手段を間違えれば目的が何であれ許されない
今日はコメントについてちょっとお返事しておこうと思います。
とりあえずですね、いただいた方のコメントの他の部分は今まで散々語ってきた中で全て答えていますので、1点だけお答えします。
ただこれは、コメントレスというだけではなくて、様々な問題においての原理原則と思っていますので、多くの方に読んで貰って広い意味で色々と考えていただければと思います。
政策の中身についての批判ならともかく、「形がおかしいから論ずるに値しない」という批判は、議論する事を理念とする民主主義それに反する行為になるのではないかと思います。
目的のために手段を選ばないというのは最悪の行為です。
これは今回の件だけに限らず、やえはずーっと昔から様々な件において繰り返し言ってきたコトです。
例えばテロリズムです。
アルカイダの思想だけ抜き出しての「反米」という思想はまぁいいでしょう。
是非はともかく、その思想だけにおいては主張するという自由は民主主義国家であれば保証されていますから、日本視点で見れば、反米という思想の主張は自由です。
ただし、アルカイダが主張する反米は、これは一切議論には値しないモノです。
なぜなら、手段を間違えているからです。
その主張のために全く無関係の民間人を殺していいコトには絶対になりません。
しかしそういう行為をした時点で、アルカイダという組織の主張は無に帰されたのです。
主張の中身は関係ありません。
自らの行為によって、自らの主張を殺したのです。
アルカイダという色が付いている反米思想は、その主張をやえは一切認めません。
これと同じです。
間違えないでくださいね、橋下さんがテロリストと言っているワケでは一切ありません。
ただ、手段を間違えていると言っているのです。
そして手段を間違えている以上は、橋本徹という人間の色がついている都構想ですとか首相公選制とかは一切論ずるに値しないと言っているのです。
都構想はともかくとしましても、首相公選制はいままで色々なところで様々な人が論じてきましたから、その1つとしてやえも論ずるコトはあるかもしれません。
でも橋本徹が主張するという前提でのこれは、橋下さんが国政に自ら立候補するか、もしくは大阪維新の会が橋下さんのオーナー支配から逃れるかしない限りは、論ずるに値しません。
やえは、目的の為に手段を選ばない人を認めません。
もしここを場合や人によって認めていたり認めなかったりしてしまうのであれば、それこそ好き嫌いだけで判断しているだけとしか言いようがなくなってしまいます。
安重根は否定するのにアルカイダは認めるとか言ってしまうのは、論理的な説明が付きません。
テロリズムもそうですし、デモと称した暴動もそうです。
ちょっと前に世界同時貧困打破デモとかやってましたが、なぜそのために欧米とかでは商店を破壊して略奪するのですかと。
もうこの時点で、いくら貧困打破が正しい思想だったとしても、この人たちが主張する動きに連動しての貧困打破の動きはやえは一切認めません。
むしろこういう方法は、主張を後退させるコトにしかならないと認めさせなければならないでしょう。
これらの例は分かりやすいのでよく使いますが、よくよく見れば身近なところでもこういうコトってあると思うんですよ。
体罰問題とかも、構図はこれかもしれません。
学校の先生が目指すべき主張、勉強しないとか正しい礼儀を行いなさいとか、こういう主張はいいのですが、それを実行させるためのいきすぎた暴力はいけません。
体罰問題は暴力の質も問われるので色々と複雑ではありますが、手段と目的の問題だけをピックアップさせればこういうコトであり、そしてその後その教師の主張が何であったっとしても、いきすぎた暴力を元にしたこの教師の主張は認められないのです。
まずはいきすぎた体罰、つまり暴力ですね、それを自身の主張抜きでまずは総括しなければならないのです。
「やらなければならないコトは分かりますが、そのためにそんなコトはできませんよねぇ」なんて、よくあるコトだと思います。
つまりこれは、目的のために手段を間違えてしまっているために起きるコトなのです。
手段を違えた時点で、その主張は一切認めない、いえ、一切取り上げてはいけないのです。
それを認めるからこそ、ますます手段が過激になって、取り上げられた者勝ちになってしまうのですから。
やえは中身で見ます。
主張をしている人が好きか嫌いでは判断しません。
だからこそ、手段を間違えている人は、その人の主張は一切認めないのです。
原理原則のお話しなのです。
ディスカッション
コメント一覧
政治とはいかに多くの人間を幸せにするか、というものだと思っています
手段が間違っていても目的が正しい
手段は正しいけれど目的が間違っている
この場合は上の方がより上位となるでしょう
手段も目的も正しいのが理想的ですね、
理論上は理想的な支配者の方がいいのは当然の事といえます
ま、橋本氏の目的が正しいかどうかは別問題ですけど
個人的には疑わしい主張も感じるので半信半疑というところでしょうか
やえさん、こんばんは。
以前ある特定の政治家に対して、その政治行為(もしくは行動)をテロリズムの例を挙げて批判するのはオカシイと申し上げました。政治家が政治行為(もしくは行動)をしているのであれば、それに対して正邪を決定する根拠は、過去の政治行為を用いてでしか、判断すらできないのではないでしょうか。つまり、政治家の政治行為に何かしらの批判を行うのであれば、その行為が合ってるか間違っているかの判断根拠は、それこそありとあらゆる過去の政治行為から例を引き批判するのが妥当だと思いますし、それ以外の行為は全部ムダだと思います。
それと、これも以前申し上げたような気がするのですが、政治の世界には「目的のためなら手段を選ばない」という行為は、当然ながら存在しております。また誤解を招きそうですが。。。
そもそも、「目的の為に手段を選んで」行動するような政治家は、言い換えれば次回選挙対策政治家とでも言いましょうか、次の選挙にはなんとしてでも当選してやろうという人達と同義語だと思います。
実際に単語を置いてみましょう。
「次の選挙に当選するという目的の為には、自らの政治手段を選んで」行動しているのが、現在の民主党であり自民党でありその他であると言えます。
「統治機構の抜本的改革という目的の為に、今は手段を選ばず」に行動しているのでが、橋本氏、ですよね。
まあこれはいいんですが、そういう次第ですので、政治には手段を選ばないという事も含まれる要素だと思います。むしろ、あって当然の要素であると考えます。もちろん、その是非は別問題です。あるものはある、という事です。
手段を選ぶのがいいのか、選ばないのがいいのか。
テロリズムというのは、常に手段を選びませんが、政治というのはその時々で手段を選ぶべきなんです。
上で次回の選挙対策に勤しむ既存政党を批判しましたが、それはそれで政治行為としては問題ないと考えます。
それが彼らの未来にどう影響するかは興味もありませんし、従って投票もしません。が、一政治家の一政治行為としては、OKだと考えます。つまり、そういう行為はあって然るべきで、それがあるから批判するというのは、少し違うのではないかと思います。
話は変わりますが、私も暴力行為を伴うデモには反対です。
>むしろこういう方法は、主張を後退させるコトにしかならないと認めさせなければならないでしょう。
仰る通りだと思います。
脱原発デモもそうですね。破壊行為を伴う様な主義・主張というのは、これこそ論ずるに値しない事柄であって、到底法治国家である日本国では認められておりません。
ただ、橋本氏および大阪維新の会の思想や行動というものは、法に違反する行為では、一切ないんですね。
法に触れなければ何をやってもいい、とは思いません。ただ、政治家が法に触れない範囲で政治行動を行う事のであれば、何ら問題もないし、殊更周りが騒ぎ立てるような問題でもないと思います。
繰り返しますが、違法行為はダメです。
ただ違法行為でもない一政治家の一政治行動に対して、「テロリズム」だの「体罰」だの、ハッキリ言って世間的なイメージが良くない例を出して批判するのは、個人的にはどうかなと思います。
やえさんにそのつもりがなくても、読みようによっては橋本氏が大阪維新の会を影であやつる悪のオーナーのような印象を与えかねません。
ダメなものはダメ。それには全くもって同感なんですが、ダメでないものをダメとの主張には、とても違和感を感じました。
またもの長文失礼しました。
民主政治というのは手続きの正しさを重視する政治形態ということで、この記事を思い出しました。
小田嶋 隆 著
例のアンケート調査とハシズムの“善意”
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20120216/227276/
(購読にはアカウントが必要です)
> 私が言おうとしているのは、政治の世界では、たとえ結果が正しくても手法として間違っている施策は採用できないということだ。
> 独裁的な手法が目に見える効果をあげることがわかっていても、行政機関は手法として正しくない施策を採用してはいけない。
(中略)
> 民主政治というのは、効率や効果よりも、手続きの正しさを重視する過程のことで、この迂遠さこそが、われわれが歴史から学んだ安全弁なのである。
やえちゃんとは少し視点が違いますが、この筆者も「体罰教師」を例にとって論を進めていますね。
効果的であるが故に『依存』してしまうのだから悪いことが起きるのだと。
とても腑に落ちました。