リベラルとは何か~保守本流「宏池会」を見る~ 3

(つづき)
 
 つまりここでも思想的中心軸というモノは全く変わっているワケで、簡単に「軍事のコトを考えるのはタカ派だ」とか「軍事のコトを考えるのはリベラルらしくない」とか言ってしまうのは、時代が見えてない旧世代の人間の戯言でしかないと言うしかありません。
 現在の防衛大臣である小野寺さんも宏池会所属の議員さんであり、宏池会らしさという部分についても、やはり旧世代の常識で考えるコトなんて出来ないのです。
 その「宏池会らしさ」も時代と共に変わるのですから。
 
 最初に引用した記事にこんな一文があります。
 

 元会長の加藤はその役割を「料理でいえば脂ぎった自民党という料理にかけるコショウだ。バランサーとも言える」と説明する。自民党が右に行きそうになると宏池会が存在感を示し、全体のバランスをとったという意味だ。

 
 最近マスコミや政界などから、宏池会のハト派リベラルとしての存在感の低下を懸念する声がよく出てきます。
 例えばみんなの党の山内議員がこんなコトを書いているのを見つけました。
 

 この前も超党派の議連の会合で雑談をしていて、他の野党の議員が「自民党の中の宏池会勢力が弱くなっているのが心配だ」と言っていました。
 私もそれを聞き「なるほど」と思いました。
 タカ派イメージの安倍政権ですが、岸田外相や同じく宏池会の小野寺防衛大臣がいるおかげで、対外的イメージがやわらかくなっていると思います。
 岸田外務大臣には期待したいと思います。核軍縮や人道援助といった平和的な国際貢献にもっと力を入れていただきたいと思います。

 
 どこかの記事で、谷垣法務大臣が委員会で野党から「宏池会にはもっと頑張って欲しい」とか言われたという記事を見たのですが、このように色々なところでこういう「宏池会の影響力の低下への指摘」が成されているところです。
 
 しかし果たしてそうでしょうか。
 宏池会が中道左派だとして、そのバランサーとしての役割を担っているとすれば、やえは十分にいまの安倍内閣のバランサーになっているんじゃないかと感じています。
 例えば山内議員も指摘している核問題について、これ、国連の核兵器の非人道性を非難する署名日本として初めて署名した時やえもここで大いに評価した記事を書きましたが、これはどう考えても広島選出の岸田外務大臣の存在があってこそのモノだったワケです。
 いわゆるタカ派だけでは決して成し得ないコトですよ、やっぱりこれは。
 また靖国神社参拝ひとつとっても、第1次安倍内閣がそうだったとは言いませんが、もし本当に今の内閣に「お友達」しかいなかったとしたら、もっと早い段階に安倍さんは参拝して、それこそ8月15日に参拝して、安倍さん周辺は溜飲を下げたけど国際的にはもっと大変なコトになっていた、なんて事態になっていたかもしれません。
 そもそも安倍さん本人だって、自民党総裁選挙の時に比べればかなり主張はマイルドになっていますよね。
 やはり「自分の主張こそが第一」の自分の選挙の時と、様々な関係各所と調整してこその議院内閣制における総理大臣としての立場の時とは、全然違うワケです。
 岸田外務大臣にしても菅官房長官にしても、そういう宏池会の流れを汲む主要閣僚がいて、時には直接総理に意見した上での最終決定となるワケで、ここの場面においてそれはまさしくバランサーとして保守中道として宏池会は、ただ外野からわーわー言うだけでない「実行力の伴う働き」をしていると言えるのではないのでしょうか。
 
 影響力とは何か、というお話にもなるかもしれませんが、決してそれは「外から批判して、周りに見せつける」だけが影響力の行使ではないでしょう。
 むしろそれは逆だとすら言えると思います。
 外から言うだけ言っても、それを聞き入れるかどうかは中の人次第なだけであって、結局「外から叫ぶ」という行為はパフォーマンスにはなるけど真に影響力を行使していると言える状態なのかどうかは、やはりかなり考えるべき問題でしょう。
 政治にしても何にしても、「声の大きい人の方が力がある」と見られがちですが、実際は「目立たないけどキッチリと仕事をして結果を残している」方が、その問題を前進させる上では絶対に有益な存在であるのは間違いありません。
 まして政治は結果責任です。
 そういう世界において、不言実行と言いましょうか、キチンと自分の職責と責任と権限の中で「結果を出す」というコトをしてきたそれぞれの大臣達に対して「宏池会はどうした」と言ってしまうのは、何か違う気がしてなりません。
 声だけが大きいパフォーマンスだけは得意で中身はスカスカな政治がどれだけ害悪なのかっていうコトは、もう日本人は痛いほど学んでいるハズです。
 
 宏池会だからという見た目だけのレッテル的な見方によって、イメージだけで議員本人の政策を判断したり批判してしまってはなりません。
 左派とか人権派なんて言うとなんとなく死刑制度反対論者っぽく考えてしまいがちですが、宏池会カラーを色濃く残す谷垣法務大臣は、死刑執行については法令に基づいて淡々と行っています。
 宏池会本体の岸田外務大臣も小野寺防衛大臣も、リベラルと言うと反軍事的なイメージを持ちがちですが、しかし初の日本での日米2+2、初の日露2+2、そしてこちらも初の日仏2+2を立て続けに宏池会コンビで成功させています。
 何度かお伝えしていますように、岸田外務大臣は中国に対しても韓国に対しても無駄におもねるコトなく毅然とした態度を崩していません。
 もし本当に、あらゆる面での国益を横に置いた上で中韓の方が大切だと本心から考えているのであれば、安倍総理の意思を無視してでも訪中訪韓していたコトでしょう。
 外務大臣にはそれだけの権限があるワケですから。
 しかし岸田外務大臣はそんな浅はかな行為には出ておらず、これらのコトは決して「安倍の言いなりになっている」という悪口で捉えるのではなく、岸田外務大臣や小野寺防衛大臣、そして谷垣法務大臣など、それぞれの大臣の自らの考えをもとにしての、積極的な政治姿勢による結果だと言うのが正しい見方だと思います。
 
 もちろんそれは、安倍内閣という内閣の中での立場や、法令などからの責任からくれモノもあるでしょう。
 仮に谷垣法務大臣が死刑反対論者だったとしても、法令に従って淡々とサインする姿は、ある意味それが当然の当たり前の姿だと言えるのですから。
 ですから仮に、谷垣さんにしても岸田さんにしても小野寺さん管さんにしても、将来総理大臣になるコトがあったら、また今とは違う政治姿勢を見せてくれるかもしれません。
 それは繰り返しになりますが、ベクトルが逆なだけで安倍さん本人も全く同じコトが言えるワケですよね。
 安倍官房長官の時に安倍カラーを内閣の全面に出していたワケでもありませんし、総裁選の時よりも今はマイルドであるワケですから、このように立場や状況によってあらわれる結果は違ってくるワケです。
 しかし確実に言えるコトは、「リベラル」「中道左派」「保守本流」「宏池会」とか、「保守」とか「タカ派」とか、そういう名前だけをもって、政治信条全てを決定づけられるモノではないっていうコトなんですね。
 「宏池会だからリベラルで売国なんだろ」
 「タカ派だから戦争したいだけなんだろ」
 バカバカしいと思いませんか?
 こんなのもはや批判ではないですよ、ただの誹謗中傷です。
 こんなような「レッテル」だけで他人を、まして国民から信を受けている国会議員を誹謗する権利など誰にもありはしません。
 国会議員と言えども、批判するならキチンと論拠を持ってしてしかるべきなのです。
 
 なぜいま、宏池会を中心としたリベラル系に注目する記事が増えているのか、それは、前時代左派の最後の「足掻き」なんじゃないかと思っています。
 つまり、前の世代というのはさっきも言いましたように、どうしても中国韓国におもねるのが当たり前みたいなところがあって、これは政界に限らずマスコミもそうですよね、ですからこの辺の層が、最近の「右傾化」に反抗するために「宏池会」という名前を使って「お前らの出番だ」みたいに煽って、自分たちの思想を実現させようとしているのではないのでしょうか。
 結局中韓に対する姿勢というのは左右ではなく世代論みたいなところがありますから、一世代前の古賀誠前宏池会会長や、さらにその前の世代である河野洋平さんを担ぎ出して、「先輩から後輩への激励」という形をとって、自分たちの不満の代弁をさせているんだと思います。
 その元議員さんたちが現役で活動していた時代は、いまのリベラルよりももっと左に傾いていたリベラルだったのですからね。
 そこに戻したいんですよ。
 
 でもこれ、勝手な言い分だと思います。
 いまの時代をもって「自分たちの世代のリベラルの姿ではない」のは当然ですよね。
 北朝鮮に対する姿勢だって、小泉訪朝前と後とでは、政界でもマスコミでも国民でも見方が180度変わったとすら言えます。
 このように、今の宏池会と前世代の宏池会の姿が違うのはそれは仕方ないというか当たり前のお話であり、だって国民自身が全時代とは違うのですから、その世代間の流れっていうモノを無視して評価や批判しても全くの無意味でしょう。
 もちろん主義主張は自由ですから、マスコミにしても元議員さん達にしても、「自分の理想」を追い求めて何を主張するのも自由ですが、しかし「自分だけの宏池会」「自分だけのリベラル」をもって「他人の宏池会」「他人のリベラル」を批判する、いえ否定するのは完全に間違っているコトでしょう。
 前時代の元議員さん達は、自分たちの主義主張こそが正しいと思っているからこそ政治家だったワケですから、その信念に従って本心から今の宏池会を嘆いて奮起させようとしているのかもしれません、それは真に宏池会のために思っての行動でしょうけど、それは仕方の無い面はあるかとは思いますが、しかしタチが悪いのが「前時代の左派」の真の思惑です。
 そういう「政治家としての、そして先輩から後輩に対する微妙な感情」を巧みに利用していまの宏池会のシリを叩くフリをして、いまの時代、つまり自分たちから見たら右傾化している世論に抗いたいと最後の足掻きをしているんだと思います。
 前時代の自分たちの声はもう世論にも政治家にも届かないと分かった上で、では別の手を考えた時に、まだある程度の影響力のある前時代の議員さんを担ぎ出し(元議員さん達が自民党の中枢にいた時は親の敵かと言うほど激しい批判していたクセに)、「先輩からのアドバイス」というオブラートに包んで自分たちの声を代弁させて世論に抗おうとしているのです。
 本当に勝手ですよね。
 
 そもそも安倍さん自身にしても、極右というほどではありませんよね。
 中道右派よりは右よりだとは思いますが、針が振り切るほどの右派ではありません。
 政治家なんですから自らの思想があって当然ですし、国会議員や大臣や総理大臣になった以上は、その自分の思想や理想を現実に反映させたいと思い努力するコトは当然のコトなのですから、世間一般的な、もっと言えば自民党の中で比べたとしても右側に寄っている安倍さんだとしても、その思想に従って政策実行していくのは、それは間違いでは絶対にありません。
 でなければ、政治家というか議員っていう存在は無意味になってしまいます。
 そういう中において、そもそも完全な中庸な人間なんていない、というか「完全な中庸」なんてモノは計れないのですから、ではどうバランスを取るのかと言えば、一人の人間だけでなく政府や政党や内閣の中においてバランスを見いだすワケです。
 特に日本は議院内閣制を採っているワケで、そういう「全体としてのバランス」を重視する制度とすら言えます。
 その議院内閣制の中で最多の選出となった岸田・小野寺・林・根本大臣の4人の宏池会本体の大臣、また宏池会系派閥を率いる谷垣・麻生大臣、また今は離れていますが一度は宏池会の中にいた菅・石原大臣が、それぞれの職責において、右に寄りがちな安倍内閣の中で、リベラルとしてのバランスを取っていると見るのは、むしろ自然な見方なのではないのでしょうか。
 
 安倍さんを望んだのは確かに世論でした。
 だからある程度安倍カラーが出るのは、それは世論に従っていると言えます。
 しかし世論とは決してそれだけではありません。
 安倍カラーを望む人だけではない以上、国民全体としての政府としては、ある程度のバランスを取るのは、むしろ責務とすら言えるのではないのでしょうか。
 そしてそれを、議院内閣制という制度がある程度制度としてバランスをとっているのであり、またマンパワーにおいてはいまは宏池会がバランスをとっているのです。
 自民党はこういう政党ですよね。
 全体としてバランスをとるのが非常に上手な政党です。
 
 右派とか左派とかが時代によって変わる以上は、その世代の人間はその時代の影響を絶対に受けるワケです。
 50年前のリベラルと、25年前のリベラルと、今のリベラルとでは全然中身は違うでしょう。
 例えば25年前のリベラルを自称する人なら驚愕の一言かもしれませんが、今の雰囲気であれば宏池会の議員さんが、例えば岸田宏池会会長が集団的自衛権を容認するような発言をしたとしても、別におどろく程のコトでもないと思います。
 日本の核兵器保有については岸田外務大臣は広島選出という別の事情がありますので別の見方が必要ですが、集団的自衛権ならいまならその程度でしょう、別に驚くほどではないと思います。
 でも多分、25年前のリベラルだと驚愕の一言ではないのでしょうか。
 そもそもおそらく国民が許さないですよ。
 25年前の日本の空気なら集団的自衛権を行使するんだなんて言ったら一瞬で大臣のクビが飛んでいたハズです。
 もちろん今はそんなコトありませんよね。
 それが世論であって、当時のリベラルはこれよりもちょっとだけ左派なんですから、いまと比べてしまうととんでもないコトになってしまいます。
 
 そして25年後、50年後の日本も、いまとは思想的中心軸は別のところにいっているハズです。
 もしかしたら25年後の日本においては、安倍総理に対して「あの総理は左翼っぽかった。なぜ天皇親拝を具申しなかったのか」と売国奴のレッテルを貼られているかもしれません。
 でも今の我々からしたら、当時はこれですら保守的だったんですよと言いたくなりますよね。
 だから、当時のコトを知らずして今の感覚で過去を裁いてはいけないのです。
 
 あの手この手で「旧世代の左翼達」はいまの世代を脅かそうとしますが、それをはねのけるのは誰でも無い国民自身ではないでしょうか。
 マスコミが言うからそれが正しい、という風潮は終わりを迎えましたが、しかしその反動か、いまは勇ましい論調や端的に結論だけをわかりやすく提示する論調が好まれる傾向になってしまっています。
 この中においては、「敵」というモノを定義してしまうと、それ以外を論拠も何もなく排除してしまう結果になりがちです。
 でもそれは、保守思想者が憎くて憎くて仕方の無い戦後サヨクと、その姿勢は何ら変わらないのです。
 主張のベクトルを真反対にしただけで、政治や思想に対する姿勢というモノは一切変わらないのです。
 「集団的自衛権」と言うだけでクビを切っていた当時の戦後サヨクな国民空気と何ら変わらないのです。
 そしてそれは、またいつか別の世代から憎悪される対象にしかなりません。
 戦後サヨクがもっと理知的に思想を大切にすれば今の世代に嫌悪されるコトはなかったのと同じように、もしいまの世代がまた戦後サヨクのようなデタラメな手段、中身を見ずにレッテルだけで言論封殺するような手段を使うのであれば、後々の世代から、その思想は思想ではなく、ただの「あの時代は悪い時代だった」という「敵」という認定だけで終わってしまうコトでしょう。
 
 ずっと本文中で宏池会を「中道左派」と書きましたが、これはあくまで自民党の中での立ち位置を言い表した言葉です。
 よって世間的には「保守左派」と言った方が適切でしょう。
 最初にも言いましたように、そもそも自民党は保守であって、特に現在の世代の議員さん達にとって「先の大戦などで命を賭けてもらったコトに対する恩義や礼儀」をないがしろにしようとしている人達はほぼ皆無と言ってもいいハズの、そういう立ち位置が基本の政党です。
 保守というモノの最も大切な、そして基本的な要素を、「歴史を継承し受け継ぐ」という点に置けば、宏池会は紛れもなく保守であり、そして軽武装・経済重視という実質論を重要視する姿勢は左派と呼ぶに相応しく、その姿は紛れもなく保守左派であり、それこそが自民党の中における宏池会の伝統的な立ち位置そのものと言えるでしょう。
 この思想は、考え方の違いから批判されるコトはあったとしても、決して否定されるモノではありません。
 結局自民党の中の思想の違いというのはあくまで手段の違いでしかなく、目指すべき目的は同じ場所にあり、だからこそひとつつの同じ政党に属しているのです。
 考え方の違いは手段の違いでしかないのです。
 
 こんなコトは言うまでもなく、左派とか左翼というのは、それだけで悪というモノでは絶対にありません。
 極論や、ただカタルシスを得るためのだけの政治ではなく、真にどう国益を守るのか、それは未来に向けた「歴史を受け継ぐ」国益を得ていくのか、右派左派だけではないモノの見方をしていく必要があるでしょう。
 そしてなにより、旧世代の策略にハマらないよう、マスコミの罠に陥らないよう、キチンと今の世代の国民が政治を正しく見ていかなければならないと思います。