強制されないという意味において保証されているのであって、国家が宗教と関わり合いを持つという事柄だけでそれが侵害されたとは言えない。
という事実も確定しています。
津市判例の方で、この問題は個別に考えるべきであるとされていますので、総理大臣の靖国参拝行為そのものがどうなのかは今のところ断定するようなコトは言えませんが、これらふたつの判例を鑑みれば、玉串料を公費で出さない限りは違憲であるとは言えないのではないかとやえは思っています。
そして今回のそもそもの主題は、「憲法に「いかなる宗教的活動もしてはならない」と書いてあるから、全ての宗教に国家や公務員が関わる行為は違憲だ」という意見に対してどうなのかというコトですから、これは明確に「違います」という結論になるワケです。
やはり、政治と宗教は共に「まつりごと」であり、これらは切り離せるモノではない、むしろ宗教や文化や伝統や政治はそれぞれが深く関わり合いながら融合しながら創られていくモノであると言えるのではないかとやえは思っています。
バーチャルネット思想アイドルやえ十四歳は、総理大臣の靖国参拝を応援しています。
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