煽動しようとするから嫌われる新聞

 年の瀬も差し迫ってきているというのに、なかなかこんなひどい記事はないですよ。
 

 安倍政権のメディア支配はなぜ成功したのか 上杉隆氏が解説
 
 安倍政権は、6年前の第一次政権の敗因を「メディア戦略の失敗」と結論づけています。今回、政権内部の数名から、拙著『官邸崩壊』を読み直すなどして、前回の失敗を徹底的に検証し、なかば教訓として政権運営に臨んだという声を聞きました。それは、既存メディアの集合体である記者クラブシステムとうまくやるのではなく、徹底的に利用し、牛耳ってやろうという強硬なメディア戦略への方針転換でもありました。
 この方針転換は見事にはまりました。近年の日本政治においてメディア戦略で成功し、長期政権になったのはすべて強硬路線を採用した政権や政治家たちばかりだからです。
 2001年、首相主導の一日二回のぶら下がり会見を新設し、スポーツ紙の内閣記者会入りでメディアに揺さぶりを掛け、5年半の長期政権となった小泉純一郎元首相。1999年、知事記者会見を全国の首長に先駆けて、テレビワイドショーのスタッフや雑誌記者らに開放した石原慎太郎都知事。

 
 ツッコミどころ満載すぎてどうしようって感じですが、とりあえず一言言っておきたいと思います。
 
 まず「5年半の長期政権」という記述があるのですが、「5年半」とは果たして本当に長期政権なのかどうかという根本から考え直す必要があろうかと思います。
 もちろん制度は違いますが、アメリカ大統領は2期やればそれだけで8年です。
 一期だけも4年ですよ?
 確かにここ数年の日本の総理の在職期間と比べれば小泉政権は長いのかもしれませんが、しかし本来はこれぐらいは続けさせるよう国民の方が認識を新たにすべき問題なのであって、小泉政権を例外中の例外かのように書いてしまうのは、それはマスコミの傲慢としか言いようがないでしょう。
 もはや「政権は短い方が(マスコミ的には)正しいあり方だ」と言わんばかりです。
 
 この記事、あまりにも傲慢が目に付く記事です。
 この記事はもう、「マスコミが許容した(せざるを得なかった)から安倍政権が長期政権になりそうだ」と言ってしまっています。
 これを傲慢と言わずして何を傲慢と言うのでしょうか。
 安倍政権に限らず、その政権が政権として時間を重ねるコトは、それは誰でもない国民自身の意思によって行われるべきモノのコトです。
 それなのになんでしょうかこの言いぐさは。
 「メディア戦略で成功し、長期政権になったのは」ですよ。
 メディア戦略に成功したから長期政権になった、メディアが原因となって長期政権となった、メディアが政権の生殺与奪を握っていると、そう堂々と公言しているようなモノのです。
 いくらあの上杉隆氏とは言えども、この言いぐさを紙面に載せてしまうポストもポストですよね。
 いまのメディアの傲慢さが凝縮されているとも言えるでしょう。
 
 朝日新聞が「新聞は時代遅れか」とかいう題目でシンポジウムを開いたとか記事になっていましたが、もう目線が違うんですね。
 新聞がネットがと対立構造でしかいまの「新聞に対する国民の目」を見られないのであれば、新聞はもう何も手を付けるコトもできずに衰退するだけでしょう。
 
 なぜいま国民から新聞が敬遠されているのかと言うと、新聞が事実を伝えようとしないからです。
 国民は、購読者は、新聞に対しては「事実を伝える」という役目を望んでいます。
 永田町で何が起こっているのか、事件の現場では何が起こっているのか、海外ではいまどういうコトが行われているのか、まず単純にこういう「事実」を知りたいと思っているからこそ、それらを仕事として専任で取材できるメディアにその役割を負ってもらって、購読者はお金を対価にして情報を得ようとしているのです。
 しかしいまの日本のマスコミは、その購読者の希望からかけ離れた行為しかしていません。
 すなわち、事実ではなく「新聞社の意思を押し売り」をいまの新聞はしてしまっているのです。
 「我が社はこう考えているからこうだ」というコトを、記事という客観性を持っているモノに見せかけて、読者に押し売りをしているのです。
 だからいま新聞は国民からそっぽを向かれようとしているのです。
 国民は新聞にそんなコトを望んではいないのです。
 本来の需要から供給側が適切な供給をしていないのですから、そりゃ買われなくなりますよね。
 これがいまの日本の新聞に対する国民の目線なのです。
 
 言ってみれば、「新聞社」という組織が「新聞」という存在の価値を落としてしまっているのです。
 本来「新聞」としてあるべき姿、つまりそれは国民が望む「新聞の本来のあり方」を、「新聞社」自身がゆがめてしまっているからです。
 だから読まれなくなる、買われなくなるのです。
 よく新聞社は「言論の自由」とか「知る権利」とか言いますが、しかしそれらの問題と、いま新聞社が国民からそっぽを向かれているコトとは、全く理由が根本から違うのです。
 国民は「事実を事実として伝える媒体」は必要としています。
 ここに需要はあるのです。
 おそらく日本が民主主義国家として存在する限りは、「事実を事実として伝える媒体」としての新聞には、ずーっと需要があるでしょう。
 しかしその需要に正しく応えられていないのがいまの新聞社なのです。
 「言論の自由」や「知る権利」は「事実を事実として伝える媒体」にこそ望まれているコトであり、「事実を事実として伝える媒体」だからこそ国民の代弁者としてその自由や権利を擁護できるのであって、決して「自らの主張を押し売りする」いまの新聞社には国民はそれを望んでいないってコトなのです。
 
 なぜいまメディア全体の質が問われているのか、その本当の意味を、メディア側自身が目をそらさずに正面から受け止めなければ、いまの流れは変わらないでしょう。
 いくら他人のせいにしても、それでよくなるコトはありません。
 もしそのままであれば、それはもうそのまま自滅してくださいとしか言いようがないのですからね。
 一度新聞社もつぶれた方が、それはそれで「本来の新聞社」がまた現れる土壌にもなるでしょうし。