一律給付金騒動の真実を探る -評価編-

 これまで3回にわけて現金給付金という政策が、果たしてどのような経緯を辿って決定されてきたのか、様々なソースを辿って確認をしてきました。
 その結果、自民党岸田文雄政調会長がかなり早い段階から現金給付に舵を切り、党内外の反対論を押し切って現金自体は実現させたのですが、しかし様々な折衝の中で金額や給付対象については閣議決定すら覆すという禁じ手まで飛び出して決定されたという、紆余曲折があったというコトが見えてきました。
 
 今日はそれを踏まえつつ、その政策についてのやえなりの評価や考え方を提示してみたいと思います。
 よろしくお願いします。
 
 右も左もイッてよし!
 バーチャルネット思想アイドルのやえです。
 
 さて。
 コメントにも頂いたのですが、本来現金給付というのは、民主主義であり自由主義であり資本主義である日本においては、ほぼ禁じ手だと断じざるを得ません。
 言い換えればただのバラ撒きであり、下手すれば票をお金で買う行為ですからね。
 もちろんある程度の理由があればそれでもいいとは思います。
 例えば福祉とか生存のための権利とかですね。
 この考え方に基づいて、元々日本においては生活保護制度など、世界的に見てもかなり生活支援の制度は充実しいるとも言え、もともとのお話をするのであれば、キチンと制度を活用すれば日本においては最低限生きていくコトはそんなに難しくなく可能ではあるのです。
 診療を受けるだけでも10割負担しなければならない米国と、3割負担で済む日本とでは、緊急事態であっても、いえ緊急事態だからこそ、採るべき対策のスタート地点が違うと言うべきなのです。
 
 それを踏まえて日本政府はこの度のコロナ渦において現金給付という政策に踏み切りました。
 やえはこの現金給付を、先ほど言いました「生存のための必要経費」であれば、必要な政策と判断すべきだと思っています。
 逆に言えば、それ以外での現金給付であれば、それは民主主義や資本主義を否定してしまう危険な制度だと断じざるを得なくなってしまいます。
 
 そしてやえは、いま多くの国民が認識しているような形での現金給付政策については、失敗の政策だと思っています。
 
 なぜか。
 それは、いま多くの国民は現金給付に対して、それを「経済対策」もしくは「自粛生活への詫び金」だと認識しているからです。
 例えば現金給付金10万円をもって、「お金貰ったら何使う?」的なツイートを多く見かけましたし、さらに「経済を回すために使うことが正しい」と言っちゃっている人も多くいますし、また「政府のせいで自粛しなければならないんだから10万円と言わずもっとよこせ」と言ってしまっている人も、決して少なくないと言わざるを得ません。
 しかしそれは間違った認識です。
 今回の現金給付金は、決して「経済対策」でも「詫び金」でもありません。
 そしてそのように認識している以上は、その政策は間違っていると言うべきですし、実質的にも無駄な経費になってしまうと断じざるを得なくなってしまいます。
 
 今回の現金給付は経済対策ではない、もっと分かりやすく言い換えれば、つまり「景気刺激策」では全くありません。
 なぜなら、いまはまだ経済を回す時期ではないからです。
 だってついこの前まで「家から出ないようにしましょう」と政府あげて言ってたのですから、こんな状態で景気刺激しても、むしろ感染防止策を無にしてしまいかねません。
 「旅行とか外食とかショッピングとかして、じゃんじゃんお金を使って景気を刺激しましょう」と、「ステイホームで家でおとなしくしていましょう」は決して両立しない、どちらかしかとるコトのできない選択肢です。
 これは麻生内閣の時にも散々言われましたが、現金給付や商品券などの景気刺激策は、短い期間に一気に消費をするコトにより効果が現れるモノであり、つまり消費の山をいかに高くするのかが一番のポイントであって、その高さによって効果が現れるのでありますから、自粛期間に景気刺激策なんて出来るワケがないんですね。
 やるなら自粛をする必要が全く無くなった時であって、決して今ではないワケです。
 よってこの給付金を景気対策と考えてしまうのは完全に間違いです。
 
 そして最もマズいのが「詫び金」という考え方です。
 勘違いしてはいけないのが、決して外出自粛などの政策は、政府の都合による一方的な押しつけでは無いというのは純然たる事実なのですが、しかし現金給付を「詫び金」と認識してしまうコトで、自然発生の“事故”をさも政府の人為的な“事件”だとご認識させてしまうコトになってしまうワケです。
 しかし当然のコトながら新型コロナが発生し蔓延してしまったのは、少なくとも日本政府ではありません。
 この世界的蔓延を見れば、例えば最初のクルーズ船の時の対応をどうこうしていたところで、遅かれ早かれこういう事態になっていたコトでしょう。
 まして相手は感染症なのですから、その責任を政府に負わせるのは間違っています。
 外出自粛も、それは国民1人1人自分のためのモノ、自らの命を守るためのモノであって、政府都合で押しつけられたかのように認識する類いのモノでは決してありません。
 しかし「詫び金」という考え方は、その根本を崩してしまいます。
 「政府に命令されたから仕方なくやった。本当はしたくなかった。政府が政府の都合で国民に押しつけた」
 こんな風に考えてしまっては、それは主権者の責任を無視してしまう、民主主義という根底すら否定しかねない危険な考え方になってしまうのです。
 
 また、「詫び金」と考えてしまうと、それを「コロナ渦の前の収入を政府が補償するモノだ」という間違った考え方に至ってしまうのも大きな問題です。
 それは資本主義の考え方ではありません。
 新型コロナウイルスが蔓延してしまったコト、それは残念なコトではありますが、しかしそれはまさしく国民全てが等しく耐え忍ぶ災害なのであって、災害である以上は全員が痛みを伴いながらも耐え忍ばなければならないコトであるワケです。
 つまり、コロナ渦によって収入が減ってしまっても、これはもう仕方の無いコトだと、ある程度は受け入れなければならないんですね。
 だってコロナ渦自体は政府のせいでも誰のせいでもないのですから。
 よって、共産主義国家であったらまだしも、日本政府が国民全体に対してコロナ渦以前の収入を100%保障するモノでもあれませんし、補償していいモノでも決してないワケです。
 最初に言いましたように、政府がすべきコトは、最低限の生きるための保障までであって、それ以上の「収入保障」は、民主主義国家であり資本主義国家の政府が行うコトではないのです。
 まして政府の責任で無い災害由来のモノであるならなおさらで、しかし「詫び金」という考え方は、ここを大きくゆがめてしまっているワケなんですね。
 
 それなのになぜ今、現金給付という政策について、このような歪んだ考え方が流布されてしまっているのでしょうか。
 それは、国民自身が正しく考えられていないというコトと、またそのように考えてしまうような流れを作ってしまった政府や政治の動きがあったせいだと、やえは思っています。
 
 結局政府は、この10万円についてどのような説明でもって給付を始めたのでしょうか。
 実際のところ、何か、あやふやのまま始めてしまった感が否めません。
 そしてそのあやふや感は、やはり限定30万円から一律10万円にひっくり返した二階幹事長や公明党のゴタゴタによって引き起こされたように、やえは感じています。
 あの騒動によって現金給付という政策の意義が薄れ、そして今まで貰えなかったと思っていた国民が急に降って湧いた10万円によって狂乱してしまったために、政府もちゃんと説明できないまま、国民は説明なんて聞く耳も持たないまま、現金の給付が始まってしまったというのが実際のところであり、そしてそれが一番の間違いだったと思っています。
 
 この件についてはやはり“発案者”の自民党岸田文雄政調会長が一番冷静に、そして初期から現金給付の意義を語っていました。
 これまで何度も説明してきましたように、それは「手元流動性」ですね。
 「手元流動性」とは、この先何があってもとりあえずすぐに動かせる現金が手元にあるコトで、当面の生活をなんとかしましょう、もしくはある程度の余裕を保っておきましょう、という考え方です。
 岸田政調会長は、この考え方のもとに、商品券でもなく現金を給付すべきだと、当初から主張していました。
 商品券だと光熱費とかそういうのが支払えませんからね。
 
 つまりこれは生活支援、生きていくための政策であり、景気対策ではないのです。
 発案者の岸田政調会長は、当初から政策支援としての給付案をずっと主張していたと言えるワケですし、これは正しいと評価するコトができるワケです。
 
 この考え方に基づいた場合、実は「限定30万円」でも「一律10万円」でも、あまり大きな違いはありません。
 というのも、「手元流動性」は「今すぐ支払わなければならないお金」に限定する考え方ではなく、ある程度の将来までを見据えて「動かせるお金を確保しておく」コトが趣旨になるからです。
 貯金してもいいんです。
 コロナ渦はいつ終息できるか見通しが立たない中、国民全員に「いざという時に備えておくべきお金」として給付しておくというのは、それはそれでひとつ意義があるワケですから、もしちゃんとそういう理由をハッキリと説明した上で給付していれば、正しい政策として評価できたと思っています。
 ですので、ここをキチンと説明できていれば、どっちでもよかったとは言えます。
 
 その上で、それが限定30万円なら、なお明確だったと言えます。
 近い将来でも、当座でも、とにかくいま生きるための最低限すら心許ない人のために手元流動性を確保してもらおうと現金を給付するというのは、これは説明するまでもなく明確なメッセージとして打ち出せるコトができました。
 まさに、言うまでもないという感じですよね。
 よってもしこれらのような形で給付されていたのであれば、このコロナ渦の未曾有の危機の中での政策としては、適切なモノだったと評価できていたでしょう。
 
 しかしコトはむしろ最も良くない方向に動いてしまいました。
 繰り返しになりますが、二階幹事長と公明党のせいだけとは言いません、官邸や政府にも大きな責任はあるワケですが、これらの混乱によって、悪い言い方をすれば「この金で自粛しろや」的な、現金で頬を叩くのごとくの間違ったメッセージでの現金給付が始まってしまったワケです。
 そしてそんな間違ったメッセージを受け取った国民からは、「景気対策のために現金は使うべきだ」とか「もう買い物して使っちゃったからもう一回支給しろ」とか「1回10万円では減った給料が補填できないから毎月支給しろ」とか、無責任な声が上がり続けてしまっています。
 こうしてねじ曲がってしまった、間違った政策が実行されてしまったと言うしかなくなってしまっているワケです。
 
 未曾有の危機の時、生活のために現金を給付するという政策は良かったとは思いますが、しかし今回の給付の仕方では全く生活支援になっておらず、せっかく使った税金の大部分を無駄にしてしまったと言うしかないでしょう。
 少なくとも、いま「景気対策だ」と言って使われたお金は、しかしそれは全く景気対策になっていないのですからね。
 それならまだ「イザという時のために」と10万円を貯めておいた方がよかったのです。
 
 30万円から10万円に変更された時の日本の雰囲気は異様でした。
 狂乱と表現するに相応しい、異質なモノでした。
 今回のコロナ渦の騒動というのは、例えば自粛じゃなく警察権を行使した強制権にできないのかという主張なども含めて、ポピュリズムの危うさが一気に表面化した政治的な事件だったと言えるでしょう。
 自分たちのモノである政府の仕組みも含め、自由とか民主主義などは果たしてどういうモノなのか、それを今一度キチンと考え直してみるキッカケになっているのかもしれません。
 
 コロナ渦がいつまで続くか分かりませんが、むしろこれをチャンスに変えるべく全ての人が努力し、1日も早い日常を取り戻したいと心から願っています。
 
 バーチャルネット思想アイドルやえ十四歳は、コロナ渦に負けない日本を応援しています。