国民の政治参加を一番阻害しているのは選挙?

 よく言う人いるじゃないですか。
 政治や選挙なんて一部の人の世界でしかなく、自分には関係ないと。
 まして「だったら選挙に出ればいいじゃないか」と言われると、「非現実的だ」とか「一部の利権を持っている人が有利だから無意味だ」とか、そんな感じのコトを言う人がいますよね。
 特に当サイトなんて、「選挙はまず最初に自分が立候補しないという選択肢を選んでいる時点で、他人に委任するコトを自らの意思で決めているのだから、もし「マシな候補者がいない」と言うなら自分で出ろ」なんて言いますから、よくそのような言葉を投げかけられます。
 
 ただ、ちょっと冷静に考えてもらいたいんですよ。
 この問題というのは、本来は別の問題が複合的に絡み合っている問題です。
 というのも、「立候補できるかできないか」の問題と、「立候補した後の候補者による選挙運動能力差」の問題と、「受かるか落ちるか」の問題は、それぞれ全て別の問題です。
 しかし一般的に「マシな候補がいないから投票する相手がいない」とか「でも選挙に出るのは現実的ではない」とか「選挙は不公平だ」そして「棄権はまともな候補者を立てない方が悪いんだ」とか言う人は、これらの問題を全てごちゃ混ぜにして、全てに対して不公平だと言っているコトがほとんどなんですね。
 
 特に「立候補できるかどうか」の問題と、「選挙運動能力」「受かるかどうか」の問題というのは、前者は制度の問題であり、後者は制度外の問題ですから、まずはここを一緒にしたらダメなんですね。
 だって立候補するコト自体は国籍と年齢以外の制限はないのですから、「立候補できるハズがない」と言ってそれを制度のせいにしたらダメですよ。
 供託金の問題もありますが、どうしてもお金がないっていうなら、いきなり国政を目指すのではなくまずは地方選挙から出ればいいでしょう。
 この場合、市町村等または議会議員なのか首長なのかで変わってきますが、供託金は無し~10万円程度で済むところもあります。
 それ以外にはも制限はないのですから、まず日本国民で年齢がある程度達していれば、誰でも立候補できるんですね。
 だから「立候補なんてできない」は言い訳に留まらず、ウソとすら言えるでしょう。
 つまり制度の問題、つまり法的な問題においては、これ以上無いほどの公平性が担保されていると言えるワケです。
 よく「選挙には地盤・看板・カバンの3つが必要だ」なんて言いますが、これは「立候補する」というコトには一切関係の無いお話なんですね。
 年齢とその区に住んでいれば、供託金がゼロの選挙区であれば、書類を書くだけで立候補はできます。
 まずはここの違いを理解すべきです。
 「選挙の公平性」とは制度の公平性の問題であり、この点においては日本の制度はかなり公平性を担保した制度になっています。
 誰でも立候補できるのですからね。
 
 その上で、後の問題というのは、結局それぞれの立候補者個人の能力の問題でしかありません。
 「選挙運動能力」「受かるかどうか」、つまり「地盤・看板・カバンの3つが必要」なんていう言われ方も、これは結局は、法的な制度的な問題を離れた「個人の能力の問題」でしかないのです。
 ですから、能力の問題なのですから、ここに制度的な公平性を持ち込む方が間違いとすら言えるでしょう。
 
 しかしそれでも「地盤・看板・カバンの3つ」をもともと持っている人はズルいと考える人はいます。
 というか、基本的にこの問題を考える上でこのセリフが出てくる場合というのは、ほとんどがそういう意味で使われますよね。
 では考えてみましょう。
 誰もが立候補できる土壌(現状のままですが)の上で、既存の政治家などが一切立候補しなかった場合というのを想定してみるのです。
 もし自分が「既存政治家以外の人と選挙をする場合」を想像してみてください。
 
 どれぐらいの得票を得られれば勝利となるでしょうか。
 現在の選挙制度においては、国政の場合、衆議院小選挙区においては、選挙区によってかなりばらつきがありますが、だいたい10万票を取れば当選となります。
 10万票です。
 つまり、10万人の人に自分の名前を書いてもらわなければならないのです。
 
 さて、「既存政治家が利権を持っているから立候補しないんだ」とか言っている人は、いまの自分を考えた時に、このどこまでも現実的な事実をどう考えるでしょうか。
 
 選挙ってそういうモノなんですよ。
 国政選挙においては現在の小選挙区比例代表制が日本の歴史においては最も「小さな選挙区制度」であり、イコール「最も少ない得票数で国会議員になれる制度」であるワケですが、それにしても10万人の人間に自分の名前を書いてもらわなければならないのです。
 これは決して別の世界のお話でもなくでもなく、自分自身の、国民ひとりひとりの問題です。
 中にはさも「3バンがないから不公平だ=それがなければ自分だって政治がやれる」かのように言う人がいますが、では共産主義的に個人の所有物が一切無い世界に置き換えて、個人の能力でさえ平均化された世界での選挙を実施したとして、それで自分は10万人の人に名前を書いてもらえると断言できますでしょうか。
 まして個人の所有物が一切無いなんて世界は共産主義国ですらあり得ないおとぎ話であり、仮に既存政治家が一切いない選挙になったとしても、やっぱり元々知名度がある人や社会的地位のある人が当選ラインに近づくっていうのは自然なコトになっちゃいますよね。
 ですから自由主義的な競争主義で考えるのであれば、制度が公平であればあるほど、選挙運動の能力の差や当選落選の結果についてを他人のせいにすればするほど、それは単に自分に能力が無かっただけだという現実を突きつけられる結果になってしまうのです。
 
 こう考えると、では選挙に出ろという批判に対する反論である「非現実的だ」とか「一部の利権を持っている人が有利だから無意味だ」というセリフは、果たして何に対する言い訳なのかというコトを考えさせられるモノだと言えるでしょう。
 逆に言えば、「じゃあアナタは既存政治家がいなければ立候補するのですか?「誰にも入れる人がいない」と言わずにちゃんと立候補するんですか?」と問いたくなるワケです。
 しかし実際はおそらく、既存政治家がいなくても、立候補なんて具体的に準備する人っていうのはごくわずかの人だけのお話で終わってしまうのでしょう。
 いくら制度的にも能力的にも公平な環境を整えたところで、「自分は立候補の対象外」とはじめから決めている人の方が大半なのです。
 そしてそれは、結局は自分自身の判断によるモノであって、決して他人のせいにできるモノではないのです。
 
 逆に言えば、ただの名も無き一国民が直接政治に関わろうとするのであれば、それを一番阻害しているのは「誰でも自由に立候補できる制度」とすら言えてしまうでしょう。
 誰でも立候補できるからこそ、「選挙能力に長けている人」しか当選できなくなってしまっていると言えるのですから。
 もっと言えば、「選挙」という存在そのものが一番「一般国民」から政治を遠ざけている原因とすら言えてしまうのかもしれません。
 果たして普通の国民生活をしていれば10万人の人に自分の名前を書いてもらうなんてコトは非現実的ですからね。
 でも選挙という存在は、そんな非現実的なコトを実現しろと言っている制度なのです。
 
 もし民主主義の根源たる選挙の、その存在そのものが主権者たる国民の直接的な政治参加を阻害している一番の理由になっているのでしたら、これほど矛盾した、そして解決不可能なコトはないですよね。
 やえにも解決策は思いつきません。
 唯一考えられるとしたら、国会議員の数を増やすコトですね。
 例えば10倍にするのであれば、つまり今の選挙区割りのまま当選者を10人にすれば、つまり1万票さえ得られればいいワケで、これなら「3バン」が揃っていなくても何とかなりそうな気がしないコトもありません。
 まぁこの場合は立候補者が10倍どころの話ではなくなるでしょうから、もしかしたら逆にその方が組織の強いところが強くなるのかもしれませんけど。
 
 というワケで、「まともな候補者がいない」とか言う人は、ではどうすれば国民の責任を果たせるのか、他人のせいにしない解決策を考えてもらいたいところなのです。