幕僚長時代の田母神氏の行為は民主主義を否定する

 東京都知事選に立候補すると表明した田母神氏について、一言言っておきたいと思います。
 
 いまのところ田母神氏の政策についてはやえからどうこう言うつもりはありません。
 それは細川元首相や桝添元厚労大臣や他の候補者も同様です。
 政策の中身について言及するなら他の有力候補も併せて比較する必要が、これは選挙ですから、あろうかと思うので、そういう意味も含めてまずは政策については特に触れません。
 
 というかですね、そもそも政策云々以前の問題なんですよ。
 やえはこの手の人間、分を弁えられない人っていうのは、一番嫌いなタイプの人なんですよね。
 またやえの個人的好き嫌いだけの問題ではなく、これは深く民主主義の根底に関わる問題であるというコトを指摘しておきます。
 
 なぜ田母神氏は防衛省を追われたのか、覚えている方どれぐらいいますでしょうか。
 まぁ調べればすぐ出てくるのでアレですが、田母神氏は現職自衛官でありながら、公式の政府見解と相反する主張を民間団体の懸賞論文に出したのです。
 つまり、一公務員の身分でありながら、政府の意見を否定したんですね。
 これって本来、とてつもなく「重罪」なんですよ。
 
 そう認識している人って実はけっこう少ないように感じてならないのですが、ではなぜ日本が民主主義の国家だと、自称だけでなく、他国からも認められているかと言えば、それは立法府においては国民から直接選ばれる国会議員が構成員であり、同時に行政府においてもトップはその国会議員であり、行政そのものである内閣も、その国会議員たる総理大臣が指名する者によって構成されるからです。
 簡単に言えば、「行政機関のトップは官僚ではなく政治家である」という点こそが、民主主義国家を民主主義国家たらしめているのです。
 
 官僚は悪ではありません。
 日本のありとあらゆるコトをすくい上げて、特に専門的なモノをまとめあげて、法の下に平等な施策を実行するためには、かなりの専門的な知識や技術を持っている専門官はどうしても必要です。
 まして日本は世界有数の経済大国であり、その手足となって施策を動かす官僚は、むしろ民主主義国家だからこそ必要だとすら言えるでしょう。
 その全てを政治家に託していては、それはただの船頭多くして船山に上るでしかなく、何もできない国家になり果ててしまいます。
 だからこそ、民主主義国家である以上は、船頭であるトップが国民から直接選ばれる「国民の代表であり国民そのものである国会議員」がつとめ、その下に専門官である官僚が控えて、「頭が国会議員(国民)・手足が官僚」という図式を作る必要があるのです。
 民主主義制度というのは決して万能な制度でも、有能な制度でもありませんが、それでもいまの世界潮流の中では民主主義こそが最も価値を置くべき制度だとされている以上は、この構図と考え方をキチッと実践しなければならないのです。
 
 それを踏まえた上で、一官僚が政府の公式見解を真っ向から否定する行為、というのはどういう行為なのかを考えてもらいたいのです。
 
 ではもし田母神氏が東京都知事になったとしましょう。
 仮定のお話です。
 しかしその時、自分の部下である東京都職員が、しかも副知事以下上から数えた方が早い10番以内ぐらいのかなりの上級職員が、都知事方針を真っ向から否定する言動を行ったとしても、もし「田母神都知事」であればそれを容認しなければならなくなるんですよ。
 だって田母神知事自身が自分が率先しそうしたのですからね。
 田母神氏は原発については積極的に活用する方針のようですが、しかし田母神知事がそう主張する一方、都の広報誌では広報部長が脱原発論者なために「脱原発をめざそう」なんて広報誌で書かれたとしても、田母神知事は苦虫をかみつぶしたような顔をしながらでも認めなければならなくなるのです。
 
 「国民の代表たる政治家」の意思を無視する官僚を容認する行為、とはどういうコトなのか、よくよく考えてもらいたいです。
 
 最初にも言いましたように、やえはこういう人は大嫌いです。
 例え政策の部分でやえの考え方と完全に合致したとしても、やえはこの手合いの人は一切否定するでしょう。
 分を弁えない人、民主主義を否定する人、自分の立場を理解できない人は、いくら政策や考え方が共感できたとしても、その人は民主主義の政治家になるべきではありません。
 民主主義の大前提であるシビリアンコントロールとはどういうコトなのか、それは決して軍隊だけに当てはめる考え方ではなく、政治家と官僚の関係性において、民主主義を名乗る以上は遵守しなければならないごくごく基本で初歩中の初歩のコトなのです。