日本の宗教は文化である

2012年4月15日

 そもそも「宗教」という言葉のくくりというか定義がおかしいワケです。
 
 宗教に関わる言葉や行為を全て「宗教」だとか「宗教行為」だとか定義づければ、それはそれは、日本だけに留まらず、どこの文化圏の人間にとっても窮屈なコトになってしまうでしょう。
 新宗教はともかくとしましても、その国の歴史に深く根付いた宗教、キリスト教やイスラム教やユダヤ教そして日本の神道や仏教などのその国の歴史そのものでもある宗教は、その国の人間の生活や生き方に直結していますから、切っても切れない関係にあると言えるからです。
 こういうのは例えとして出しにくいのですが、常識になっていますからね、例えば敢えて言うなら、「いただきます」という食事の前の日本人独特の挨拶も、元をたどれば「命を頂きます」という生命に対する畏怖と感謝の気持ちを表す行為であって、これは宗教行為と言えてしまうでしょう。
 しかしこれをいちいち宗教行為だと目くじらを立てる人はいないワケで、結局こういうのは「文化行為」でもあって、ここを明確に分離定義するというのはむしろ無意味であるワケです。
 
 やえは、神道に関しては「宗教法人」というくくりは外した方がいいと思っています。
 むしろ、「文化特別法人」とか作ってですね、宗教というよりはむしろ文化施設と定義した方がいいと思っています。
 本来はそういうくくりも必要ないと思うのですが、一応国家のシステム的に何らかの定義をしなければならないですので、ではそれなら神道は宗教というよりは文化と言ってしまった方が便利ですし、相応しいのではないかと思っています。
 平均的な日本人感覚としては、神様や仏様というのは常日頃身近にいる存在として認識しています。
 ひとつの区切りというか気持ちを切り替える意味で神社やお寺にお参りするコトはあって、それはそれで大切なコトですが、決して神社やお寺に参らなければ神様や仏様を感じるコトが出来ないというワケではありませんね。
 むしろ道ばたにお地蔵様を作って、どこにでも身近に存在すると感じる感覚が日本人であるのですから、こういう感覚というのは宗教感覚であるのと同時に、やっぱり文化的感覚であるとも言えるでしょう。
 「いただきます」なんて、まさにこういう感覚ですよね。
 
 そもそも靖国神社問題にしても、別に靖国神社に祭られている神様の遺骨があったりするワケではなく、全て感覚だけの問題でしかありませんよね。
 さらに言ってしまえば、屋台目当てでお祭りに行く人なんて多分いっぱいいると思いますから、そんな日本人の宗教感覚を宗教行為だと目くじらを立てても、まったく意味はないのではないでしょうか。
 これはもう日本人の文化的感覚なんですよ。
 そして日本人の日本人としての歴史の積み重ねの結果なのです。
 
 例えば「いただきます」は宗教行為だから総理大臣や公人は言ってはならない、と批判しますか?
 バカバカしいですね。
 日本の総理大臣はただ現在生存している日本人の代表というだけではなく、何千年にもわたる悠久の歴史を持つ日本国家の代表を受け継ぐ人という意味もあるのですから、一般人よりはやるべきコトは多くなります。
 その1つが伊勢神宮参拝であったり、靖国神社参拝もそうです。
 そしてそれは、単に宗教行為だと紋切り型に定義できるモノではなく、それは歴史的行為であって文化行為でもあって、それが日本人の行為なのです。
 
 こうまとめると、宗教行為だ宗教行為だと騒ぎ立てるコトこそが、日本の歴史や文化を破壊する行為に思えてなりません。
 日本人としては、いちいち理屈や定義でかんじがらめに考えるのではなく、日本人として素直に感じるコトをそのまま行っていきたいですね。
 ご飯を食べる前に「いただきます」と自然に言うのと同じように。