議論が出来ない人間とはまさにこのこと

 なんだか国会では色々と大騒ぎですが、まぁ当サイトとしては淡々と行きましょう。
 やえとしましたら、日本もフルバージョンの集団的自衛権を持つべきだと思っていますから、これはまだ道半ばだと思っていますしね。
 
 もう一回、山形市長選挙の結果にからんでのお話ですが、それにしても自ら争点として持ち出したのですから、選挙という結果が出た以上、自ら敗北宣言すべきではないのでしょうか。
 やっぱり見苦しいですよね。
 自分たちで争点に持ってきたのですから、その責任は最後まで取るべきでしょう。
 
 デモっていうモノの効果は、つまりは「見た目だけの数の多さ」に意味があるワケです。
 決してデモは言論ではありません。
 言論には人数は必要ないですからね。
 ですから数頼みなのがデモなのであって、今回の山形市長選挙も、その数の力を背景に公職の選挙を勝つコトで、その「こっちが多数派だ」というコトを知らしめて、より一層自らの正当性を誇示しようとしたワケです。
 でも市長選挙に勝つコトができませんでした。
 つまりこれは、「安保反対派が多数だ」という論拠の瓦解、すなわち「安保法制反対」という結論に対する論拠の瓦解を意味しているワケなのです。
 
 議論とは論拠の応酬です。
 そしてデモによる数の力を背景にした主張の論拠は、「それだけ反対する人数が多い」という部分なのですから、この論拠が崩れた以上は、議論としては終了なんですね。
 「デモというモノが主張する安保法制反対論」は完全に論破された形になるワケです。
 ですから、まずはデモは一度敗北を認めなければならないハズなんですよね。
 議論とは結論のやりとりではなく、論拠のやりとりですから、議論としてはデモという形については終わってしまっているのです。
 
 でも相も変わらずデモやってますよね。
 これがまさに「議論が出来ない状態」なのです。
 繰り返しますが、議論とは結論の応酬ではないのです。
 だってそれは、「安保賛成だ」「安保反対だ」と言い合うだけにしかならず、これがクロスするコトはありません。
 議論とは、「なぜその結論なのか」という論拠の部分でクロスさせるコトを意味するのです。
 例えば人数を論拠にするのであれば、「デモに何万人集まった」という論拠と、「自民党には何千万票集まっている」という論拠が出されるワケで、これで意見をクロスさせるコトができますよね。
 このやりとりを議論というワケです。
 よって、いままだ相も変わらず行っているデモというのは、もはや議論を放棄した「主張の押しつけ」にしかなっていないんですね。
 言い換えるなら、お話にならない状態と言えるでしょう。
 
 議論できない人間とは何も話し合いなんてできません。
 そして議論できないのであれば、民主主義の政治なんてできるハズもありません。 
 主張の押しつけだけでは何も生まれないのですから。
 いま国会で何が起きているのか、知性のある冷静な国民はシッカリと観察しておく必要があるでしょう。