投票に行きたくないなら行かなくてもいい、全ての結果に白紙委任するなら

 これも選挙のたびに言っているコトなのですが、選挙なので言っておこうと思います。
 
 ハッキリ言って、やえは投票率が低いコトが悪いコトとは思っていません。
 政治も民主主義も大切なモノですが、しかしそれはあくまで「人間が幸せに暮らしていくための道具」であり、目的ではなくあくまで手段だからです。
 すなわち、その人が政治に全く不満はなく、むしろ政治なんて気にしなくても幸せに暮らしていけているのであれば、わざわざ政治に関心を持とうとしなくてもいいというコトです。
 政治を気にしなくても生きていける人に、わざわざ首根っこひっ捕まえて「政治を見ろー」なんて言う必要はありません。
 むしろそれは、その人の幸せな生活を害している行為であり、手段と目的をはき違えている行為と言えるでしょう。
 ですからやえは、その人が政治に口を出そうとしない、結果に全て満足して、白紙委任するっていうのでしたら、選挙に行く必要は無いと思いますし、その結果として投票率が低いのであれば、それが悪いコトとは言いません。
 
 一番最悪なのが、選挙という最低限の行為すらしないのに、後からグチグチと文句を言うコトです。
 選挙にすら行かないのに「日本の政治は三流」とか言いっても、その人は政治を格付けする資格があるのかと言わざるを得ません。
 そもそも国民主権であり、民主主義において政治とは国民そのものであるのに、その最低限の義務さえ果たしていない人が何を言っているのかというお話ですらありますしね。
 これが一昔前ならまだマシでした。
 その言葉は所詮「愚痴」にしかならず、せいぜい酒の肴程度に終わっていたからです。
 しかしいまはネットがありますから、それはただの愚痴では終わりません。
 例えばツイッターで100回ほどリツイートされれば、それだけで100人以上の目に止まり、100人以上の人間になんらかの影響を与えるワケですから、もはやこれはただの愚痴では収まりません。
 そもそも人の噂とは思っている以上に力を持っていて、ネットが普及する前のバブル時代でよく言われた「日本は経済は一流だけど政治は三流」という言葉も、政治がなんとかして止めようとしたバブル崩壊を、民間の方が景気抑制策を大批判して結果的にはじけさせておいてよく言いますねとやえなんか思うのですが、しかしこの言葉いまでもたまに使われるぐらいの力は持ってしまっています。
 ネットがない時代の愚痴程度も、いつの間にか慣用句的に使われるぐらいになってしまうワケで、さらに現代は愚痴の拡散なんてすぐに出来てしまう時代なのですから、愚痴にしてもつぶやきにしても、それを自分だけが見る鍵付きの日記帳に書くだけならまだしも、他人が見れる聞ける場で公開する以上はそれなりの責任を伴うワケで、政治に関してはその行為をするのであれば最低限の義務ぐらいは果たしておきましょうというお話です。
 
 投票率そのものは、あまり良い悪いの指針にはなりません。
 例えば、民主化に成功した初めて選挙をする国なんて、投票率はすごいコトになりますよ。
 90%越えは当たり前でしょう。
 例えば日本でのいわゆる「第一回普通選挙」では、投票率は80.33%という記録が残っています
 この「普通選挙」も、まだ男性だけという制限がありましたから、安易に今の感覚で比べるコトは出来ませんが、それにしてもかなり高い数字ですよね。
 昭和3年の出来事ですが、では果たして民主主義として当時と今とどっちが成熟しているのかと考えれば、やっぱり今の方が成熟はしているでしょう。
 さきほどのウィキにも載ってますが、当時はまだ政権サイドからの選挙への干渉があったようですからね。
 その国の成熟度というのは国際社会の中で考えるべきコトですから、今と安易には比較できませんが、それでも日本の民主主義はこの時代はまだ過渡期だったと言えるでしょう。
 この日本の例だけに限らず、投票率は高いけど民主主義的には成熟してない例というのはいくらでもある以上、ただ単に「投票率が低い」という指針だけで善し悪しを語るコトは不可能だと言えるワケです。
 
 どういう状態が「民主主義として最上の状態なのか」というのは、かなり難しい命題です。
 一言に民主主義と言っても、その国が築いてきた歴史や風土や国民性などの土台の上に制度がある以上は、そういうモノを無視して語るコトは無意味ですから、絶対評価的な指針を決めるコトも出来ません。
 例えば江戸時代なんかは、当然庶民は政治に参画するコトなんてできない、武士という階級の中ですらほんの一握りの人しか「実行権」は持っていなかったワケですが、それでも多くの人は幸せに暮らしていましたし、決して影響力という意味では庶民に一切の政治への手段がなかったというコトもなかったと言えるハズです。
 江戸幕府は江戸市民の「世論」を決して無視できなかったコトは、様々な説話からも読み取れますし、幕末では江戸幕府の方がかなり政治への門戸を自ら開いていますよね。
 江戸時代は、諸外国に比べればガチガチの身分社会ではなかったと言えるワケですが、まぁこのお話をしていたら別のお話になっちゃいますのでこの辺にしておくにしても、こういう事情などを色々と考えれば、全ての人間が政治に参加すればそれだけで人間は幸福になれるってワケでは無い以上は、「どういう状態が民主主義として最上の状態なのか」という問題には、簡単には答えを出すコトはできないでしょう。
 少なくとも「投票率が高ければ高いほど最上」とは言えないワケで、ひとつの定義を出すのは無理な命題とも言えると思います。
 
 だからそういう定義論はおいておくにしても、では今の時代の日本人として主権者としてどういう行動がもっともふさわしいのかというコトを、国民のひとりひとりが考えるべきなのでしょう。
 その中で、自分は政治には一切関心も興味もなく、口を出すコトもなく、ただ目の前の生活を精一杯生きるっていうのでしたら、それは誰にも否定できない生き方だと思います。
 同時に、生活に余裕があるから政治に口を出したいと思うのも、それは今の世の中自由だと思います。
 ですから、口を出さないのであれば出さない責任を負う、出すのであればその責任を背負う、この責任と覚悟を持つコトが大切なのです。
 政治に関心を持ち、口も出すというのであれば、それはそれでキチンと自分なりの論拠を持てるよう調べて推敲すべきです。
 周りの意見に流されるだけで政治家や政党の悪口を言うだけなのは、それはもっともタチの悪い国民のあり方の1つと言えるでしょう。
 投票に行きたくないなら行かなくてもいい、全ての結果に白紙委任するならそれでいいですが、投票に行き口を出し政治に参画するのであれば、それなりの論拠を持って当たってほしいと思います。