「河野官房長官談話」のその文章を読み直す (2)

2014年3月5日

(つづき)

 3センテンス目です。
 ここがこの問題の一番のキモとなる部分です。
 もう一度引用しましょう。
 

 慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。

 
 ここもいくつか文章を区分けして考える必要があります。
 というのも、これもしかしたら1センテンスをワザと長くして、分かりづらく読みにくいように表現している可能性があり、ですからそこをごっちゃにしないためにも、丁寧に1つ1つを見ていかなければなりません。
 こう分けます。
 
1.慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たった。
2.募集の際、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くある。
3.官憲等が直接これ(悪質な募集)に加担したこともあったことが明らかになった。

 
 なぜこう分けたのかと言えば、それぞれ主語・主体が違うからです。
 1は「慰安婦の募集」について書かれている箇所であり、主体は「軍の要請を受けた業者」です。
 2は「悪質な募集方法」について書かれている箇所であり、主体は同じく「軍の要請を受けた業者」です。
 3も「悪質な募集方法」について書かれている箇所ですが、主体は変わり「官憲等」です。
 違いが分かりますでしょうか。
 
 どこも重要なのですが、まず1からして、この政府見解は「軍が直接慰安婦を募集した」という事実は否定しています。
 ここに「業者」という完全に民間組織に限定する単語を出しているコトからも、確かに慰安所が必要でその設置の重要性は軍は把握していたとしても、慰安婦の募集や慰安所の運営までを軍が直接行おうとはしなかった模様がうかがえます。
 もっと厳密に言えば、「官製慰安所」の存在を示す資料は未だこの世の中に存在しない、と言えるワケですね。
 
 2は、その「業者」の中にはかなり悪徳な方法で慰安婦を「募集」していた事例が数多くあった、というコトを認める文章です。
 ただし繰り返しますが、この場合の主語はあくまで「業者」です。
 軍や政府ではありません。
 軍が「こういうのを作ってね」と依頼した先の業者の行為として、本人たちの意思に反して集めた等もはや犯罪行為としか言えないような集め方をした事例もあった、というコトです。
 逆の視点で言えば、「悪徳な集め方をしたのは業者」であって、この文章からは「軍が悪徳な集め方をした」という証拠は存在しないコトを裏付けているとも言えるでしょう。
 もしそんな証拠があれば、「軍の要請を受けた業者」なんて回りくどい言い方はしないでしょうからね。
 
 3は、一見すると2で断言したコトをひっくり返す内容かに見えるのですが、しかしここで突然主語が変わるコトに気をつけなければなりません。
 先ほども言いましたように「軍」と書いた場合は、これは「軍が日本国家の一機関として公式の命令によって動く行為」を指します。
 軍に所属する人間が、公式に軍の命令を受けて動いた行為というのは、すなわち「軍の行動」となります。
 決してその行動は「個人の行動」ではありません。
 つまりそれを逆に言えば、いくらその軍に所属している人間が行った行為であったとしても、軍の正式な命令の下の行動でなければ、それはあくまで個人の行動に過ぎません。
 例えば現在の警察官には拳銃の携帯が認められているワケですが、これはあくまで「公務中の警察官」に与えられているだけであって、警官個人に与えられているモノではなく、当然休暇中など職務外での警官の携帯は認められておらず、もし休暇中に拳銃を持ったまま出歩けば、それは銃刀法違反となります。
 この違いは厳密に付けられなければならない概念です。
 
 前置きが長くなりましたが、よってここ3は、結論を先に言うと「軍の正式な行為」とは一線を画する行為を表現した文章になります。
 ではなぜここで突然主語を変えたのか、その「意味」を考えてみましょう。
 なぜこれまでここのセンテンスより前の文章についても含めてほぼ一貫して「旧日本軍」とか「軍当局」という単語が使われていたのに、この部分についてだけ突然「官憲」という単語が飛び出してきたのでしょうか。
 ハッキリ言ってかなり不自然です。
 官憲なんて軍の略語ですらなく、完全に別名詞です。
 つまりですよ、ここは別名詞をわざわざ使わなければならない事情があるワケです。
 軍当局ではなく、敢えて官憲という言葉を使わなければならない理由があるワケです。
 そう考えた時に出てくる答えとは何かと言えば、それは、この「悪質な行為」は、あくまで軍人が個人的な行為によって悪徳業者に荷担した事実しか存在しなかった、からとしか言いようがありません。
 
 軍として正式に悪質な行為に荷担していたとすれば、これまで通り「軍」という言葉を、いちいち置き換えずに使えばいいのです。
 でもここを敢えて「官憲」という個人の職業を示す名詞に変えたのです。
 ではなぜそんなコトをしたのかと言えば、それはもう「軍としては正式に、本人の意思を無視して慰安婦に無理矢理させるような行為を起こったとする証拠は存在しない」からであり、もっと簡単に言えば「軍は正式には慰安婦を強制していない」と、事実認定するしかなかったからです。
 
 それが歴史的事実かどうか、おそらくいくつか「犯罪」はあったのでしょう、悪徳業者に荷担した軍人が存在した例というのは。
 どういう荷担なのかは河野談話では明らかにされていませんから分かりませんが、軍人の個人的犯罪が行われたというのは、これはなかなか否定出来ない事実なんじゃないかと思います。
 慰安婦の件に限らないのですが、何十万人もの人がいれば、そりゃ何人かは犯罪を犯しますよ。
 でも間違えてはいけないのが、だからといってそれが「軍の行為」とは言えないというコトです。
 これは慰安婦の問題や軍の問題だけに限らず、広く「公と私」の問題として一般的な問題です。
 民間企業だって、「会社として動いている」のと「個人として動いている」のは全然違いますからね。
 例えば今まで新聞社やテレビ局の職員がチカンなどで捕まった場合に、それは社としての行為だったと言ったコトがありますか?
 それはさすがに言えるワケがないワケです。
 
 ここのセンテンスは、1センテンスにも関わらず、主語も主体もその内容すらコロコロ変わってしまっている大変難解な文章です。
 ですからやもすればここの部分を持って「(今の政府は)軍による強制的な慰安婦の募集をしていたと証拠もなく認めている」と言っている人もいるようですが、しかしそれは日本語解釈としては間違っていると言うしかありません。
 キチンと日本語を日本語として読めば、河野談話も「軍による強制的な慰安婦の募集をしていた」とは認めていないんですね。
 ここ、重要です。
 
 最後、4センテンス目の「また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった」です。
 これ、もしかしたらここもワザとかもしれませんが、「強制的な状況の下での痛ましい生活」というのは誰がそれを強いたのかという主語が書かれていないんですね。
 強制的とは書いてますが、しかしそれなら「誰が強制したのか」というコトを明らかにしなければ、その主語を書かなければ片手落ちになるワケですが、しかしここのセンテンスではそれが明らかになっていません。
 ただただ、慰安婦の生活に同情する一文でしかありません。
 これではなんのコトを言っているのか分からない文章にしかならず、むしろここは発言者(政府や河野官房長官)の主観での感想にしかならず、事実認定などは一切含まれない一文と言うのが妥当でしょう。
 
 もうちょっと解釈していきましょう。
 このセンテンスより前の文章までも振り返ると、どちらかと言えば慰安所の運営は業者だったのではないかと解釈するのが自然だと言えます。
 少なくとも軍としては、慰安所の設置依頼とその管理、慰安婦の募集の要請と、慰安婦の移送だけです。
 つまり簡単に言えば「民間人の身の安全は守るから、慰安所を慰安所として機能するように体制を整えてほしい」と業者に対して言っているだけで、慰安所そのものについては軍の姿勢は一歩引いているとすら言えるでしょう。
 当たり前の話ですが、軍隊という存在が、その行動に関わるコトの全てを自前で行っているワケではありません。
 例えば食料です。
 輸送までは自前で行います(それはむしろ攻撃力よりも重要だからです)が、しかし生産までは軍が行うワケではありませんよね。
 仮に「これだけの品質をこの日までにこれだけ整えてくれ」という要請や品質チェックまではしたとしても、生産や加工は民間業者が行います。
 よってここは、食料の生産について軍がチェックし管理しているので関与しているとは言えワケですが、でも「軍が生産している」とは言えないワケですよね。
 こういう観点からも、慰安所の直接の運営自体は民間業者が行ったと見るのが自然であり、その労働条件についても一番の責を負うのは慰安所運営業者だったと見るべきです。
 実際、慰安所を利用する場合は、軍ではなく、個人が自腹でその費用を払っていました。
 ここからも、軍は慰安所の設置依頼まではしていますが、その先の運営やお金の流れは軍の管轄外だったコトが見て取れるワケで、よって軍営慰安所ではなかったと言うのが妥当なワケです。
 
 よって「強制的な状況」とは具体的にどんな行為を指す言葉なのかがハッキリしない上に、「本人の意思を無視した」という部分が事実としてあったとしても、この「強制的な状況」の主語は「慰安所における生活は」である以上、ここで仮に責を負わなければならないとすれば基本的には「業者」に責任があると言うしかないと解釈するほかないと考えられます。
 この事実認定における構図というのは、このセンテンスよりも前の文章でも河野談話自身が認めているのと全く同じ構図であり、つまり軍の行為はあくまで管理までであって、直接の関与や運営などは業者の責任の下に行われた、と繰り返し述べているだけでしかないと言えるます。
 前の文章もここも、一貫して「軍」という主語に対しては「強制した」とは書かれていないんですね。
 よって少なくともこのセンテンスより以前の文章から見て、このセンテンスで新たな事実が認定された、と捉えるべき文章は存在しません。
 
 さらに突っ込んで解釈してみましょう。
 「痛ましいもの」という言葉は、ハッキリ言って解釈の幅が広すぎる表現です。
 それは女だったら喜んで身体を売る人なんていませんよ。
 でもそれ以上に、様々な事情からお金のために売らざるを得ない事情があるワケで、もちろんお金自体が目的だったとしても、その行為そのものを鑑みれば「痛ましい」と表現するのもあながち間違いではないとは言えるハズです。
 お金が理由の人も、それだけの額を別の仕事で得られるなら、絶対別の仕事を選びますからね。
 ただこんなコト言い出したら、普通の労働だって嫌々やっている人にとっては「痛ましい」というコトになりますし、そもそも軍人さんだって赤紙によって強制されて戦場に出ている人は「痛ましい」存在そのものでしょう。
 結局ここのセンテンスは、あくまで発言者の主観での感想でしかなく、それ以上も以下もないと解釈するのが妥当だと考えます。
 その程度の文章なのです。
 
 
(つづく)