歴史は事実に基づいて語るべきモノ

 最近どうも変な言い方が一部で流行っている気がしてなりません。
 というのも、「その歴史認識は近隣諸国から理解されない」とか「その認識は世界から孤立する考え方だ」とか言う人がいるじゃないですか。
 特に、先の大戦に対するこれまでの認識を考え直そうという方向に対して、サヨク的な人達がよく言うセリフです。
 例えば「従軍慰安婦問題は日本政府の強制は無かった」と言うと、「そんなコト言って韓国や中国などの近隣諸国の理解が得られるのか、日本は孤立するだけだ」と返してくるワケです。
 
 しかしやえは、むしろそういうサヨクな人達が言う考え方の方がおそろしい考え方だと言わざるを得ません。
 
 なぜならそれは、「事実」よりも「考え方」を優先される考え方でしかないからです。
 従軍慰安婦にしても、先の戦争はどういう戦争だったかというコトについても、まずは歴史があるべきです。
 そして歴史とは「事実の羅列」がその出発地点です。
 当然ですよね。
 朝鮮半島を日本が併合したのは日本の公文書にも残っている「事実」であって、だからこそ歴史として紡がれているのです。
 「史実」と言ってもいいでしょう。
 いわゆる従軍慰安婦の問題も同じです。
 もし本当に事実として日本政府が権力を持って法律をもって実力行使をもって慰安婦を徴用していたのであれば、それを「史実」として呼ぶに間違いはありません。
 そしてそれが史実として証明されている史実であれば、それを否定するコトは誰にもできません。
 ただ現在のところ、それを史実として呼ぶに足る、事実として認定するに足る証拠が無いと、これまでの認識を考え直そうという人達は言っているのです。
 
 要は「それが事実かどうか」「史実かどうか」なのです。
 
 これまでの認識を考え直そうという人達は、決して「自分の気持ちがいいように史実を書き換えよう」と言っているワケではありません。
 少なくともやえはそうです。
 「愛する日本がそんなコトをするワケがない」「してないコトにする方が自分の気持ちが楽になる」、こんな事実に基づかない、ただ自分の考え方だけで、歴史を定義しようとしているワケではないのです。
 あくまで事実があるかどうか、史実なのかどうかです。
 歴史を語る上での論拠は全て事実です。
 もちろん一日の全て、24時間の全てまでをの記録が残っているワケではありませんから、歴史とは事実と事実の間に解釈が入る余地はあるワケですが、しかし間違えてはいけないのが、その解釈の部分に新たに事実の証拠が発見されれば、当然として事実の方が優先させられるという点です。
 従軍慰安の問題も、事実として認められるぐらいの政府の強制の証拠があれば、いますぐにでもやえは「日本政府の責任だ」と言います。
 いますぐ言います。
 でも、その証拠が無いんですよ。
 証拠が無い以上はそれを事実として史実として認めるワケにはいきません。
 いくら考え方や解釈であったと言われても、事実を事実だと認定するまでの証拠が無い以上は、やえは考え方だけで事実認定するようなコトは絶対にしません。
 事実や証拠よりも感情を優先させる前時代的な国であればまだしも、日本はもうそんな国ではありません。
 司法にしても、一部まだおかしな点はあるにしても、少なくとも建前上は全て証拠に基づいての、事実に基づいての判決がなされるコトが正義とされています。
 それと同じように、歴史というモノも、まずは事実がどこにあるのか、それを裏付ける証拠は何があるのかが最優先させられるべきであって、解釈はその事実を補完するモノでしかないのです。
 
 よって「近隣諸国が理解しない」とか「理解する」とかは、歴史を語る上では一切考慮の範囲外の出来事でしかないのです。
 近隣諸国が理解しようがしまいが、韓国や中国が理解しようがしまいが、「史実」としては何ら変わりはありません。
 むしろ、韓国が理解するから事実はこうであり、韓国が理解しないから事実はこう変わっていきます、なんて言う方がデタラメですよね。
 事実は事実であって、韓国だろうが中国であろうがアメリカであろうがどんな人であろうが、その人の考え方に関係なく、事実は事実で変わるコトはありません。
 ですから、歴史の問題を語る上においては、「近隣諸国の理解」なんて概念が出てくる時点で間違いなのです。
 歴史を語る上においてこんな概念を出すというコトは、むしろ歴史を語らないと断言する行為に等しいのです。
 
 戦後の歪んだサヨク思想に染まっている人は、ここの点を完全に思い違いをしています。
 もちろん中にはアレな人もいて、中身が分かっていないのに、自分の言葉で語るコトができないのに、単に流行に乗っかっているだけの人もいますが、基本的にこれまでの歴史認識を考え直そうと思っている人は、自分達の考え方や感じ方がどうこうではなく、「事実を事実として見つめ直しましょう」と言ってるだけなのです。
 サヨクの人達はここを勘違いしてはいけません。
 史実を曲げようとしているのではなく、史実を史実として見つめ直しましょうと言っているのだけなのです。
 そしてなにより、「今までの認識の方が史実から歪んでいたのではないのか」と言っているのが、いまの最近の風潮なのです。
 
 「今までの考え方が間違っていたんじゃないですか? しかもそれは事実に基づいて検証してみたら間違っていたと言うしかないんじゃないのですか?」
 これが最近の風潮なのです。
 こういう歴史の検証において「外国の理解」なんてモノは一切入り込む余地はありません。
 仮に外国が理解しなくても、事実は事実、史実は史実、そして歴史は歴史なのです。
 もしこの事実をねじ曲げて歴史を語るというのでしたら、その方が危険な考え方です。
 事実よりも考え方を優先させるというのであれば、すでにそれは歴史と呼べるシロモノではなくなるのですからね。
 誰がどんな考え方を持とうがそれは自由ですが、しかし歴史というモノを考える上においては、まずは事実が全てにおいて最優先させられるというコトを忘れてはいけません。
 ここに考え方の違い、思想の違いなんていうモノは入り込む余地はないのです。