「結婚しないのか」が差別であるなら男性に言うのももちろん差別

 野次問題にからんで、ここでひとつ「差別問題」についてちょっと語ろうと思います。
 差別問題は当サイトにとって大きく重要なテーマのひとつです。
 
 差別は許さない、差別はあってはならない、差別は撲滅すべきだ。
 まずほとんどの人はこう言うと思います。
 これに正面から否定する人はそうはいないでしょう。
 この言葉だけであれば誰でも肯定する言葉だと思います。
 しかし実のところ、言葉上ではそう言っても、人によって実態としてのイメージは大きく異なります。
 ここが差別問題の難しいところであり、なかなか解決が難しいところでもあるワケです。
 
 その大きなズレのひとつに、平等とは何かと聞かれた時に、人によっては「機会平等」をイメージする人がいる一方、「結果平等」こそが平等だと思っている人がいるっていう点があります。
 実はこうやって文字にすると、自分は「結果平等」なんて主張していないと言いつつも、しかしその差別問題の中身や自分の立場によって、その主張が結果的に「結果平等」になってしまっている人がけっこう多いんですね。
 差別問題を語るとき、問題の中身によって、そして立場によって主張が変わってしまう人も少なくないのがまた難しい面ではあるのですが、しかしやえは、差別問題とはどのような内容であったとしても、どのような立場であったとしても、その一貫性こそが最も重要だと思うんですね。
 「機会平等」はスタート地点での平等であり、例えば入学や就職や出世の場面において、その試験は誰でも同じモノを用意するっていうのが「機会平等」です。
 一方「結果平等」とは、試験のできに関わらず全ての人を合格にしましょうという平等です。
 よく運動会のかけっこで例えられますよね。
 よーいどんで駆けだしたはいいけど、なぜか先生がゴールの前に立って生徒達をゴール前に待たせて、全ての生徒が一斉にゴールさせるっていうアレが「結果平等」なワケです。
 つまりこの例のデタラメさで分かるように、一般的には「結果平等」は「悪平等」だと、間違った平等だと考えられるコトが多く、やえもそうだと思っています。
 差別のない社会、平等な社会とは、誰もがスタート地点で差を受けない社会のハズなのです。
 
 ですから文字にした時の「結果平等」というモノを正面から正しいと言う人はそうはいないと思います。
 「結果平等こそが真の平等社会で、それを目指すべきだ」なんて主張する人は、今時は共産主義者ですら珍しいのではないのでしょうか。
 しかし直接はそう言わなくても、主張の中身をよくよく精査すれば、どう考えても「結果平等」にしかならないような主張をしている人は、実はけっこう少なくなかったりします。
 例えば日本においては「女性差別」においてよく見られる主張なんですが、「女性は弱い立場なんだから制度として女性優位にするコトこそが真の平等だ」って言う人がけっこういますよね。
 これってよくよく考えたら「結果平等」そのものなんですよ。
 そしてこれは実のところある程度実効性を持っていたりもするんですね。
 
 いまどうなのかっていうお話をするとかなり議論になりますからおいておくにしても、過去の日本においては男性が優位な社会であったとは言えると思います。
 正直やえとしてはただの役割分担だとは思っているのですが、まぁ例えば女性が本当に仕事をバリバリして男性と同じように出世したいと思っていても、会社や社会が許さないっていう時代は確かにありました。
 いまの時代で女性は出世出来ないと言うと、それは女性が出産などで会社から一年ぐらいは離れる以上は業務としては支障がとかいうお話になるかもしれませんが、しかし昔はそれ以前として空気や雰囲気、そして制度として女性が男性と同じように働けない時代は確かにあったのです。
 ですから、それを「差別」という言葉で言い表すべきかどうかはともかくとしても、性差による「差」があったコトは確かなんですね。
 そしてそれを是正しようという動きも間違いではなかったとは思っています。
 
 しかしそれはあくまで「男性と同じスタート地点を作る」というコトでこそ達成されるべきなんですね。
 決して、制度として女性を優位にするコトで差を埋めようとすべきではありません。
 それは「結果平等」です。
 だって「女性は出世しにくいから男性よりも簡単な条件で出世させて、その結果として男性と同じ数の管理職の女性を増やそう」というコトですから、これはもう完全に「結果平等」ですよね。
 少なくとも「機会平等」ではありません。
 
 さきほど「結果平等の考え方は実はある程度実効性を持っていたりもする」と言いましたが、「女性の管理職を増やしましょう」なんてスローガンはよく耳にしますよね。
 政府や地方自治体や民間企業でこういうスローガンを掲げているところは多くあります。
 でもこれ「結果平等」ですよね。
 やえこれおかしいと思うんですよ。
 「今まで差別されていたのでそれまでのコトを取り戻す」っていう意味も結果平等にはあるのかもしれませんが、しかし制度としてそれを定着させてしまえば本人の努力成しに結果をえられるコトになるワケで、「いままでのコトを取り戻す」のであれば制度の定着以外の方法を用いなければ、それは新たな「差別」を産むコトになりかねません。
 事実、被差別の側に甘んじるコトで努力するコト無く甘い汁を吸おうとしている人間が、この世の中には存在しますよね。
 当たり前ですが被差別の人の全てがそうだと言うつもりは全くありませんが、一部そういう人がいるのも認めなければならない事実です。
 制度が差別を産むのであれば、それは許されざるべき問題だと言うしかありません。
 差別問題を考える時、差別を無くすという目的のために差別を産んでしまっては、本末転倒にも程があるでしょう。
 
 差別問題を考える時、ここをよくよく考えてもらいたいです。
 例えば野次問題での「結婚しないのか」という発言は、これが差別発言だと言うのであれば、それは女性に対する発言だけでなく、当然男の人に対しても差別になるべきです。
 それは差別だと言うのに、そこに性差で対応を変えるのであれば、それこそ差別だと言うしかありませんよね。
 最近は女性に対して「結婚しないのか」と言うのは、都議会の中だけに限らず、会社などで言うのもセクハラだとされているところですが、果たしてそれは女性だけに適用してはいませんでしょうか。
 もしそうであれば、それは差別だとやえは指摘するところです。
 
 もちろんこの構図は男女差別の問題だけに限りません。
 最初に言いましたように、差別問題とはどのような内容であってもどのような立場であっても、その一貫性をとってこそ解決されるべき問題だと思っています。
 ですから男女差別だけに限らず、全ての問題において、結果ではなく機会において平等を担保するコトこそが差別のない平等な社会だと呼べるようになるハズなのです。
 また機会がありましたら、別の問題でも触れていきたいと思います。