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2016-06

政治も外交も点で見るのではなく、線と面で見なければならない


 外交を勝ち負けで見てしまう人、また記者会見の表面上でしか判断しない人、自国の総理や大臣の態度だけで全てを決めようとする人がいますが、これはあまりにも危険な政治の見方だと言わざるを得ません。
 政治も外交も、その場その場の点だけで判断するのではなく、過去と現在と未来とを総合的に見た上で、つまり線であり面で見なければ、本来その評価なんてできるハズがないんですね。
 ちょっと古いお話になりますが、その最たる例がありますので、紹介しておこうと思います。
 
 昨年の9月に、岸田文雄外務大臣がロシアを訪問し、ラブロフ外相と日露外相会談を行いました。
 この時のロシアはウクライナ問題でかなりピリピリしていた時期で、すでにG8から追放されてG7になっていた時でしたが、日本は日本で様々な諸懸案、特に北方領土問題と平和条約問題がありますので、二国間外交は行わなければならないという状況でした。
 そんな中で行われた日露外相会合でしたが、そこでひとつ問題が起きました。
 外相会合が終わった後の記者会見で、突然ラブロフ外相が「領土問題は協議していない」と言いだし、岸田外相があきらかな不満を態度を示したのです。
 その後、一応は両者握手しましたが、いまロシアが国際社会の中で置かれている微妙な立場が浮き彫りになった“事件”と言えるコトでした。
 
 これについて、日本国内でもだいぶ広く報道されましたし、結構印象深いシーンでしたから、よく覚えている人もいると思います。
 そして未だに「岸田はロシアにやられた」と言っている人がいます。
 それぐらい印象的なシーンだったのは確かです。
 
 しかしハッキリ言ってしまいますと、そう言っている人はあまりにも短慮で、外交を評価するコトに向いていない人だと言わざるを得ません。
 
 この問題、2つの視点があります。
 1つは過去の日露の外相同士のこれまでの関係と、そもそも岸田外相という人物の人となりについて。
 もう1つはその未来に行われた日露首脳会談での結果についてです。
 
 まぁ政治家の人となりまで知るべきとは言いませんが、ただ、政治を良く知る人の間では、岸田外相は超慎重で粘り強い性格で、公式の場ではあまり感情をあらわにする人ではないというのは、わりと有名なお話です。
 その一方、お酒には永田町一強いという面もあり、この回より以前の日露外相会合では、お酒の強いロシア人であるラブロフ外相と飲み比べをして懇親を深めたという逸話もあったりします。
 つまり、ラブロフ外相も岸田外相の人となりはよく分かっているワケですね。
 
 まずここがポイントです。
 「普段は感情をあらわにする人ではない」「それをラブロフ外相も分かっていた」のであり、その上で、岸田外相のあの態度だったのです。
 ラブロフ外相もラブロフ外相で事情や立場があるのでしょう。 
 おそらく「領土問題は議論していない」という発言はロシア国内向けだと言われているところで、はじめから記者会見でそう発言するコトは決めていたのでしょうけど、しかし岸田外相のアレは想定外だったハズです。
 それでも岸田外相なら淡々と記者会見をこなすのではないかという、ロシア側の思惑があったのではないのでしょうか。
 記者会見は会談ではありませんから、議論する場ではありません。
 また公式の場でもありまんから、仮に記者会見の場で議論したところで、「外相会談」とは呼べないシロモノです。
 だからあの場でムキになって反論しても、見ている人がスッキリするかどうかという実質論以外の部分では無意味とは言いませんが、しかし下手すれば外相会合で積み重ねたモノが無意味になるというリスクがある以上、そこで反論する利益は全くありません。
 その上で岸田外相のあの態度だったんですね。
 それは、ロシアとラブロフ外相にとって、計算外の行動だったのです。
 まさか“あの”岸田外相が、あそこまで露骨な態度を示したというのは、おそらく日本関係者だってビックリしたコトと思います。
 
 そしてそれを踏まえた上で、その後の日露首脳会談で、その結果があらわれます。
 外相会合も首脳会合も去年のお話なので記事が見つけられなかったのですが、たぶんこの首脳会談も覚えている人多いと思います。
 安倍総理がちょっと遅刻してしまって、小走りでプーチン大統領に駆け寄った、あの時の首脳会談です。
 この時の首脳会談は11月15日ですが、さきほどの外相会談は9月21日ですから、その間わずか2ヶ月弱という短期間の差というコトになります。
 
 さてここでは何が議論されたのでしょうか。
 もちろん領土問題と平和条約締結問題(これは戦争後の講和条約とか和平条約と言った方が分かりやすいですが)を議論していますし、そしてそれに対して後からプーチン大統領が異議を唱えたとかもありませんでした。
 もしそんなコトがあったら、安倍さんの小走りではなくそっちの方が大きく報道されいたでしょうしね。
 
 たった2ヶ月の間の会談のこの違いです。
 外相会談の時には「岸田外相ははしごを外された」と言っていた人もいましたが、そういう意味では果たしてはしごを外されたのは誰だったのでしょうか。
 もっと言えば、岸田外相のあの“メッセージ”があったからこそ、その先に繋がったとすら言えるかもしれません。
 もし言われるままに何も反応しなければ、ロシアはそれに味を占めて、国内を引き締める意味で同じ手を使ってきたかもしれませんし、下手をすれば日露首脳会談ではもっと厳しい態度が待っていたかもしれません。
 でも、少なくとも結果としては、日露首脳会談では領土問題も議論されたと、プーチン大統領も認める会談で終わったのです。
 
 これのよう「結果」を見れば、岸田外相は、会談と記者会見を壊さずかつロシアに強いメッセージを送ったと、そう見る方が適切ではないのでしょうか。
 少なくとも結果としてはそう出ているワケです。
 未だロシア関係の記事が出ると、岸田外相のこの時の態度を批判するような書き込みとかを見かけますが、これはあまりにもこれまでの経緯が無知な、不適切な政治と外交の見方をしている人だと言わざるを得ません。
 政治も外交も点で見て、その場その場だけで感情に振り回されて評価していては、結果的に国益を失わせるコトにしかなりません。
 広く長く、線で、面で見るべきなのです。
 

政治活動ならびにその経費である政治資金の問題は理知的理性的かつ論理的に


 広く一般的なお話として考えてもらいたいのですが、政治活動ならびにその経費である政治資金の問題は、その根幹は民主主義の基本である政治・結社・言論の自由などに直結する、かなり重要で奥深い問題であり、単に法律などで規制すればいいという、そんな簡単な問題では絶対にありません。
 
 では、「何が政治活動で、何が政治活動ではないのか」というコトを、果たして紋切り型に言葉でYESとNOだけで切り分けるコトができると言えるでしょうか。
 同じような問題に、「政治家の資質」があります。
 例えば「高い知識」というモノサシで図ろうとしても、ただ単に高い知識だけで判断するなら、そんなのは超難関の国家公務員試験を通ってきた官僚の方がよっぽど資質が高いと言えてしまいますし、そしてその場合、果たしてそれは本当の意味で「国民の代表か」という疑問が残るでしょう。
 また選挙の際には「見た目がいい」「若い」「テレビに良く出る」などの理由で投票する人は少なくありませんが、やえとしてはもっと政治の本質を見てもらいたいとは思っていますけど、しかしそれは決して法などで規制されるべきものではありません。
 なぜなら「政治家は国民の代表」だからです。
 国民の代表である以上は、全ての面で、見た目や年齢や知名度までも含めた「自分達の代表」であるべきだからです。
 低学歴だってだみ声だって田中角栄の例をとるまでもなく国民の代表です。
 むしろ「みんなから選ばれる」以外の条件を付ければ付けるほど、真の意味での「国民の代表」から遠ざかる結果にしかならないでしょう。
 
 つまり「何が政治活動なのか」「何が政治家としての資質なのか」は、もっと言えば「何をもって政治家なのか」は、決して明文化できるようなシロモノではないのです。
 
 そして「何をもって政治家か」が明文化できない以上、どこまでが政治活動なのかというのも、簡単に割り切れる問題ではないのです。
 だって国民から見た目やらなんやらを求められるのであれば、やはり政治家としての行動の中には、見た目に関する支出があってもしかるべきでしょうし、もし「政治家は24時間政治家だ」と言われるのであれば、24時間すぐに対応できる体制に必要な様々な備えについても、政治活動の経費として考えるのが当然のコトだと言えるのではないのでしょうか。
 結局、国民の政治家に対する要請と、それに対する制度が不釣り合いであり、さらに仕事は過大に求めるクセに潔白さや責任も必要以上に国民が求めすぎているのではないかと言わざるを得ません。
 
 「私的な支出は政治資金で払うべきではない」
 その通りだと思います。
 政治資金は政治活動のための経費です。
 当然、政治資金からの支出は政治活動のためだけに出されるべきです。
 
 しかし「何が政治活動なのか」が問題なのです。
 ここが問題です。
 「私的な支出を使うな」は議論の必要はありません(むしろ法律要件ですし)が、なにが政治活動なのかについては全く議論をしようとしません。
 これって完全に片手落ちなんですね。
 
 確かに、さっき言いましたように、これはかなり難しい問題です。
 舛添前知事(あれ、まだ知事でしたっけ?)のお話を出すと冷静さを失ってしまう人がいるかもしれませんが、例えば「知事選挙に出馬するかどうかを、選挙やその後の影響を最も受ける家族と、静かな場所でゆっくりと相談する」というのであれば、それは十分に政治資金から出されても問題のない支出だと思います。
 だって、「舛添要一個人」の問題、ではなく「政治家舛添要一」の行動なんですからね。
 間違えてはならないのが、政治活動とは公共的や政治的に中立を保たなければならないという性質ではないという点です。
 だってそんなモノが必要なら、選挙の結果に関わるような後援会活動なんてできないですからね。
 この辺は法律ですら担保されている(特別職の公務員(議員など)は国家公務員法の大部分が除外される)重要な点です。
 ですから、政治家舛添要一が知事という公職に就くかどうかという重大な決断を下すコトにまつわる行動であれば、それは政治活動ですし、よって政治資金で賄われるべき経費だと言うのが妥当なのです。
 ここをこう言わなければ、本当に民主主義の根幹に関わる、あらゆる自由に関わる重大な問題になってしまうでしょう。
 
 勘違いしないようにしてもらいたいのが、今日のお話は実際舛添前知事の行動はどうだったのかというコトを問う内容ではないというコトです。
 「あれはただの家族旅行だった」とか「他にもセコい支出があるじゃないか」とか言われても、やえには関係のないお話で、そんなコトは今日の内容は一切触れていません。
 例えはどこまでも例えで、もし本当に「政治家の決断の場だった」のであれば政治活動だというコトを説明しているだけです。
 この問題、もっとも難題なのは、こうやって冷静に考えられないまま感情の赴くままにバッシングが吹き荒れてしまったコトなんですね。
 
 政治家の行動に関する問題、政治資金に関する問題は、冒頭に言いましたように、突き詰めれば民主主義の根幹に関わる重大な問題です。
 それなのに、感情に突っ走ったバッシングがメインだったコトは非常に問題です。
 政治家への批判は、理知的理性的にかつ論理的に行われるべきです。
 もし舛添前知事の韓国との様々な問題で政策的に批判するなら、当然そのコトを論理的に批判すべきですし、政治資金の問題なら上記のコトを基本とした上で疑義があればそれを理性的に批判すべきです。
 でも終盤なんて、「どうやったら辞めてくれるんですか」なんて理も知もないようなマスコミの質問を、むしろ持ち上げるかのような雰囲気まで作り出して、ただのバッシングに終始してしまいました。
 批判するなら理性的に論理的に行うべきで、そういう批判ならもちろん健全な民主主義です。
 そうであれば、舛添前知事の辞任だって健全な民主主義の結果だと言えたでしょう。
 しかし果たして今回はどうでしたでしょうか。
 理性的な批判が全く無かったとは言いませんが、少なくとも舛添前知事が辞任した理由は感情から来るバッシングが直接の原因でした。
 ハッキリ言って、これは長い目で見て国民の敗北だと言うしかないモノだと、やえは思っています。
 
 また別の機会で詳しくお話ししますが、普段マスコミに厳しい人たちも、しかしその対象の好き嫌いで態度を変えてしまっています。
 簡単に言えば、安倍総理なら好きだからマスコミに厳しいけど、舛添前知事は嫌いだからマスコミの尻馬に乗って一緒に叩いて辞めさせよう、こうなってしまっています。
 言っておきますが、そういう二枚舌ってまさにマスコミの批判されるべき姿勢ですよ?
 ぜひここのところをよくよく考えてもらいたいのです。
 

民主主義とは国民が主体的に為政者を選ぶ制度。マスコミが選ぶのではない。


 選挙が近くなったら、さらに言えば少なくとも選挙期間って、政治の報道やめるべきだと思うんですよ。
 こう言うと必ず、国民の知り権利だとか、報道の自由だとか言う人が出てくるのですが、しかしハッキリ言ってそんなモノより「民主主義の根幹である選挙を国民が主体的に行う」方が何倍も重要です。
 そしてそれは、「主体的」こそが重要です。
 民主主義は誰か他人から与えられて、他人に用意されて、他人がやれって言うからなんとなく投票するって、民主主義はそんなシロモノじゃないんですね。
 民主主義とは文字通り、民が主権者の、つまり自分たちひとりひとりが主権者だという制度です。
 他人ではなく自分が責任を持つ制度なのです。
 だから主体的に行わなければ本来意味はないハズなのです。
 
 でも正直、いま国民は政治に対してあまりにも他人事で済ませてしまっています。
 結局のところ、政治なんて自分以外の誰かがどうやるんだろうと、タカをくくってしまっています。
 政治家に対しては簡単に「辞めろ」と軽々しく言うし、「誰がやっても同じ」「まともな候補者がいない」と他人事のように言うくせに、自分が立候補するという選択肢と責任をタナにあげてしまっています。
 そして、こういう考え方って、普段からの政治に対する姿勢から来てしまっているんだと思うんですね。
 
 特に今の時代、情報は自分の手で手に入れるコトができます。
 昔は仕方なかったでしょう、新聞こそが唯一の情報でっていう時代もありましたので、ある程度一般国民が受身になってしまうのも、時代によっては仕方なかったと思います。
 しかし今は違います。
 多くの一次ソースを誰のフィルターにかけるコトなく、自分の目で耳で確認できる時代が到来しているのです。
 だったら、せめて選挙の直前ぐらい、国民のひとりひとりが主体的に選択するような環境を作るべきなのではないのでしょうか。
 
 新聞やテレビを信じるかどうかも国民の選択だ、と言うのは詭弁です。
 それは「騙される方が悪いのだから詐欺罪は必要ない」と言っているようなモノです。
 選挙公報や立候補者の紹介等ならまだしも、政策などについてタレントなどの私的な感想や感情を織り交ぜた、言わば「私感」を垂れ流していい理由は、本来ありはしないハズです。
 まして「町の声」とかテレビ局すら責任を放棄する形の放言を公共の電波に乗せていい理由には全くなりません。
 
 自らの手で情報を得られる手段が現代では存在する以上、マスコミの必要以上の一方的な情報は有害でしかないと言うしかありません。
 テレビとかなくったって、選挙できるじゃないですか。
 もしそれで誰に入れたらいいのか分からないって言うのであれば、それはもう責任の放棄としか言いようがありません。
 自分で調べましょうよ。
 仮に投票率が下がったとしても、それは国民の選択なワケです。
 そもそも投票率を上げるっていう行為自体が、国民の選択を人為的に操作する行為なワケで、それは本来目的にすべきコトではないと思うんですよ。
 投票率は高い方がいいのは否定しません、その通りだと思います。
 しかし低いコトで不利益があれば、それはそれで国民自身の手によるコトなのですから、その責任は国民が負うべきです。
 選挙自体も、その結果も、投票率も、国民が主体的に選択すべきなのです。
 
 そろそろ国民は自らの意志でもって脱マスコミを果たさなければならないのではないのでしょうか。
 

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