誹謗と批判の区別がつかない人たち
残念なコトですが、世の中には誹謗と批判の区別がつかない人たちが、思いの外いっぱいいるようです。
「報ステ」で元官僚と古舘氏言い争い、番組混乱
テレビ朝日系のニュース番組「報道ステーション」で27日、コメンテーターの元経済産業省官僚、古賀茂明氏がニュースの内容から逸脱した発言を続け、キャスターの古舘伊知郎氏と言い争いになる場面が映し出された。
テレビ朝日は番組の混乱を陳謝したが、ニュース番組のあり方が問われることにもなりそうだ。
古賀氏の発言は放送開始から約20分後。古舘キャスターが中東情勢の解説を求めると、いきなり「テレビ朝日会長らの意向で、今日(の出演)が最後」などと切り出し、「官邸の皆さんにはバッシングを受けてきましたが、(視聴者の)皆さんのおかげで楽しくやらせていただいた」と述べた。
古舘キャスターは「今の話は承服できません」「(番組を)降ろされるということは、違うと思います」と反論したが、古賀氏は「古舘さんは『自分は何もできなかった。申し訳ない』とおっしゃった」「(楽屋での会話を)全部録音させていただきました」などと続けた。
さらに約15分後、エネルギー政策などで安倍首相を批判した古賀氏は「I am not ABE」(私は安倍ではない)と印刷した紙を示した。
ご存じの方もいっぱいいると思いますが、元経産官僚の古賀茂明氏がテレビ朝日の番組「報道ステーション」内で「I am not ABE」とプリントした紙を掲げたコトについて、官邸やテレビ朝日、そして古舘伊知郎氏の事務所から圧力を受けて降板させられたと、テレビの前で大騒ぎした件です。
これなにがすごいのかと言いますと、繰り返しになりますが、「誹謗と批判」が区別できていない、本来はなにがどう問題として挙がっているのかという点が、古賀氏も古館氏も全然理解できていないというところです。
この騒動に対して古賀氏に同情的な声が上がっているというところも頭の痛いところです。
「I am not ABE」
これが批判だと思う人というのは、言論に向いてないので今後公の場で自分の自説を開陳する行為はやめた方がいいと思います。
これのどこが批判なんですか?
批判とは、論拠があってはじめて成り立つモノです。
まず結論から「安倍総理は退陣すべきである」と語り出すというのであれば構いませんが、しかしこの場合必ずその後に「なぜ退陣すべきなのか」という論拠を付け加えて、そこではじめて「意見」や「主張」や「批判」という公論になるのです。
もし理由もなく論拠が付けられないというのであれば、それは公論ではなく、多くの人が見聞きできる場に発表すべきではないただのヒトリゴトにしかならず、もしそれでも公の場に垂れ流すと言うのであれば、そんなのは誹謗中傷でしかなく、規正されても仕方ない言葉の暴力でしかありません。
誰に対してでもいいですが、理由を付けずに「お前は辞めるべき」とか言ってみればいいですよ。
普通の人は怒るでしょうし、もしその人がとても優しい人でも、せめてなぜそう思ったのかの理由を問いただすでしょう。
つまり、そもそもとして古賀氏というのは自己矛盾しているんですね。
他人に対しては理由なき誹謗だけで辞めろと言うくせに、いざ自分が辞めさせられるとこんなにも見苦しくわめき立てる。
もし自分の主張通り理由もなく辞めさせられるのが正しいと思うのであれば、自分がそういう扱いを受けても唯々諾々として受け入れなければならないハズではないのでしょうか?
「I am not ABE」が正しい主張と言い張るのであれば、「I am not KOGA」も正しい主張のハズであり、それを受けたテレビ朝日が古賀氏を更迭しても、なんら問題はないと言えてしまうコトでしょう。
古賀氏の報道ステーションでの見苦しい大騒ぎそのものが、古賀氏の矛盾と、自らの行動が間違っているコトを証明しているのです。
さらに頭が痛いコトに、一部、政府や政治家に対してだけは誹謗すら正当な言論だと思い込んでいる人たちがいるってコトです。
どういう理屈でそうなるのか分かりませんが、特に民主主義政治においては政府や政治家も国民そのものであるワケで、それらに対して誹謗すら許されるというのであれば、国民に対してすら誹謗中傷がそのまま許されるというコトになってしまいます。
そもそもこんな理屈出さなくても、誹謗中傷というモノは誰に対してでも行ってはならないモノでしかなく、それを公の場で発言するのであれば、それは単なる「暴力」でしかないコトぐらい分かりそうなモノです。
そして暴力は権力を使ってでも規制べきモノです。
もし公権力だけには誹謗が許されると言うのであれば、それは公権力に対してだけは暴力を持って覆しても構わないというクーデター理論にしかならないのですからね。
どちらにしても、政府権力は国民が決めるという民主主義の精神からしても、もうちょっと頭を使って考えて欲しいです。
政府に対してだけは誹謗中傷も許されるというのは、それは国民をバカにしている論でしかありません。
結局「権力が暴走している」と言うのであれば、それはイコールで「国民が暴走している」となるワケで、それなら堂々と「国民が悪い」と言いなさいよ、と言いたくなります。
でも国民批判をすると自分の立場が悪くなるからと、政府批判にすり替えているだけなんですよね。
それはただの卑怯者の行為でしかないのです
ディスカッション
コメント一覧
彼らは自分は攻撃してもいいけど相手はしちゃ駄目とか本気で言ってますからね
そんな事自分の周りで実際にやったらどうな事になるかわかりそうですがね
政治というか権力相手なら何やっても良いって発想ってテロリストの同一のものです
そんな考えが今も昔もある一定の割合で支持されているのがどうなんだろうか
昨日の朝日新聞のことですね。
安倍政権の激走―「いま」と「わたし」の大冒険
走る、曲がる、止まる。
これは自動車の基本性能だが、政治におきかえてみても、この三つのバランスは重要だ。
「この国会に求められていることは、単なる批判の応酬ではありません。行動です」
先の施政方針演説で、野党席の方を指しながらこう力を込めた安倍首相。確かに、政権の激走ぶりには
目を見張るものがあり、ついエンジンの馬力やハンドルの傾きにばかり気をとられてしまうが、
最も注視すべきは、ブレーキだろう。
■ここでないどこかへ
権力を縛る憲法。歴史の教訓。権力を持つものの自省と自制。メディアや野党による権力の
批判的検証――。敗戦から70年の間、これらは日本政治のブレーキとして機能してきた。
しかし安倍政権やそれを支える自民党の一部は、ブレーキがあるからこの国の走りが悪くなっている
と思い込んでいるようだ。「行動を起こせば批判にさらされる。過去も『日本が戦争に巻き込まれる』
といった、ただ不安をあおろうとする無責任な言説が繰り返されてきた。
批判が荒唐無稽であったことは、この70年の歴史が証明している」。防衛大学校の卒業式で、
首相はこう訓示した。国会では自衛隊を「我が軍」と呼んだ。「戦後レジームからの脱却」「日本を
取り戻す」とは、ブレーキなんか邪魔だ、エンジン全開でぶっ飛ばすぜという冒険主義のことなのだろうか。
「いま」がすべて。どこに向かっているのか、なぜそんなに急ぐのか、危ないではないかと問うても、
いまこの走りを見てくれ、こんなにアクセルを踏み込める政権はかつてなかっただろうと答えが返ってくる。
とにかく前へ、ここではないどこかへと、いま必死に走っている最中なんだ、邪魔をするのかと、
あらゆる批判をはねのける。
奇妙な論法が横行している。
■権力者のクラクション
「八紘一宇(はっこういちう)」。もともとは世界を一つの家とする、という意味だが、太平洋戦争中は
日本の侵略を正当化する標語として使われた。自民党の三原じゅん子女性局長は先日の国会で、
そのような歴史的文脈を捨象し「日本が建国以来、大切にしてきた価値観」と紹介した。
「わたし」を中心にものごとを都合よく把握し、他者の存在をまったく考慮に入れない。
狭隘(きょうあい)かつ粗雑な世界観が、あちこちから漏れ出している。
首相は昨年、民放ニュース番組に出演し、テレビ局が「街の声」を「選んでいる」「おかしい」などと発言
した。先日の国会で、報道への介入と言われても仕方ないと批判されると「言論の自由だ」と突っぱねた。
権力が抑圧してはならない個人の権利である「言論の自由」を権力者が振りかざすという倒錯。
首相はさらに「私に議論を挑むと論破されるのを恐れたのかもしれない」「それくらいで萎縮してしまう
人たちなのか。極めて情けない」とも述べた。
ひょっとして首相は、最高権力者であるという自覚を根っこのところで欠いているのではないか。
巨大な車にクラクションを鳴らされたら、周囲が一瞬ひるんでしまうのは仕方ないだろう。
だからこそ権力は国民をひるませないよう、抑制的に行使されねばならない。首相たるもの「いま」
「わたし」の衝動に流されるべきではない。情けないのは抑制や自制という権力の作法を身につけず、
けたたましいクラクションを鳴らして走り回る首相の方である。
4: ツームストンパイルドライバー(宮城県)@\(^o^)/:2015/03/29(日) 14:55:32.03 ID:0v+YE8AT0.net
■不安社会とブレーキ
そうは言っても、安倍政権が激走を続けられるのは、社会の空気が、なんとなくそれを支えている
からだろう。長引く不況。中国の台頭。格差社会の深刻化。さらに東日本大震災、過激派組織
「イスラム国」(IS)による人質事件などを経て、焦燥感や危機意識、何が不安なのかわからない
不安がじわじわと根を張ってきた。
国ぐるみ一丸となって立ち向かわなければやられてしまう。国家が最高のパフォーマンスを発揮できるよう、
政府の足を引っ張ってはいけない――。そんな気分が広がり、熟議よりもトップダウン、個人の権利や
自由よりも国家や集団の都合が優先される社会を、知らずしらず招き寄せてはいないだろうか。
無理が通れば道理が引っ込む。「反日」「売国奴」。一丸になじまぬものを排撃する一方で、
首相に対する批判はメディアのヘイトスピーチだという極めて稚拙な言説が飛び出す。
昨今「メディアの萎縮」と呼ばれる事態も、強権的な安倍政権にたじろいでいるという単純なものではなく、
道理が引っ込み、液状化した社会に足を取られているというのが、情けなくはあるが、率直な実感だ。
ブレーキのない車のクラクションが鳴り響く社会。メディアが耳をふさいでやり過ごしてはならない。
そしていま、この社会に生きる一人ひとりにも、できることはあるはずだ。
「ブレーキ」は確かに大切だ。だがちょっと待ってほしい。「激走」を止めるためには嘘をつくことすらやぶさかではない御仁に「ブレーキ役」などさせているのはどうなのか。これは波紋を呼びそうだ。