「河野官房長官談話」のその文章を読み直す (3)

2014年3月5日

(つづき)
 
 
 ものすごく長くなってきましたが、やっと第三段落目です。
 

 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。

 
 この部分なんて、まさに一見しただけでは理解しにくいようにワザと書いているとしか思えない文章です。
 というのも、ここも主語というか主体が曖昧なんですね。
 前半の「戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていた」っていう部分は、他に解釈の余地のないほどストレートな文章なので、ここはいいでしょう。
 敢えて言うなら、「日本を別とすれば」という一文で、絶対数的には朝鮮半島出身者よりも日本本土出身者の慰安婦の方が多かったと捉えるのが自然な文章になっている、というところです。
 それが事実かどうかは調べないといけませんが、そう捉えるに足りる文章であるコトは間違いないでしょう。
 
 しかし問題はその次です。
 「当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」については、特に「意思に反して行われた」という状況を表す言葉が、「その募集、移送、管理等」という3つ全てに同時にかかっているという点が問題です。
 というのも、「募集」と「移送」と「管理」は、それぞれ主体が別であるというコトは、そもそもこの河野談話の中で自らが定義しているコトですから、本来ここは一緒にして語ってはならないハズなのです。
 一番分かりやすいのが「移送」ですよね、これは軍の管轄下によって行われていました。
 ここは誰も否定しないでしょう。
 次に「管理」ですが、これも河野談話中においては軍が行ったと定義する行為ですが、その管理とは具体的にどういう行為なのかは不明瞭な部分が多い点です。
 ただ日本語を素直に解釈するのであれば、「管理」とは、慰安所が慰安所として機能するための最低限度の外側からの保全行為と捉えるのが自然だと思います。
 そして「募集」は、河野談話が「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たった」とハッキリと業者が行ったと定義しているんですね。
 このように、「移送」と「管理」は軍が行いましたが、「募集」については業者が行ったモノだと、この河野談話自身が認めている事実であって、よって主語が違う以上はここを一緒にして述べるのは日本語としては不適切なのです。
 かなり「ひとつの文章」としては不適切な書き方をここではしてしまっているといえるでしょう。
 
 また「意思に反して行われた」も、これは上で述べたコトとまったく同じで、戦争中である以上は、特に第二次世界大戦後半のきつい場面になっていった時期の日本においては、朝鮮半島も含めた日本国内におけるありとあらゆる場面において軍の管理下におかれていたワケですから、ある程度の強制性はあったと表現するのが実情に最も即した書き方だと言えるでしょう。
 例えばお寺の鐘も軍に接収されたとか、動物園の動物も逃げ出す前に軍によって殺させられたとか、そういうお話はよく聞くワケです。
 また、従軍カメラマンも基本的にはどこでも自由に取材出来るワケではなく、行動はかなり制限されるワケですが、これだって「意思に反して行われた」という表現が使えるワケです。
 まぁそれ以前に、主体があやふやなままでの言及ですから、もうそれだけで「事実認定」という観点からは無意味な文章になっているんですが、よってこれもことさら大げさに取り上げるほどでもない部分と言えると思います。
 
 このセンテンスは、字面だけ見ればかなり印象の強い文字が躍っている部分ですが、よくよく日本語としての意味を解釈するなら、「発言者の感想以上のモノはない」と言い切れる程度の意味しか存在しないと言えるでしょう。
 
 
 第四段落目です
 

 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。
 政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。
 また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。

 
 ここまでくると、だいたいの「パターン」が読めてくるのではないでしょうか。
 「本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である」も、ここでは「関与」という言葉を使っていますように、例えば、軍営慰安所があったとか、軍が正式に直接慰安婦を強制的に攫ってきたとか、そういうコトを認める文言ではありませんね。
 「当時の軍の関与」とは、この四段落目より前に述べてきた様々な事象をひっくるめて一言にまとめているだけで、そこに具体性はありません。
 これは本来日本語としてはこれはまずい表現です。
 
 そして日本語としてまずい表現だからこそ、「多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題」の主体が曖昧なままなんですね。
 これだけの文章だと、その「名誉と尊厳を深く傷つけた問題」を起こしたのは誰なのかという点がハッキリしません。
 よってこうなればさっきと同じで、「ただの発言者の感想」という解釈しかできない文章になってしまうんですね。
 わざとこうしている可能性も否定出来ませんし。
 
 2センテンス目の「政府は、この機会に、」から「今後とも真剣に検討すべきものと考える」までは、河野談話として一番良く引用されると思われる「お詫び」の部分です。
 ただし今回は、極めて日本語としての解釈のみに、今回は専念します。
 
 「いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる」というのは、その「お詫び」を、どういう人達に向けたモノなのか、ここは日本語としても議論が分かれる部分ではないかと思います。
 というのも、素直にこの一文だけを読めば誰に対してなのかという部分は「従軍慰安婦」となるワケですが、しかしこの「従軍慰安婦」という単語、河野談話の中では、第一段落目に出てきた後は「慰安婦」という言葉に変わっており、ここにきて急にまたこの表現が復活していますから、果たして「従軍慰安婦」はただの「慰安婦」と区別して使っているのか、それとも単に「慰安婦」は「従軍慰安婦」の略称として使っていたのかという、ここの部分が解釈出来ないんですね。
 また河野談話は日本政府としての正式な談話である以上、それは旧軍を含めた「日本政府としてのお詫び」であるワケですが、それは果たして「軍が直接関与していない人達」に対しても含まれるのかどうか、それはこのセンテンス以前の言葉の積み重ねとして含まれるのかどうか、というのは非常に難しい問題です。
 さらに、いっこ前のセンテンスで「当時の軍の関与の下に」という文言がありますから、これは第二段落目の「旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した」に相当するモノであり、間接的関与であっても含まれる、という解釈もできるワケです。
 ここの部分が、河野談話における最も解釈が難しい箇所だと言えるでしょう。
 
 そもそも「従軍慰安婦」という言葉自体の定義が難しいワケです。
 一般的なイメージだとこの言葉は、どうしても「軍に強制的に従事させられていた人達」という感じに見られてしまいますが、しかし「従軍」という単語自体には「強制される」なんて意味合いはないんですね。
 何度も言ってますように「従軍カメラマン」は、カメラマン自身の身の安全や、軍としての不確定要素にならないために「管理下」には起きますが、軍が強制してそのカメラマンを戦場に連れてきたワケではありません。
 よって、ある程度(移送など)の管理下に置かれる「慰安婦」という存在に対して、「従軍」を付けて「従軍慰安婦」とするのは、ただの「カメラマン」と「従軍カメラマン」とを区別するのと全く同じ意味で、適切だと言えます。
 「慰安婦」だけだと、まぁなんと言いましょうか、軍人相手だけではない市井の慰安婦さんも存在するワケですからね。
 その区別として「従軍慰安婦」と表現するのは間違いではありません。
 
 では果たしてこの部分では、どういう意図で言葉を分けているのか、単なる略称なのか、それとも「特別な意味」を含めて「従軍慰安婦」と言っているのか、そこの真意がこの河野談話の文章だけでは判別が付かないのです。
 ここはもうハッキリ言って分かりません。
 ただしひとつハッキリしているコトは、「河野談話」をもってしてでも、軍が正式に慰安婦を強制的に連れてきた、というコトは一切認めていないというコトです。
 いくら「従軍慰安婦」に強制的な意味合いがあるんだというコトにしたとしても、本文の中では丁寧に「軍の直接の強制」があったと断言する表現を明確に避けている以上、この段階に来て「言葉の意味合いがあるだろ」と意味を押しつけるのは不適当でしょう。
 「軍の直接の強制」という部分を河野談話の中では明確に「分離」して言及している以上、「軍の直接の強制」という事象のみに関しては、ここが最優先させられるのは日本語として当然だからです。
 
 よってこのセンテンス(と前のセンテンスも含めたお話になりますが)を要約すれば、『この世の中には綺麗な世界しかないと考える建前論だけで言う「慰安婦なんて仕事を選ぶ女なんていない」というところから立脚した、「金のためであろうと親に売られたのだろうと何であろうととにかく「慰安婦なんていう仕事」をさせるキッカケを作ってしまったコト」に対しての謝罪だ』というのが、解釈としては一番自然かと思います。
 
 ちなみにこの段落の最後のセンテンスは、謝罪はするけど、(お金などの)実際の行動については政府としては何もしないから、あとは有識者とかで議論してくださいな、という、けっこう投げっぱなしジャーマンな表明になっている部分にも注目です。
 これは、河野談話以前に「戦争補償問題は日韓基本条約で解決済み」という従来の日本政府の公式見解に基づいた上での表明でしょう。
 「一切考慮すらしない」と言ってしまうのもアレですので、なんらかの形は見せますが、しかし政府見解を崩しかねない「政府内での議論」は避けて、あくまで「政府外」の有識者という表現を用いているのだと推察されます。
 慎重な表現でしょう。
 
 
 第五段落目です。
 

 われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。
 われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。

 
 もうこの段階になると特筆すべきところもないんですが、この辺は「決まり文句」と言ったところでしょうか。
 なんかもう何度も言っているのですが、「同じ過ち」とか「繰り返さない」という述語の主語はどこまでの範囲で考えれば、「このような歴史の真実」という突然出てきた主語は具体的にどういうモノを指定しているのか、ここの文章だけでは判断が付かないんですね。
 まぁ一番あり得る解釈としては、前の段落で謝罪した内容、すなわち『この世の中には綺麗な世界しかないと考える建前論だけで言う「慰安婦なんて仕事を選ぶ女なんていない」というところから立脚した、「金のためであろうと親に売られたのだろうと何であろうととにかく「慰安婦なんていう仕事」をさせるキッカケを作ってしまったコト」』に対して「このような歴史」なのでしょう。
 ただしその「従軍慰安婦が存在するコト」自体も、その中身をキチンと考える、河野談話の中でも前半にかなり細かく分類して注意深く「軍が慰安婦を強制して連れてきた」という断言を避ける言い方をしている、という事実も考えなければなりません。
 一方でものすごい主語の範囲を広げた部分に関しては謝罪するけど、同じ口で細かい部分については事実認定すら否定している、という、二律背反な内容だとも言えます。
 ですからこれはむしろ、「総体としては謝罪するけど各論としては議論の余地がある」というコトを河野談話自身が主張している、とも言えるワケです。
 
 またもっと広く考えれば、「第二次世界大戦」という範囲に対して「歴史の真実」「歴史の教訓」と言っているという可能性も否定出来ません。
 同時にこの段落の後半部分も、全く同じコトが言えます。
 主語が明確でない以上、この程度の推察をするのが限界でしょう。
 
 
 ついに最後の段落です。
 

 なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。

 
 ここも前の段落の言い直しぐらいの解釈でいいと思います。
 訴訟問題もあるし、そもそも日韓基本条約に関わる問題である以上、政府が主体的にどうこう動くというのは得策ではなく、民間の研究とか有識者の議論を見守る、という程度の意味合いです。
 表現もかなり注意していて、民間の研究に「委ねる」ではなく、「関心を払って参りたい」です。
 言い方を変えれば、「見るコトもやぶさかではない」ぐらいの、「見る」とが「関心を持つ」とかいうその程度のコトすら断言しない、かなり注意した言い方となっています。
 その心理を読めば、つまりは「日本政府は、謝罪はするが、それ以上の実行を伴う行動は何もしたくない」という本音が潜んでいると言えるのではないでしょうか。
 
 
 さてとんでもなく長くなった「河野官房長官談話」の文章解釈ですが、これで以上です。
 いかがでしたでしょうか。
 結構誤解を持っていた人も少なくないのではないでしょうか。
 というワケで、次回からはこの「文章解釈」をもとにして、それ以外の部分についても含めた、包括的な河野談話について取り上げていきたいと思います。