plummet教祖とあまおち総統の「犯罪者実名報道と罪と罰」
ああああああああ。
ごめんなさい、今日の更新分のテキストデータがどっか行っちゃいましたあああああ。
ああん。
たまーにこういうコトがあるんですよね。
さすがにいまから書くのは気力がありません。
というワケで、これでお茶を濁そうと思います。
昨日あまおちさんが、いつもお世話になっているplummet宗匠さんとツイッター上で議論と言いましょうか、意見交換を行なっていまして、それをまとめたモノがありましたので、それをご紹介させて頂きます。
ツイッターやってない人すみません。
でもツイッターやってなくても読めますから、ぜひ読んでみてください。
光市母子殺害事件がついに先日、最高裁で死刑判決が出まして、それについての意見交換です。
結構深いですよ。
plummet教祖とあまおち総統の「犯罪者実名報道と罪と罰」
ディスカッション
コメント一覧
他者に危害を加えた存在を危険視したり、敵視したり、恐怖を抱く行為は、自分や仲間を守るための
防衛本能の類だと思いますので。
法律上では「処罰すればその対象は犯罪者ではなくなる」のかもしれませんが
防衛本能として、その対象を「危険」として認識してしまうのは致し方ないことではないでしょうか。
その危険から遠ざかるための「恐怖」を抱くか、それとも危険を排除するための「攻撃衝動」「憎しみ」を抱くかは
各人によって多少違ってくるかもしれませんが。いずれにせよ負の感情を抱くことが一般的だと思います。
この防衛本能という観点から考えると「死刑囚の実名報道」は意味がなさそうですね。
その危険は社会から完全に除外されてしまうので。
逆に死刑にならなかった対象(元犯罪者であった一般人)の実名報道には意味があることだと考えられます。
ただ、それによって元犯罪者の社会復帰が困難になるのは確かです。
人間の持つ防衛本能に重点を置くのか。
それとも犯罪者の更生、社会復帰を目指すという理想に重点を置くのか。
この二つは水と油がごとく、相容れない考え方なので、両立が困難ですね。
個人的には、人間が普遍的に持つ特性、情動をあまりにも無視したルールは破綻する気がしますが。
私は、判決に異論が出るのは罪と罰が現状の日本では不公平になっているからだと思っています。死刑判決が下されてから何十年も執行されないとか。日本だけでありませんけれど、世界の刑法は「許す」という方向に行き過ぎていると私は思います。被害者の「許せない」という感情を置き去りにして。まるで被害者全員が聖人君子である事を求めているようにも思えます。私は、聖人君子ではありませんので死刑か仇討ちを考えそうですけれど。