体罰問題についてひとこと

 体罰問題についてひとこと言っておきたいと思います。
 
 やえは思うのです。
 体罰、というか暴力によって指導する人、そしてそれを受け入れる人というのは、暴力でしか伝えられない人、受け止めるコトが出来ない人なんでしょうと。
 つまり言葉によって他人を正しく指導するコトができない人なんですよ、体罰するって人は。
 暴力は直接的ですから、すぐに従わせるのは簡単です。
 だからこそ犯罪で一番多く使われる手段ですよね。
 本人の意にそぐわないコトをさせる場合、例えば監禁とかする場合には暴力を使って抵抗をやめさせ監禁するワケです。
 有無を言わさず指導者が自分の意のままに従わせるためには、暴力というのは最も簡単な手段ではあります。
 ですから、言葉ではなく暴力でしか伝える手段を持たないような人が体罰を用いるのでしょう。
 
 しかしそれは同時に、言葉で他人を理解させるコトが出来ない、その程度の能力しかない人がやるコトだと断じざるを得ません。
 もちろん言葉で理解させるコトは、暴力でもって従わさせるコトよりも難しいのはその通りです。
 特にやえなんてこんなサイトやっているぐらいですから、自分の意を言葉だけで他人に伝える難しさは人一倍身にしみています。
 ですから言葉で指導するコトは、暴力を使うコトよりも難しいのは確かです。
 でも、それでも、人間は他の動物から一線を画した時から、暴力以外でのコミュニケーションを正しいモノとして選んできたのではないのでしょうか。
 もしくは、簡単に道に安易に逃げている人か、です。
 
 さらに言えば、やえには本当に暴力によるコミュニケーシションで相手を心から真に理解させるコトができるかどうかは疑問でなりません。
 「なぜそれをしなければならないのか」というコトを分からせる時、暴力で従わせる場合は結局その形を真似るコトしかできないハズです。
 例えばランニングをさせるっていう場合、暴力という手段を使えば、とにかく暴力が嫌だからという動機でランニングするコトになります。
 でもこれでは、ランニングさせるコトはさせられますが、「なぜランニングが必要なのか」というコトを理解するコトができません。
 まぁこれぐらいなら、後々ランニングによる効果が結果に出るのでその時に理解できるのかもしれませんが、でもその場で真に理解させているコトにはなりませんよね。
 でもこれが言葉でなら、なぜいまランニングが必要なのか、それによってどのような効果を得られるのか、そういうコトを理解させるコトができるワケです。
 これがもっと複雑なコトであればなおさらです。
 
 そもそも指導とはそういうモノなのではないのでしょうか。
 特に教育であればなおさらです。
 ただ結果を出させるロボットのように生徒を“指導”するのであれば暴力でもいいのかもしれませんが、しかしそんなのは教育とは呼ばず、教育とは人間としての総合的な力を成長させるためのモノなのですから、教育こそ「なぜそれをしなければならないのか」を考えさせ、教えて、自らの力とさせなければならないハズです。
 しかし暴力を使えば、その思考さえも阻害するコトにしかなりません。
 どうしてと考えるよりも、とにかく暴力がイヤだからと結果を出すだけが全てになってしまうからです。
 繰り返しますが特に教育は、人間としての成長を促すコトでもあります。
 人間的成長とは、手足だけが伸びても全く意味を成しません。
 大人としての責任や、そのための思考が伴ってこその成長です。
 思考を阻害する暴力が、教育の場で必要だと言う根拠はなんなのでしょうか。
 
 唯一、暴力によって知るコトができるモノがあります。
 それは暴力の痛みを知るためです。
 これだけは痛みを自らの体で感じなければ分からないコトです。
 そして分からないままだと、他人の痛みも分からないままになってしまいます。
 ただしこれは家庭で教えるべきモノです。
 
 中には、「暴力でしか理解出来ない子供もいる」という人がいます。
 それはそうなのかもしれません。
 どうしても人には個人差がありますから、いくら言葉で言っても理解出来ない人もいるかもしれません。
 そしてその上で「暴力でなら理解出来る」と、そう言うのかもしれません。
 そうならば、それはもう仕方ありません。
 相互が納得出来るというのであれば、暴力による指導をすればいいんじゃないでしょうか。
 お互い言葉が通じず肉体言語でしか理解し合えないのであれば、そうすればいいんじゃないでしょうか。
 
 ただし、ある人に対して暴力でしか理解出来ない知性しか持っていないから体罰をしてもいいと言い、それが仮に成功したとしても、それを別の人にもそのまま通用すると思ってはいけません。
 暴力でしか理解できない知性しか持たない人間がいるコトは仕方のないコトですが、そうでない人間に対する体罰は、ただの優越的立場を悪用した一方的な暴力でしかありません。
 ここをわきまえる必要があります。
 体罰の成功例があるからといって、それを一般論化は絶対に出来ません。
 どうしても体罰したいなら、体罰でしか理解出来ない可哀想な人には合意のもとでやればいいですが、そうでない人にはどのような理由をもってしてでも暴力を振るうコトは許されません。
 人間なのですから、暴力ではなく言葉で伝えましょう。
 言葉が通じる知性がある人かどうかを見分けるのも指導者としての重要な仕事です。
 
 一番不幸なのは、その指導者が体罰でしか理解できない人間だった場合です。
 体罰でしか理解できない知性しか持っていませんから、指導する立場になっても言葉を使えず体罰による指導しか出来ない可能性が高いワケです。
 体罰の連鎖ですね。
 そういう人は指導者になってはいけません。
 体罰でしか理解できない知性しか持たない人や、体罰でしか指導できない知性しか持ち合わせない人は、それ以外の人を指導できないのですから、指導者としては不的確なのです。
 
 今回の問題の発端となった学校の指導者は、そういう人だったのではないのでしょうか。
 保護者も含めた学校関係者の中に、その指導者を擁護する声も上がっているようですが、それは体罰でしか理解が出来ない人なのでしょう。
 その上で体罰を嬉々として受け入れるっていうなら個人の自由ですが、それを受け入れられない人は確実にいて、その人までその指導方法で通用すると思うのは、もはや犯罪とすら言えるコトです。
 その指導者によって成長できた人がいるコトはいるのでしょうけど、それによって自殺に追い込まれた人もいるのも事実なのです。
 結局今回の問題の罪はどこにあるのかと言えば、、その指導者が体罰による指導しか出来なかった、言葉による指導をするという能力が欠如していた、その程度の知性と能力しかなかったコトが今回の最大の罪なのです。
 
 体罰を容認する人というのはその程度の知性の人、言葉では理解でぎす殴られないと分からないような程度の人間なんですねと思うしかないのです。