何のためのその表現なのかをひとつひとつ丁寧に検証を-『はだしのゲン』閉架問題

2013年8月29日

 頂いたコメントで申し訳ないのですが、この件に関して最もやってはいけない言い方の例示をします。
 

 随分とお手軽に思想弾圧という強い言葉を使うんですね
 子供がお手軽に見るには相応しくないからそのまま棚に置くのは止めようというのが思想弾圧なら
 エロ本に紐をかけるのも思想弾圧ですか?

 
 なにがいけないのかと言えば、前回言いましたように、「エログロの問題」と「思想の問題」をごっちゃにしてしまっているところです。
 やえは前回、思想問題についてそれを規制するのは思想弾圧だと言ったのです。
 エロのお話なんて、エロ本への紐かけなんて、話題にすらしていません。
 ここは明確に分けて考える必要があります。
 この匿名さんの2行目は思想の問題なのかエログロの問題なのか分からないのですが、もし思想の問題だとしたら、しかし「供がお手軽に見るには相応しくない」とは一体どういう真理でふさわしくないと結論づけられるというのかという問題になってしまうワケですよ。
 あくまで匿名さんが自分の意見として「子供にふさわしくない」と考えるのはいいんです。
 しかしそれはあくまで一個人の一意見でしか無く、それが公権力を動かす論拠にはまったくなりません。
 前回言いましたように「偏っている」というのも論拠にはならないのです。
 ここの線引きはキチッとしておかなければなりません。
 
 さて今日はエログロの問題に触れたいと思うのですが、まず先に言っておくコトがあります。
 それは、「事実誤認の問題は事実誤認の問題として扱い、それは最優先される」というコトです。
 これは最初からずっと言っているコトですが、『はだしのゲン』は事実と異なる描写も多々あり、表現の自由も「無かったコトをあったかのように書く自由」なんて保証してないワケですから、ここについては最優先として改善させる必要があると言えます。
 まず前提条件として、ここを付け加えておきたいと思います。
 
 ではエログロの問題ですが、もしですね「時代がそうなんだから仕方ない」というコトでしたら、これは由々しき認識だと言わざるを得ません。
 やえは決して、そんなあやふやなモノに表現の線引きを委ねていいとは思えません。
 もちろん時代によって考え方は変わってきます。
 倫理は変化していきます。
 ですからこれを全く無視しろとは言いません。
 ただ、それにただただ流されるというのも、思想の放棄になるのではないのでしょうか。
 
 深く考えます。
 エログロの問題は、ただ一言エログロの問題と言っても、作品によってエログロの立ち位置というモノは違ってきます。
 大きく分ければ、「エロ・グロが目的の作品」と、「主題が別にあり、流れの中でエログロ表現が必要な作品」とで分けられるコトができるでしょう。
 前者は簡単に言えばエロ本とかですね。
 そして前者の場合は、時代の変化の影響をモロに受けてしまうと言えるでしょう。
 例えばヌード写真集も、昔はアンダーヘアが1本写っているかどうかで大騒ぎしていたような時代がありましたけど、いまではヘアなんて写したい放題ですよね。
 また逆に、「多くの目が集まる場」でのエログロ表現がだんだん厳しくなっているという状況もあります。
 もっと正確に言えば、「厳しいコトを言う人が増えてきた」と表現できるかもしれません。
 実際問題、エロ本的な媒体は昔の方が目に触れやすかったかどうかというのは疑問が残るところだからです。
 昔はある程度キチンとゾーニングできてましたが、いまは18歳の規制がかかってない媒体でも簡単に性描写を載せてしまっていますからね。
 こう考えれば、果たしてここ数十年の間に「規制が厳しくなった」と言えるかのどうかという部分も議論が残るところだと思いますが、まぁその部分も含めて少なくとも「時代の変化の影響をモロに受ける」というのは違いないでしょう。
 
 ただ果たしてそれを流されるがままにしていいかどうかというのも議論が残るところです。
 「エロを未成年に見せてはいけない」という建前は、まぁこれは常識論で正しいと言っても差し支えないのかもしれません。
 なぜだと議論を突き詰めてもいいですし、時に必要な議論だと思いますし、むしろ一度キチンとここも議論すべき議題とは思うのですが、未成年に「エロのためのエロ」「性的欲求のために性描写」を見せるのは良くないという線引きはまずあろうかと思います。
 
 その上で次に「主題が別にあり、流れの中でエログロ表現が必要な作品」について考える必要があります。
 『はだしのゲン』はここに当てはまります。
 よもや『ゲン』をエロ本と同じく、そういう欲求を満たすための作品と受け取る人はいないでしょう。
 それはうがち過ぎというモノです。
 そしてこういう作品に対しても、「時代の影響を無批判に受け入れて良い」と言えるのかどうかというところは考える必要があるのではないでしょうか。
 
 もっと言えばですよ、『ゲン』などの作品におけるエログロ表現というのは、エログロそのものが目的なのではなく、そういう描写を踏み台としてもっと先に考えるべき主題があるからこそのエログロ表現なワケです。
 一番分かりやすい例で言えば、原爆投下直後の熱線で皮膚が焼きただれた人の表現でしょう。
 原爆の問題にある程度興味がある人はその描写を見たコトがあると思いますが、あの描写は決してああいう姿を見せるためだけに描いているのではなく、もっと言えば、その姿そのものへの興味からの表現なのではなく、その先にある「原爆とはどういう結果が待っているのか」というコトを突き付けて考えさせるための表現なワケですよね。
 逆から説明すれば、「原爆とはどういうモノか」というモノがまず主題としてあり、それを表現するためにはどうするのかというコトを考えると、ああいう人間が焼けただれた姿を描くという手法に、自然となったワケです。
 エログロは目的ではなくあくまで手段であって、目的は「原爆の現実」なんですね。
 いわゆるエロそのものが目的であるエロ本とかとは、その作品の根本思想が違うワケなのです。
 
 でも近年はそういう表現も、例えば原爆資料館などで蝋人形を撤廃しようという動きがあるように、規制しようという方向に行ってしまっています。
 本当にこれも腹立たしいコトなのですが、いったいなんのためのそういう表現なのか分かってないんです。
 「エロ・グロが目的の作品」と、「主題が別にあり、流れの中でエログロ表現が必要な作品」とが違うってコトは、キチンと認識すべきでしょう。
 そして後者の問題についてまで、「時代がそうなのだから仕方ない」とただ流されるだけなのは、もはや思想の放棄とすら言えてしまうのではないのでしょうか。
 
 こういうコメントをもらっています。
 

 はだしのゲンは読んだことがないので個人的な感想は言えませんけど、女性を犯した後、性器に一升瓶突っ込んで子宮を破壊がのシーンがあるそうで、それだけ聞いたら、そこらのエロ漫画よりも道義的に酷い内容に思えてしまいます。たぶん、その当時の不条理を描いているだけなんでしょうけど。

 
 ネットでは問題のあるコマだけを切り取って連続して羅列するのでインパクトばかりが残って作品に対する冷静な判断が出来ないという問題かありますので、特に『はだしのゲン』という特異な漫画に対しては一度ならず何度かキチッと読んで欲しいなと思うところなんですが、なぜその表現がその場面にあるのかっていうところを読み取ってから判断してほしいところです。
 もし、その場面だけをもって「エロ漫画よりも道義的に酷い内容」と判断して規制対象にするが妥当だと判断されてしまうのであれば、やはり蝋人形とかそういうモノが「時代の流れ」というあやふやなモノで規制されてしまうコトになるでしょう。
 それは決して「作品への評価」とは言い難いモノです。
 そしてではこの場合、原爆の悲惨さや“現実さ”というモノをどうやって伝えていけばいいのでしょうか。
 現実から目を逸らしながらで現実をどう受け止められると言うのでしょうか。
 
 ただ、文章上でこの辺の問題をキッチリと線引きするコトは難しいコトです。
 悪意ある人によれば、本来「エロ・グロが目的の作品」なのに「主題が別にあり、流れの中でエログロ表現が必要な作品」として見せようとするコトもあり得ます。
 だからこそ、これはキチンと作品ひとつひとつについて丁寧に検証しなければなりません。
 そしてやえはその上で言っているのです。
 
 『はだしのゲン』は実際に検証して実証できる作品なのではないのですか?
 
 と。
 ただただ空気に流されるのではなく、論拠をキチンと付けましょうと、さらに『ゲン』はそれをするにうってつけなんじゃないですかって言いたいのです。
 『ゲン』はエログロが目的の作品ではなく、あくまでエログロは手段でしかない作品です。
 その上でその表現が本当に子供に悪影響があるのかどうか、調べられるのですから調べてから判断してください、とそう言っているのです。
 
 やえは別に、「「主題が別にあり、流れの中でエログロ表現が必要な作品」の場合は無制限に公開すべきだ」なんてコトは言ってません。
 ずっと言ってるコトは、調査できるのですから調査しろってコトですから、故にそれは「調査した結果」には従うという意味です。
 もし実際に調査して本当に子供の発達段階に悪影響があると断定できるのであれば、閉架措置は仕方ないと思います。
 ただやえの実感として、調査してもそのような結果は出ないでしょうとは思っていますけどね。
 しかしそれは調査自体を阻害する意見ではありませんし、調査しようの無いモノをしろと言っているワケでもありまんせし、少なくとも公権力を行使するのであれば調査できるのですからしなければならないハズだと言っているワケで、その上でキチンと調査して結論が出るのであればそれには当然として従うべきです。
 
 少なくとも調査できる段階において、しかし「時代の流れ」なんていうあやふやな空気がそれに勝り規制しなければならないなんていう意見には、やえは到底納得はできません。
 『ゲン』の問題に限らず、「実証されるデータ」と「ただの空気」とどっちが優先させられるべきかというのは、思想言論活動に身を置き論理こそ重要視する身としては、当然前者を優先すべきだと主張します。
 これは本来「エロ・グロが目的の作品」でもそうだと思います。
 実証可能かどうかはともかくとしても、もし本当に科学的検証において未成年に性的欲求のための性表現が発達段階に置いて一切悪影響は無いと断定できるのであれば、やえはすぐさま「18禁の撤廃を」と主張するコトでしょう。
 「なんとなく」という空気的論拠は、科学的検証よりも優先させられるべきではないからです。
 
 繰り返します。
 これが検証不可能であればやえはここまで言ってません。
 でも『ゲン』に関してはできるハズです。
 その上で『ゲン』は「主題が別にあり、流れの中で必要な表現の作品」です。
 だからこそ、何のためのその表現なのかをひとつひとつ丁寧に検証をした上で、丁寧に真摯に議論してその扱いを考えなければならないのです。
 果たして松江市教育委員会はどのような論拠を持って今回の措置に踏み切ったのか、やえには「単なる思いつき」にしか思えないのです。
 そしてその思いつきは、『ゲン』を愛読していた人間の人格をも否定しかねないコトなのです。
 そのコトすら松江市教育委員会は想像が及んでいないようですが、こここそが一番腹立たしいところなのです。