国会に立法権があり、政府に法案提出件があり、ただの憲法学者には立法権限がないのはシステム上の話

 このお話、前回にも言いましたように極めてシステマチックなお話ですから、ちょうどよいコメントを頂きましたので、レスする形で補足したいと思います。
 
 まず「私感」という言葉の響きに引っかかっている方もいるようで前置きしておきたいのですけど、最近のこの話題での文脈における「私感」が「何の決定権も持たない私事にすぎない考え」程度の意味ではない、というコトを冒頭に申し上げておきます。
 「日本国家の最終決定ではない」というぐらいの意味にとっていただければと思います。
 正直やえとしては文脈的にそうとれるように書いているつもりでしたので、もしそう読めなかったら申し訳ないです。
 あ、でも、確かに、「私感」よりも「私見」の方が言葉としては意図に近いかもしれませんね。
 

となると、昨日の「与党が呼んだ参考人が政府の発案を否定するという異常な事態となり……」(産経)が気になるところです。
正式に憲法違反かどうかは別にしても、「長谷部よ、お前の『違憲んだ!』はお前の私見に過ぎない。以上!」などと突き放す事もありな訳で、それでは、憲法学者も何もないと思いますが。
 とはいえ、報道を見る限り、お三人何れも「第〇条がマズイ」といった主張はないようなので、やはり彼らも為にする議論であると判断できる、というのがやえさんのご意見でしょうか。

 
 というワケで本題ですが、「正式に憲法違反かどうかは別にしても、「長谷部よ、お前の『違憲んだ!』はお前の私見に過ぎない。以上!」などと突き放す事もありな訳で、それでは、憲法学者も何もないと思いますが。」との部分については、最終的な結論の部分についてだけ極めてドライに言えば、その通りです。
 この部分については、公権力的な意味で憲法学者の主張を義務として取り入れなければならないという法は、日本には存在しません。
 もちろんですよ、安倍内閣もしくは与党が自主的に取り入れて法案を取り下げるっていうのでしたら、それはまた別のお話になりますが、少なくとも、いかに国会内での正式な委員会での発言だとしても憲法学者の主張には国会議員を縛る強制力は存在しません。
 ですから極めてドライに言えば、これを無視するコトも日本のシステム的には何ら問題ないワケです。
 
 仮にもしこの憲法学者の主張を取り入れなければならないという強制力が働くとなるのであれば、では果たして「選挙とは何か」という民主主義の根幹に関わる問題に当たってしまいます。
 すなわち、憲法に定められた立法権を持つ国会の構成員たる国会議員は選挙で選ぶコトになっているのに、その国会の決定よりも、選挙を経ていない憲法学者の主張を上位に置くのであれば、何のための選挙という制度なのか、そしてなぜ国会が憲法によって「唯一の立法機関」と定め「国権の最高機関」と定義しているのかと、これらを全て覆してしまうコトになってしまうのです。
 これは憲法規定です。
 そういう観点からも、やっぱり憲法学者の主張はあくまで「私見」なのです。
 
 その法律が違憲かどうかの判断は憲法によって裁判所にのみ決定権があるというお話は何度も何度もしていましたが、よってそういう意味で国会議員の主張も安倍内閣の主張も、あくまで「私見」だというコトを言ってきました。
 ただし、それとは別に立法府には立法権が、行政府には法案提出権が憲法によって認められています。
 どちらの府も違憲判断は私見しか持ち得ませんが、立法行為については明確な権利権限を持っています。
 表現の問題で齟齬が出そうですが、それをおそれず言えば、行政府は提出法案の憲法解釈を私見のまま(法制局は司法府の機関ではありません)で国会に提出するコトができるのです。
 そして先日も言いましたように、むしろ日本の中の成立法の大部分は違憲審査なんて受けていないモノばかりなコトからも、それが窺い知れるでしょう。
 裁判所による違憲審査を受けていない法律は無効だと言うのでしたら、日本のほぼ全ての法律は無効になってしまいます。
 
 つまり、違憲判断については安倍政権も憲法学者も私見を述べ合っているに過ぎないというのは同じですが、ただし法案提出権については安倍政権にはあるけど憲法学者にはないので、ここで目に見える行動として大きく違うように見えるのです。
 この部分なんでしょうね、「じゃあ憲法学者の発言は無意味じゃないか」と感じてしまう違和感は。
 でもそんなコトを言ったところで、それって別に安倍政権のせいでも、自民党や与党のせいではないんですね。
 これは極めてシステマチックなお話だと冒頭に言いましたように、これはあくまで憲法が規定しているそれぞれの権利の違いでしかないのです。
 国会には立法権があり、行政には法案提出権があり、(その裁判に関わっていない)憲法学者には立法に携わる権限が無い、ただこれだけの違いなのです。
 違憲判断の決定権を持ってないのは安倍内閣も与党も憲法学者も同じですが、立法に関する権限が違うので、そこに「目に見える結果」として差があるように見える、というコトなんでしょう。
 さらに言えばこれは、いま湧き上がってきた新しい問題なのではなく、もともと日本のシステム上の、もっと言えば憲法規定そのままの差でしかないのです。
 
 言い方は冷たく見えてしまうワケですが、「長谷部よ、お前の『違憲んだ!』はお前の私見に過ぎない。以上!」と与党や安倍内閣が言ったとしても、それは憲法規定に従った普通の行為だと言うしかありません。
 立法権もしくは法案提出権を、憲法規定のままに淡々とこなした結果でしかないのです。
 繰り返しますが、安倍内閣が自主的に法案を撤回するなら、それは安倍内閣の権限のもとでの行為ですから、それもシステム的にあり得るお話ですが、少なくとも憲法学者には主張を安倍内閣に履行させる強制権や権限は存在しないっていうシステムのお話です。
 
 繰り返しますが、これは極めてシステマチックなお話です。
 決してやえの考えでも私感でもありません。
 ましてやえが安保法制が違憲かどうかの考え方なんて全く関係がありません。
 憲法学者の発言は一切の無意味だとは言いませんし、憲法学者さんはご自身の経験と見地で違憲だと述べられているのでしょうし、だからこそ「反対のための反対」をしたのではないともやえは想像していますが、しかしそれでも、少なくとも憲法学者さんたちには「立法の場における決定権は何も持ち合わせていない」というのは、これはどこまでもシステム上のお話として知っておく必要のあるコトだと思います。