河野談話の事実認定の部分についての考察と評価

 では河野談話をまとめた上で、今日は事実認定の部分について考察と評価をしたいと思います。
 
 まず最初に言っておくコトは、「政府としては慰安婦を強制的に連れてきたという事実は存在しない」というコトを河野談話ではハッキリ言っているというコトです。
 厳密に言えば「証拠は未だ発見されず」ですが、法治国家としては「証拠はない=事実ではない」ですから、同じモノとして進めます。
 河野談話を持ってしても、「軍が暴力や権力などを使い強制的に慰安婦を連れてきた」という部分については否定しています。
 そしてそれは、政府の正式な閣議決定(第1次安倍内閣)をもってして確認までされています。
 以上のコトから、ここについては政治的にはもちろん、歴史的学術的な観点からも、証拠がない以上は無かったと言うのが理性的な反応であり、むしろ「あると言うなら証拠を出せ」と言うのが当然の姿勢でしょう。
 特に河野談話を取り扱うお話をする際、ここは前提条件としてハッキリさせておく必要のある点です。
 たまにここをごっちゃにして議論している人いますからね。
 
 では日本政府と軍は何を行ったのか、ですが、しかし軍としては直接的な行為はあまり行っていません。
 ハッキリしているのは、「慰安所の必要性を認識」し、「設置についての要請」を業者に行った、のは確実でしょう。
 また、「直接あるいは間接にこれに関与した」という文言から、「慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送」については軍が直接関与したモノもあった、ぐらいまでは言えるんだと思います。
 ただしこの場合も、直接とは言いつつ「関与」ですから、日本語を正しく解釈するなら、軍が本当に直接手をわずらって行動した、とは言いづらいです。
 「直接の関与」とはなかなか二律背反な書き方ですが、例えば「慰安婦の移送」で言えば慰安婦を軍車に乗せて移動させたというコトまでは無かったのではないかと思います。
 想像にはなってしまいますが、「軍の移動計画に従っての移動」ぐらいが「直接の関与」という言葉には一番当てはまるんじゃないでしょうか。
 
 さらに「慰安婦の募集」については、これは河野談話をキチンと日本語的に読めば、むしろ軍は一切関わっていないと読むのが適切です。
 「慰安婦の募集」に言及する文章以前に出てきた行動(設置要請や移送)は間接的な部分も含めて軍の関与を示す直接的な表現が見られますが、こと「慰安婦の募集」についてはわざわざ「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たった」と、業者があたったコトを明言し、つまり軍が直接行ったコトを否定しているコトからも、一部すら軍は関わっていないコトが読み取れます。
 あくまで行ったのは要請であって、つまり「仕事の依頼を出した」だけであって、その先に軍は一切関わっていないワケです。
 官憲がなんとかっていう部分も、これは検証の部分で取り上げましたように、敢えて「官憲」という言葉を河野談話内で初めて用いたように、明らかに「悪質な募集」については軍の関知する部分から離れた個人的な行為によって行われたという書き方をしています。
 よってこの構図というのは、例えば国土交通省が自分たちの官舎を建て替える際に、国交省自体には建設能力はないワケですから民間建設会社に官舎建設の依頼をかけたというところであって、つまり軍の行為はここまででしかないんですね。
 もしその民間会社が悪質で、社員に給料を一切払っていなかったコトが明らかになったとなったとしても、それは国交省や軍の発注元は、むしろトバッチリの被害者でしかなく、その責任を求めるなんてとんでもないってお話にしかならないのです。
 
 依頼人が公的機関だった時、国民は簡単に「見抜けなかったのが悪い」とか「監督責任」とか「任命責任」なんて言いますが、そんなコト言い出したら詐欺師天国になりますよ?
 「騙されないためにある程度チェックは必要だった」という注意喚起程度ならまだしも、悪質な業者を雇ったから悪いんだと責任を押しつけるような言い方をしていたら、一番得をするのは詐欺師でしょう。
 融資詐欺は未だによく耳にする事件ですが、どれもこれも全て一番悪いのは騙した人、悪質な行為をした人、その人自身です。
 当たり前のコトです。
 ですから、「軍が慰安婦募集を要請した」というコトそれ自体の評価は次回以降に回すとしても、軍の行為というコトを考えれば、あくまでそれは要請だけであって、その発注先に犯罪があっても発注元まで責任を取れなんてまで言われる筋合いはないワケです。
 
 まして軍としても、悪質な業者にそのような行為は募集はやめるように通告する文章まで見つかっているワケですしね。
 黙認すらしていないワケですよ。
 
 と考えたら、軍の行為っていうのは、かなり限定されるコトが分かります。
 ハッキリ言えば、要請とか関与とかしか行っていないんですね。
 まぁ要請と言っても当時どの役所よりも強大な力を持っていた軍の要請ですから、単に「お願い」というレベルではないのは確かです。
 軍は「慰安婦の設置の発案者」であり「発注元」であるのは確かだと言えるでしょう。
 また時には、戦時中や戦場という特殊事情もあるので、それに関する部分で移動などに不自由を強いたコトもあるでしょう。
 しかしそれはあくまで慰安婦などの身の安全を守るためです。
 例えば慰安婦が突然「明日帰国したい」と言い出しても、戦場ではそれは簡単ではありませんよね。
 まして下手にその場で解散して、もし敵国の捕虜にでもなったら、慰安婦本人にとっても軍にとっても、なにより国にとって大きな損失ですよね。
 そして、軍の行動とはそれだけなんですね。
 
 つまり河野談話をちゃんと読む限り、河野談話自身も軍の動きはその程度だしか言っていないのです。
 軍が直接慰安婦を募集したとも、慰安所を経営運営していたとも、まして強制連行したなんて、一切と語にも書かれていないのです。
 むしろその辺はハッキリと否定する書き方すらしていると言えるワケです。
 
 さて、ここまで河野談話の事実認定の部分について考えた時、いま「河野談話の検証を」という声が上がっているワケですが、果たしてその検証というのは具体的にどこをどう直せばいいと言えるのかという部分について、やえはちょっと疑問でなりません。
 歴史的学術的観点から考えても、慰安婦が存在したコトは事実ですし、それを軍が要請したのも事実でしょうし、その中に朝鮮半島出身者がいたというのも事実でしょう。
 そして強制連行した証拠が見つかっていないのも、一部「証言だけで十分」とか言ってるアレな人達を除いて、物的証拠がないのは確かですし、それは河野談話も認めています。
 となれば、なにをどう河野談話を検証するのか、もっと言えば、どこを直せばOKと言えるようになるって言うのでしょうか。
 河野談話の事実の部分において、キチンと文章を読んで理解すれば、ここが大変に疑問になってしまうワケです。
 
 もちろん検証自体は行ってもいいでしょう。
 検証なんですから、いくらでも検証するのはいいと思います。
 しかし、何を検証するのかちょっと分からないんですね。
 この騒動のきっかけとなった「(自称)慰安婦の証言はねつ造だった」という報道にしても、しかし慰安婦の証言にねつ造が本当にあったとしても、河野談話のどこの部分が変わると言うのでしょうか?
 「軍が慰安所設置の要請をした」というのがウソだったのでしょうか?
 「軍が移送などに関与した」というのがウソだったのでしょうか?
 もちろんこれが歴史的事実と違うのであれば訂正されてしかるべきです。
 でもやえにはちょっとここの部分を否定する材料って、少なくとも「慰安婦の証言」からは覆す要素を見いだせません。
 逆に言えば、ここの「軍の行動」という部分に関しては、「慰安婦の証言」というモノがあったとしても、仮になかったとしても、特にここの部分の事実認定自体にはなんら影響は与えられないのではないでしょうか。
 
 もちろんもし「甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例」とか「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった」とかの業者の行為についてウソがあったのであれば、それはそれを明らかにするのも一定の意味はあるでしょう。
 業者の名誉回復という意味では。
 ただまぁ、それだけなんですよね。
 業者っていう主体はもう現在では存在しないでしょうし、もうひとつあるとしたら「自称慰安婦がウソをついている」っていう部分が明らかになるだけで、まぁそれはそれで意味はないコトはないのでしょう、だからここは小さくないですから検証自体は行ってしかるべきだと思います。
 ただし今回の議論の中心である、軍や日本政府の責任という部分においては、これは一切意味のないコトだと言えるのではないのでしょうか。
 慰安婦の証言を検証して、果たして河野談話のどこが変わるのでしょうか?
 
 謝罪の部分については後日取り上げます。
 たぶんここまで整理すると、問題は謝罪の部分だなんて言われそうなので先に言っておくのですが、しかし現在巷に聞こえてくる検証論というのは、どうも軍の行為に関する事柄に対して言っているようにしか聞こえないんですよね。
 もっと言えば、「「軍が強制連行した」と河野談話が認定している」という前提で検証論を言っている人が多い気がしてなりません。
 ちゃんと原文を読んでから言っているんでしょうかと疑問に思うワケです。
 
 例えばこんな記事があります。
 

 従軍慰安婦・河野談話検証チームが狙う「韓国からの外電」
 
 「いろいろ調べてみようとしたが、どうしても慰安婦の証言の裏がとれない。政務の官房副長官だった近藤元次氏らは頭を抱えていた。だが韓国は『認めてくれたら、後は何も言わない』とせっついてきた。結局、『やむをえない』ということで決断し、河野談話の形になった」
 要するに「見切り発車」だったわけで、石原氏の証言の内容と一致する。

 
 韓国側の「要請」の有無はともかくとしても、しかしその「認めてくれたら」とは果たしてどの部分なのかというのがハッキリしないんですね。
 慰安婦の存在なのでしょうか。
 それとも強制連行の存在なのでしょうか。
 この記事、全体を眺めても、その「主語・主体」を全く明確にしていないんですね。
 言っているコトは、「韓国が要請してきて、当時の政権が飲んだ」というコトだけ。
 そしてそれは、「強制連行を河野談話が認めている」という前提でないと成立しないような主張ばかりなのです。
 この記事に関わらずですね、この問題を語る人ってこういう姿勢の人が多いんですよ。
 いったい何が問題なのか、ここを明確にせず、ただ政府や河野洋平元官房長官や当時の役人や、そして韓国を責め立てる人ばかりなのです。
 これでは議論も検証にもならないのではないのでしょうか。
 果たして何が問題なのか、まずはここをハッキリさせてから意見を述べるべきだと思います。
 
 ちょっと次に、この記事をもとにして、河野談話は河野官房長官の韓国の要請をスルーするための高度な政治判断の産物であるかもしれないっていうお話をさせていただきます。