手段を間違えれば目的が何であれ許されない

2012年4月15日

 今日はコメントについてちょっとお返事しておこうと思います。
 とりあえずですね、いただいた方のコメントの他の部分は今まで散々語ってきた中で全て答えていますので、1点だけお答えします。
 ただこれは、コメントレスというだけではなくて、様々な問題においての原理原則と思っていますので、多くの方に読んで貰って広い意味で色々と考えていただければと思います。
 

政策の中身についての批判ならともかく、「形がおかしいから論ずるに値しない」という批判は、議論する事を理念とする民主主義それに反する行為になるのではないかと思います。

 
 目的のために手段を選ばないというのは最悪の行為です。
 これは今回の件だけに限らず、やえはずーっと昔から様々な件において繰り返し言ってきたコトです。
 例えばテロリズムです。
 アルカイダの思想だけ抜き出しての「反米」という思想はまぁいいでしょう。
 是非はともかく、その思想だけにおいては主張するという自由は民主主義国家であれば保証されていますから、日本視点で見れば、反米という思想の主張は自由です。
 ただし、アルカイダが主張する反米は、これは一切議論には値しないモノです。
 なぜなら、手段を間違えているからです。
 その主張のために全く無関係の民間人を殺していいコトには絶対になりません。
 しかしそういう行為をした時点で、アルカイダという組織の主張は無に帰されたのです。
 主張の中身は関係ありません。
 自らの行為によって、自らの主張を殺したのです。
 アルカイダという色が付いている反米思想は、その主張をやえは一切認めません。
 
 これと同じです。
 間違えないでくださいね、橋下さんがテロリストと言っているワケでは一切ありません。
 ただ、手段を間違えていると言っているのです。
 そして手段を間違えている以上は、橋本徹という人間の色がついている都構想ですとか首相公選制とかは一切論ずるに値しないと言っているのです。
 
 都構想はともかくとしましても、首相公選制はいままで色々なところで様々な人が論じてきましたから、その1つとしてやえも論ずるコトはあるかもしれません。
 でも橋本徹が主張するという前提でのこれは、橋下さんが国政に自ら立候補するか、もしくは大阪維新の会が橋下さんのオーナー支配から逃れるかしない限りは、論ずるに値しません。
 やえは、目的の為に手段を選ばない人を認めません。
 
 もしここを場合や人によって認めていたり認めなかったりしてしまうのであれば、それこそ好き嫌いだけで判断しているだけとしか言いようがなくなってしまいます。
 安重根は否定するのにアルカイダは認めるとか言ってしまうのは、論理的な説明が付きません。
 テロリズムもそうですし、デモと称した暴動もそうです。
 ちょっと前に世界同時貧困打破デモとかやってましたが、なぜそのために欧米とかでは商店を破壊して略奪するのですかと。
 もうこの時点で、いくら貧困打破が正しい思想だったとしても、この人たちが主張する動きに連動しての貧困打破の動きはやえは一切認めません。
 むしろこういう方法は、主張を後退させるコトにしかならないと認めさせなければならないでしょう。
 
 これらの例は分かりやすいのでよく使いますが、よくよく見れば身近なところでもこういうコトってあると思うんですよ。
 体罰問題とかも、構図はこれかもしれません。
 学校の先生が目指すべき主張、勉強しないとか正しい礼儀を行いなさいとか、こういう主張はいいのですが、それを実行させるためのいきすぎた暴力はいけません。
 体罰問題は暴力の質も問われるので色々と複雑ではありますが、手段と目的の問題だけをピックアップさせればこういうコトであり、そしてその後その教師の主張が何であったっとしても、いきすぎた暴力を元にしたこの教師の主張は認められないのです。
 まずはいきすぎた体罰、つまり暴力ですね、それを自身の主張抜きでまずは総括しなければならないのです。
 
 「やらなければならないコトは分かりますが、そのためにそんなコトはできませんよねぇ」なんて、よくあるコトだと思います。
 つまりこれは、目的のために手段を間違えてしまっているために起きるコトなのです。
 
 手段を違えた時点で、その主張は一切認めない、いえ、一切取り上げてはいけないのです。
 それを認めるからこそ、ますます手段が過激になって、取り上げられた者勝ちになってしまうのですから。
 やえは中身で見ます。
 主張をしている人が好きか嫌いでは判断しません。
 だからこそ、手段を間違えている人は、その人の主張は一切認めないのです。
 原理原則のお話しなのです。