歴史認識の問題を政治の責任にするのは国民の無責任

 この問題についてはちょくちょくお話しているところですが、一言で言えば、歴史認識の問題を政治の責任にするっていうのは無責任な行為だと思うのです。
 だって歴史って、端的に言えば「事実かどうか」っていうところを探求する学問なのですから、政治はそれを研究するセクションではないというコト以上に、最も向いていないコトをしているセクションと言えるからです。
 例えばいわゆる南京事件にしても、もし専門家である学者の集団が「ない」と発表した場合と、選挙に当選すれば誰でもなれる国会議員の集団が「ある」と発表した場合、ではどちらが「歴史的に正しいと言えるのか」と考えれば、そんなモノは当然学者集団に決まっています。
 ここでは学者が必ず正しいと言っているワケではなく、専門性のお話をしているワケですよ。
 もっと言えばですね、学者は一応証拠などを元に歴史の研究をする(自称研究者はともかく)ワケですが、政治の決定というのは証拠によるのではなく多数決によって決定されるのですから、証拠がなくても決定はできるワケで、極端なコトを言えば、事実でないコトを議員が内心思っていたとしても多数決の方が優先されるっていうのが民主主義政治なのですから、そもそものあり方の問題として政治は歴史を取り扱うコトに向いていないのです。
 
 民主主義政治っていうのは、正解がハッキリしない問題、答えが複数あるような問題について、一定の答えと決定を出す制度です。
 自分の意見と相手の意見が違う場合、しかしどっちも言い分はあって甲乙付けがたい問題っていうのは、現実にはたくさんあります。
 それを調整するのが本来の政治の役割であり、そして民主主義政治という制度は、その決定に最後は多数決でもって決定するという制度です。
 もっと言えば、民主主義は「正しさを探す」制度なのではなく、「多数が正しい」を決定する制度なんですね。
 後世から見れば間違っていると言われたとしても、でもそれは決して一部の為政者だけで決めたモノなのではなく、「みんなで決めた」=「みんなの責任」という責任のあり方を定めたモノが民主主義なのです。
 
 そしてこれは、「答えが1つ」である問題を解決するためにはそぐわない手段でもあります。
 
 歴史の問題というのは絶対に答えが1つある問題です。
 細かいところでは解釈の違いがあるのはその通りですが、しかし例えばタイムマシーンが発明されて、過去を100%客観視できる状態になれば、もしこれまでは100人中99人が支持していた歴史の見方だとしても、そんなモノは全く関係なくタイムマシーンで見た過去が歴史として認定されるワケですよね。
 学説も多数決も関係なく、歴史の問題というのは1つの答えが明確に存在するからこそです。
 もちろん現在タイムマシーンなんてモノはありませんから、それは様々な証拠などから照らし合わせ、時には推測しながら「正しい歴史」を紐解いていくしかありません。
 ここで重要なのは、「1つの正解が存在する」っていう事実です。
 つまりこれを逆に言えば、絶対に多数決では決めてはならないというコトなんですね。
 だからこそそれは、政治が行うコトなんかでは決してないのです。
 ましてその責任を政治に押しつけるなんてもってのほかのハズなのです。
 
 いわゆる南京事件や従軍慰安婦の問題が、今こうして未だにあったかのように語られているのは、第一義的には中国や韓国のプロパガンダのせいですが、その次には、それを享受していた過去の日本国民の態度による責任も決して小さくないハズです。
 ちょっと前までは、普通に事実のように語られていた時代がありました。
 ハッキリ言ってしまえば、そういう時代に政治の方から完全に南京や慰安婦を全否定できるハズもなく、まして歴史的判断は学術的に民間の学者が研究するモノであって、歴史問題における政治としてはそれに従うコトこそが正しい姿だと言えます。
 ですから結局いまは、その時代に日本国民こそが否定できなかった、むしろ肯定してきたという歴史に対するツケだとしか言いようがないでしょう。
 断言しますが、過去に日本国内で南京や慰安婦が完全に否定されていたら、いまはこんなコトにはなっていまかったでしょう。
 中国や韓国が細かい嫌がらせをしている可能性はありますが、例えば北方領土については日本は一貫した態度を取り続けているワケですから、解決しているかどうかはともかく、問題のあり方については随分変わっていたと思うのです。
 国民世論こそが政治なのですから。
 
 ですから歴史認識の問題を政治の責任にするのは、むしろ国民の無責任と言えるでしょう。
 国民こそがそれらの問題を半ば肯定していたのに、後になってから政治だけにその責任を押しつけるようなコトを言うのは、あまりにも身勝手じゃないですか。
 南京も慰安婦も、政治を舞台にするのではなく、まず国民の中でキチッと1つの答え、1つの方向性をハッキリと決めるってコトが先決でしょう。
 歴史認識の問題は国民の責任なのです。