民主主義制度とは国民が政治を作るという意味です

 民主主義制度とは国民が政治を作るという意味です
 王政であれば国民がどのような世論であったとしても王様の個人的な考えを正義だと国政に反映させるコトが出来ます。
 しかし民主主義は違います。
 国会議員も大臣も総理大臣も、個人的思想はあったとしても、そこから民意を完全に切り離して個人的思想を強引に推し進めるコトはできません。
 それが「硬直した世論の中」ではなおさらです。
 
 例えばいまの雰囲気で政治家が「領土問題なんて両国友好のためには害でしかない」とか「竹島を韓国にあげてしまえ」とか言える雰囲気でしょうか。
 もちろんこれはとんでもない発言ですよ。
 やえも、こんなコトを言う政治家がいたら批判するでしょう。
 でもですね、「そういう内容を口にしてはいけない」とか「言うな」とか、そういう自分の考えを主張する行為そのものを禁止させるようなモノの言い方というのは許されません。
 政治家として「外交政策のために領土は捨てるべきだ」と信念を持って主張するのであれば、それは本来誰にも止められる行為ではありません。
 自らの思想を主張するというのは、民主主義に認められている権利の根本であり、それは内容を問わずに全ての国民に認めなければならない権利です。
 もし「内容がダメだから言うコトも認めない」と言うのであれば、それは単なる思想警察であり、いまの日本の中で一番危険視しなければならない考え方です。 
 ですから、内容について批判するのは当然自由ですが、「言うコトすら認めない」と言ってしまうのは、本来は一番やってはならないコトなのです。
 でもそれでも、今の世の中でそんなコトを言えば、そんな反応が返ってくるでしょうね。
 それぐらい世論って言うのは膠着しやすいモノです。
 そして民主主義における政治家とは、こういう硬直した雰囲気には逆らえない存在です。
 だってそれが間違っていたとしても国民が主権者であり、政治家としての生殺与奪権は国民が持っている、決定権は国民にあるのですからね。
 
 つい10年ちょっと前までは、こんな雰囲気がもっと日本を覆っていました。
 ベクトルは逆ですけどね。
 そう、韓国に対しては……というより、朝鮮半島に対してはどのような内容であっても批判してはならない、と、そういう空気が日本を支配していたのです。
 知ってますか?
 当時日本は、北朝鮮に「人道的配慮」という名目でコメを送っていたんですよ。
 しかもそれに反対する日本国民は、あまりいなかったんですよ。
 まして当時、拉致問題を口にしようものなら、「なんてコトを言うんだ。そんなコト言うヤツは朝鮮民主主義人民共和国との関係改善を阻害する国益を損なわせる話だ。黙ってろ」と平然と言われてしまうような雰囲気でした。
 そもそも拉致問題自体を知らない人が多かったですし、そして知らない人に「こういう問題があるんだ」って言っても、ふーんで終わってしまう世の中だったのです。
 むしろ「北朝鮮にそんなコト言うなんて、この人右翼かしら」みたいな目で見られてましたね。
 
 韓国に対しても同じです。
 韓国は今も昔もその精神性は変わらず、むしろ昔はいわゆる慰安婦問題っていうのも今と違って虚構の問題だとバレていませんでしたから、日韓併合に絡んでのイチャモンは今と変わらないぐらい多くありました。
 でも当時は日本ではそう韓国が言ってくるコトに対して批判する人っていうのはかなり少なかったです。
 むしろ「日本人が悪い、日本は謝罪しろ」と言う日本人の方が多かったと言えます。
 そういう雰囲気の中では「韓国は日本に対して敵愾心を持っている」と言うだけで「売国奴は黙れ」と罵倒されるだけで、まともな議論なんて出来なかったというのが実情でした。
 そもそも韓国がついこの前まで軍事政権だったコト、知ってますか?
 韓国が民主化宣言をしたのは1987年でして、つい25年前までは韓国は「軍事政権」だったのです。
 でもそれすら10年ぐらい前までの日本では、指摘するコトすら憚れる雰囲気でして、だからこれを知っている人が多くないんですね。
 普通だったら学校で習うぐらい常識的な問題になってないとおかしいのですが、10年前までの日本の空気がそれをさせなかったのです。
 
 北朝鮮を「地上の楽園」と言って最大限に美化していたのも、そう遠くない過去のお話です。
 
 むしろ10数年前なんて、「日本が正式に韓国に謝罪しないのは、自民党政権が真摯にこの問題に顔を向けようとしないからだ」なんていう主張があったぐらいです。
 繰り返しますけど、10年前までは、「日本は韓国に謝罪すべき」という声の方が多かったのです。
 10年前の日本っていうのは、そういう空気だったんですよ。
 サヨクが全然強い世の中で、「日本は核武装をすべきか否かの議論をする可能性について考える必要があるのではないか」なんていうものすごく遠い言い方をしてすら、大臣の首があっさりと吹っ飛んでしまう雰囲気だったのです。
 そしてそれを異常だと言う人はおらず、むしろ国民自身こそが鬼の首を取ったかのように大喜びで大臣を引き摺り下ろしていたのです。
 「核兵器のコトは議論するコトすら許さない」「朝鮮半島に対しては批判するコトすら許さない」
 それが10数年前までの日本だったのです。
 
 日本国民自身がそういう日本を作ってきていたのです。
 
 それなのになんですか。
 国民自身が政治家に異論を言うコトを許さなかったのに、いま雰囲気が変わったからと言って、一転して過去何もしなかったコトを政治のせいにするなんてなんていう責任転嫁でしょうか。
 拉致問題がなぜ小泉さんの訪朝まで政治課題にすらならなかったのかと言えば、国民の無関心と、国民の強ばった空気のせいですよ。
 空虚な慰安婦の問題も、竹島の問題も、全て同じですよ。
 他の問題だって、例えば北方領土の問題も、最近の政治家だけで見ても熱心だったのは森元総理ですとか、鈴木宗男元議員のあたりで、あまおちさんなんて嫌だ嫌だと言いながら鈴木議員が辞職した時にこの点に関しては懸念を表明していましたけど、当時この視点で語る人、少なくともマスコミでは皆無だったように、ちょっと前まで国民自身が領土も難題なんて眼中になかったじゃないですかと。
 中国も韓国もロシアも、領土問題や様々な問題について日本がいまいちな態度しか取れていないのは、全て国民の世論があったからこそです。
 ここを忘れてはいけませんし、無視した物言いは卑怯です。
 
 民主主義政治におけるキーパーソンは政治家ではありません。
 国民です。
 例えばこの先の将来、憲法改正がついに成りそうだとなったときに、「憲法改正が今まで出来なかったのは自民党のせいだ」とか言うのでしょうか。
 バカバカしいにも程があります。
 これは卑怯とかいう以上に、ここを国民が学ばなければ結局政治が良くならないという重大な点もあるというコトを認識しなければなりません。
 時代が経ってから過去の政治家に対して今の常識で過去を裁くなんてコトをしていては、それはいつまでたってもそれこそ韓国みたいな政治にしかならないでしょう。
 過去を教訓とするコトは必要です。
 しかし、過去の雰囲気を無視して現在の常識で今いる人や組織を批判するというのは、もはや批判のタメの批判にしかなっておらず、さらに「自分の罪」すら隠す行為になってしまっています。
 ここのところをよくよく考えてほしいです。
 
 国民は聖域ではありません。
 民主主義制度とは国民が政治を作るという意味です。
 国民こそが政治を主導してきたという事実を見誤らないようにしたいモノです。