思想を語る立場で語る
今日は頂いたコメントにレスする形で語っていきたいと思います。
というのもこの問題というのは、思想を語る上でよく言われるコトであり、同時に最も考えてもらいたいコトだからです。
なぜ思想を語り、そしてなぜ思想を受け取るのか。
こういう根本の問題です。
人間はロボットじゃないからな〜
感情も納得させないと治まらん
この場合相手の感情を納得させないといけなかった
プレゼンはより感情に訴えたもの勝ち
どんなに理論的に正しいことを主張しようがね
卑怯とかいってるうちはオリンピック招致は無理だな
やえは前回の更新では、何のために何を語ったのでしょうか。
やえは理論的思考が出来ない人や、それに便乗して安易な安倍政権批判をしている人達を批判したのであって、もっと本質的なコトは、「論理的理屈や科学的理屈に対しては、同じ論理的・科学的理屈で考えなければならない」というコトを主張しているのです。
頂いたコメントを絡めて言うなら、「感情論は間違っている。理論的に考えろ」と、そう言っているワケですね。
やえは決して、2020年オリンピックを東京に招致するため、それを促進させるために前回の文章を書いたのでありません。
むしろそんな意味は1つもないとすら言えます。
なぜなら、前回の更新の主題は、オリンピックに関する内容でなくても成立するからです。
たまたまお話のキッカケになったのがオリンピックに関する記事だっただけであって、「理屈に対して感情で返答する無理筋」という主題は何もオリンピックに限らずあらゆる問題で起きるコトですから、そもそもオリンピックが東京になるのもならないのも全然関係がないのです。
よって「卑怯とかいってるうちはオリンピック招致は無理だな」は、申し訳ないのですが、まったく内容に即していないコメントになっちゃうんですね。
こういうズレって昔からよく言われます。
「人間には感情があるんだから感情を納得させないと意味がない」とか、その手のコトは思想をやっていればよく言われるコトです。
でもそれは、いまその場で問題に当たっている人に対する言葉なんですよね。
今回のコトで言えば、オリンピック招致委員会ですとか安倍総理にかける言葉です。
オリンピック招致に関係していない、またそのために文章を書いたワケでもないやえにそんな言葉をかけても仕方ないのです。
そうではなく、やえの言っているコトはもっと根本的な、「人間はどう考えるべきで、どうあるべきなのか」というとっても難しい命題に対する主張なのです。
そしてそのひとつとして、「人は感情より理屈を優先すべきだ」という答えがあるワケなのです。
理屈で理解出来ず、感情でしか物事を考えられない人、いっぱいいるでしょう。
それは前回取り扱った記事を見れば一目瞭然です。
しかしやえはそういう現状に対し、「それでいいんですか?」って問題提起しているワケです。
だって理屈に対して感情で返しても、そんなの「議論」にはならないじゃないですか。
いや、話し合いや会話にすらなりません。
感情より理屈を優先させろっていうのも、まずここがあります。
例えば感情の方が大切だって言ってしまうのであれば、誰が何と言っても「自分はそんなのイヤだもーん」で終わってしまいます。
まして「イヤだもーん」に対しても「イヤって言われるのもイヤだもーん」となってしまうワケで、こんなのが許されるのであれば、後は殴り合いの喧嘩しか決着手段はないでしょう。
それは動物の理屈です。
暴力だけではない力で物事を決められる能力を持っている人間は、感情ではなく論理を優先させて物事を考えなければならないハズなのです。
人間が人間であるためにも、理屈こそを最重要視して価値判断しなければならないのです。
やえは思想という面から、いまはまだいっぱい感情で物事を判断している人がいて、まして相手は論理で主張をしているのに、それを感情で反論した気になっている人がいっぱいいる現状を、やえは「それではいけないハズです」と、そう説いているのです。
前回の内容で言えば、「東京は距離的に安全だ」という科学的論理的主張に対し、「福島の人のコトを考えろ」という感情論で返す人達は「間違っている」と、そう指摘しているのです。
確かにオリンピック招致を目指しているいまのいまは(もう東京に決まりましたが)、いちいちIOC委員ひとりひとりに「感情より理屈の方が大切ですよ」なんて説いている時間はありませんから、いかに感情的にも納得させる必要があるんだろうと思います。
しかしやえの役割と言いましょうか、立場はそんなコトをする立場ではありません。
在野のネットで思想を語る身としては、オリンピックをどうするのかではなく、いかに人はどうあるべきなのかを問うのがあるべき姿でしょう。
だってオリンピックなんて決まってしまえばこの問題はそれで終わりですが、しかし「人は感情ではなく理屈で判断すべきか」というのは、これからもずっと考えなければならない、目指さなければならない人のあり方だからです。
やえは日本のオリンピック招致委員会やそれに関係する人に感情を納得させる言い方をしなければいけないとか、逆に感情論なんて放っておけとか、そういうコトを言ってはいません。
言うつもりもありません。
むしろやえは前回の更新については、オリンピック招致委員会に向かっては何も言ってません。
そうではなく、あくまで「理論に対して感情で反論する人達」に対して、「それは間違っている」と言っているのです。
最近政治のコトを扱うコトが増えてきましたが、本来はやえはこういうコトを語るために「ネット思想家」を名乗っているのです。
オリンピックが東京になってもならなくても、そんなのは関係なく「感情よりも理屈を大切にしなければならない」のです。
感情で物事を判断している人は「間違っている」のです。
ですからもし仮に感情でオリンピック開催地が決まっているのであれば、それが東京でなかったとしても東京であったとしても、やえは「決め方が間違っている」と言うコトでしょう。
やえはオリンピック招致委員会の委員でも、招致のためにネットで主張しているワケでもないのですから。
もちろん、やえの今回の主張も、もし間違っていると思うのであれば、いくらでも反論してくださって構いません。
むしろお待ちしてるぐらいです。
ただし「理論」でもってお願いします。
イヤだからイヤなんだー、という感情論で言われても困ります。
それでは議論も会話も成り立ちませんからね。
やえの基本的なスタンスというのは、「その問題を解決する手段」を提示しているのではなく、「その問題の根本をどう考えるのか」という思想を語っているのです。
ディスカッション
コメント一覧
論点をズラさないで下さい。
アナタは「福島は近い」という論拠でもって「危険」と言っているのです。
それに対しやえは、危険と表現する論拠は「近い」という概念で担保できるモノではないと言っているのです。
言っている意味分かりますか?
「遠ければ遠いほど影響が減っていく」っていうのは事実です。
多分これを否定する科学者はいないでしょう。
しかしこの概念は、ある地点が危険かどうかを断定する指針には一切なりません。
どれだけ人体に影響があるのかというのは、その地点での放射線の絶対的な強さでなければ計れないからです。
論点をズラさないでほしいのはやえのコメントというのは、bsさんは「福島は近い」という論拠で「危険」だという結論を得たという論法を用いていて、その論法は一切科学的でも論理的でもないというコトを証明するためのやえのコメントなのです。
「危険度」という微妙な言い換えで論点ズラしをしようとしていますが、しかし最初のbsさんの言い方である「福島は近いから危険てことだね」という言い方、すなわち「危険」という日本語のチョイスというのは、「人体に悪影響がある」という意味であり、そんなコトを断言するには「近い」なんて概念では説明できないというコトをやえは言っているのです。
bsさんが書いてるアドレス先の主張というのは、「福島が危険だ」と言う論拠になり得る可能性ははらんでいると思いますが、それは今回やえがコメントしたお話とは関係ありません。
今回やえがコメントしている部分はあくまで「遠い」という論拠だけで「危険だ」と断定した論法が、一切科学的でも論理的でも無いと指摘しているだけのお話です。
言ってみれば、日本よりチベットの方がチェルノブイリの方が近いから「チベットは危険だ」と言うようなモノで、つまりアナタの論法では「現在もチベットは人体に悪影響が出る危険地域である」と言ってしまっているワケで、こんなコト言われても普通の人は???か「根拠は何?」と聞くでしょうし、しかしその答えは「日本より近いから」しか言えないワケで、こんな日本語チョイスは常識的日本語感覚であればあり得ないワケで、もし大まじめにbsさんがこれを主張するのであれば、bsさんとはちょっと日本語でもってコミュニケーションをとる自信がやえにはありません。
繰り返しますよ。
アナタは「近い」というだけで福島を危険呼ばわりしたのです。
しかし「近い」は論拠にはならないのです。
つまり論拠にならないというコトは、論拠も根拠も意味も無く、ただ思い込みだけで危険呼ばわりしたというコトになるのです。
この思考方法というのは、一分も科学的でも論理的でも無いのです。
ただのアナタの脳内根拠でしかないのです。
んで、今回の主題では無いのでここへのレスは無くても結構ですが、リンク先の画像も、正直これだけでは「危険だ」と断言する論拠になり得るデータではないと感じます。
この手の図などは震災直後で散々取り上げて、やえも慣れない計算をしながらいろいろ論じていますので、よかったら過去ログをよんでいただきたいのですが、そもそもまず「2011年3月に地表に落ちた放射性物質がそのままの状態で保存されている場所」という意味がよくわかりません。
書かれている数字の単位は毎時シーベルトですが、それって放射線の強さの数値なワケですが、しかし説明の基準は「放射性物質」ですよね?
このズレ、ちょっとおかしいんですよね。
時間軸も不明なんですよ。
もしかしたら放射性物質が落ちたと推計される量から計算される放射線の量を書いているのかもしれませんが、しかしその放射性物質はいつからいつまでのモノなのか、放射性物質というのは堆積する一方では無く、風とかで簡単に拡散し、それは放射線で見れば稀釈されるというコトになりますので、もしある特定の時間の間に放射性物質が堆積する一方だけの類推値であれば、それはただの机上の空論でしかないと言うしかありません。
「そのままの状態で保存されている」という日本語から、ちょっとこれよく分からない日本語ですが、頑張って解釈すれば、つまりやえがさっき言った「ある特定の時間の間に堆積する一方だけの類推値」でないかと想像するのですが、それはつまり騎乗の空論、当然その空論から出されている放射線量(毎時シーベルト)も空論だと言うしかなくなってしまうのです。
またさらに言えば、この図はタイトルから「チェルノブイリとの比較」が主眼であるワケですが、しかし肝心の比較対象であるチェルノの図が小さすぎて何が書いてあるのか分からないのです。
タイトルがチェルノとの比較なのに、一番大きな図が日本地図だけであり、肝心のチェルノの地図が小さくて読めないというのは、もうそれだけで片手落ちというか、データとして役ただ巣だと言うしかありません。
さらに最も肝心な「その色が何を表しているか」という単位の部分、図で言えば下の「チェルノブイリ(上?)3700~1480?????」の部分が全く読めません。
ましてこの部分、日本で対応している部分は「~8μSv/h」だと小さい文字から予想されるのですが、これなんでチェルノと同じ扱いになってるんですかね?
チェルノの単位の部分がやえにはよく読めないのですが、少なくとも数字の部分は桁数からして全然違います。
まぁ単位によっては同じになるのかもしれませんが、しかし比較する場合においては単位を合わせるのが常識だと思いますので、これちょっと意味不明な図になっているとしか言いようがありません。
単位が違うというだけでも「比較図」としては不適切です。
この図をクリックしても大きな図が出てきませんのでこれ以上はなんとも言えないのですが、少なくとも断言できるコトは、よってこのページだけを持って
>>その理屈が通用するなら、「広島は福島から1000キロ離れてて
>>安全てことは、東京は近いから危険」という言い方が
>>成り立ってしまいますよ?
>実際その通りだが?
は成り立たない、というか「福島が危険」だと結論づける論拠にはならないというコトです。
もうちょっと正確で読みやすいデータが必要です。
ここまで書いて気づいたのですが、「広島は福島から1000キロ離れてて安全てことは、東京は近いから危険」という言い方が成り立つかどうかの論理的証明は、この図とは一切関係ありませんね。
この図はおそらく「その地点が危険(人体に悪影響がある)かどうか」の論拠として持ってきたのでしょうけど、『「広島は福島から1000キロ離れてて安全てことは、東京は近いから危険」という言い方が成り立つかどうか』は、それとは一切関係の無いお話ですからね。
的外れも甚だしいとしか言いようがないでしょう。
申し訳ないのですが、ちょっと日本語感覚がズレているとしか言いようがありません。
ごめんなさい、長くなっちゃいましたね。
>その理屈が通用するなら、「広島は福島から1000キロ離れてて
>安全てことは、東京は近いから危険」という言い方が
>成り立ってしまいますよ?
実際その通りだが?
http://savechild.sub.jp/archives/241.html
ひとつ前のエントリで
>少なくとも「遠ければ遠いほど影響が減っていく」というのは、
>だれしもが認める科学的事実でしょう。
>こう考えたら「東京は福島から遠いから問題ない」という説明は、
>「科学的見地に基づいた説明」と言えるワケです。
と自ら言ってる。
危険度からいえば
福島>>>>東京>>>>広島だと。
距離が遠いからな。そしてそれが科学的だと。
>「遠いから安全」という論拠は、イコールで「近いから危険」
>なんて等式を担保するモノではありません。
>少なくとも「遠ければ遠いほど影響が減っていく」というのは、
>だれしもが認める科学的事実でしょう。
自分の矛盾にも気付かんか。
bsさん
>じゃあ科学的に
>東京は250キロ離れてて安全てことは
>福島は近いから危険てことだね
なぜですか?
その理屈が通用するなら、「広島は福島から1000キロ離れてて安全てことは、東京は近いから危険」という言い方が成り立ってしまいますよ?
そんなの科学的でも論理的でもありません。
「遠いから安全」という論拠は、イコールで「近いから危険」なんて等式を担保するモノではありません。
福島が安全かどうかは、東京がどうだというコトとは全く別の論拠で述べられなければならないモノです。
じゃあ科学的に
東京は250キロ離れてて安全てことは
福島は近いから危険てことだね