Home > アーカイブ > 2015-02

2015-02

日本は法治国家


 法治国家とは、あらかじめ定められ公開されている法律によって善悪を裁く制度です。
 この根本の精神には、平等性があると言えるでしょう。
 なぜなら、あらかじめ定められ公開されているルールだからこそ、全ての人がそれを基準にするコトができるからです。
 これがもし、人によってルールが変わってしまっていては、同じ行為でも裁く人によって罪や罰が変わってしまうコトになり、それではそこに住む人間がどういう基準で暮らしていけば分からなくなってしまいますよね。
 極端なお話、昨日行った行為が明日罰せられる、他人と同じ行動でも自分だけが罰せられる、なんてコトもあり得るワケで、法治主義とはそんな不平等が起きないように、あらかじめ定められ公開された法というモノを基準にするというのモノなワケです。
 
 法治主義と真反対の概念は人治主義でしょう。
 先ほど言いました、「人によってルールが変わってしまう」というモノです。
 現在の中国がそれで、中国にも法律や憲法はあるようですが、その当の憲法からして「中国共産党の指導を仰ぐ」と明記されており、憲法より共産党の指導の法が上位だと位置づけられています。
 つまり、「憲法ではこう規定されているけど共産党の指導が入ったので逆の判決を下す」というコトもあり得る、あり得るというか、憲法的にそれは合憲の行為であると憲法によって定められているワケなんですね。
 よって中国は「人によってルールが変わる国家」であり、法治国家ではなく人治国家と定義づけられます。
 
 先日から国会において野党が政治資金の問題で色々と大騒ぎしています。
 結局西川農水大臣が「何度説明しても分からない人は分からない」と嫌気が差したように辞任してしまいましたが、その後も雑誌ネタを用いて下村文部科学大臣の“疑惑”を民主党や維新の党は追求していました。
 
 しかし、西川大臣の件にしても下村大臣の件にしても、そしてその他の名前を挙げられてしまっている大臣達も、全て法的にはなんら問題はないんですね。
 これは国会の中でもハッキリしています。
 政治資金を所轄する総務省の高市大臣も一般論としての法律論で違法行為ではないと明言し、また同時に総理までもそれを答弁で繰り返し、そして野党もここの法律論については反論が出来ないままに終わりました。
 最近は「法的には問題ないのになぜ総理は西川大臣を辞めさせたのか」という責任転嫁甚だしい言い方に、民主党自身が変えているぐらいです。
 もちろん日本の三権分立の中では法律論は裁判所の決定を持って公的決定ではありますが、訴訟を行わない中でここまで大臣が答弁し、また追求側でも反論できないのであれば、これはもうほぼ法的には問題ないと断言していいでしょう。
 
 だったらこの問題はもうここで終わりのハズなんですよね。
 法的に問題ないコトをもし裁こうとするのであれば、ではそれは、誰がどんな権限を持って何を基準に裁くのかっていう問題になります。
 そしてそれを突き詰めると、人治主義にしかなりません。
 つまり民主党や維新の党の主張というのは、「法的には問題ないけど、自分が許せないから罰を与える」と言っているワケで、こんなのはもう完全な人治主義ですよね。
 
 よく「道義的責任」なんて言葉もでるワケですが、それも明確な基準というモノはありません。
 もちろん法律だけがこの世の全てだと言うつもりはありませんが、しかし日本国家で最も重い大臣という職に対して「辞めろ」とまで言うのであればこそ、明確な基準のモノに善悪の判断をしなければならないのではないのでしょうか。
 そもそもですよ、そもそもとして本当に道義的責任を問うというなら、問題になってからそのルールを明らかにするのではなく、前もって明示しておかなければあまりにも不平等です。
 逆にもしそれがまかり通るのであれば、どんなコトだって後からいくらでも言えるワケで、結局それは道義的責任という名の人治主義にしかならないでしょう。
 
 ですから本来立法府でやるべき問題は、それが道義的に問題だと思うなら、それを法律化させる議論をすべきなのです。
 人を問うんじゃなくて、まず制度を問うのが法治国家の筋です。
 不遡及の原則からも、違法性のない現在の状態を追求するというのは、不適当です。
 これは政治家や政治資金の問題に限らず、「確かにそれは問題だと思うがしかし違法ではない以上、今回の件は法に裁けないが、しかし同じ過ちを繰り返さないためにキチンと立法化しておこう」とするのが法治国家ではないですか。
 貴重な予算審議の時間を割き、法的に問題がないとハッキリしている行為までを魔女裁判のように定義がハッキリしないモノで裁こうとしている行為は、無駄以上に法治国家として害悪としか言いようがないのです。
 
 バーチャルネット思想アイドルやえ十四歳は、法治国家を応援しています。
 

選挙という民主主義における至上の価値を足蹴にする民主党


 昨年の衆議院選挙においてもそうでしたが、民主党もマスコミも、民主主義国家に於ける選挙というモノをあまりにも軽んじている、むしろ足蹴にしているとしか思えないんですね。
 
 選挙とは何かと言えば、それは立候補者が国民に直接政策を訴える場であり、また同時に国民が直接政治への意思を明確に表明する場です。
 民主主義では選挙こそが民主主義たり得る理由であり、日本においても西洋においても、この制度を得るために血すら流してきた歴史がある、至上の価値とも言えるモノでしょう。
 しかし前回の衆議院総選挙の場においては、なんと「選挙をする意味が分からない」なんて寝言としか思えないような主張がまかり通っていました。
 国民が直接政治に意思を示す。
 これこそが民主主義の最も見いだすべき価値であるワケで、論点や意義というモノはむしろ国民の側から考えるモノであるハズなのに、その国民の意思の表明というモノを完全に軽んじている、何より「選挙は国民のモノである」という意識が欠如している主張だと言うしかありません。
 それは日本が平和だからというコトもあるのかもしれませんし、やえは日頃から全ての国民が選挙に行く必要はない、行きたくない人は行かなくてもよいと言っていますが、しかしだからと言って選挙の価値までを下げるような主張をしていいコトにはなりません。
 選挙が大切だからこそ、もし選挙に行かないのであれば、政治に口出すコトなく粛々と政治の全てを受け入れるべきだというのが、やえの主張です。
 むしろ選挙とはそれぐらい重いモノだからこそとも言えるのです。
 
 先日国会でちょっと話題になった議論があります。
 それは、選挙の際に総理が官邸を離れて選挙遊説していたのは邦人人質事件の対応として間違っていたのではないかと、総理は官邸にいるべきではなかったのか、という議論です。
 これは選挙の投票日直前ぐらいには邦人が拘束されていたという情報が入っていたというお話から出てきた議論のようなのですが、民主党の主張としては「人の命がかかっている時期に、総理が選挙に時間を割くべきではなかった」というようなコトなんですね。
 しかしこれも、選挙というモノを軽んじている主張ではないかなと思うのです。
 
 言葉上では確かに「人の命」ほど重要なモノはないと言えてしまうのかもしれませんが、しかしやはりよくよく考えれば、選挙というモノ民主主義というモノは流血の末に勝ち取った歴史のある権利であるワケで、その重要性というのは簡単に優越を付けられるモノではないと思うのです。
 まして今回の人質事件は「官邸にいれば確実に命が助かる」という性質のモノではありませんでしたし、そうでなくても、「人の命」と「選挙」を比べてどちらが重いかなんてコトは本来比べられない重みがあるワケですから、それを盾にして選挙をおろそかにしろっていうのは違うのではないのでしょうか。
 政党の党首が選挙の際に国民と意見交換をしないというのは、民主主義においては最大の損失であるハズです。
 
 言ってしまえば「どちらも等価値として重い」と言えるべきモノではないかと思います。
 そもそもとして、内閣の仕事において「1つだけに集中しろ」と言ってしまう方が間違いなのです。
 世の中どれだけの案件があって、それを政府=内閣でどれだけ処理しているのかを考えれば、内閣の機能というモノは複数の案件を同時に処理するようはじめから設計作られているのです。
 その中で、人の命と選挙を仮に天秤に図るのであれば、同時に行うべき重い案件の比べ合いにしかならず、どちらかだけに注力すればいいモノではないと言うのが一番正しい結論でしょう。
 その中で、官邸での情報収集は官房副長官に任せ、また同時に民主主義の根幹に関わる選挙には与党の党首として総理が国民に直接説明するというのは、特に間違ってはいない行為でしょう。
 情報収集は権限として官房副長官でも行うコトができるという一方、選挙という場においては党首が直接というのは大変に重みがあるワケで、総理がそちらを選択したというのは民主主義を重要視すればするほど必要な行為だったと言えるのではないのでしょうか。
 
 「人の命」という言葉面だけでは何よりも勝ると一瞬感じてしまう言葉で相手を批判するのは卑怯なのではないのでしょうか。
 しかし一方、以前の更新で言いましたように、いま現在でも日本国内には命を落としている人が進行形でいるワケで、ではなぜ一方だけの命ばかりを主張して、注目されないというだけで別の命を無視してしまっているのでしょうか。
 結局命は重要だと口で言いながら実行が伴っていないワケで、それなのに命を盾に取るような主張というのは、それはもう卑怯としか表現しようがありません。
 命が重要なのは否定しませんが、しかしそけだけが全てを置いて最重要視されるモノではないというコトは理解しておくべき必要があるでしょう。
 
 なによりもう一度民主主義国の国民として、民主主義と選挙というモノの価値を再認識すべきではないでしょうか。
 

マスコミは報道の自由を守りたいのか、それともただ政権批判がしたいだけなのか


 邦人人質事件の件で、なぜここまでマスコミが国民にそっぽを向かれたのか、マスコミは未だその理由が分かっていないのでしょう。
 おそらくただ「報道の自由が大切だ」とか「それが一般国民には分からないから仕方ない」とか、そんな程度にしか思っていないのかもしれませんが、それは大きな勘違いです。
 なぜマスコミは国民にそっぽを向かれているのか、それはマスコミ自身の間違った言動が一番の原因なのです。
 
 勘違いしてはいけないのが、国民が何を怒っているのかと言えば、決して「ジャーナリストが政府の言うコトを聞かなかった」からではないんですね。
 政府に楯突くヤツはけしからんヤツだ、なんて理由で国民が怒っているワケではないのです。
 では何に怒っていたのか、何が自己責任なのかと言えば、それは「他人に迷惑をかけたから」なんですね。
 自己責任という言葉は、まさにそういう意味です。
 すなわち、自分の責任と決断で危険な地に赴いたのだから、その地で危険な目に会っても自分だけで解決しろ、っていうのが自己責任論の根本的な考え方です。
 それなのに、これは人質本人の意思がどうだったかはともかく、結果としてはテロリストからの恫喝という政府や一般国民まで巻き込んでしまったコトは確かであり、これに対して国民は「自分勝手に行っておいて、さらに我々まで巻き込むなんてどういうコトなのか」という怒りを持っているワケなのです。
 
 ですから、マスコミが「他人を巻き込んだ」という点を無視して、ただただジャーナリストの行動は自由だ自由だと言ってしまっても、それは火に油を注ぐ結果にしかなりません。
 だって言わば「報道の自由に比べれば、お前らが迷惑を被るなんてどうでもいい」と言ってるようなモノなのですからね。
 ただでさえ現在進行形で迷惑を被っているのに、さらに上から目線でマスコミにこんなコト言われて、テロリストの仲間以外の誰が納得するのですかってお話なのです。
 
 よって本当にマスコミが報道の自由というモノを大切にしたいのであれば、むしろそれを行うマスコミの方から「報道の自由のために他人に迷惑をかけない方法を採らなければならなかった」と言わなければならなかったハズなのです。
 だってそうしてこそ、国民も納得できる形で、誰にも邪魔されない形で報道の自由が担保されるのですから。
 むしろマスコミは今回の拘束されたジャーナリストに対して、他人に迷惑をかける形になった取材方法は二流三流でお話になりません、ぐらい言うべきだったのではないのでしょうか。
 
 しかしこれを言わないマスコミは、結局本気で報道の自由というモノを守ろうとしているのかどうか疑わしいとしか言いようがありません。
 自らこそが自由を守らずして他人に守ってもらおうなんて、そんな虫のいいお話は転がっていません。
 マスコミが報道の自由が大切と言うのであれば、マスコミこそがそれを積極的に守っていくべきなのです。
 それに対する今回のマスコミの反応。
 結局ここからも、つまりマスコミは、報道の自由なんていうのはただの言い訳でしかなく、単に政権批判したいだけなんでしょうと結論づけるしかないのです。
 

Home > アーカイブ > 2015-02

最新の更新
web拍手

面白かったらぜひ拍手ボタンを!
メッセージを送るコトも出来ます。
ブログランキング

政治 ブログランキングへ

幅を広げるために参加しました。
良かったらクリックしてください。
カレンダー
« 2015 年 2月 »
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
月別記事一覧
カテゴリー
最近のコメント(レスをツイッターでやってます)
最近のトラックバック
RSS
箱入りやえちゃん
 
過去ろーぐ!

平成23年10月以前過去ログ
平成14年から続いているんですよ!

Return to page top