マスコミのねつ造-伝えないコトで印象を変える-

 ネットではマスコミのねつ造的な印象操作を指して「報道しない自由」なんて揶揄していますが、これは正直、なかなか的確な言い方だと思っています。
 例えば「○○と言った」というのが事実なのに、記事では「××と言った」と言ってしまうのは、これは完全にねつ造であり、ここまでくれば罰せられなければならないと言うしかありません。
 それでも昔はこういうのも多かったように思うのですが、いまはネットが発達して検証が出来てしまいますから、さすがに内容までを変えるようなねつ造はマスコミもしなくなりました。
 しかしその一方、敢えて報道しないコトによって印象を誘導しようとしている手法をいま、マスコミは平気で行っています。
 特定機密保護法関連のお話はそれがもっとも分かりやすい例で、マスコミ自身はこの法律に大反対して、とにかく「秘密は良くない」という趣旨で論陣を張って大キャンペーンを張ったくせに、一方マスコミ自身の都合の悪いコトは報道しないという、「秘密は良くない」という主張はどこ行ったんだという姿勢をマスコミはよく取ったりします。
 この前もTPPに関するコトを確証もないのに記事にして、その記事を見た他国の政府関係者が「これはどういうコトだ」と憤って交渉に支障を来したために、しばらくの間、甘利大臣のところを出入り禁止にした、という事件がありました。
 こう聞くと、果たしてどこの社がこんなコトをしたのだろうというところが一番関心の高い部分になろうかと思うのですが、それを伝える時事通信の記事には、会社の名前を一切出していないんですね。
 

 報道に異例の要請=TPP政府対策本部
 
 内閣審議官は報道機関3社を名指しした上で、「積み重ねたガラス細工が報道で壊れた」と批判。「日米が牛肉関税9%以上で折り合った」などとの報道を念頭に、「日米とも何一つ合意していない」と強調した。

 
 内閣審議官が名指ししたのであれば、その社名を明らかにしてこそ報道に意味があるというモノなのではないのでしょうか。
 結局出禁になったのは読売新聞らしく、別の会社の記事では名前を出しているところもあるワケですが、それにしても「政府が出した情報を隠して報道する」なんていう姿勢を報道機関がとっておいて、どの口で特定秘密保護法を批判するんだって言うしかないワケです。
 逆じゃないですか。
 政府が隠すからマスコミが明かそうとするっていうのが、それが良いか悪いかはともかく、普通の構図であるのに、政府が明かした情報をマスコミが隠すなんて、そんなマスコミなんてもう存在意義はないとしか言いようがありません。
 
 ここで卑怯なのは、決してこれは事実をねじ曲げていないので、ねつ造とは言いにくいところにあります。
 少なくとも、政府の発表をねじ曲げたり書き換えたりはしていないワケですよ。
 ですからねつ造とは言わない、という理屈です。
 マスコミは必ず全てを報道しなければならないという法もないですしね。
 しかしそれにしても、確かにこれはねつ造とは言わないかもしれませんが、でもやっぱり相当に悪質ですよね。
 でもマスコミ自身がこのような「報道しない自由」を使うから、それを指摘するマスコミもいないワケで、こうやってお互いを庇うコトによって、ねつ造ではないけど結果的にねつ造としか言いようのないマスコミの歪んだ特権を守り、そしてマスコミ自身が思い描く思想の方向に国民を誘導しようとしているワケです。
 事実を伝えるのではなく、自らの都合の良い方向に誘導しようとしているだけなんですね。
 
 次に紹介する記事は、もっと悪質です。
 最近のネット上では、安倍さんやタカ派に利があるような記事に対しては、今までマスコミのねつ造を指摘してきた人すらも見て見ぬ振りをする悪しき傾向があったりするので、この記事の「ねつ造」に気づいていない人が多いかもしれませんが、これは結果的に安倍さんとか保守がどうこうではなく、マスコミの体質として本当に悪質な記事です。
 事実を隠すコトで、発言者の真意を真逆にねじ曲げているのですからね。
 もはやこれを「ねつ造」と言わずして何をねつ造と言うのかという感じです。
 

 砂防会館、反安倍の牙城に 長老組「保守本流」という名のリベラル復権狙い
 
 23日夜、自民党岸田派(宏池会)の政治資金パーティーが開かれた都内のホテル会場は一瞬、緊張が走った。
 来賓としてあいさつした首相、安倍晋三は、今派内で影響力を示す派名誉会長の元自民党幹事長、古賀誠に目をやるとこう言い放った。
 「安倍内閣は、宏池会の皆さんの助けなしにやっていけない。古賀名誉会長にも久しぶりにお目にかかったが、よろしくお願いしたい、と思う次第だ」
 その後、乾杯の音頭をとるために壇上に上がった古賀も、すでに会場を去った安倍への対抗心をむき出しにした。
 「いずれ宏池会を主軸とする保守本流の政権を再現するため努力を重ねる」
 出席者の一人は「2人の関係は険悪なのがよくわかった」と振り返る。

 
 産経新聞らしい記事だなという感じでしょうか。
 これはこの前連載しました宏池会の特集で取り上げた構図の逆のパターンで、産経は右寄りですから、つまり自民党内のリベラル勢力に対して悪印象を与え、こんなにも安倍総理の足を引っ張っているんだと喧伝して、リベラルへの攻撃をしている記事です。
 どこが「攻撃」なのかと言えば、では引用していない他の部分の記事を読めば、いかにも未だ「自民党の古狸共」が永田町を闊歩しており、それらは今の安倍的な保守空気を快く思っておらず、機があれば妥当安倍を成し遂げてリベラルを取り戻そうと水面がで暗躍している、という印象を持ってしまうでしょう。
 しかしこの記事、実は「報道しない自由」が隠されています。
 もしこの件に関して産経のこの記事だけしか読んでいない場合、読者は古賀元議員が安倍総理の足を引っ張ろうとしていると感じてしまうと思いますが、でも事実は、古賀元議員の本当の発言はこうなんですね。
 

 自民・岸田派がパーティー
 
 安倍政権に批判的な古賀誠名誉会長もあいさつし、「いずれ宏池会を主軸とする保守本流の政権を再現するため努力する。それまでは、安倍政権を支えるのが保守本流の王道だ」と語った。

 
 繰り返しますよ。
 「それまでは、安倍政権を支えるのが保守本流の王道だ」
 この発言を見れば、産経新聞の伝え方とは古賀元議員の主張は180度逆だというコトが分かると思います。
 全然違いますよね。
 もう一度産経の記事を引用しましょう。
 産経新聞はこう書いています。
 

 その後、乾杯の音頭をとるために壇上に上がった古賀も、すでに会場を去った安倍への対抗心をむき出しにした。
 「いずれ宏池会を主軸とする保守本流の政権を再現するため努力を重ねる」
 出席者の一人は「2人の関係は険悪なのがよくわかった」と振り返る。

 
 しかし古賀元議員は実は「いずれ宏池会を主軸とする保守本流の政権を再現するため努力を重ねる」と発言した後に、こうも言っているのです。
 

 「それまでは、安倍政権を支えるのが保守本流の王道だ」

 
 しかも時事通信の記事によると、この「それまでは」の部分と、「保守本流の政権を再現するため努力を重ねる」の間は同じ「」でくくられており、つまり古賀元議員はこの2つの発言をそのまま続けて発言したと見るのが自然でしょう。
 この前後に別のお話があってそこを分割したのでしたらまだしも、いやそれでもダメですよ意味が180度変わるんですから、それでもダメですけど、さらにまして産経新聞は「続けてしゃべった言葉」をはさみでちょん切って、自分たちの主張の都合の良い部分だけを切り貼りしたのです。
 古賀元議員は、「安倍政権にも任期があるのでいずれ退任する時が来る。そういう機会があれば保守本流の政権を再現したい。しかしそれは安倍政権を引きずり下ろすという意味ではない。安倍政権の間は支えるコトこそが保守本流だ」と言っているワケですよ。
 そうですよね。
 普通に古賀元議員の発言の「全文」を読めば、そうとしか取りようにないと思います。
 しかしそれに対して産経の記事の内容はどうでしょうか。
 むしろ「古賀発言の内容」とは真逆の内容だと言わざるを得ない記事なのではないのでしょうか。
 
 古賀元議員が安倍総理に批判的な発言を繰り返しているっていうのは、やえもよく記事で見ているところです。
 しかしそれすらこれを見れば疑わざるを得ません。
 確かに政治信条は、古賀さんと安倍さんではかなり違いがあります。
 それは永田町ウォッチャーとしては当たり前の認識でしょう。
 しかしだからといってそれを堂々と、まして足を引っ張るがごとくなコトだけをしているかどうかというのは別問題であり、こうやって安易に対立構図を作っていいコトには決してなりません。
 政治手法には絶対の正しいモノなんてないんですから、その違いで意見が違っても、それは民主主義こくとしては当たり前、むしろその違いを認めてこそ民主主義ですよね。
 ですから少なくとも、古賀さんと安倍さんの思想は違うのは正しいとしても、これまでの古賀さんの安倍さんに対する発言は本当に「批判的な内容だったのか」「政権から降りろと言わんばかりな内容だったのか」というのは、この「ねつ造記事」のせいで判断が付かなくなってしまいました。
 だって古賀さんが単に思想の違いからくる政策的主張をしていただけの可能性だってあるんですからね。
 
 本当にこれは悪質な記事です。
 もはやこんなのを認めていてはいけませんよ。
 「報道しない自由」どころのお話ではありません。
 もうねつ造じゃないですか。
 これは安倍総理の思想が正しいとか正しくないとか、右とか左とかの問題ではなく、「ねつ造体質のマスコミ」の問題として考えなければなりません。