総理大臣評価論3-小泉純一郎-

 では昨年に続きまして、近年の総理大臣に対する評価のお話をしていきたいと思います。
 今回は小泉純一郎総理です。
 
 言うまでもない変人宰相です。
 いま安倍総理が在任期間という客観的な指標において平成の大総理になりつつありますが、やえとしたら、もし平成の日本政治史において一人だけ名前を挙げろと言われたら、安倍総理ではなく小泉総理を挙げると思います。
 小泉前と小泉後では、日本の政治の風景が全く変わってしまったからです。
 そしてそれは、最終的には「小泉純一郎という個人の考えを実現するためだけに、総理大臣という職を利用した唯一の存在である」と表現できるからです。
 
 小泉総理の有名なフレーズ「自民党をぶっ壊す」ですが、これは正確に言えば「自分の思い通りにならないシステムを持つ自民党をぶっ壊す」となります。
 例えば人事については、これまで影響が最も強かった派閥の推薦名簿を無視して(とは言いつつ一定の影響はあるとは思いますが)自分の思い通りの人事を行い、そしてそれは以降の政権で踏襲されるコトになりました。
 またそれは、小選挙区における公認権という政党にとって最も強い権限を握るコトで成し得るコトができると「発見」したためであり、その大いなる「発見」は、以降の政権に同じ手法が引き継がれたように、総理にとってかなり使い勝手の良い手法だったのだと証明されていると言えるでしょう。
 「解散権は総理の大きな武器」と証明したのも小泉総理でしょう。
 これまでの政権では多くの場合、選挙もしくは予算を含む重要法案の取扱いや結果に関連した公的な意味合いによって解散が行われていましたが、小泉総理はただ一点「郵政法案を通す」という完全に個人的執念だけで解散を行い、そしてそれが強力な武器だと証明してしまいました。
 これ以降「解散は総理の個人的思いで行うコトができる」という風潮に変わりましたし、今でも「解散権こそが総理大臣の最も強い武器」とすら言われています。
 これだけでも小泉総理は十分「自分の思い通りにならないシステム」をぶっ壊してきたのです。
 
 そしてなによりぶっ壊したのが、自民党の派閥である経世会です。
 日本の戦後政治史において最も影響力のある集団とは何かと問われれば、経世会と答えるのが最も現実に即した回答となるでしょう。
 特に田中角栄以降は「経世会によって日本の政治は行われていた」と言っても過言ではありません。
 この辺は森総理の時に説明しましたように、自民党は結党前の吉田茂自由党系の派閥が本流で、鳩山一郎日本民主党系は傍流という歴史があり、例えば歴史に残る大総理である、池田勇人・佐藤栄作・田中角栄はこの保守本の流れですし、それ以降の総理も多くは田中派である経世会出身者が多くを占め、また池田系の宏池会も大平正芳総理などを輩出してきましたが、その一方傍流系である清和会の総理は森総理の前は福田赳夫総理までさかのぼらなければならないという状況でした。
 また、経世会・宏池会系以外の総理も、例えば海部俊樹総理なんかは「現住所河本派・本籍竹下派」とも揶揄されたように、経世会(つまり当時の竹下派ですね)の意向を無視して総理にはなれなかった、政権運営するコトはできなかったワケです。
 このように、自民党の大部分の歴史の主役は吉田自由党系であり、その中でも最も力を持っていた経世会だったのです。
 
 小泉総理は、この「経世会支配の自民党」をぶっ壊したのです。
 
 はたしてこの効果はテキメンで、実はいまでもその影響が残り続けています。
 それまでは「鉄の結束」と言われ、常に所属人数が最も多い第一派閥であった経世会、いまは平成研究会という派閥名ですが、小泉総理によって人事で冷遇されたあげくに、「抵抗勢力」という言葉によって世間から「古い自民党の象徴」と悪役を着させられるコトになった結果、平成研究会は第二派閥に転落させられた上に、「鉄の結束」なんて死語かのように今ではすわ分裂か的な記事が出てしまうような残念な有様になってしまっています。
 こんなのは小泉前の平成研究会では予想だにできなかった事態です。
 また、次々に総理を輩出していた派閥とは思えない後継者不足も続いています。
 現在の会長は額賀元財務大臣ですが、いまこの人を総裁候補なんて言う人はいませんね。
 さらにその次の世代も後継者不足で、次の次の世代であるプリンセス小渕優子さんも、いまはスキャンダルの影響で表舞台からは遠ざかっています。
 平成研究会の最後の総理が小渕恵三総理なのですから、まだまだ平成研究会の冬の時代は長く続きそうだと言わざるを得ません。
 この辺も、小泉時代に徹底的に干された影響で人材が育っていないせいであり、未だに根強く小泉総理の影響が残ってしまっているワケです。
 
 よく小泉総理を表して「派閥政治をぶっ壊した」と言う人がいますが、これは間違いです。
 正確には「経世会支配体制をぶっ壊した」のです。
 小泉さんそのものは派閥は好きな方です。
 なにより小泉さん自身が派閥の会長でしたからね。
 小泉派なんてなかったじゃないかと言われるかもしれませんが、小泉さんは「森派会長小泉純一郎」という時代があったんですね。
 森さんが総理になった時に、総理は形上は派閥離脱というコトになるので、その後任で小泉さんが会長になっているワケです。
 この時、森さんの実質的な影響力による代理的な会長だったのか、それとも小泉さんが謙遜して森派のままを名乗っていたのか、ちょっとこの辺はよく分かりませんが、少なくとも「会長代理」とかではなく明確に会長に就任し、森総理時代の総裁派閥として派閥を率いたのはまぎれもない事実なのですから、小泉さん自身が派閥そのものを否定していたというコトはないんだと考えられます。
 また同時によく小泉さんのコトを一匹狼だと言う人もいますが、これも同時に派閥の会長である以上その形容詞は当てはまらないと思っています。
 一匹狼が派閥の会長を務められるとは思えません。
 実際は森さんとの二人三脚だったのかもしれませんが、どういう形にせよ、議員のグループをまとめるだけの力を持っていたというのが、小泉純一郎という人物なのでしょう。
 
 そしての派閥のボスとしての性格も、小泉さん自身が総理になった後も消えるコトはありません。
 小泉総理時代、こうして経世会・平成研究会を徹底的に潰す一方、自派の清和政策研究会(当時は再び森さんが会長)は数が一気に増えるコトになります。
 自民党総裁としての力をフルに使ったんですね。
 最も分かりやすいのが公認権で、つまり直接的には「小泉さんが公認を与えるから議員になれるぞ」と言われて派閥に入った人もいるでしょうし、間接的には「小泉さんが公認をくれたから議員になれたんだ」と小泉さんを自ら慕って派閥に入った人もいるでしょう。
 そしてついに、「鉄の結束」平成研究会は第二派閥に転落し、清和政策研究会が第一派閥に躍り出るコトになりました。
 加藤の乱前は宏池会よりも数が少なかった清和会が、小泉時代に一気にトップに立ったのです。
 そしてこの構図は現在でも変わっていません。
 第一派閥が清和会、第二が平成研究会で、第三が宏池会です。
 ここからも、小泉さんは決して派閥そのものを否定していたのではなく、「経世会支配体制」を否定していた一方、自派閥の拡大には大きな野望を持っていたというコトも窺えるワケです。
 
 小泉さんの派閥に対する姿勢というのは、この他にも、加藤の乱にも垣間見るコトができます。
 あの時の小泉さんは、YKKと言われた「山崎拓・加藤紘一・小泉純一郎」の自民党次世代ユニットの一人だったワケですが、しかし加藤の乱の時は、加藤さん山崎さんは行動を共にしましたが、小泉さんはあっさりと手を引いて、逆に乱を止める側、つまり政権側にまわりました。
 もし小泉さんが一匹狼で派閥なんて壊してしまえと思っていたのであれば、加藤の乱に同調していたコトでしょう。
 しかし「自分の派閥は大好き」な小泉さんは、自分の派閥から出ている総理(森総理)を引きずり下ろすなんて選択肢は持ち合わせていなかったのでしょう。
 かくして加藤の乱はあっさりと加藤さんの負けで決着が付いてしまったのでした。
 
 ちょっと横道にそれますが、経世会と源流を同じくする保守本流宏池会も、本来の意味では小泉さんにとっては敵だったハズなのですが、小泉総理時代にはあまり攻撃は受けませんでした。
 結果から言えば、現在の派閥の中でおそらく一番まとまりがあるだろう派閥は、ちょっとイレギュラーな二階派を除けば宏池会(岸田派)であり、存在感乏しい平成研究会とはかなりの差が付いてしまっています。
 なぜこうなってしまったかと言えば、これは歴史の妙というか、数奇な運命というべきか、この前お話ししましたように、森・小泉時代には宏池会は、平成研究会と一線を画するようになっていたからです。
 小渕総理誕生の時に加藤紘一さんが総裁選挙に出て、保守本流同士の派閥の関係が壊れてしまった、あの時からです。
 そして森総理誕生の時の会談にも宏池会は呼ばれていないコトからも分かるように、宏池会である加藤派は小渕時代から徐々に党内非主流派においやられてしまい、そして加藤の乱後はついに分裂してしまった宏池会は、だからこそ小泉総理の主なターゲットにはならなかったと言えるのです。
 もしかしたら、すでに分裂しているんだから力を入れる必要はなく、その余力があれば経世会叩きに費やそうという小泉さんの判断もあったのかもしれません。
 また生き残るのに必死だった古賀誠さんが、小泉さんには最後には軍門に従ったというのもあったでしょう。
 もし加藤さんの総裁選出馬がなく、小渕総理の後も経世会・宏池会政権ができていたら、小泉総理は誕生していなかったかもしれませんし、逆にあの小泉さんのバイタリティですから総理になっていたかもしれませんし、もしそうであったとしたら宏池会も平成研究会のように攻撃目標になっていたかもしれません。
 歴史の紙一重ですね。
 
 そんな「自分がやりたいコトをやるために権力を持って壁を壊していった」小泉さんですから、その評価というのは人それぞれになってしまいます。
 だって一番象徴的な郵政民営化だって、小泉さんの個人の執念で成し遂げたモノであって、国民的または公的な要請のもとに行われたワケではないのですから、個人として「郵政民営化が正しい」と思う人なら評価をし、「間違っている」と思う人なら批判をし、「どっちでもいい」と思う人ならどっちでもいいでしょう。
 ちなみにやえは当時もずっと言ってましたが「どっちでもいい」という感じです。
 よって小泉さんの評価っていうのは、他の総理に輪を掛けて「人による」んだと思います。
 政治手法ですら、結局は「小泉さんが小泉さんのために」行ったコトでしかなく、結果的に公的に利益になったかどうか、国益に適ったかどうかというのは、もっと後にならないと評価が下せないでしょう。
 しかもそれは「結果的に良かった」もしくは「結果的にダメだった」という、小泉さんという個人の思惑を離れた結果論にしかならないんだと思います。
 
 小泉総理の誕生は、このように日本政治史にとって大きなターニングポイントになりました。
 自民党の内規や小選挙区制度を使い、総理大臣という役職にさらに大きな力を行使できるコトに気づかせて、その後の総理にも力の使い方において大きな影響を与え、一方自民党の経世会支配に終止符を打ち、小泉総理後の自民党からの総理は未だ麻生さん以外は全て清和政策研究会出身という、ある種の異常事態が続いています。
 小泉総理の登場によって、永田町の、日本の政治史が一変しました。
 そういう意味で、最初に言いましたように、もしやえに平成で最も影響を与えた総理を一人だけ挙げろと言われたら小泉純一郎を挙げるのです。
 
 変人らしく小泉さんのエピソードはまだまだたくさんあるのですが、とりあえず今回はこれぐらいにしたいと思います。
 良い総理か悪い総理かを聞かれると、かなり答えには困るのですが、でも今の日本の政治の流れを考えれば、ある意味「出るべくして出てきた人」だったのかもしれません。
 特に衆議院選挙が小選挙区制度になった時から、いつかはこういう流れになるのは決まっていたとは言えますので、その転換点にたまたま永田町の中で極めて変人な人が総理になってしまったがために、もっとも効果的に変革の力を使われてしまっただけという言い方はできると思います。
 これはもう善し悪しじゃない気がするんですよね。
 直接巻き込まれた人はたまったもんじゃないんだとは思いますが。
 
 もう1つ言えば、永田町ウォッチする身としては、こんな面白い人はいなかったというのは確かです。
 そういう意味ではやえは小泉さんは好きですね。
 文章の書き甲斐のある人でした。
 
 では次回は第一次の安倍総理の評に移りたいと思います。