国民の主張は国民に向けてこそ

 自分も含めた国民の主張というモノは、全て同じ国民に向けて語られるべきモノなのです。
 
 「特定秘密保護法案は廃案にせよ」
 まぁ日本には言論の自由がありますから、こういう主張も、主張するコト自体は自由です。
 しかしそれは、国民に向けてこそ意味のあるモノです。
 ハッキリ言って、政治家に向けるというのは、民主主義の原則に反します。
 なぜなら、その政治家の意見というモノは一人の意見なのではなく、選挙を通ってきたという大多数の国民の意思が反映された意見だからです。
 
 つまり、デモで叫んでいる人と、政治家ひとりの意見では、これは等価値ではありません。
 間違えてはいけないのが、国会議員というのは、決してくじ引きで偶然選ばれた人なのではなく、天から降って湧いて現れた人なのではなく、いきなり国会に出現してきた人たちなのではなく、あくまで国民の手による選挙によって「選ばれた」人たちなのです。
 言うなれば、国会は「国民の縮図」なのです。
 ここを間違えてはいけません。
 デモをしている人たちには、国会議員の意見、仮にそれがひとりの国会議員だけだとしても、その意見を変えるというコトは、それはどういうコトなのか、どれだけの大きなコトなのかということを、その人の背景にはどれだけの人数の思いが込められているのか、この辺からキチンと考えてもらいたいです。
 
 よって、一国民としては、政治を変えたいと願うのであればどうするのかと言えば、それは同じ国民に向かって主張しなければならないのです。
 主張は、ひとりよがりにただ主張すればいいってモノではありません。
 もし大声を出すコトが楽しくて気持ちいいっていうなら、それは山頂あたりでヤッホーと言っていればいいだけであって、もし声を出すコトが目的なのではなく、自らの主張を実現させたいと思っているのであれば、それは同調者を増やすというコトを目的にしなければなりません。
 他人に理解してもらうように主張しなければならないのです。
 そしてその上で同調者が増えれば、選挙によってそれぞれが投票するコトによって政治が変わるでしょう。
 もっと言えば、自分が立候補すればいいワケです。
 国民一人ひとりが、「自分の意思」として意見を同調させれば、それこそが民主主義政治の本来のあり方と言えるでしょう。
 
 その同調者を増やす方法もキチンと考えるべきです。
 昨日言いましたように、デモは「暴力的手段を用いて恐怖によって相手の意見を無理矢理変える手法」です。
 果たしてこれに「正義」はあるのでしょうか。
 それとも「恐怖でもなんでもいいから、それによって政治が変わるならいい」と開き直りますか?
 それだったら、北朝鮮のような軍事政権と何が違うというのでしょうか。
 北朝鮮の政治は民主主義ですか?
 デモをしている人たちは、ここをキチンと考えなければなりません。
 
 石破幹事長は「主義主張を実現したければ、民主主義に従って理解者を一人でも増やし、支持の輪を広げるべき」と言ってましたが、まさにその通りです。
 なにやら中には「やむにやまれず絶叫戦術をとっているだけであって仕方ないじゃないか」と開き直っている人もいるようですが、「やむにやまれず」という論拠はハッキリいって危険な論拠です。
 テロリストだって同じコト言いますよ。
 「自分たちは迫害されているからやむにやまれずテロルという手段を用いた」と。
 それを認めるのですか?
 「やむにやまれず」というモノを論拠にするなら、このテロリズムの理屈も認めなければならなくなります。
 
 手前味噌のお話になりますが、やえはこうやってサイトを開いて日々自説を主張しているワケですが、一日にやく1000アクセスぐらい……最近ちょっと減ってますが、まぁサバを読んで(笑)、これぐらいの方達にわざわざお越しくださっているワケです。
 さらに言えば、全ての人が毎日来ているワケではないでしょう、数日に一回とか一週間に一回とかの人もいると思いますので、たぶんですが、だいたい当サイトの潜在的な常連読者というのは3000人ぐらいはいらっしゃるんじゃないかと推測しています。
 サバ読み過ぎとか言われるかもしれませんが、まぁとりあえず(笑)
 まぁでも、それぐらいの人がやえの主張を読んでくださっているワケですよ。
 もちろん全ての人がやえの全てに同調しているワケではないですが、それでも、やえでもこれぐらいはできるんですよ。
 まして人権擁護法案の時とか、一時もっとアクセスがありましたし、あの時は確実に世論に一石を投じた手応えがありました。
 自信過剰に言うなら、やえが言ってなければもっとひどいコトになっていたと思っています。
 いまネットがあるじゃないですか。
 もっとアクセスが多いサイトさんはもっといっぱいいますし、いまはツイッターなどもあって、もっと「国民が国民に向けて主張ができるツール」がたくさんあるワケで、こう考えれば暴力的な手段であるデモなんてモノを使う必要性は全くないと言えるワケです。
 なんでその努力をしようとしないのでしょうか。
 
 これのどこが「やむにやまれず」なんですか?
 単に努力不足なだけじゃないですか。
 自分たちの主張が、こういうツールを使ってでも広げられないからといって、それは100%自分の責任なのであって、それを「やむにやまれず」なんて言って正当化できる理由には一切なりません。
 「やむにやまれず」と言うのは、所詮自分の責任を他人に転嫁している無責任な姿勢でしかないのです。
 
 デモなんて他人に恐怖心で無理矢理意見を変えさせるなんてテロルのようなコトをやるぐらいなら、本当にそれだけ多くの人が反対だと言うのであれば、どうぞそれをネットでもなんでも「平和的な」手段、そして「他人が心から納得するような同調者の増やし方」をしてください。
 その労力を時間を、国民が心から納得する形での運動をすべきなのです。
 そうしてこそ、民主主義の正道ではないのでしょうか。