議員定数を減らすとそれだけ独裁に近づく (下)
(つづき)
では次に、人口と議員数の関係について考えてみたいと思います。
つまり、人口に対して議員が多いとはどういう意味を持つのか、少ないとどういう意味を持つのか、という観点です。
分かりやすく極端な例を出してみましょう。
1億人の国家に対して国会議員が10人っていう場合は、つまり1000万人に対して1人の国会議員がいるってコトですよね。
すなわち、1000万人の思いや主張や意見がたった1人の議員に集約されるってコトです。
一人の人間の意見は、同時に1000万人の意見なのです。
さて、果たしてそんなコトは実際に可能でしょうか。
もちろん世の中完全に考えが1から10まで一緒という人はいませんから、人数がどうなったとしても完全な意見の集約なんてコトはできません。
あくまで程度の問題です。
でも程度の問題であっても、その程度のぶれ幅は考えるべき点です。
1000万人の意見を一人に集約するのと、1万人の意見を一人に集約するのとでは、やっぱり全然意味合いが変わってくるコトでしょう。
まして議員だって人間なのですから自分の主張がある、むしろ自分に強い主張があるからこそ国会議員として志を立てているワケですから、議員になった暁にはその主張を国政に反映させようと努力するでしょう。
民意を無視していいとは言いませんが、ある程度議員が進める政策にはその議員本人個人の主張が強い影響を与えるのは当たり前のコトとすら言えます。
その中で議員1人あたりの人口が多いというのはどういうコトか、投票したはいいけど「議員活動を見ていたら投票した自分の考え方とは違っていた。騙された」なんて思う率が高くなってしまうというのは、むしろ必然とすら言えてくるでしょう。
「議員1人あたりの人口が多い」というコトは、つまり国民の思想の「取りこぼし」が多くなるというコトです。
そして同時に、議員個人の主張が多く強く採用されるというコトでもあります。
同じ人口数であれば、議員10人で議論する場合と100人で議論する場合、どっちが1人の議員の力が強くなるのかと言えば、当然10人で議論した場合ですよね。
もっと極端に言えば、100人で意見集約する場合は大変ですが、2人だけで1つの結論を得ようとする方が妥協する部分も簡単に話がまとまりますよね。
ですから「議員1人あたりの人口が多い」=「人口に比べて議員数が少ない」というコトは、「議員1人に対する権力が相対的に強くなる」というコトが言えるワケです。
ちょっと視点を変えましょう。
民主主義の正義とはなんでしょうか。
それは「できるだけ多くの人の意見を聞く」というコトです。
民主主義の究極の形は、国民全ての人が参加して議論し、全ての人が決議に参加して議決するコトです。
現代の民主主義は「間接民主主義」と言われますが、理想はやはり「直接民主主義」でしょう。
実際インターネットが普及し始めた時代ぐらいに「ネットを使用するコトにより、全ての議案を全ての国民が投票出来るシステムを作るべきだ」と言っていた人もいるぐらいです。
まぁその是非はともかくとしましても、民主主義の正義とは、その決定までに出来るだけ多くの人間が関わるという点にあります。
民主主義が絶対正義とは言いませんが、しかし民主主義が布かれている現在の制度のままで是非を考えるのであれば、「民主主義の正義」は必ず考えなければなりません。
そしてその民主主義の正義とは、「出来るだけ多くの人が決定に関わる」なのです。
民主主義の制度のままに独裁者をつくってはいけません。
独裁者をつくるのであれば、まず民主主義の制度を変えてからにする必要があります。
しかし議員数を減らすというコトは、この独裁性を増すという意味です。
例えば3権分立のウチ、政治に関わる人間は大統領一人と、立法府長一人だけの、2人だけの体制になったら果たしてどうなるでしょうか。
まだ行政府の方はなんとかなります。
なぜなら行政府の行動は全て法律によって規定されている、つまり法的根拠がなければ行政府は何もできませんから、ある程度は法律によってコントロールできるからです。
しかし立法府は違います。
立法府は3権の中で唯一「無から有」を創り出すコトができる機関です。
簡単に言ってしまえば、立法府が殺人を罪としないと法律を作れば、その国家の中では殺人は合法になってしまうのです。
もっと極端に言えば、立法府が「1週間以内に行政府はアメリカに宣戦布告をしなければならない」という法律を作れば、行政府はそれに反対するコトはできないんですね。
だからこそ立法府は「国権の最高機関」であり、どの国だって立法府だけは議会という明確な一人だけの決定権者のいない(議長はあくまで議事整理が主任務であり案件に対する決定権はありません)多数の議員による多数決での決定にしているのです。
立法府だけは人数をかけてセイフティーネットをかけておなければらないと考えているのです。
そんな中で立法府の決定権者が1人になったら果たしてどうなってしまうでしょうか。
議員を減らすとは、こういうコトなのです。
議員数を減らすという意味は、これだけでなく様々な弊害を生み出します。
例えばいま日本においては共産党も社民党も少ないながら議席を有してしますが、これは天から与えられている議席ではなく、日本国民の中には一定数これらの政治家や政党を支持する人が存在するという何よりの証拠です。
議会においては議員数というのは大きな意味を持ちます。
特に0と1とでは全く意味合いが変わってきます。
アリとナシとでは、もうその「存在意義」は全然違いますよね。
しかし議員定数を減らすと、こういう少数意見を封殺するコトになりますよね。
例えば議員定数が日本全国で10人になったら、社民党の議員は確実に0になるでしょう。
議員数としてはそうですが、しかし決して日本国民の中に社民党を支持する人がゼロになるワケではありません。
ここの部分はシッカリと考えなければならないのです。
つまり議員を減らすというコトは、少数意見を切り捨て、議員1人に与えられる権力が増大し、投票した人すら違憲の齟齬が大きくなるのです。
議員を減らすとは、こういうコトなのです。
いまのところなぜか議員定数を削減するのが正義かのような雰囲気になっていますが、果たしてそれは正しいのかどうかもう一度シッカリと中身について考えなければなりません。
なぜ議員定数を減らすコトがメリットに繋がるのか、デメリットは無いのか、あるならどれぐらいあるのか、そこをちゃんとと考えなければなりません。
なんとなく減らした方がいいんだとか、単にお金が削減されるからいいんだとか言っているだけでは、この本当の意味が見えてこないでしょう。
特に橋下市長など、現在の彼の言動を鑑みると、彼のやりたいコトは独裁と院政ですから、まぁ議員数は少ない方がいいのでしょう。
議員が多いと院政として裏から操るのも大変ですが、少ないと楽ですからね。
ですから橋下市長がこれを推進するのは分かります。
でもその理由は、結局「独裁」と「院政」のタメなのです。
やえはそんなモノには賛成出来ません。
ここのところを判断する側の国民はシッカリと考えてほしいと思います。
ディスカッション
コメント一覧
板主の意見に同調します。
以前からマスコミの論調には首を傾げておりました。
国会議員数を2百数十人減らせば、特別会計を含めた国家支出額の0.0015%ぐらいは削減できますが、そんな額、年々の歳入変動の誤差の範囲内です。
そもそも「自分たちの代表者を国会に送り込む権利」は絶対王政や貴族政を大きな犠牲を払って市民が打倒して勝ち取った権利であります。
「代表無くして課税なし」などが有名な論説である事は皆さんご存知かし思います。
その大事な権利を、何か厄介な「年貢」か何かのように少なければ少ない程良いとするのは、世界史を知らない、馬鹿げた日本特有のマスコミの物言いだと思います。
また、「均衡ある国土の発展」や「安全保障」を考えるなら、むしろ人口が少ない地域の議員をゼロにするのではなく、米上院の様に州ごとに1人というのも必要(日本なら県等)かと思います。
橋本は国民受けする政策を提示しているだけだろう。
問題は国民受けする政策が本当に現時点で正しいのかと言うことだ。
国会議員は少ないと俺は思ってる。海外比率で見ても確か先進国で
日本はかなり低い割合だったはず。
国会議員の給料とかはもっと減らして良いと思うけどな。
おはろーございます。
>最近、アンチ橋下コメントがなかったので、少し成長したかと思っていたのですが...
さすがにこれは苦笑せざるを得ないのですが、今回のやえのお話は、地方分権だろうが中央集権だろうが、有権者の数と議員の数の関係性の思想のお話なので、関係が無いお話というコトは言っておきます。
また、橋下市長の独裁性と院政性については、今回のお話だけで指摘したのではなく、今までかなり書いてきた上でのコトですから、今回のお話だけで指摘してそれは違うと言われても、ちょっとそれはお話が噛み合っていないというコトも言っておきたいと思います。
何か・・・
ここのコメント欄、タイプミスと誤変換が多いな。
皆さんのコメント読んでると維新の会の政策は地方分権から考えないといけないのかもね。
それなら議員定数半減も解る気もする。
ただ、やはり減らすにしても唐突過ぎないかと思う。急な変化に国の運営が付いてこれるのかなと…。
それと特栽と言っているけど、中央の権限が減れば各地方の権限が増すことになるから逆に権力が悪い意味でバラけたりしないかな。流石に内乱の話まではいかないと思うけど。
維新の会というか橋下市長の考えは、国の既存のシステムを大きく変える政策だろうから複雑すぎて一般庶民が理解するのは難しいと思う。
地方も仕事量が増えるだけでなく難しい仕事も出来るとしたら官僚クラスの人材も各地方に必要ってことにもならないかな。
正直、自分も判断できる自信はない。
国会議員の定数を減らすのであれば地方議員の定数もそれに比例して減らさなければならない、というのも観念論だと思います。
橋本氏が主張している事というのは、今の中央集権体制で何もかもが決定されるシステムがオカシイと言っているわけで、
外交や防衛といった国家規模の事柄まで地方に権限を委譲しろとは言っておりませんよね。
国家規模で考える問題は国会で議論する、そうでない問題は地方それぞれが独自の政策をを取るべきだ、というのが維新の会の主張であると思います。
今まで国が全国一律で行なってきた事柄を地方それぞれが独自の戦略で問題を考えるわけですから、地方議員の定数は減るどころか例え増えたとしてもおかしくはないと思うのですが、これは矛盾でもなんでもなく、むしろ当然の結末だと思います。
なぜなら今までより仕事量が増えるのに、それに対応する議員は減らすなんて不合理な事を主張する政治家を誰が支持するのでしょうか。
国会議員の定数を減らすのであれば地方議員の定数も減らすと言わないとオカシイという橋本批判は単なるアンチ橋本であって、それ以上でも以下でもないと思いますし、
はたしてそういう批判に正当性がどれだけあるのかは正直疑問です。
やえ氏の言う議員定数削減すると独裁性が増すというのことはもっともなんです。
もちろん民主主義国家なので独裁者が産まれるわけがないですが、国民と政治家の距離が乖離し、政治家が民意を顧みることをせず、選挙対策のみに明け暮れ、好き勝手やれば独裁とは言えないですが、高い独裁性があるといえるでしょう。
現行の選挙制度の問題点と民主党の行動をみてると民主主義でありながら高い独裁性を持つ国家というのも十分にあり得る話です。
ただ橋本氏は国会議員は減らすけど、地方に権限を移すだけだとも、本人ではないですが周辺議員の話として出てきます。
これだと、民意が国会に反映される民意の部分が地方議会に移るというだけなので、大筋では民意は反映が減るということはないという考えですね。
ただ橋本氏側の話だと、民意の反映のためには地方議員は増やさざるをえないんですが、「国会議員が身を切って議員定数を減らす」と言ってしまった手前、そういう話は一切出てこない。
そうなると結局は独裁性を高める可能性が高いと。
で、議員定数削減うんぬんの話で、一番の問題は橋本氏の発言の問題点をマスコミが指摘しないことかと思います。
橋本氏の「国家議員の定数を削減し、国会議員が自ら身を切り、その上で借金返済のために国民に負担をお願いする」という発言ですが、
民意の反映を第一に考えたら、国会議員を減らし地方議員はそのままという現状はそれでいいのかという話になりますし、
仕事増と民意の反映のため地方議員を増やすなら、議員が身を切ることにならず、ただ国民の負担が増すだけ。
この単純な矛盾点をどのマスコミも指摘せず、なぜか橋本氏をプッシュしている様は、活での民主党フィーバーを見ているようで非常に気持ち悪いですね。
やえ氏は橋本氏を独裁者と見てますが、自分もそうですが個人的にはアナルコキャピタリストと見た方がいいと思っています。
アナーキストが独裁制を産んだように、アナルコキャピタリストも独裁制を産むと。
実際の権力に絡んでこなければ、アナルコキャピタリストもありかとは思うんですけどねえ。
今回のエントリーは既に観念論でしかないと思いますので、やえさん個人の思想としてはそれでいいと思いますが、
安易に橋本氏=独裁という、いわゆるレッテル貼りをしての批判に正当性は皆無だと考えます。
民主主義体制において、いわゆる「独裁者」という人は存在しません。というか、そもそも「独裁」という思想と「民主主義」という思想は根本からして相容れない事柄だという事です。
この二つの思想が同時に成立する事などありえません。
やえさんのおっしゃるように、民主主義とは「出来るだけ多くの人が決定に関わ」れる統治システムなんですから、
そこに一人の人間が何もかも1から10まで決めてしまえる独裁という統治システムが入り込む余地などありませんよね。
こういう次第ですので、今回のエントリーの主張にはかなり無理が出てきているのかな、という印象です。
一つ例を出しますと、この部分です↓。
「独裁者をつくるのであれば、まず民主主義の制度を変えてからにする必要があります。
しかし議員数を減らすというコトは、この独裁性を増すという意味です。」
上段はその通りだと思います。独裁という統治システムを作りたければ、民主主義という統治システムの変更が不可欠なのは論を待たないと思います。
問題はそれに続く文章ですが、「議員数を減らす=独裁性を増す」ことだ、とのご主張です。
だとすれば、議員数を減らすまでもなく独裁性は既に存在している、との解釈しかできません。
既に現在の日本の民主主義制度の中に独裁性が存在していて、議員数が減ればその独裁性が増すから、橋本氏の主張には反対だという解釈しかしようがないと思います。
私は民主主義という統治システムの中に独裁性なんて一つもナイ、なんて事は言っておりませんので、予め。むしろ、そういう部分はあって然るべきだと思います。
「竹島問題を国際司法裁判所へ提訴する」という事を決定し、官僚に実行させる権力というのは総理大臣しか持ち合わせておりません。
財務大臣でも防衛大臣でもなく、総理大臣にしかできない事柄ですよね。
権力を持つものが、その権限の範囲内で権力を行使する事は独裁とは言えません。
まして、橋本氏が大阪市長という立場で使用できる権限の範囲を越えての権力使用というのは不可能です。「院政、院政」とおっしゃいますが、事実無根のでっちあげと言わざるを得ません。それをしたければ、まず第一に現在の民主主義という統治システムの変更が不可欠だからです。
そこでなんですが、橋本氏率いる維新の会の主張を考える必要があると思います。
彼らの主張は大まかに言って、現在の中央集権体制を地方分権体制に変えていく、といういわゆる統治システム内での変更という話しであって、
誰も民主主義制度という統治システムそのものを変えますとは言っておりません。少なくとも私は目にしておりません。
という事は、少なくとも橋本氏を「独裁者だ」という批判は単なるレッテル貼り以外のなにものでもなく、その批判にどこまで正当性があるのかというのは大いに疑問であると思います。
議員数の数だけで議論する時点で愚かです。
橋下徹の議員削減は、単純に数を削減するだけでなく、その前提として道州制の導入(国と地方の役割分担)や、選挙区の拡大(国政における地域エゴの排除)があります。それらを合わせて考えないと間違います。
そもそも、ある人間の人格を他の人間が代行するコトなどできるワケがない。選挙で人を選ぶというコトは、ある問題領域での代理を選んで、その代表で議論して決めるということ。国(外交・防衛)、州(経済政策、広域インフラ)、基礎自治体(教育、子育て)という問題領域に分け、それぞれに相応しい人の数、選び方をしようとする思想が大切というコトです。
小選挙区と比例代表を混ぜるのも、どいういう側面の代表を、どういう比率で選ぶべきかという思想の現れであり、単純に数の多寡の問題ではないですね?
あと、なんでも、かんでも全員で決めるという、サークルレベルの組織でも運営したコトの経験があれば不可能と理解できるコト、自明の理も忘れては駄目です。
最近、アンチ橋下コメントがなかったので、少し成長したかと思っていたのですが...
初めてキカコします。安易な議員定数削減は反対です。私も同じようなことをブログに書きました。議員が減ると、それだけ国民1人あたりの発言権が弱まります。
http://blog.livedoor.jp/eb95/archives/274569.html
橋下氏の場合、独裁を目指しているというのもあるかもしれませんが、何しろ短期間で国政に影響力を与えたいはず。議員を育てるとなると時間もお金もかかります。となると、議員の定員が少ないほうがより短い期間で影響力を与えることができるからだと考えています。