国民の過半数が改正賛成なら改正が正しい

 憲法改正問題についてです。
 
 現在安倍総理主導の下、憲法改正について、さしあたり憲法の憲法改正要件を改正しようという議論が起きています。
 現在の憲法では、憲法改正のためにはまず衆議院と参議院の2/3の賛成をもって憲法改正案を発議し、その後国民投票によって過半数が賛成すれば憲法が改正されるという手続きになっています。
 しかし衆参で2/3というのはあまりにもハードルが高すぎて、現実的ではないので、まずここを1/2にしようというのが、最近の議論ですね。
 そして相変わらず、憲法はとにかく改正するコトは悪だと邪教の信者だとしか思えないような思い込みの人たちが、猛反対しているワケです。
 
 これ、やえにはよく反対の理由が分からないんですね。
 だって憲法改正っていうのは、決して衆議院と参議院の2/3もしくは1/2の賛成だけで改正されるモノではないからです。
 キチンと憲法を読めば分かるように、あくまで衆参の議決は憲法改正の「発議」であり、言い換えるなら「こういう憲法改正案でどうでしょうか」と「国民に提示する」という行為でしかありません。
 つまり最終決定権は国民にある、国民投票という本当の意味での決定権が国民にあるワケです。
 ですから、改正前にしても後にしても憲法改正の決定とは「国民の過半数が賛成するならそれが国の決定」という民主主義の大原則に従っているのですから、発議条件がどうであろうとも反対するコトは民主主義の原則に反すると言えてしまうのではないのでしょうか。
 
 安倍総理の改正案も、あくまで衆議院と参議院の発議要件を変えようというお話であって、国民投票の部分を削除しようというお話では全くありません。
 であるなら、それに反対する理由が本来はひとつも無いハズです。
 そもそもで言えば、2/3になっている方が理屈に合わないと言えるでしょう。
 衆参で2/3、国民投票でも2/3となっているのであれば、まぁ「国論がほぼ二分するギリギリの改正はやめよう」という意味として理屈が通らなくもありません(しかしこの場合、逆から見れば「少数の意見を優先させる」という意味になりますから、本来はよくありません)が、衆参で2/3で国民投票が1/2というチグハグな構図は、これを説明する論拠が全く見当たらないのです。
 そしてさっきも言いましたように、2/3で発議というのは、逆を返せば1/3強の「反対意見」の方が過半数以上の「多数の意見」よりも優先させられるというコトになるのですから、これは本来民主主義としては間違っているんですね。
 こういう視点からも、安倍総理の1/2論というのは、「本来あるべき姿に戻す」という行為とも言えるワケなんですね。
 よって、いったいぜんたい反対する人というのは、どういう論拠でこれに反対しているのでしょうか。
 
 唯一考えられるのは、「憲法を改正するコトは悪だ」と、邪教の信者のように信じ込んでいるっていう心境でしょう。
 中身は関係ないのです。
 とにかく「改正が悪」と信じ切っているのです。
 しかしこういうのはまさに、目的と手段をはき違えてしまっている例ですね。
 本来改正とはあくまで手段であって、目的とは、改正によってよりよい国つくりや国民の幸せにあるワケです。
 改正は目的ではありません。
 でも「改正悪論」の人というのは、もう改正が目的になってしまっているんですね。
 改正して良いかどうかはその改正案の中身によるハズなのに、その中身を見ようともせずただただ改正っていう行為だけをもって悪と断じてしまっているのです。
 思考からしてデタラメになってしまっているんですね。
 
 憲法改正に反対する人に、では「国民の半数が賛成したモノを否定するのか?」と尋ねたら、いったいどういう反応を示すのでしょうか。
 むしろ、「国民の過半数が賛成したモノをアナタはどういう理屈で否定するのですか?」と尋ねてみたいです。
 いったい「国民の過半数の賛成」という部分をどう考えるのか、キチンと整理すべきです。
 改正は絶対にダメだって言うのは勝手ですが、しかし国民の過半数が改正すべきだと言うのであれば、民主主義的には改正すべきだというコトになるのです。
 ここの現実をキチンと踏まえるべきでしょう。
 
 こういう視点からもまず憲法改正の第一弾として改正要件を改正するっていうのは、ある意味理にかなっていると言えるでしょう。
 本来歪んでいるところをあるべき姿に戻すというコトなのですから。
 憲法改正は決して目的ではなく、あくまで手段であって、それを民主的に実行するためにはどういう手続きが最も民主的なのかっていう部分をまずは考えるべきでしょう。