理屈で考えよう、なぜダメなのか

 河本事件における片山議員の行為について、もう一度キチンと理屈で是非を考えてみたいと思います。
 
 まず先に言っておくコトがあります。
 今日のお話は、あくまで国会議員という立場の人がこういう行為を行ったらどう評価すべきかというお話であって、この点において片山議員個人や政党のお話は関係がありません。
 片山議員や自民党の政策や主張などと今回のお話は一切関わり合いがないコトであり、これだけをもって片山議員や自民党に対する全体的な総合的な評価にはなり得ないというコトを踏まえておいてください。
 あくまで今回のお話は、国会議員という立場の人が、さらに言えば野党の国会議員が今回のようなコトをした場合、国民としてはどう受け止めるべかという、一般論のお話です。
 
 次に、今回のこの件に関しての前提条件を提示しておきます。
 この事実を踏まえておかなければ、今回のお話は全く違う方向に行ってしまいます。
 
1.匿名から実名を公表したのは片山議員ではなく雑誌が先。片山議員はその雑誌を元に行動を起こした。
2.河本準一氏は一般人ではなく、ある程度私生活を売り物にしているタレントであり、著名人である。

 
 では「国会議員が名指しで、本人は裕福な生活をしているのにも関わらずその親は生活保護を受けていると批判し、役所に調査を依頼して、それを政治活動として自身のブログに公開するコト」についての是非を考えてみましょう。
 
 まずそもそも論として「なぜダメなのか」という点をやえは知りたいです。
 先日言いましたように「国会議員という権力者が個人を対象にしての個人攻撃をすべきでない」という意見が片山批判の大半だと思われるのですが、残念ながらこの批判というモノは「なぜダメなのか」という論拠の部分が語られていないんですね。
 ましてこれは攻撃ではなく、不正を不正だと質しているだけであって、例えば意見の相違があって名指しで批判しているとかそういうモノですらなく、ただただ不正を不正だと質す行為なのですから、不正を質すコトはどんな立場の人であっても主張できるコトであり、なぜ今回片山議員だけが国会議員だからという理由でダメと言われるのか、ここはキチンと論拠を示すべきでしょう。
 
 そこで前提条件の1なのですが、仮にこれを片山議員が自らの権力でもって行政に個人情報を洗い出させ、河本準一氏を狙い撃ちにして生活保護を親族が受けていたという事実を世に公開して、自分の功名心のために利用したというのであれば、これは批判されるべきです。
 なぜなら、権力の私的利用に当たるからです。
 一般人では個人の生活保護という情報を得るコトはできませんから、国会議員がその権力権威と立場を利用し特別に情報を出させたというのであれば、その点は批判されて当然です。
 よって片山議員が今回このような行動をとっているのであれば、それは批判されるべきでしょう。
 しかし実際は違うワケです。
 実際のところは、片山議員が河本氏の情報を全く知らない時点である雑誌において河本準一という実名(芸名かどうかはともかく)を公表して先に報道したワケで、片山議員はその報道を見て取り上げ始めたのです。
 よってこれには当てはまりません。
 そもそも片山議員は野党であり、行政から個人情報を得る権限は持ち合わせていないワケですしね。
 
 その上で2なのですが、これが全くの一般人ならともかく、やはりテレビ等に露出して私生活を売る仕事をしているタレントという人種は、この手のプライバシー晒しはある程度社会的にも認められていると言えるでしょう。
 例えば今回の件について河本氏側が、最初に実名報道した雑誌社を名誉毀損かプライバシーの侵害かで訴えたらどうなるでしょうか。
 もちろん裁判ですからやってみないと分かりませんが、おそらく河本氏側が勝つ見込みはかなり薄いでしょう。
 生活保護の件に限らず、例えば恋愛のお話ですとか、借金のお話ですとか、今まで散々マスコミ業界というのはタレントの私生活を暴くコトで成り立ってきて、タレントもそのマスコミによって成り立っているのですから、いまさら今回の件だけはダメだと言えてしまう理屈はないからです。
 そもそも片山議員には批判は集まっていますが、最初に報道した雑誌には全然批判が上がっていないコトからも、それがうかがい知るコトができるでしょう。
 よっていまの日本においては「社会通念上タレントと呼ばれる人の個人情報はある程度公開されても許される」と言えるワケですね。
 
 さてでは、これらから導き出されるモノとはいったいなんでしょうか。
 それは、今回の片山批判というのは、ひとえに片山議員が「国会議員だから」という理由だけで批判されているという点です。
 極端に言えば「国会議員だから悪だ」と言ってしまっているワケですね。
 河本氏の親族が生活保護を貰っている、しかもそれは不正に貰っているという情報を公の場に明らかにするコトは社会通念上ある程度認められている行為であるにも関わらず、国会議員だけはそれをしてはならないと、片山批判というモノはこういう構図になっているワケです。
 
 意味が分かりません。
 
 国会議員だけがしてはならないという理屈は何なのでしょうか。
 結局昨日のお話と一緒になってしまうのですが、一私企業でしかないマスコミと、権力者と言えども国民の代表であり国民そのものと言っていい国会議員と、むしろどちらが不正を質す権利があるかと言えば、考えるまでもなく国会議員です。
 マスコミは私企業であり、マスコミの正義とは自分だけの独りよがりの正義ですが、国会議員の正義は国民の負託と意志を受けた上での正義です。
 民主主義社会においてどちらがより「社会正義」なのかは、考えるまでもありません。
 まして国会議員はその正義を間違えれば衆議院なら最長でも4年後には失職するというペナルティ、しかも国民の審判が直接ペナルティに繋がるシステムの上で成り立っているのに対し、マスコミは全くペナルティを国民から受けない形になっている構図だけでも、あきらかにより社会正義はどちらにあるのかと言う質問は、むしろ愚問とすら言える質問であると言えるでしょう。
 片山批判はひとえに「国会議員だから」という理由だけで成り立っているワケですが、であるなら、なぜ国会議員だという理由だけで今回の行為が咎められてしまうのか、ここをキチンと説明する必要があるハズなのです。
 
 この問題、いまのところやえが想定する中で唯一批判されるべき理由としては、「推定無罪の原則」があろうかと思います。
 つまり全ての人間は裁判所において判決が確定するまでは無罪の人間であり、確定するまでは有罪扱いをしてはならないという考え方です。
 この原則で考えれば、河本氏は有罪判決を受けたワケではないから、実名報道すべきではないというコトになります。
 この考え方なら分かります。
 やえも、これは今回の問題だけではなく、全ての事件についてマスコミは判決が確定するまでは個人を特定出来るような報道はすべきではないと思っていますから、今回のコトも、有罪判決が出ていないのに個人名を晒したのは何事だという批判であれば、理解はできます。
 
 ただしこの場合は片手落ちです。
 「推定無罪の原則」は全ての人に当てはまりますから、これを片山議員だけ、国会議員だけに当てはめるのは間違いです。
 言うのであれば、最初の雑誌やマスコミ全てに言わなければなりません。
 決して「マスコミはいいけど国会議員はダメだ」なんて理屈は通りませんからね。
 
 そしてこの理屈から、今回の片山批判はやっぱりおかしいと言わざるを得なくなってしまうワケです。
 だって片山批判って「国会議員という職にある権力者が」という主語で語られていますよね。
 つまりやっぱり「国会議員だから」というのが片山批判の前提条件なワケです。
 でもこの前提条件は全ての理由において成り立たないコトをいま証明しました。
 よって、やっぱりいま起こっている片山批判って理屈が通っていないのです。
 
 ましてこの「推定無罪論」を唱えるのであれば、それこそ片山さつき議員個人の問題、個人への批判にするのは筋違いであり、本来は一般論として社会論として唱えるべき問題です。
 現在タレントに対してはある程度のプライバシーの暴露は社会通念上は許されてしまっているのですから、推定無罪論を固めるのであれば、ここの社会通念を改める批判をするというのが筋です。
 片山議員個人にだけ責任を求めるような言い方は筋違いでしょう。
 
 以上のコトから、なぜ片山議員に対して「国会議員だから」という理由で不正を質す行為を行ってはならないのか、その理由が見当たりません。
 批判するなら論拠が必要です。
 論拠無き批判はただのレッテル張りであり、罵詈雑言です。
 多分権力者が非権力者をいじめているように見えて、それが単純に気持ちの問題でイヤだっていう人が大半なのでしょうし、そういう感情は湧き出てくるモノですから仕方ないと思うのですが、それでもやえはキチンと理屈で考えたいのです。
 公論として語るのであれば、感情論から脱した理論理屈を論拠を用意しなければならないのです。
 ここを忘れたただの感情論は、評論に値しないというコトを、今一度キチンと考えてほしいと思います。