生活保護は恒久的にもらい続ける制度ではない
お笑い芸人の河本準一氏の親族に対する生活保護不正受給事件でにわかに生活保護の問題が大きな社会問題になっていますが、その中でどうしてもやえは1つ気になる言説があります。
それは「世の中には本当に食べられない人がいて、その人たちのために少しでも普通の生活させてあげるのが生活保護」というような、「可哀想な正当な生活保護受給者のコトを考えろ」みたいな言説です。
さっきの例は、タレントの和田アキ子さんの言葉です。
以下ラジオから重要部分抜粋
和田「弁護士さんも会社の人も一緒じゃなくて、一人で十分説明出来たんじゃない」
和田「世の中には本当に食べられない人がいて、その人たちのために少しでも普通の生活させてあげるのが生活保護」
和田「今年の5月ぐらいに断ったって言ってるんだけど、じゃこれ、話題になんなければ・・・貰ってた?っていう気もするわけ、その辺が私おかしいと思う」
和田「福祉の人も、国としても打ち切りますんでって河本に言うべきだったと思う」
和田「河本も甘い、『福祉のおっしゃる通りにしてたもんですから不正とは思ってません』って言ってたけど、そういう風にとるのもおかしい」
和田「でも私が見た限りは真摯に受け止めてたから、深く反省してるにように見えたから、おいらが言うのもなんだけどお前本当、もっっと恵まれない人にね、今、特に日本は東日本大震災も福祉も大変な時に、こんな、芸能人だからって私は嫌いなのよこういうこと、本当に だから、返せるだけ、ちゃんと返せるだけ誠意を持って返しなさい」
今日は河本氏のお話は触れません。
やえが気になっているのは、「恵まれない人」とか「可哀想な人」とか、そういう人のための生活保護だろという、そういう言い方についてです。
これはもう古今東西、人間が人間として生きるようになってから、人間は自分で働いた上で自分のご飯を得て生きてきました。
古代では基本的に自給自足ですから自分で動物を狩ったり作物を育てたりして食べ物を得て生きてきましたし、近現代では分業制ですからなんらかの労働をしてその対価を得て食べ物を買って得て生きています。
日本には「働かざる者食うべからず」ということわざもありますように、基本的には人間は、何らかの労働をした上で食料を得て生命を維持してきたワケで、この行為を何百年何千年も続けて人間は生きてきたのです。
つまりこのサイクルがこれが人間としての基本と言えるでしょう。
ですから、生活保護という制度は、突き詰めればこの基本から外れてしまった人のためにある制度です。
もちろん人間というのは生まれてすぐから死ぬ直前までずーっと働けるワケではありませんから、例えば子供は親が扶養する義務を負っていますし、ある程度高年齢になったら定年退職して年金によって生きていくコトになります。
また、例えば病気とか怪我とか障害とか、そういう本人の責任ではない致し方ない事情によって「普通には生活出来ない人」には、労災とか色々なそのための制度があるワケで、特に一生涯にわたって付き合わなければならない障害は、いまでも様々な議論が行われているような政治があるワケですから、基本から外れたからダメとは一概には言えません。
そのフォローをするというのは近代国家の責任の中に含まれていますから、この辺の制度というモノはさらにより良い制度になるよう、これからも議論していく必要があるでしょう。
でも生活保護は、さらにそこから外れている人のための制度なんですね。
というコトになれば、果たしてどのような人のための制度だと言えるのでしょうか。
ハッキリ言いまして、この部分に関して本当に「可哀想な人」というのはいるのでしょうかというお話なのです。
生活保護というのは、致し方ない場合に短期的に「つなぎ」としてもらう制度のハズです。
例えば何らかの事情で働き口がなくて、失業手当も切れてしまって、就職活動するにも一定のお金がないと生きていませんから、そういう場合に致し方なくもらうというのは仕方ないとは思います。
この場合生活保護を利用するコトが悪とは言いません、次を目指して頑張って欲しいと思います。
しかしでもこの場合、この人を「可哀想な人」とある種の弱者聖人化してしまうのは、ちょっと違いますよね。
同情するのは勝手ですが、しかし制度として「普通の人」より保護されている状態になっているのですから、立場としては「早くその場から脱出すべき」と叱咤激励される立場のハズです。
事情によっては「可哀想」と表現してもいい場合もあるかもしれませんが、しかしだからといって恒久的に生活保護という制度を使っても良いとはなりませんし、「生活保護をもらわないような立場から脱出すべき」と言われる立場ではあるワケです。
例えば、これはやえの知り合いのお話なのですが、親の方が全然ダメ親で、全く働こうとせずに成人した子供にたかるコトしか考えていないような人がいて、その知り合いさんは縁を切って生活保護を受けさせろと言われているような人がいるのですが、この場合だってそのダメ親は、決して褒められる立場ではないですよね。
やえもそのお話を聞いた時には、それは子供の方の人生を考えて縁を切るべきだと思いますし、そのための必要な生活保護の制度を使うべきだと思いますが、子供は可哀想な人ですが、貰う本人を見ればそれは全く「可哀想な人」ではありません。
働ける身体があるのであれば、自分で働いて自分で食べ物を得るべきです。
このように、生活保護の制度というモノは、「早く脱出すべき人」であって、「可哀想」とか一方的な弱者に置かれるような人ではないハズなのです。
努力が足りないと言うつもりは毛頭ありませんが、本人が自ら努力して「その場」から脱却しなければならないのは確かでしょう。
努力を放棄していい理由は1つも無いハズです。
もしですね、これら以外でやえが想定していないような人、恒久的に生活保護をもらうべき可哀想な人という人がいれば、それを教えてください。
そしたらやえは認識を改めます。
しかしいまのところやえは、生活保護を半ば恒久的に貰うような人というのは、基本的にはあってはならないと思っています。
もし恒久的に政府からの手当をもらわざるを得ないような人がいるのであれば、それは生活保護ではなく、別の専門の、障害者の制度のような、専門の制度を使うべきですし、作るべきです。
それは本当に「致し方ない」のでしょうし「可哀想」と表現しても間違いではない人なのですからね。
今回の問題で半ば「生活保護を受けている人の中には本当に可哀想な人がいる」という事実化が行われてしまっているというところに、やえは大きな疑問を感じるのです。
生活保護という制度の本来の意味として、可哀想だからもらっているというコトになってしまえば、それは恒久的にもらっても仕方ない、そして恒久的にもらうべき人間もいる、というコトになってしまいかねません。
それは本来の趣旨に外れるコトになりますし、そもそも人間としての本来のあり方からも外れてしまうコトになります。
生活保護という制度は、これは憲法に起因する制度ですから、これを無くせとは言いません。
また憲法に起因しなくても、最後のセーフティーネットという意味では必要だと思っています。
さっき言いましたように、仕事探しのセーフティネットや、子供が親に寄生されないためのセーフティーネットは必要でしょうから、制度自体はあってしかるべきです。
しかし、国民はその捉え方についてはもう一度認識を考え直す必要があるのではないかと思うのです。
かなり明確な表現の仕方をするのであれば、「生活保護を受けるコトは恥ずかしいコトだ」と、そういう認識って国民の中で必要だと思います。
それだけこの制度を受けるためにはハードルをあげるべきです。
こう言うとすぐに「死ぬか死なないかの境にいる人がなんとかかんとか」とか言い出す人がいるのですが、別にやえは制度をやめろとは言っていないのです。
そもそも死ぬか生きるかの境にいる人いうのは、そこまでに至った原因というモノが必ずどこかにあるのですから、そこで別の原因があってそれが致し方ない理由であればこの部分の制度設計を見直すべきであり、そして普通の人と理由が変わらない、例えば働けるのに働かなかっただけというのであれば、それは「恥ずかしさに耐えながら受けるべき」と言うしかありません。
結果だけを見て言う言い方はダメです。
原因をすっ飛ばすような言い方はダメです。
ここの議論で大切なのは、なぜそのような状況に陥ってしまったのか、どうして生活保護を受けるようなハメになってしまったのかという点をキチンと考えるというコトなのです。
繰り返しますが、やえが知らないような理由があって本当に可哀想な生活保護受給者という人がいれば、それはやえの認識を改めますので教えてください。
しかしそうでなければ、本来生活保護という制度は恒久的に受け取るモノではないのですから、その認識は主権者たる国民がシッカリと正しい認識を持たなければならないでしょう。
勘違いして欲しくなのは、この世の中に可哀想な人なんていないとやえが言っているワケでは無いというコトです。
本当に本人によらない原因でどうしようもなく可哀想な状況に陥っている人には手を差し伸べるのが近代国家の責任でしょうし、それはそれでキチンと制度を作って対応していかなければなりません。
でも生活保護という制度はそうではないのです。
ここを考えずして、ただただ「収入がない」という結果論だけで判断しては、「じゃあ働かなくてもいいんだ」に繋がってしまうのですから、ここは意識の問題としてキチンと理解が必要だと言っているのです。
最後のセーフティネットとしては必要だと思いますが、それは短期的なお話でしかなく、生活保護というのはあくまで「脱出しなければならない状態」であるという認識を持っておくべきなのです。
ディスカッション
コメント一覧
自分の知る限りですが、働ける状態の人は働いていますよ。しかし、働いても生活保護費より少なければ、生活保護はつづきます。得た収入は保護費からカットされます。
生活保護者の約半数は中卒です。もともと恵まれない家庭環境で育ってきた人が大半で、生まれたときから両親がいなくて施設で育った人も多いです。そのような人は免許も持っていないようです。そのような人たちが中高年になって失業したら、再就職は困難です。ましてこの不況の社会情勢ですし。
マスコミの報道は、不正受給者やそれらしき人を報道してますからね。
他にもコメントしていた人がいましたが、犯罪に走られても困るのです。治安が悪化します。
生活保護費よりも刑務所に入られたほうがお金がかかります。
つまり、犯罪が少なくなればなるだけ無駄な税金は減らせますし、治安もよくなります。
ごもっともですが、本来生活保護の基準が最低限の人としての生活基準なのではないでしょうか
過労死寸前までこき使いながらそれを下回る給与水準しか払おうとしない少なくない数の会社や下請けに金をけちる大企業様の問題もあるかと
他にはミスを繰り返す病気の人なんてのもいまして、これ本人の努力じゃ対処できないんですが当然クビになります
雇用環境が優しくなりこうした病気への理解も深まれば別ですが現在の日本にはそのような傾向はありませんよね
頑張って働いた方が豊かになる、という当たり前の基本概念を確かにするのが筋だと思います
そして日本は働かない方が豊かにくらせる状態なのです、そりゃあみんな生活保護されたがるでしょうねw
今現在でも生活保護が恥ずかしいというのはいわゆる「ちゃんとした」生業を持って生計を立てている人の間ではコンセンサスとしてあると思います。
が、そんなことを言っても何にもならないでしょうね。不正受給、財産隠しの問題はさておいて、雇用情勢がこれだけ厳しい中で財産もスッテンテンになり、特に自分に何かスキルがあるわけでもないとなるとバイト並か下手するとそれ以下のかなり安い給料で働くことになります。
今生活保護の方が貰ってる額が障害者加算が無くても137400円。仮に時給800円で働けるだけ働けるとして凡そ175時間。他に住宅も扶助、保険も扶助と至れり尽くせり。人にとって非常に「優しい」制度なのは間違いないです。
これなら財産無いなら私も受けたいですし、何十回も面接受けて落ちた日には、変なブラック企業でこき使われたり、何百時間も働いて今と同じバイト代(しかも昇給の見込み無し)ならこのままでいいかと思う気持ちもよくわかります。労働のインセンティブなにそれ美味しいの?状態ですから。
おそらく恥だの何だの言っても、それを捨てても人間らしいゆとりのある生活をしたいという人には屁のつっぱりにもなりません。雇用情勢の改善と不正受給の改善、受給額・扶助内容の改善などを同時に行わなければ意味が無いでしょう。尻を叩くのはそれからでしょうね。
生活保護を切ってしまうのは簡単だ。
しかし生活保護を受けてた人が食えなくて犯罪に走って有能な人が強盗殺人されたりしたら社会的損失だろ
失業者は犯罪者予備軍なんだよ。食えなくなりゃ人間なんでもするぞ。
年間いくらか知らないが、犯罪者予備軍をおとなしくできるなら安い投資だろ
そりゃあここで問題になってるような連中は貸した金なんて返さないんだから、余計な手間で余計な出費をかけるくらいなら出しっぱなしにした方がまだマシだという判断なのでしょう。
はじめまして。
和田アキ子という人はあまり好きになれない人ですが、この場合の可哀想というのは「運悪く仕事にあぶれてしまい、さらに運悪く次の生活の手立てを見つける前に手持ちの資金が尽きてしまった人」という人物をイメージしているような気がします。おそらく、戦後間もない頃とか、そういう時代にはそういう人もいたんじゃないかなという気がします。
確かに現在で生活保護を受けるに至った人は、本人の生き方に問題があってのことだとは思います。人生設計が甘かったとか、耐えるべき時に耐えられなかったとか。
本人がそれを悔い改め、立ち直れれば生活保護のお金は正しく使われた、と言えるのでしょう。
ところで、なぜ生活保護費は支給であって、貸与ではないのでしょうか。
人生の緊急事態に、間に合わせのお金を国家が貸してくれる制度のほうが健全ですし、今回の不正受給のような事例も減ると思うのですが。
日本の経済協力で、よく円借款という方法が使われますよね。
経済力の低い国に対して、成長のためのお金を貸してゆっくり返してもらう制度だと認識しています。
個人の人生に対しても、政府はそういう協力のしかたをすれば良いと思うのですが、なぜ「弱者であることがトクになる制度」が続いているのかは不思議でなりません。