国民の質が問われる批判 (下)
野党は立法府の中での議論にしか口を出すコトが出来ません。
ある意味理念を作るのが立法府であって、その理念から現実案・具体案を実行していくのが行政府です。
よって行政府に関われない野党の立場からの仕事は、ほぼ観念論を唱えるコトだけとなるんですね。
だからこそ、議論の中身を見なければ野党の行為を批評するコトはできません。
つまり、野党は理念を語っているのですから、それを批判したり反論したりするには、その理念の論拠部分についてを語らなければ、全く意味を成さないのです。
いつも当サイトは言ってますよね。
議論とは、論拠部分に対しての反論の応酬だと。
論拠の無い主張は意味がありませんし、同様に論拠の無い反論も意味がありません。
予算一つとっても、自民党の主張は、子ども手当や高速道路無料化などのバラマキの無駄なお金が組み込まれている予算には反対だという、そういう主張をしていました。
さてでは、この論に対してはどう応えるのが正しいでしょうか。
「やっぱり自民党は反対ばかりだ」と言いますか?
大変に悪い回答です。
悪い見本の最たる例とすら言えるでしょう。
正しい応え方とは、結論部分である「反対する」に反応するのではなく、論拠の部分である「バラマキの無駄なお金が組み込まれている予算」についてです。
ここがあるから反対と言っているのですから、逆に言えば、ここが無ければ反対で無くなるのですから、やっぱり議論するには論拠について言わなければならないのです。
すなわち「バラマキの無駄なお金が組み込まれている予算」をどう考えてどう評価するのかというコトを考えて、それを具体的に相手に伝えて反論しなければならないのです。
では考えてみて下さい。
アナタは「バラマキ」を肯定しますか、否定しますか?
まぁこう書くと恣意的になってしまいますから書き方変えましょうか。
「子ども手当」「高速道路無料化」「高校無償化」「農家への個別補償」…これらを肯定しますか、否定しますか?
どちらでしょうか。
もちろん人によって意見は様々あると思いますよ。
これらの政策を肯定する人もいるでしょう。
それはいいと思います。
しかし、その場合だったとしても、「自民党は反対ばかりだ」という言葉は出てきませんよね。
正しくは「子ども手当は国民にとって必要だから執行すべきだ。なぜ自民党は子ども手当に反対なのか、お金を貰うコトがなぜ悪いのか」とかなんとか言うコトで、論拠に対する反論をしてこそ議論になるワケです。
ここはどうやったって「自民党は反対ばかりだ」にはなりません。
論拠というモノをキチンと考えれば、こんな批判は絶対に出てこないハズなんですよね。
政治に限らず議論になれば、絶対に論拠の応酬になるワケで、繰り返しますが政治に限らず全ての場面において「反対ばかりだ」と言うのは、それを言う人の質が問われるコトになります。
もちろん反対する人、この場合は自民党になりますが、この論拠を出さずにただただ反対反対と言っているのであれば、それは「反対のタメの反対にしかなっていない」という論拠で批判は出来ます。
でもそれもあくまで「反対のタメの反対」だと論拠を付けて言える時だけです。
結局ここでも論拠は絶対に必要なんですね。
相手の主張に反論するコトは、それはその人の質が問われる行為なのです。
自民党は常に対案や論拠を出してきました。
一番分かりやすいのが震災の時ですね。
自民党はあの時かなりの数の提案と、かなりの数の法案を提出しました。
当サイトがずっと伝えてきた通りですね。
それは民主党政権に危機対応能力が無い分、そして他の政党にもそれが皆無である分、それはかなり際立っていたと言えるでしょう。
マスコミは全然伝えようとしませんが、ちゃんと調べればこんなコトぐらい簡単に分かる事実です。
これぐらい分からない人は政治を語る資格が無いとすら言えるでしょう。
自民党は常に対案や論拠を出してきました。
ではその上で「自民党は反対ばかりだ」と言ってしまうのはどうなのかと考えてみるべきです。
例えば対案を出したとしても、それに批判するのは論拠に対してすべきですし、そしてなによりそれが成案となるかどうかはやっぱり与党次第です。
いくら素晴らしい案があったとしても、与党が却下してしまえばそれで終わってしまいます。
そしてそうなってしまえば、野党にはもう手はありません。
いくら「あそこの港を早く開放すべきだ」と思っていたとしても、それを主張し、仮に法案化したとしても、立法府が出来るのはそこまでです。
廃案となればそこまでですし、仮に成案となって法律化したとしても、その先として実行するのも行政府の仕事ですから、やっぱり立法府としてはそこまでなんですね。
だから国民が野党を評価し批評するのであれば、「立法府の中で何を言ったのか」という部分しかないのです。
それ以外は「八百屋に念仏」なのです。
そしてなにより、この場合は「中身についての論拠に対する批評」が必要なのです。
これは国民の質が問われる案件です。
国民が主権者として正しい政治を行うタメには何をすべきなのか、国民自身も正しい行為を行っているのかどうかが問われる案件です。
もしここを間違えれば、ただただ国民は政治の足を引っぱる存在にしかならないでしょう。
国民は聖域ではありません。
キチンと自分の頭で考え、そしてその結果としての質も問われる存在なのです。
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