集団的自衛権に対する議論の分類

2014年4月17日

 一言で「集団的自衛権の議論」と言っても、実はその中身についてはかなり大きく違う議論をしている場合があります。
 しかしそれなのにその違いが分からず、全てごちゃ混ぜにして議論してしまい、その結果、論点が定まらないままで議論が進んでいくだけでなく、最後には「賛成か反対か」なんていう単純に二元論に陥ってしまう場合が多いので、このごちゃ混ぜのままの議論というのはむしろ害悪とすら言えてしまいます。
 ですからキチンと論点を整理して考えなければなりません。
 今回は、その考えられる集団的自衛権の議論をいくつかに分類してみますので、自分はどの辺の意見なのか、そして国会やテレビなどで行われているその議論は果たしてどの分類での議論をしているのかっていうところを考えてみて欲しいと思います。
 繰り返しになりますが、特にテレビなんて全てをごちゃ混ぜにして二元論の色分けだけで済ませようとするコトも多いですからね。
 騙されないようにしなければなりません。
 
 まずは箇条書きで書き出してみましょう。
 
1.集団的自衛権そのものに対する思想的な是非の議論。
2-a.より丁寧な状況整備のためには憲法改正が必要だという議論。
2-b.より丁寧な状況整備のためには国会議論or法整備が必要だという議論。
3.現実的に必要なんだから議論も法整備も不要だという意見。

 
 
3.現実的に必要なんだから議論も法整備も不要だという意見。
 
 下から説明していきましょう。
 ここだけ「意見」と書きましたが、これは議論にはならないからです。
 だって主張そのものが「議論なんて不要」論ですからね。
 すなわち、「現実的に日本はもはや世界大国であり軍事の部分でも責任の多くを負う立場にある。議論なんてちんたら時間を費やしている場合ではなく、いますぐ他国と連携のとれる集団的自衛権を行使しなければならない」という意見です。
 
 気持ちは分からなくもありません。
 現実という時は待ってくれませんから、議論している間に集団的自衛権が必要な場面が起こったらどうするんだ、と言われれば、それはそれで考えるべき事態とも言えます。
 ただやはり法治国家や民主主義というモノは、なによりも手続きを大切にする制度だというコトも忘れてはいけません。
 現実の方が大事だという理屈で手続きをおろそかにして、一部が暴走して結果的に最悪の事態に陥るなんていうコトは、洋の東西にかかわらず昔からいくらでも例を挙げられてしまいます。
 それを防ぐのが、極力権力を分散して手続きを大切にするコトを重視した制度である民主主義政治なのです。
 なぜいま世界の多くが民主主義を採用しているのか、それは決して思いつきやトレンドだけでこうなっているのではなく、様々な歴史を積み重ねてきた上でいまここに到達しているっていう重みはキチンと考えるべきでしょう。
 
 
2-b.より丁寧な状況整備のためには国会議論or法整備が必要だという議論。
 
 集団的自衛権の必要性は認めつつ、また現行憲法化でも合憲であるというコトも認めた上で、しかし法律に匹敵する効力を現に発揮している集団的自衛権に関する閣議決定について、ただ現在の政府が意見を表明しただけでその変更行ってしまうのはあまりにも「軽い」のではないかという議論です。
 閣議決定は閣議決定でしかなく、それは政府の専権事項であるコトは確かではありますし、ですから他の案件であれば政府以外の二権が口出すコトではありません
 しかし集団的自衛権に関しては、その運用が「疑似法律」とも言えるような形で成されているために、それなら立法、もしくは少なくとも国会での審議ぐらいは必要ではないのか、という議論です。
 
 多分、いま永田町では一番多い議論や意見なのではないでしょうか。
 一部「限定的であれば容認」なんていう言葉も飛び交っていますが、これもここに分類するコトが出来ます。
 「限定容認」とは詳しく書くと、「本来なら憲法改正すべき案件だが、吃緊の状況を鑑みてとりあえず一部の限定だけで容認しよう。それ以上は今はダメだ」という意見になりますから。
 で、その「どの部分までか」というところを国会などで議論するコトになるのでしょう。
 もしかしたらPKO法のような立法化まで視野に入ってくるのかもしれません。
 
 この部分の議論が、現実のスピードに対応しつつ手続き論も大切にするという、一番現実的な議論だと言うコトもできるでしょう。
 
 
2-a.より丁寧な状況整備のためには憲法改正が必要だという議論。
 
 基本的には「3-b」に近いスタンスで、思想としては集団的自衛権が必要だと理解していても、しかし憲法をキチンと理解するなら、やはり現行憲法下では違憲であるとする議論です。
 もしくは、「より手続き論を大切にする」というスタンスから、現行憲法下でも憲法違反ではないとは思うが、より丁寧にすべきだから改正は必要ではないのか、という意見もあるでしょう。
 やえは後者に近い考え方だったりするんですが、しかしここで勘違いしてはいけないのが、集団的自衛権そのものはここでは議論していないってコトです。
 「憲法違反だし、そもそも集団的自衛権には反対だ」という人もいるかもしれませんが、しかしこの議論の場合においては、あくまで「憲法との絡み」もしくは「憲法改正論」を議論しているだけでしかありません。
 集団的自衛権そのものの議論は、それはそれで別で議論する必要がある問題です。
 ここのしっかりと線引きが必要です。
 
 
1.集団的自衛権そのものに対する思想的な是非の議論。
 
 そして、そもそも集団的自衛権なんて反対だ、という意見です。
 つまり、日本という国は集団的自衛権なんて持つべきではない、という意見なワケですね。
 
 ここで重要なのは、つまり憲法議論とは全く関係がないって部分です。
 ちょっとわかりにくいと思うのですが、例えば戦争放棄の考え方にしても、「憲法九条があるからダメなんだ」って言う人と、「そもそも反対だから九条は改正すべきではない」って言う人は、その根本思想が違うんですね。
 つまり前者であれば、「憲法九条を改正すれば戦争は出来る」という意見になるのですからね。
 やえだって、憲法九条は改正すべきだとは思っていますが、改正する前の今の状態で日本から宣戦布告するような行為は、どのような事情があったとしても憲法違反ですから反対と言うでしょう。
 結構この違いは、戦争の問題だけでなく多くの部分で思い違いをされているモノが多いですから、おいおいその辺も解説出来ればと思っています。
 
 
 繰り返しますが、これらを全てひとくくりにしてしまって、単に「賛成か反対か」なんて二元論で片を付けようとしても、それはもはや議論とすら呼べるシロモノではなく、単なるレッテル張りです。
 集団的自衛権は、やもすれば戦後日本の国防政策の大きな転換点になる可能性もあるだけに、ここはちゃんと丁寧に議論したいところです。