デモは言論ではありません

 「言論の自由を守るためにデモは何があっても規制してはならない」っていう感じの主張をたまに見ます。
 やえはこれに対しては違和感しか覚えません。
 そもそもデモと言論の自由が結びつくコト自体がよく分からない、もっと簡単に言えば、デモは言論じゃないですから、それを守らなければならない義務も自由もないんじゃないですかと言いたくなるのです。
 デモは言論ですか?
 
 言論って論拠あってのモノですよ。
 反原発にしても消費税反対にしても何にしても、そこに論拠があり、それに納得出来れば自分の主張となり得ますが、論拠がないならただの我が侭にしかなりません。
 人は政治に限らず全ての場面において、特に他人と関わる場合においては、全て論拠を基準に考えて行動しています。
 例えば「お金を借りる」という行為も、結果だけを抜き出せば「お金を貸してほしい」という言葉だけになってしまいますが、しかしこの結果だけを他人に押しつけても納得する人なんていませんよね。
 普通は「なぜ貸して欲しいのか」とか「なぜ自分に言うのか」とか、そういうコトを聞くでしょう。
 そして借りたい方は「実は今日発売の限定生産品がある」等のお金が必要な説明をして、なんとか貸して欲しいと願いいますね。
 借りる方も貸す方も、貸してくれという言葉ではなく、貸した後にどうするかという理由を言って聞いて、その後の行動を決めるワケです。
 つまりここが論拠なワケです。
 これが親子関係であれば「遊びに行くから貸して欲しい」という理由であれば貸してくれないかもしれませんけど、「参考書が欲しい」であれば貸してくれるかもしれません。
 自分の身に置き換えて考えてみて下さい。
 例え親しい友人であっても、「パチンコに行くからお金貸して欲しい」と言われるのと、「おサイフ忘れて昼ご飯が食べられないから貸して欲しい」と言われるのとでは、全然意味合いが違ってきますよね。
 このように、人は結論ではなく論拠で判断して行動を決めているのです。
 
 ではデモのやっているコトを照らし合わせてみましょう。
 デモとは、多人数が一個所に集まってある主張を叫び練り歩く行為です。
 さてこれは言論でしょうか。
 
 はい。
 言論ではありません。
 なぜならデモ行進の際には論拠は伴わないからです。
 「原発はんたーい」「消費税はんたーい」「○○法改正はんたーい」「シュプレヒコール、野田総理は即今解散しろー、解散しろー」
 結論だけです。
 では仮にデモ隊に対して反論したらどうなるでしょうか。
 おそらく無視されるか、ヘタしたら暴行されかねません。
 仮に何人かが議論に付き合ったとしても、しかしそれはもはやデモとは呼びませんよね。
 「数人による議論」です。
 例えば「お金を貸して」という場合において、いきなり数人が自分の家に押しかけてきて「この人にとにかく金をかせ」と大声で騒ぎ出したとしたらどう思うでしょうか。
 貸して欲しいと願う人が知り合いだったとしても、最低でも「それは分かったからまず理由を聞かせてくれ」と言いいたくなりますよね。
 そしてその場合、数人もその場に必要はありません。
 貸して欲しい人がひとりで直接理由を言いに来ればいいだけです。
 議論する、論拠を伝える場合は、数人が大声で騒ぎ立てる必要はまったくなく、つまりデモである必要は全くないのです。
 このようにやっぱりデモには論拠が伴わないですし、論拠を伴わせようとするならそれはもはやデモではないのです。
 
 結局デモは、結論を叫び、それを他人に押しつける行為だからこそデモと呼ぶのです。
 だからデモは言論ではないのです。
 他人に納得させたいのであれば、結論の押しつけでしかないデモを用いるのではなく、論拠を相手に伝えるよう努力しなければならないのです。
 反原発なら、まず国民に本当に原子力発電所がいらないというコトを、そうしなくても電力は足りるというコトを伝えるべきでしょう。
 それはネットだけでも十分な手段となり得るハズです。
 デモで騒ぎ立てる筆余はないハズです。
 本当に納得出来る理由があるのでしたら、すぐにそれは国民に間に広まるでしょう。
 逆に言えば、いま全然広がっていないのは、多くの人が納得しうる論拠がないからです。
 そして論拠がないままにデモという「結論の押しつけ」ばかりしているから、ますます国民からそっぽを向かれるのです。
 
 デモは言論ではありません。
 ですから「守るべき権利」ですらないと思っています。
 本当に守るべきは論拠を伝える場であり、これを様々な場でどのように担保していくべきかという点に関しては、よくよく考えていかなければならない問題だと思います。