手段と目的・院政・死刑廃止論

2012年4月15日

 今日はいくつかの話題について簡単にコメントしたいと思います。
 
■「手段は正しいけれど目的が間違っている」の方が正しい
 手段と目的のお話しについてコメントを頂きました。
 

政治とはいかに多くの人間を幸せにするか、というものだと思っています
手段が間違っていても目的が正しい
手段は正しいけれど目的が間違っている
この場合は上の方がより上位となるでしょう
手段も目的も正しいのが理想的ですね、
理論上は理想的な支配者の方がいいのは当然の事といえます

 
 広い意味での政治という意味では、どうですかね、「手段が間違っていても目的が正しい」のと「手段は正しいけれど目的が間違っている」ではどちらが正しいか、どちらが上位かと決めるのは、難しいと思います。
 この命題というのは、革命やクーデターによって多くの血が流されたとしても政治体制を変革させるコト、そしてそれを認める社会を作っておくコトが、最終的に国民のため人間のためになるかどうか、というかなり究極的なお話しですから、将来のコトまで考えるとなかなか難しい命題です。
 理想的な支配者が現れる確率と、その次の代はどう継いでいくべきなど、問題も多いですからね。
 特に日本においては、クーデターはあっても革命というのは有史以来発生したコトがないワケですし。
 
 で、これが現代の日本においてはって話になりますと、これは明確に「手段は正しいけれど目的が間違っている」の方が上位になります。
 なぜなら、目的が主義主張や思想になりますと、それが本当に正しいか間違っているかなんてコトを普遍的な定義として定めるコトなんて出来ないからです。
 なかなか世の中、これが正しいと全ての人が認めるような価値観は、そうは多くありません。
 
 その上で、その主張をしている本人はもちろん自分の考えが正しいと思っているワケですから、そのギャップをどうするかという問題です。
 それが「手段」なんですね。
 すなわち、「こういう手続きを踏めば貴方にその考えを実行する権利を与えましょう」というのが民主主義なワケです。
 選挙であったり法令で権限が大きくなりすぎないよう抑制していたりですね。
 普遍的な思想的価値観を定めるコトができないからこそ、手段・手続きによって一定の定義を定めるコトによって、万人に対する普遍性を担保しようとしているワケです。
 その中で目的を達成するなら許容しますよと。
 
 だから現代日本においては、とにかく手段は正しくしなければならないのです。
 それが「前提条件」なのです。
 前提条件を満たさないのであれば、あとは全て否定するしかないと、そういうお話しなのです。
 
 
■橋下市長「僕は(調査内容は)全く問題ないと思っている。(凍結は)野村顧問の判断だ」
 記事をご覧下さい。
 

大阪市、職員への組合・政治活動調査を凍結
 
 大阪市の職員約3万4000人に実施されていた組合・政治活動実態調査について、調査を担当する市特別顧問の野村修也弁護士が17日、市役所で記者会見し、寄せられた回答の開封や集計を凍結することを表明した。
 「思想・信条の自由を侵害し、組合運営に介入する不当労働行為だ」と反発する市労働組合連合会(市労連)などが大阪府労働委員会に救済を申し立てたことを踏まえ、「当面は推移を見守ることが妥当」と判断した。
 府労働委員会は22日にも調査の一時差し止めの可否などを判断し、さらに数か月以上かけて調査中止を市に命じるかどうか最終決定する見通し。事実上、回答結果は集計・公表されない公算が大きくなった。
 
 この日の会見で、野村氏は「残念だが、(府労委の)法的手続きが開始された以上、調査は凍結する」と説明。現時点で職員の回答率を含めて一切集計していないとした。ただ、組合の政治活動などについては、職員から内部告発を受けていることを明かし、実態解明は今回の調査とは別に継続する考えを示した。
 凍結について、橋下市長は報道陣に、「僕は(調査内容は)全く問題ないと思っている。(凍結は)野村顧問の判断だ」と述べた。

 
 橋下市長が特に公務員組合の政治活動・選挙活動について、最終的にはこれを潰す気なのでしょうけど、その前段階としての調査に関する記事です。
 もちろん公務員の公務中の政治・選挙活動は認められていませんからこれは厳格に禁止すべきだと思いますが、ただそれを業務命令で調査するという行為について疑問が呈されたワケです。
 まぁその是非は、やえはぜひとも裁判によって明らかにしてもらいたいと思うのですが、この記事において気になったのがこの点です。
 

凍結について、橋下市長は報道陣に、「僕は(調査内容は)全く問題ないと思っている。(凍結は)野村顧問の判断だ」と述べた。

 
 んー?
 橋下さんが調査をやれと言い出して、しかし凍結したら現場の責任にするのですか?
 んー?
 やえこの前なんて言いましたっけ。
 「例えば大阪維新の会が国政で与党になったとして、しかし政策が実行できなかったとしても、橋下さんとしては「政策が間違っていたのではなく、議員が力不足だったため」と言えてしまう構図を残してしまいます」って言いましたよね。
 あれー?
 
 念のためにもう一度言っておきますよ。
 なぜ院政がダメなのかと言いますと、最も権力を持っている責任をとらなければならない人間が後ろに隠れるコトによって、権力は持ちつつ責任は別の人間に押しつける形になってしまうからです。
 こんな歪んだ形は許してはならないでしょう。
 はい。
 
 
■だから死刑を廃止すべきっていう論拠を示してください
 こちらの記事をご覧下さい。
 

元少年の死刑に反対=国民新・亀井氏
 
 国民新党の亀井静香代表は22日の記者会見で、山口県光市で起きた母子殺害事件で元少年の死刑が確定することに関し、「どんな犯罪者の命であっても尊い命であることには変わりない。それを国家権力が奪うことは、私としては許し難い」と、反対する見解を示した。亀井氏は「死刑廃止を推進する議員連盟」の会長。

 
 亀井静香ちゃん先生が死刑廃止論者っていうのは有名で、著書も出されておられますから過去にやえも買って読んでみたコトもあるのですが、それでもやっぱり死刑廃止論の論拠が分かりませんでした。
 今回のこれもそうです。
 「どんな犯罪者の命であっても尊い命であることには変わりない。それを国家権力が奪うことは、私としては許し難い」なんて、これ全然論拠になってないんですよね。
 
 命が尊いというのは、これは完全に主観です。
 なぜなら、「なぜ尊いのか」という論拠がさっぱりないからです。
 命が尊いというコトを自分で勝手に定義して、それを聖域化して論拠に使うというのは、これはほとんど詭弁としか言いようがありません。
 もしくはマッチポンプかですね。
 
 例えば、「人間は生まれながらに自由という尊い権利を有するから禁固刑はあってはならない」なんて言ったらどうでしょうか。
 もし「尊い」という主観的な理由が誰にも犯すコトのできない神聖不可侵な概念になり得るのであれば、この論だって守らなければならなくなります。
 こういうコトだって言えますよ。
 「亀井静香は存在が尊いので終身国会議員にすべきだ」
 バカバカしいですね。
 この論を正当化するためには、まず「なぜ尊いのか」という論拠を示さなければならないでしょう。
 よって「尊いから」というのは、死刑廃止論の論拠にはなりません。
 
 このように、やえは一度として死刑廃止論のまともな論拠を見たコトがありません。