核兵器は自国の正義を裏切る絶対悪の存在

2013年8月13日

 前回「原爆をただの大規模な兵器と思っている人が少なくない」というようなコトを言いましたが、おそらくアメリカ人こそがこう思ってしまっている割合が多いんじゃないかと思っています。
 
 例えば以前アメリカのスミソニアン博物館で原爆展を開催しようとしたら、アメリカの退職軍人会の猛反発にあって実現出来なかったというコトがありました。
 これはもうハッキリ言って、「原爆の現実を見たくない」「事実を見せたくない」「真実に気づかれたくない」という心境からです。
 これに多くの一般国民に気づかれると、「アメリカの正義」=「アメリカ軍の正義」が崩れ落ちてしまうからです。
 だから未だにアメリカ人は、「原爆投下は戦争を早く終わらせるための行為であり、それによって多くの米国人と日本人の生命を結果的に救った」というファンタジーを信じているのです。
 
 戦争の場において、戦闘員と非戦闘員を同列に語る時点で間違いなのです。
 そんなのは言うまでもありません。
 でなければ「命の盾」なんていう卑怯な行為が成立しなくなりますからね。
 あれは、非戦闘員が戦闘員に丸腰で姿を晒すコトによって戦闘行為を邪魔するコトですから、すなわち「非戦闘員は攻撃してはならない」というルールが前提の行為なワケです。
 非戦闘員も軍隊は殺してもいいというルールが前提であれば、「命の盾」は「盾」にならず、むしろキルマークを増やすだけの目標物にしかならないでしょう。
 またこういう卑怯な行為でも、軍隊はやはり現実問題として様々な意味で非戦闘員を殺すコトに躊躇せざるを得ないからこそ、今でも「命の盾」という卑怯な行為を繰り返す輩が減らないのです。
 国際法においても、心象的にも、心情的にも、やはり「非戦闘員は戦闘のターゲットにしてはならない」というルールが存在している証拠なワケですね。
 
 アメリカは自称「正義の国」です。
 イラク戦争だって、アメリカは自らの正義を信じて戦ったのです。
 そしてもちろん第二次世界大戦もそうです
 アメリカは正義のために戦い、そして正義だからこそ勝ったと信じています。
 
 ですから、その戦争を終わらせる決定打となった原爆投下も、アメリカにとっては正義でなければなりません。
 決して「非戦闘員を大量虐殺した」とか「今でも後遺症に苦しむような無用な苦痛を与えてしまった」とか、そういう負の部分を認めるワケにはいかないのです。
 しかし冷静に考えれば「非戦闘員も結果的に殺してしまった」というところは目のつむりようがないので、「その人数よりも多くの人の命が助かった」というファンタジーを信じずにはいらないのでしょう。
 非戦闘員と戦闘員のごっちゃにしてしまうというデタラメをもってしてでもです。
 
 このように、結局大なり小なりどこの国民も、自分達の都合のいい「歴史」がほしいのです。
 いくら原爆ははじめから非戦闘員がターゲットの兵器であっても、まして戦争が終わってから後遺症が残り続けるコトが分かっていたとしても、むしろその放射能の後遺症の研究が目的のひとつにあったとしても、少なくとも一般人はその事実を知りたくありませんし、正義を遂行する軍などはその真実から国民の目を背けさせようとするのです。
 いまのアメリカは原爆や無差別大空襲などで虐殺された非戦闘員の骸の上に成り立っているんだ、なんてコトは、一般国民には気付かせてはならないのです。
 それがアメリカの正義なのです。
 
 原爆や核兵器の問題を語るとき、ここの意識の部分における齟齬がどうしても発生してしまいます。
 多分日本人の中でも原爆のコトを、無意識的には「大きな爆弾」ぐらいにしか認識していない人もいるでしょう。
 でも原爆は違うんですね。
 本当にただの「大きな爆弾」であれば、そんなに核兵器の問題は難しい問題ではないでしょう。
 しかし原爆はただの通常の兵器と違い、現在の人間社会における戦争という枠組みから大きく逸脱する「絶対悪」の存在なのです。
 ここを忘れてはいけません。
 人間が作ったルールを人間自ら破る存在が原爆であり核兵器なのです。
 核の問題とは、まずこの「絶対悪」の存在であるというコトを認識するコトと、そして同時に「自国の正義を裏切る行為」だというコトを認識しなければなりません。
 核兵器を持つ持たないの議論をするコト自体は反対しませんが、しかし議論をする以上は、まず前提条件として「核兵器は自国の正義を裏切る絶対悪の存在」というコトをベースとして考えなければならないのです。