国民が責任を持つコト、それは論拠を持つコト
当サイトではよく、国家の主権者たる国民こそが政治に対して責任を持たなければならない、というようなコトを言いますが、では果たしてこれを具体的に実践するためにはどうしたらいいのでしょうか。
例えば、選挙には必ず投票に行くとか、妥協できない立候補者ばかりであれば自分が立候補するとか、やえのようにインターネット上に自分の意見を公開するとか、本を出版するとか、街頭演説をするとかデモをするとか、まぁやえはあまりデモは好きじゃないんですが、方法としては色々とあるでしょう。
このようにやり方によっては、政治に責任を持つというコトになろうかと思います。
でもですね、これらのさらに基本となるコトが1つあると思うのです。
これをしなければ、いくらこれらの行為を取ったところで、政治に責任を持っているとは言えないのではないかと思っています。
それは「論拠を持つコト」です。
本来どんな意見だって全てに「論拠」があるハズです。
結論が○○だったとしても、その○○という結論に至るまでの理由や論拠が必ずあるハズですよね。
というかむしろ、理由や論拠があるからこそ、○○という結論を得られるハズです。
簡単です。
「赤信号は止まれ」という結論がある場合、それには理由や論拠があるから大勢の人が納得して守っているワケで、まぁ守っていない人もいますが、ただしそれも悪いコトというコトは理解していますよね。
でその論拠は、例えば「法律で定められているから」という理由を挙げる人もいるでしょうし、さらにそれも、「交通ルールを円滑に行うため」「歩行者を守るため」などの理由があるからという論拠があるからこそ法律で定められていると多くの人が理解しているワケです。
頭ごなしに「赤なんだから止まれ」と言われたら多分多くの人が反発すると思うのですが、しかし論拠がシッカリしていて多くの人が納得できるモノだからこそ、「赤は止まれ」という結論が受け入れられているワケなのです。
全ての意見や主張とは、全てこれと同じです。
結論とは、実はオマケでしかないのです。
結局のところ、「交通ルールを円滑に行うため」「歩行者を守るため」というコトが分かっていれば、「赤は止まれ」という結論が無くても、やるべきコトというのは理解できるますよね。
つまり結論とは、そういう様々な論拠を完結にまとめたモノでしかないのです。
現代の世の中は様々な意見であふれています。
新聞やテレビだけでも多くの人が色んなコトを言いますし、さらにネットを見ればさらに膨大な意見があふれかえっています。
それらの意見に触れて影響を受けるコトはいいのですが、しかし間違えて欲しくないのは、結論だけをカーボンコピーするという行為は間違いだというコトです。
意見や主張の本質は論拠です。
その意見に影響されるにしろ反論するにしろ、全ては論拠に対して行われるべきなのです。
結論だけを鵜呑みにすると、先の衆議院選挙みたいになります。
民主党はあの時の選挙で何を言ったかと言えば、子ども手当を出します高速道路を無料にします高校を無償化しますというバラマキしますという結論だけでした。
自民党や一部のネット上の論では、やえもそうでしたが、その根拠はどこにあるのかと、つまり財源はどこにあって、その行為にはどんな意義や意味があるんだと問いただしましたが、結局それに民主党は答えるコトがありませんでした。
とにかくバラマキをするんだと、そうすればバラ色の未来が待っているんだと、そう論拠無き結論だけを言い続けたワケです。
その結果はどうなったでしょうか。
もはや説明は不要ですよね。
結局これは、論拠を経ずして結論だけをつくってしまったせいです。
これらの民主党の結論は、本来理由や論拠を積み上げていくという作業していれば、絶対にあり得ない出せない結論だったのです。
それなのに論拠を積み上げるという作業せずして結論だけを作り出す、言わば砂上の楼閣のような意見を出すから、ここまで無惨にも民主党の主張が崩れ去っているのです。
ここをですね、もし、国民がシッカリと「論拠こそを考えて重要視する」という行為が出来ていれば、決してあの中身のないマニフェストを掲げるような民主党を与党にするコトなどあり得なかったでしょう。
政治や意見に対する時に、ひとりひとりが論拠こそを考えるというコトをすれば、それこそが主権者たる国民のための政治になるのです。
意見の全ては論拠です。
論拠のある意見を持つというコトが、まず責任を持つというコトの第一歩なのです。
これはなにも、他人に意見を聞かせる際だけのお話ではありません。
自分の中だけで考える際にも、常に論拠をシッカリさせるコトを意識してください。
「民主党はダメだ」「自民党はダメだ」「政治はダメだ」とはよく聞くセリフですが、ただそれだけではなく、なぜダメなのか、どういう理由でダメなのかという部分、論拠の部分を考えてみてください。
理由を考えてから結論を出すように心がけてください。
他人の意見に対しても同じです。
テレビや新聞やネットでそのような意見は日常的に目に耳にしますが、それは結論だけを受け入れるのではなく、むしろ結論なんて捨ててしまい、ではその人がどのような理由を持ってその結論に至っているのか、その論拠の部分こそを、いえ論拠の部分だけを聞くようにしてみてください。
もし論拠のない意見であれば、そんなのは意見とは認めず、全て捨ててください。
否定しても構いません。
意見の全ては論拠にあるのですから。
政治に対して、自分は非力だと形ある結果を出せないのであれば全て無意味だと最近嘆く人が多いです。
でも、だからといって極端に走っても、やえはそんな行為に意味はないと言います。
結局それは、極端な言い方をすれば暴力でもって無理矢理他人を従わせているだけで、その人の心の中までを従わせたワケではないからです。
本当にそれが正しいと思うのであれば、他人に心から納得して貰うよう行動するのが正道ではないでしょうか。
そしてそのためには、なによりも論拠をシッカリさせるコトです。
意見を言うためには、そしてそれに責任を持つというコトは、論拠をハッキリとさせるというコトに他ならないのです。
政治に責任を持つコト、主権者たる国民として責任を持つというコトは、まずは論拠を持つコトです。
それが基本であり、本質なのです。
ディスカッション
コメント一覧
っていうか、当たり前のことだよね。 >どんな意見だって全てに「論拠」がある
少なくとも社会人には無いと仕事できない人扱いされるでしょう。
それなのに出来てないように見えるのは、それがそもそもその人の意見ではなく、ただテレビや新聞で言ってたことのコピーでしかないからじゃないかな。
考えるのって面倒ですからね。お仕事終わって疲れているのに、政治なんて自分に関係ない上にややこしいこと考えたくないですよ。だから「みんな言ってるんだからそうなんだろう」で終わってしまう。
政治的なことって、自分の生活に直結するものですけどね。
なのに、それがあまり意識できてなくて、自分には関係ない芸能人のスキャンダルと同程度にしか捉えられていないように感じることがあります。
基礎教育として、論理学が遅くとも中学までには入って欲しいところですね。
(過去の偉人の名前などを暗記するなどではなく、実用としての意味で)
論理的に物事を考える、という最低限必要な基礎が軽視されているものかと。
授業の一貫として議論及び討論などが盛り込まれたりもしますが、形式的に論戦をさせるだけで
「その主張にはどのような論拠があるのか」「その論拠は飛躍や破綻がないか」
「論拠及び主張は客観的に納得できるものか」
などといった部分に触れられることは稀だと思います。
論拠無き結論の押し付け合いを議論または討論と称している傾向もありますね。
その教育の賜物なのか、国会にまでそんな傾向が出ている状態でしょうか。
「論拠ある意見を持つ」ことが最低限の責任であるのは確かだとは思います。
そしてその観点から見るに「論理的な考え方を国民に教えていない」という意味では
教育をする側も、教育を受ける側も「無責任」になっているのが現状でしょうか。
問題はその論拠を誰もが持てないということでしょうか。むしろ大半はマスコミの扇動に乗る手合いで、それを制したものが政治の実権を制するところにありますね。
浜口雄幸を襲撃した佐郷屋留雄は「統帥権干犯をする浜口総理はけしからんおでやった」と言い、では統帥権干犯とは何ぞやと問うと答えられなかったそうです。この程度のフレーズに騙される阿呆が後の大物右翼というからなんともはや。
況や生まれてこのかた3Sにどっぷり洗脳されてる現代の一般大衆には何をか言わんや。マスコミの、個人的には見識のあると思われる人物でも「日々生活に追われる普通の視聴者の皆さんが実際こういうこと(政治)を深く考えるのは無理」としてカーボンコピーを助長するような発言も散見されますし。