人権法だって中身を見て判断しなければ

 結論を出すためには論拠が必要です。
 これはもう何度も何度も言い続けてきているコトですよね。
 ある案に対して賛成するにしても反対するにもして、その結論を出すためには自分の中の論拠が必要です。
 「○○という理由があるから賛成」「××という理由があるから反対」と言うべきなのが論であり主張であり言論であるワケです。
 ただただ論拠を述べず結論だけを叫ぶという行為は、そんなのはただの結論の押しつけであって、半ば暴力と言ってもいいでしょう。
 他人がその結論に納得するかどうかは全て論拠にかかっているのですから。
 
 人権擁護法案という法案があります。
 厳密には国会に提出されていませんので法案とは呼びませんし、民主党案では人権救済法案などと呼んでいるようなので、なかなかその実体を一言で表すのは難しい法案ですが、これ、ネットではかなり悪評高い法案として有名です。
 実は、というワケでもありませんが、やえは自民党が与党の時にこの法案を提出した時にかなりネット内の議論の中心にいたモノですから色々と思うところもあるのですが、曰く既成人権団体や外国人の横暴を合法化させ日本を滅ぼすための法案だと言われていたりします。
 しかし、やえは民主党の法案までは追っかけていませんのでそっちはよく分かりませんが、少なくとも自民党が与党の時に党内案として作った案は、そんなコトは全くないただのデマだと当サイトで証拠を付けて示してきました。
 それでも未だに「人権擁護(救済)法案」と言うと無条件に悪法だと、反日勢力のための法案だと思われています。
 なにより、その人が保守論者かどうかの踏み絵にさえなってしまっていという有様。
 これはもう本当に言論としてはダメなコトになってしまっていると言わざるを得ません。
 
 何がダメなのかと言いますと、もはや中身を見ずして「人権」と名が付く法案は、それだけでダメだと言ってしまっているのがダメなのです。
 人権擁護法案に反対するからダメと言っているのではありません。
 結局最近のこの法案に対する反対を言う人は、タイトルだけで否定しているという点がダメなのです。
 さらにさっきも言いましたように、もはやこの法案は保守かどうかの踏み絵になってしまっています。
 この法案に賛成するから反日、この法案に反対するから保守と、そんな区分け材料にされてしまっているのです。
 こんなのはダメです。
 なぜなら中身を見てないからです。
 
 法案に反対するのは構いません。
 ただしそれは、キチンと論拠がある場合です。
 ○○という論拠があるから自分はこの法案に反対だっていうなら筋は通りますが、しかしこの場合「自分は保守論者だからこの法案に反対だ」は論拠にはなり得ません。
 保守論者と人権法案の間には何の関連性もないからです。
 もし人権擁護法案が「既成人権団体や外国人の横暴を合法化させ日本を滅ぼすため」と言うのであれば、それを具体的に示す論拠を提示しなければなりません。
 そう示した時のみ「日本のために法案に反対する」と言えるのです。
 
 先日大阪の橋下市長が週刊朝日に人権侵害された件で、自らのツイートに「人権擁護法案が必要では無いか」という趣旨の発言をしてからというもの、ネットでは「ほら見たことか」的な発言があちこちで見られました。
 こんな感じです。
 

 【速報】橋下から人権擁護法案キタ━ヽ(; ゚∀゚)ノ┌┛)`Д゚)・;’━!
 
344:可愛い奥様:2012/10/20(土) 00:30:53.44 ID:l3IcLcs7O
>>341
ほんとに案の定すぎて笑っちゃったよ
バレバレ過ぎて恥ずかしいレベルだね

ま、粛々とポスティングと凸するしかないね
がんばろ!

 
 これなんてもう全く中身が伴っていませんね。
 先日当サイトでも取り上げましたように、週刊朝日の件は完全に人権侵害案件であり、それにも関わらず公的機関は全く機能しないコトがハッキリしたのですから、それならその機能を作ろうというのは自然なコトなのではないでしょうか。
 ましてもしこの件が橋下市長相手でなければ、その被害はもっと大きくなっていた可能性は否めません。
 あそこまで堂々とメディアが人権侵害をしたのに、結局それは当事者が自衛するしかないという「殴り返さない方が悪い」的な態度しか示せないというのは、近代国家としてはあまりにもひどいとしか言いようがありません。
 
 さらに、残念なコトですが、日本には差別問題はまだまだあります。
 無くなってはいません。
 全く科学的根拠に寄らずして、ただただ印象だけで「福島ナンバーはガソリンスタンド入店禁止」なんていう差別がこの日本において堂々と行われたのです。
 それに対して行政や司法は何が出来たでしょうか。
 何も出来ていません、していません。
 辛うじてマスコミがそれを伝えたからこそこの問題は明るみになっただけで、もしマスコミが週刊朝日のように悪意を持って人権侵害をするような案件であれば、存在する差別が闇に葬られていた可能性だってあるのです。
 ここをよく考えて欲しいのです。
 「自分からは見えてないから、自分は知らないから、日本には差別は無い」と言ってしまうのは、あまりにも傲慢なのです。
 たまたま自分からは見えなかっだけという可能性と想像力を持たなければなりません。
 そしてそのような人達が傲慢にも他者に権利を侵され、人間としての尊厳を踏みにじられてしまったとき、それに適切に対応する機関というモノは必要なのではないのでしょうか。
 
 やえは人権擁護法案を成立させろとは言いません。
 言いませんが、「日本には差別は無い」と言って憚らない人に対しては軽蔑の目で見るしかなくなります。
 もし本当に人権擁護法案が「既成人権団体や外国人の横暴を合法化させ日本を滅ぼすための法案」であれば、そうでない法案を作ればいいだけの話です。
 人権に関する法案はどんな中身であっても反対だって言ってしまうのは、これは論としては全く成り立ちません。
 こんなのはただの駄々っ子です。
 やえはキチンと中身を見て論を主張しましょうと、当たり前のコトを言っているだけなのです。
 
 橋下市長が主張するからダメ、人権擁護法案だからダメ、と言うのはまったく論拠が伴っていません。
 こんなのはただの言いっ放しであり、結局これを他人に言うのは押しつけです。
 押しつけは暴力です。
 マスコミによる人権侵害は未だにあるし、メディア以外でも簡単に差別は発生してしまうという、まずこの現実を見据えなければなりません。
 事実は事実として受け止めて、積み重ねなければなりません。
 やえも当然「既成人権団体や外国人の横暴を合法化させる」なんてコトになるような法案には大反対ですが、ではこうならないためにはどうするのか、同時に現在未だにある差別問題にはどう向き合うべきなのか、そこを同時に考えなければなりません。
 人権法だって何だって、まずは中身を見て、論拠を考えてこそ言論であり主張なのです。
 
 結局「既成人権団体や外国人の横暴を止めるためには、他人がいま受けている差別なんて放置しておけ」となってしまう主張や態度というのは、結局差別を助長しているコトにしかならないコトを忘れてはいけないのです。