反撃に「被害の対称性」を求めるのは間違い

 イスラエルとパレスチナの問題について一言言っておきたいと思います。
 ただし、やえはその対立の中身や善悪について触れようとは思いません。
 やえの自論に「その国の歴史はその国に生まれた者でなければ理解できない」というがありまして、表層的な歴史は学ぶコトはできますが、その感情や熱というモノは言葉にできるモノではなく、よって絶対に他者には理解できませんから、そこに絡むような対立を第三者が断罪するコトなんて絶対できないと思っているからです。
 仮に日本が停戦の橋渡し役になるっていうのでしたら可能かもしれませんが、それはあくまで完全に中立の立場であって、どちらかの善悪を断罪するコトなんて、日本国家にも日本人にもできるハズがないのです。
 ですからやえはそこには触れようとは思いません。
 
 その中でしかしただひとつ、この意見にはどうしても納得がいかないのです。
 イスラエルの攻撃に対して、「被害の対称性が得られないような攻撃は許されるはずがない」という意見です。
 もっと簡単に言うと、「やりすぎだ」という意見ですね。
 イスラエルとパレスチナはどちらも相手を攻撃しているワケですが、しかしパレスチナが行うロケット弾などの攻撃でのイスラエルの被害の規模に対して、イスラエルの軍隊での空爆などによるパレスチナの被害があまりにも大きく一方的なので、「自分たちの被害規模に対してイスラエルはやりすきだ」っていう意見なのでしょう。
 しかしこれは果たして本当にそうでしょうか?
 
 例えば北朝鮮が日本にミサイルを撃ち、地方都市に着弾して数百人が死んだとしましょう。
 この場合、日本が取るべき行為は果たしてどんな行為でしょうか。
 キッチリと日本側の被害者数を調べて、それと同じ被害を北朝鮮に与えるという行為が「正しい行為」なのでしょうか。
 
 違いますよね。
 もしこんな事態になったら、日本は(現状米軍の力を借りざるを得ませんが)北朝鮮を「戦争的降伏」まで追い詰めるべきです。
 だってこれはもう戦争なんですから、当然ですよね。
 むしろそれを放置していたらさらなる相手からの攻撃を受け、被害が益々大きくなってしまうかもしれません。
 ですから、相手が撃ってきたら、もう二度と撃ってこれなくなるまで追い詰めなければなりません。
 それが戦争なのです。
 戦争を仕掛けられたら、その戦争を終わらせる行為を取るのは当然、いやそうしなければ自分自身が危険になるだけですから、終わらせるコトを目指して戦わなければならないのであって、そのためには「相手が自国に与えた被害の規模」なんてモノはここには一切関係がありません。
 そもそも戦争とは何をするモノかという前提が間違っているんですね。
 戦争とは相手に被害を与えるのが目的なのではなく、あくまで「相手に自分の言い分を聞かせるための手段」でしかないワケで、この観点からも「被害の対称性」なんていう理屈は完全に間違っているワケです。
 
 結局この「被害の対称性」なんていう考え方は、単なる判官贔屓でしかなく、なんとなくかわいそうと思うだけの感情論でしかないと断じざるを得ません。
 繰り返しますが、イスラエルとパレスチナのどっちが悪いかなんていう部分についてはやえは一切語ろうとは思いません。
 そこは当事者にしか分からない複雑な感情があるのでしょうから、他人であるやえには絶対に理解できない部分です。
 しかし、「一方的に大規模な攻撃を加えているから悪だ」と言わんばかりの物言いは、明らかに間違っていると言うしかありません。
 戦争や紛争はお互いの言い分があり、お互いに正義があって、それがぶつかり合うからこそ戦争や紛争になるワケで、それに善悪を付ける行為はつまりはその陣営に与するというコトなワケですから、それに与しない立場としては善悪を断じるコトは不可能なお話しです。
 しかし、だからこそ被害の規模で善悪を断ずるのも間違っているとしか言いようがないでしょう。
 
 現場は色々と複雑だと思います。
 単に国家間の戦争というワケではなく、色々な組織や団体が入り交じってテロルや何やらが行われているのでしょう。
 ですから、ただの戦争と見るのも実情を繁栄していないんだと思います。
 ただそれはそれとしても、少なくとも被害の規模によってだけで善悪をつけるのは間違っています。
 ここは情緒的にならずに見なければならない問題でしょう。