河野談話の謝罪の部分についての考察と評価

 謝罪の部分については、2つの解釈があると考えられます。
 1つは、直接や間接や要請や関与などに関わらず、とにかく軍が慰安婦という存在と関係したコト自体に謝罪する、という解釈。
 もう1つは、慰安婦という存在を認めてしまったコトに対する謝罪です。
 
 この2つ似ているようですが、厳密には違います。
 前者は、「本来軍が関わるべきではない」という前提のもとの謝罪となります。
 本来軍と関わるべきではないコトに関わったからこその謝罪であり、これを例えるなら、その暴力団と犯罪を共謀したワケではないけどとにかく暴力団と関わったので、関わったコト自体が悪だから謝罪する、という、そういうレベルのお話です。
 
 後者は、慰安婦の存在自体があってはならないとする価値観のもとでの謝罪です。
 例えば現在の日本の法律では、売春は犯罪行為となっています。
 現実的には色々ありますけど、一応は売春という行為や存在そのものを禁止しています。
 よって、それを軍が認めてしまった、間接的にでも関与はしているので慰安婦という存在は認めているワケですから、そういうコトについて謝罪している、という考え方です。
 
 もしくはその両方という可能性もあります。
 さっきの暴力団の例で言えば、暴力団の存在自体を政府は認めているワケではなく撲滅を目指しているのにも関わらず、その暴力団の存在を認め、まして利用したという行為は、二重の意味で謝罪しなければならない、とする場合です。
 前者と後者を混ぜても批判としては成立するのでややこしいですが、ここは厳密には違う問題だというコトは理解する必要があります。
 
 しかし河野談話の場合、このどれが当てはまるかは、ちょっと判別が付きません。
 ひとつヒントがあるとすれば、河野談話のここの部分です。
 

 本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。

 
 「関与の下に」という文言が敢えて入っているので、「関与したコトが間違い」との考え方なのかもしれません。
 もし慰安婦の存在そのものを否定する考え方であれば「軍の関与の下に」という文言は不要のハズです。
 その場合は、河野談話の言い方を借りれば、「関係が慰安所を利用したことは問題である」というような言い方になるでしょうからね。
 「関与したコトによって名誉が傷ついたので謝罪する」というのが、ここを素直に読んだ場合の解釈としては一番適切なのではないのでしょうか。
 
 しかしこの場合だとしても、やっぱり解釈が難しいのが、慰安婦という存在そのものに対する考え方です。
 「軍が関与する」というコトだけをもって「名誉と尊厳を深く傷つけた」とするのは、これは「軍に関わるモノは全て悪」という価値観の下でしか成立しない考え方です。
 ただし今の日本の雰囲気で言えば、やはりそう考えている部分もある、まして河野談話が発表された当時ではますますそういう雰囲気は強かったですから、「旧日本軍のやるコトなすコト全て悪」という考えのもとでの謝罪である可能性は否定出来ません。
 だけどこれはさすがに乱暴ですよね。
 なかなか旧日本軍の行為を良い行為だったとは言いづらいのは言いづらいですが、しかしそれはイコールで「それに関わるだけで悪だ」と言ってしまうのも極論です。
 では軍に食料を納入した業者や農家も「名誉と尊厳を深く傷つけた」と言えてしまうのかと言えば、そんなコトはないですよね。
 それぞれ淡々と仕事をしたに過ぎません。
 ですからこの場合でも考慮すべきは、慰安婦という存在そのものを認めないという価値観のもとでの謝罪であったという可能性です。
 つまり「本来認めてない慰安婦を公的な関与の下で認める状態に置いていたのは間違いだ」という考え方ですね。
 
 従軍慰安婦問題で一番ぐしゃぐしゃになる論点は、ここにあります。
 すなわち、「慰安婦という存在を認めるかどうか、その存在は悪なのか合法なのか」という点です。
 この手の問題というのは、現在の性風俗産業に対する考え方にも全く同じコトが言えるワケで、現実として性風俗が存在しているコトを鑑みれば、「必要悪」として存在自体は認め、またそれを利用するコトも認めるべきだ、と考えるのか、それとも「性風俗に関わる全ての人間、つまり風俗嬢や運営者は当然、利用する人も含めて、全て悪だ」と考えるのか、その違いです。
 ここの立場によって従軍慰安婦問題も全然変わってくるんですね。
 性風俗の全てを悪だと考える人にとっては、慰安婦という存在自体を悪だと認定するワケですから、公的機関である軍が関与するなんてとんでもないってお話になるでしょう。
 さっきと違い旧日本軍の存在は仕方ないと認めても、しかし軍は公的機関なんだから、悪の存在である慰安婦に間接的であろうとも公的に関わったコトは悪であると、そういう視点になります。
 例えば今の日本の常識で言えば、公的施設の中に性風俗店の出店を認めるようなモノで、それに対する批判、というコトですね。
 しかしそれに対し、風俗も必要悪だと認め、利用するのも運営にまわるのも、行為を強制はダメだけど自由意思によって参加したり利用したりするのであれば問題ないと認める人にとっては、従軍慰安婦の問題については「絶対悪」な人とは違う視点に立つコトになるワケです。
 「性風俗という存在」を認めるかどうか、その認め方によって、批判や謝罪の立場というのはかなり変わってくるのです。
 
 こう考えると、河野談話における「日本政府としての謝罪」に対する考え方の立場は、4つに分類するコトができます。
 
1.旧日本軍そのものが存在悪であり、それに関わらしてしまったコトは悪だ。
2.慰安婦そのものが存在悪であり、公的機関である軍がそれに関与してしまったコトは悪だ。
3.慰安婦は必要な存在だったが、公的機関である軍がそれに関与すべきではなかった。(休暇中に個人の金で民間慰安所に行くのは自由だ)
4.慰安婦は必要な存在だったし、軍にとっても慰安所整備は必要なコトだった。よって謝罪すべきコトなどひとつもない。

 
 河野談話自身がどの考え方に立脚して謝罪しているのかは、ちょっと判別が付きません。
 正直、1だって完全に否定するのは難しいですからねぇ。
 
 ただ、1と2に関しては、ちょっと問題があると思っています。
 それは、現在の価値観をもとにして過去を断罪している、というところです。
 というのも、ハッキリ言えば当時の売春は合法だったワケですよね?
 ごめんなさい、やえの認識違いであれば指摘して頂きたいのですが、当時は一定の手続きを経れば商売売春は問題なかったハズです。
 当時はそういう価値観だったワケなのですから、もちろん「本人の意思にそぐわない売春」は当時も違法行為だったですからダメですが、そうでない以上は、これはなんら謝罪する要素にはならないんですよ。
 その方の不遡及を破り事後法的に日本政府が謝罪しているのであれば、この問題の本質として間違った行為だと断じざるを得ません。
 
 しかししかし、ここは「歴史的問題」という側面の他に、「政治的問題」もあるってコトは現実論として認識しなければなりません。
 変な話、過去も昔もおおっぴらに「我が軍には慰安婦制度がある」と公言するような政府なんていないワケですよ。
 どうしてもその手のお話って隠すモノじゃないですか。
 だから橋下市長のように全世界の政府に向けて「お前らにだった慰安婦制度あるだろが」とか、公職にある人が公言すれば、反発されて当然です。
 本音だけで人間が動くなら政治なんて必要ないでしょうからね。
 ですから建前も、時には本音も含めた政治っていうのは必要なワケですよ。
 そうした中で、従軍慰安婦の問題をどう取り扱うのか、まして「負けた戦争」の中における行為についてどう表明しておくのか、という問題は、その方法論は憂慮すべき問題ではないかと思うのです。
 本音ばかりしゃべって反発されるだけでは橋下市長のように何も国益にはなりはしません。
 将来的に徐々に誤解を解いた上で「他国並み」になるのは目指すべきゴールとして設定するのはいいんだと思いますが、コースを無視してゴールだけもぎ取っても、それがゴールとして認められるかどうかは別問題です。
 こういうコトをキチンと考えた上で、「あの当時」の「あの河野談話」を考えれば、ここはどう解釈すべきなのか、というのは、また評価の分かれるところなのではないのでしょうか。
 何度も言いますが、当時は国内からですら「政府は口ばかりで実行しようとしない」と言われていたぐらいなんですからね。
 
 河野談話は検証した通り、具体的な事実はキチンと証拠に基づいての事実認定しかしておらず、それを正式に表明するのと同時に、なんとなくふわっとした謝罪を述べているだけであり、ここの「バランス」をどう評価するのか、というのが、河野談話の真の評価ではないのでしょうか。