国民の責任とは

 国民の責任の問題について、コメントを頂きました。
 

 いつも読ませていただいてます。今日の文章もとてもひきこまれました。私の思うところをひとつだけ書きます。
 
 政治を見る上での「国民」の姿が私にはよく見えません。ほとんどの国民は日常に忙しくて、またはそれを言い訳にして、新聞やテレビを眺めながら、そして本当はさほど的外れでもない意見を持ちながら、具体的にそれを何らかの形で表現することはほとんど無い・・・というふうに見えます。恥ずかしながら私もそのひとりです。
 主権者たる(大部分の)国民が、「主体性」をないがしろにして無責任である、としても、私には「ああしろ」「こうしろ」とメチャクチャなことをしているのは、そのほとんどがマスコミがやっているようにしか見えません。街頭インタビューみたいなものも、テレビの中のアンケート調査も、出演しているコメンテーターやキャスターの意見も、みんな「国民(個人)」ではなく「マスコミ」が言っているように見えて仕方がないです。
 単純なマスコミ批判を言いたいのでは無いです。(いや、私も大多数の人々と同様、いまのマスコミには変わって欲しいし変わるべきだとも強く思いますけれど。)そんなマスコミのあり方を許しているのは、声なき声の、日常に忙しい、政治的に見識はあるけれどそれを外に表明はしていない人たち、だと思います。
 だから私にはやえさんのいわれる、政治面での「理不尽を他人に押しつける国民」の姿が見えにくいです。(そもそも普通の「国民」が見えないので。・・・悪い意味での『市民』はよく見ます。)
 私には、「国民」は、たとえば自民党に対して、「メチャクチャなことをしている」のでは無く、マスコミによって「メチャクチャなことをしているように描かれていて、それを不快に思いながらも許している」というふうに思えます。
 ・・・許しているのは認めていることと一緒で、だから自分が主張しているのと同じだ、ということならよく分かります。でも、やえさんにとっては、もっと具体的・主体的に国民自身が無茶を押し付けている、という明白なものがあるのかもしれませんね。私のようにマスコミの見せるものを表層的に見ているだけでは分からないものが。

 
 ありがとうございます。
 国民の責任の問題においては必ずマスコミの存在というのは無視出来ない、と言うよりも、最も邪魔なフィルターとして無視出来ない存在です。
 マスコミが本当の意味で公平中立であれば、もっとまともな政治になっていたコトは確かでしょう。
 例えば麻生総理の時の「漢字の読み違い」なんかはどう考えてもマスコミ主導でしたから、選挙の結果まではどうなっていたかは分かりませんけど、あの時のマスコミが正常であれば今はもっとマシだったと思います。
 ですからこのマスコミの罪は何物にも代えがたいぐらい巨大なモノと断じずにはいられません。
 
 でも、その上で考えてもらいたいんですよ。
 よくこういうお話をするとですね、「マスコミに洗脳されていたから仕方ない」とか言う人が出てくるのですが、よくもまぁ自分で自分のコトを「洗脳されていた」と言えますねといつも思います。
 もちろんここまで言う人は稀ですが、でもマスコミに原因があるという人は多いです。
 しかしここの場合はですね、まず主体というか、主語を考えてもらいたいのです。
 それは「自分」なのか「広い意味での一般国民」なのかです。
 もしですよ、「自分はマスコミの言うとおりに従っただけだ」って言うなら、これはとんでもない無責任だと言うしかありません。
 だって漢字の読み方がどう総理大臣の仕事に直結するのか、そんなコトぐらいは自分で考えられますよね。
 「テレビが言ってるからそうなんだ」と、自分が考えるコトを放棄して鵜呑みにするっていう行為は、これは責められて当然だと思います。
 
 問題の質にもよる部分はあります。
 法案の具体的な内容や、国会の技術的な問題というのは、なかなか一般国民では分からないコトがたくさんあります。
 やえだって知らないコトはいっぱいあります。
 ですからですね、やっぱりだからからこそ、その専門家でも情報通でもなんでもない一般国民という立場において、政治に関わるという場合には何をすべきで、どう考えるべきかという問題を考えなればならないワケなのです。
 分からないから鵜呑みにしていい、では無く、分からないからシッカリと自分で考えよう、必要なら調べよう、もしそれでも分からないなら分からないと言おうとなるのが普通なのではないでしょうか。
 少なくとも、分からないから分からないままで適当なコトを言ってもいいとは絶対にならないハズです。
 
 知らないコトは罪ではありません。
 でも知らないコトをそのまま発信してしまうコトは罪と言えてしまう行為になってしまいます。
 自分で考えてほしいんですよ。
 自分で考えた結果としての考えを持って貰いたいのです。
 自分で考えた結果として漢字の読み違いが政権交代に繋がる程の悪だと主張するのであれば仕方がありません。
 正直やえは愚かしい考え方だとは思いますが、そう主張するコト自体は自由であり、何者にも止められないコトですから、してもらっていいと思います。
 でも「マスコミが言ってるからそうなんだ」という理由、つまり論拠ですね、「マスコミが言っている」という論拠で物事や政治を語るコトは、それはもはや主権者たる国民の責任を放棄しているとしか言いようがないと、やえは断じるしかないワケです。
 
 当然ですが、やえも自分のコトをその国民のひとりだと思って、いつもブログの記事を書いています。
 下手をすればマスコミもネットも含めて当サイトが世の中で最も「国民批判」をするサイトかもしれませんが、もちろんですがその場合でもやえは、やえだけが別次元だというような自分が神の視点にいるつもりで書いては決していません。
 やえも自分のコトとして書いています。
 その上で「国民の責任」とはなんのコトなのか、どういう範囲のコトなのかを考えてみて欲しいです。
 
 やえはこうやってサイトを長年やってきて、ありがたいコトに毎日1000人以上の方に読んでいただいているワケですが、国民の全てがこうやってサイトやブログやツイッターとかで自分の主張を発信すべきだとは思っていません。
 むしろ国民の責任という場合は、広い意味での一般国民という意味では無く、自分のコトとして考えて欲しいのです。
 
 全体としての結果は、これはもう誰にもどうにもできないコトです。
 マスコミならある程度「国民全体」のアウトプットに影響を与えられますが、そうでない一般国民にはここまでの影響を与えるコトは無理です。
 そしてなにより、それは一国民としての責任から大きく逸脱していると言えます。
 一国民としては、選挙の際には一票を持っている、一票しか持っていない存在なワケですから、やえは十四歳なので投票権はありませんが、成人の方ならだいたい「1/1億」としての権利と責任を有しているワケです。
 ですから、それでいいんですよ、国民の責任というのは、
 この「1/1億」をどう考えるかが、国民の責任なのです。
 
 もし、「麻生はダメだー、今解散すべきじゃないー、政局ばかり考えるなー、三党協議しろー、三党合意するなー」っていう批判に対して、自分はそんなコト言ってなかったと思うなら、自分の頭で考えた結果として自分なりの結論が出せれば、それが責任を果たしたコトだと思います。
 「1/1億」の国民としては、それが全てじゃないですか。
 国民の責任というモノは、要は自分がどう考えるかなのです。
 自分は他の人よりも権利が多いとか大きいとかいうような考えを持つのはむしろ危険です。
 なにやら「反原発に○○兆票」とか言ってるちょっとアレな元タレントもいるようですが、こういう考えこそ一番愚かしいのです。
 これはつまり、自分の権利は他人の権利よりもこんなにも大きいんだという意味であり、例えば一般国民よりも○○兆倍の権利を持っていると宣言しているようなモノで、こんなのは本当にイっちゃっているのか、もしくは神の気分になっているとしか言いようがないワケですね。
 自分は「1/1億」なんです。
 だからこそ、国民の責任とは自分がどう考えるかなのです。
 
 やえはいつも国民に訴えかけています。
 日本国民に読んでいただいて、そしてその人達ひとりひとりが自分で考えるためのキッカケになってもらえれば、それがやえにとっての一番です。
 やえの力で国民全員を変えようなんて思っていません。
 もちろんやえの文章だって鵜呑みにしたらダメです。
 そうでなくて、やえの文章がキッカケとなって、ひとりひとりが自分で考えて貰えれば、それが結果的には政治を良くするコトだと信じているのです。
 
 政治を変えるって、やえは本来の正道とはこういうコトだと思っています。
 政治を変えるとは、政治家の考え方を変えるのではなく、主権者である国民の考え方を変えるというコトのハズなのです。
 政治家の頭を捕まえて「この法案に賛成しろ」とか「反対しろ」って言うのではなく、国民がこの問題をどう考えるのかをハッキリさせれば、民主主義政治においては自ずとその方向に政治も動くのです。
 その1つの例が、解散だったりします。
 もっと国民の多くが即時解散を求めていれば、例えば菅内閣の時には絶対に解散は出来ていたコトでしょう。
 国民の意思は、全体としては見えづらいモノですが、でも絶対に大きなモノがあるのです。
 
 まず自分の頭で考えてみようというクセをつけてください。
 特に、自分の中で思っているだけならまだしも、ブログとかツイッターとか掲示板とか「外の世界」に発信する場合はなおさらです。
 民主主義政治は個々人ひとりひとりの考え方が集まったモノであり、それこそが本当の力なのです。
 まずは自分が主権者として国民のひとりとしてどう責任を果たすべきなのか、無責任になってはいないだろうか、ここを考えてほしいのです。
 全ての主権者が自分で考えるコトができるようになれば、政治は絶対に変わるのですから。