「自民支持層の軋轢」について

2012年4月15日

 さて、なんか毎週オレが出てきてしまってすまんな。
 いいのかい、オレはノンケでもがふっ
 
 
 国民の責任について、ふとツイッターで連投したのを編集し直してここに載せる事にする。
 果たして民主党に投票し、それを後悔している人には、どのような責任を取って貰うのが適当かという話だ。
 まぁ、そんなに長くないので読んで貰いたい。
 
 
 この「自民支持層の軋轢」というまとめについてコメント。http://togetter.com/li/258268
 
 いくつか視点があるので、まず「国民の責任」について。
 国民の責任とは「結果を否定しない」という事だろう。
 「批判しない」ではない、「否定しない」だ。
 例えば自分は民主に入れてないから民主が作った法律には従わない、と言うのは間違い。それは受け入れるのが国民の責任。
 
 その上で民主主義には議論は必要だし批判も必要。
 だから「結果は否定しないが、その結果をもたらした原因には批判をする」というのは民主主義的に正しい。
 「民主に投票した奴は反省を」の主張は「原因に対する批判」であって、民主主義的には間違いではない。国民は主権者であって最終責任者であるのだから、政治家に批判するのと同等かそれ以上に批判を受けるべき存在である、本来は。
 だから、選挙の結果として民主が与党なのは、システム的には「正しい」が、思想的には「失敗だった」のだから、この思想部分に対して国民は批判を受けるべきなのだ。
 
 視点が変わり、「民主政権の失敗」は国民的にはどこにあるかを考える。
 民主政権の国民への不利益とは、政治の結果国益が損なわれたという点ではない。政策を実行すら出来なかったという点にある。
 
 例えば小泉総理は郵政民営化すると言って実行した。
 民主は高速道路無料化すると言ってしなかった。
 郵政を民営化した結果どうなるかの検証は時間がかかるし、ある意味歴史が証明する事だろう。
 その結果も国民は受け入れる必要はあるが、政権選択の際における正否の責任までを国民がすぐ問われるべきかどうかというのは、難しいだろう。現実社会に顕れる結果というのは見方によって変わるから。
 
 しかし「やると言った事をやらなかった」という今の民主の失敗は、結果は明らかだ。
 見解の相違なんて余地はない。
 この点に関して国民が追うべき責任はどこにあるのかを考える必要がある。特に民主党に投票した人はという、投票しなかった人との差も考慮に入れて、だ。
 
 なぜかと言うと選挙の際には「民主の公約は実行不可能だ」という意見が少なくない数あったから。「結果的に経済が衰退する」とかの類ではない、「それは実現不可能だ」という意見だ。
 前者だと見解の相違で人によって違うが、後者は明確に万人に同じ結果の意見である。
 そしてあの時民主に入れた人も多くは「現実不可能だ」という意見を目に耳にしていると思われる。一切それを聞かなかった人はいないだろう。大部分は耳には入ったけど頭に入れなかった人だと思われる。
 多分「民主に入れた奴は謝罪しろ」論はここの点が争点。
 
 「そう言ってたのに聞く耳持たなかっただろ。そして結果はこうだ。だから謝罪しろ」が「謝罪しろ論」の骨格である。
 もうちょっと強めれば「そんな事ぐらいちょっと考えれば分かった事だろ。だから謝罪しろ」になる。そして「指摘したのにお前のせいで迷惑がかかった」となる。
 まぁ謝罪はともかく、明らかな失敗という結果を目の前にして、それを見誤ったのであれば反省は必要であろう。「騙された」と言うだけでは主権者としては無責任なのは違いない。
 まして騙されないための材料は確実にあったのだから。
 
 現在の政治の歪みはひとえに「やると言った事をやらなかった」という点にある。「政治が暮らしを良くしなかった」というレベルではない。そしてその嘘は少なくとも国民の1/3ぐらいは嘘だと見抜ける陳腐さでもあった。
 この点を踏まえた上で「国民の責任」を考える必要があろう。
 
 国民は運動員ではないので他人に影響を与えられなかったから悪いとか、その手の意見は厳しすぎる。オレはサイトやってるからそういう意味では耳は痛いが(笑)
 でもまぁ国民の1人として「他人のせいで迷惑を被った」のであれば、謝罪を求めたくなる気持ちは自然ではなかろうか。その迷惑は国民の一人として、責任者として否定せず受けきっているのだからな。
 でもまぁ実際全員が謝罪しても詮無い事なので、その意見をどう受け止めるかは別問題だとは思う。
 だから次の事を考える。次どうするか。
 
 少なくとも「自分は民主に騙されただけ、責任はない」とか言っているようでは政治は良くならないだろう。そして実際そう思ってしまっている人も少なからずいるのも事実。
 だからその手の輩には現実を突き付け目を覚まさせる必要はある。
 しかしその方法論を見つけるのは難しい。一国民として出来る事など限られているし、それをしなければならない義務も本来はない。
 「謝罪しろ」とは身に係る火の粉を払う思いであるが、逆に言えば火の粉が身に振り描かなければ自業自得で済んでしまう感情だ。このバランスが難しい。
 一国民として出来る事は限られているからこそ政治は難しいのである。
 なにより民主主義は政治に関わる人数が多すぎる。
 だからオレとしては自分のサイトで間違いは間違いと指摘している訳だ。自分ひとりで結果全てを変えれるとは思っていない。それは傲慢すぎる考え方だろう。
 
 
 ここまでがツイッターでのまとめなんだが、難しい問題ではある。
 でもなんらかのケジメは必要ではないかと思う。
 でなければ、同じ事の繰り返しになるからな。
 まして民主党の失敗は「実行できなかった」という点で、解釈の余地なくハッキリしている訳だからな。
 そのために他人から強要する事ではないが、自ら反省の気持ちを形に表すというのは必要な事なのかもしれないとは思う。
 特に、オレのような投票以外の活動をしている者ならな。
 まぁその筆頭はマスコミな訳だが、もしマスコミの厚顔無恥のようになりたくないのであれば、反省の気持ちっていうのも考える必要があるのではないだろうか。