「戦争は悲惨?」そんなモノは戦争の是非を考える上で無用の主張

 最近よく聞く言説の中で大変に違和感のある主張があります。
 「戦争は悲惨だ」
 別にそれ自体を否定するつもりはありません。
 戦争とは人や財産や建物を壊して相手の意志を削ぐ行為ですから、それは悲惨でしょう。
 というか、悲惨だからこそ戦闘という手段が最後の手段であり、そしてもっとも有効な有無を言わさぬ手段であるのです。
 
 しかし、先ほどから「手段」「手段」と言ってますが、では戦争とは何の手段かと言いますと、それは「外交」の手段です。
 最近ここをよく勘違いしている人が多いようですが、なんのために戦争をするのかと言えば、それは「相手国に自国の要求を飲ませるため」に行うのです。
 決して「戦争したいからする」のではありません。
 先の大戦で行った日本の戦争について是非は人それぞれあるにせよ、少なくとも「日本には達成すべき目的があり、その目的のために戦争を行った」というのは誰にも否定できない事実です。
 先の大戦に限らずこの世の全ての戦争とは、あくまで達すべき目的のための手段でしかなく、そしてその手段とは「対外政策」であり外交であって、すなわちそれは「政治」であるワケです。
 
 戦争とはどこまでいっても「政治」なのです。
 
 であるなら、「現場は悲惨」とか、そんなモノは一切関係が無いのです、少なくとも「戦争すべきかどうか」という点においては。
 戦争とはあくまで「政治的観点に立った上で必要か否か」という視点で考えるべきモノですから、感情論はむしろ害悪なワケです。
 例えば「戦争をすべき場面だが、現場が悲惨だからやめよう」という判断を下して、結果的に国益を失ったとすれば、それは政治としては失策以外何者でも無く、むしろ最初から政治をやるつもりがなかったと断じられても仕方ない行為です。
 
 戦争に限らず現場がどうであれ、「必要なら実行する」のが政治であり、国家の役割です。
 まして戦争とは手続きさえ踏めば国連も認める正当な「外交手段」である以上は、国家としてその手段を保有しておく必要があるワケであり、そもそも戦争とは例え自分にその気が無くても一方的に仕掛けられてしまうモノである以上は、自らの意志に関わらず備えておかなければならない、国家とはその義務を負うモノであると言えるモノです。
 自らの意志など全く関係なく、戦争に負ければ是も理も正義も無く一方的に要求を飲まなければならないのですから、そんな理不尽に対抗する手段を常に持っておくコトは、それは政治の最低限の義務なのです。
 
 であれば、「現場の感情」なんてどうでもいいのです。
 
 目的を達成するために最も合理的な方法を模索する上で現場の意見を聞くコトはもちろん大切なコトです。
 戦争であれば、いかに自らの被害を押さえて勝つのかという戦術を現場から聞くというコトは重要な行為でしょう。
 しかしそれと、悲惨だからという感情の問題はここに関係がありません。
 戦争とは「イヤかイヤじゃないか」の問題ではなく、「やるかやらないか」の問題なのです。
 政治的判断として必要なら行う、政治的判断として不要だと思うなら行わない、ただそれだけの問題であり、よって戦争を考える上においては、あくまで「政治目線」で考えなければならないのです。
 
 戦場の大変さ、戦争の悲惨さを伝えるコトが全く無意味だと言うつもりはありません。
 それはそれで考える必要のあるコトだとは思います。
 ただし、少なくとも今回の集団的自衛権のお話は100%政治のお話であって、それ以外の事情を持ち出したところで、そんなのは無関係ですと言うしかないっていうお話なんですね。